2.自覚してから改めて感じた、周りとの落差

 さて、自分がADHDであることが分かったわけだが、実はコイツを治すことは出来ない。ADHDはあくまで““特質””なだけで、疾患でもなんでもないのだ。日常生活に支障をきたすものであれば処方を受けることもあるが、基本的にお医者さん側からは何も処置を受けることは無く、あるとすれば生活するに当たってのアドバイスくらいだろうか。

 では、どうやってADHDを““治す””のか。それはもう、自身の特質を理解して自分なりの対策を立てていくしかない。例えば、大事な約束をよく忘れてしまうなら、大事なことは常にメモを取るように習慣づける。音に気を取られたりして集中できないなら音が小さい環境に移動する、と言った感じだろうか。自分にこういう特徴がある、と思ったら、次にそれらに対して対策を立てていくしかないのだ。

 しかし、対策する段階が大変だったりする。気合いでどうにかしなくては、と思うと上手くいかないのだ。ADHDの特質にもやる気や集中力が続かない、というものがあったりするのだが、これが災いしてか常人なら気合いで乗り切れたりするところでつまづいてしまったりする。実際私も自覚する前にこの壁にぶち当たってしまい、自覚している短所とやる気との二重の壁に苦しめられていたことが何度もあった。


 この時の話はまたどこかで話すとして、私の場合は自覚、そして習慣化と他の人への伝言という形で、なんとか過ごしている。ただ、自分にとっては当たり前でも相手にとってはそうでも無いことだったり、とんだド忘れが起きたり、何かを聞き漏らしてたりして相手に微妙な反応をされたりする、ということが消えたわけじゃない。

 そういうことが起きる度に、自分はどうしたらいいのか、何が理由でそうなってしまったのかを考える。分からなかったら、怖いが相手に尋ねるしかない。そうやって周りに歩幅を合わせていかないと、また後々から多大なすれ違いや歪みが発生してしまう、そう感じるからだ。これはADHDだとわかったからでは無く、前々から周りとの差を感じていたが故のものだ。

 それだけじゃない。特に話を聞いてない、ド忘れした、となると大半の人はこう思うだろう。


「なんて不注意な」

「大事な話なのに、どうでもいいのだろうか」


なかには怒る人だっているはずだ。そんな人になんの前準備もなく、どうでもいいなんて思ってないと言っても、はたして伝わるだろうか?まず言えるのは、それを信じる人間の方が少ないだろうということだ。そういう時、自分はまずこう言う。


「自分はなんか忘れやすいから、忘れてたらごめん」

「突然ぼーっとしだしたらごめん」


これらを事前にひとこと伝えておくのだ。それだけでも、だいたいの相手は事前の警告によって少し心構えが出来るかもしれない。まあ、それに甘えないようにこちらも対策しなくてはいけないが。

 とにかく色々書いてしまったが、準備や工夫を凝らして、生きづらさを誤魔化したりして過ごしている。それが今の私なのだ。

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生きづらい私から、皆さんへ 巫 皐月 @fudebakosan

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