墓地

三石 一枚

あゝ、異常

 まず初めに、これだけは断っておきたいのですけれど、私は旦那のことを心の底から愛しています。高校のころに顔を知り、お付き合いをし、左手に指輪をはめてから十数年ほど経過していますが、どの一日をとっても、彼への、愛が冷めたことや、つまらないと思った事、幻滅したこともなく、変わらない尊敬と、恋人としての恋慕、パートナーとしての信頼を置いて、今の今まで、添い遂げておりました。

 彼は、私にとっては太陽そのものでした。そこにあるだけで一定の明るさを私にもたらしてくれて、欠かすことなく私に恋心を抱かせてくれる、こういうと恥ずかしいのですが、ひとめぼれをした、高校のあの一日のころから、旦那に対する愛情というのは日ごと深まっていくばかりで、今にも彼の顔を脳裏に浮かべれば、甘酸っぱい感情が沸くし、たちどころに、心の鼓動が高鳴るのを感じます。詰まるところ、私は、やはり旦那のことを心から愛していますし、そうした伴侶を持つことができて、私の人生はこのためにあったのだと、そうした境地にさせてくれる、旦那のことが大好きなのです。

 それを踏まえていだたいて、これからお話しすることは、ところどころ、私の思ったことや、思考の内から吐き出す、不安だったり、それこそ私の感性からの言葉をお伝えするつもりですから、少しばかり、愚痴のように聞こえてしまうところもあるかもしれませんけれども、そのどれもが、私の、一途な心が起因する、私の、真理そのものです。

 また、それ故に、これからお話しするあらゆる事柄には、一切の遠慮や他意、虚偽もないことを約束し、ただ純粋に、私の深層心理から生じるものなのであることを最初に宣言します。あなたが、私の話をきいて、内容が愚痴のように聞こえても、あるいは、憎々しい気持ちを抱いていると誤解されたとしても、それは仕方がない事だと思います。なぜならこれからは吐く汚泥については、不肖な私が旦那に対して感じた完全性のないことばかりですので、魚の小骨のように引っかかるところもあるでしょうから。

 ですが、愚痴を吐こうなどというあさましい気持ちは一切なく、また旦那に、どんな猜疑や懐疑を抱いたこともなく、一介の妻として、隙間がないほど旦那のことを愛していたことだけは、念頭に置いていてください。私は、このような結果になってしまい、大変寂しく思っているのですが、それでも旦那を愛していると。だから、少しの情状酌量をお願いしますね。

 では、愛するが故に、私が実際に彼に抱いた、恐怖や恐れなどを、つまびらかに話そうと思っています。少し長くはなりますがご清聴いただければと。



 どこから話しましょうか。そうですね、ちょっと長くなってしまいますが、なれ初めたころの話からでも。掘り下げが過ぎると思われるかもしれませんが、しかし、物事を非常に深く理解していただくためには、根本を拓く、ということが重要なことだと存じます。そのために、ちょっと、私達の身の上も聞いていただきたいのです。というのもですね。

 私の抱く旦那への思いは、些か複雑で、ほかの人間にありのままにお伝えしても、きっとつま先ほども理解はされないと、そういう確信がございます。愛が深すぎるというか、他人の物差しで測られた場合、私の思いや、旦那の心というのが、十全に伝わることはないだろう、と。勝手ながらそう思っています。

 その為、私の物差しを、ちょっとでも感じていただけたら、詳しい理解を頂けるのでは、と。あなた方も、そうした、詳しい話をお望みでしょうから。



 私と旦那の出会いは、高校でした。私の旦那は、高校のバレーの主将を務めていて、かつ部活のために身長も高く、笑顔が素敵な、好青年でございました。

 対して私は、あまり目立たない、普通の娘でございました。スクールカーストと、最近の若い子は言うらしいですね。それでいうと、まあ、底辺層じゃないかしら。とかく、正直勉強も苦手でしたし、見た目だって、周りの垢ぬけてきた年ごろの同級生と比べれば幾分か芋臭い様だったので、勿論目立つこともなく、波風もたたない、実に陰気で、実に面白みのない、そんな学生だったと、私は自認しております。

 そうした目立たない性格が災いしてか、私は、ちょっとしたいじめに遭っていました。いじめと言っても、ちょっと強く当たられたり、面白がられたりと言ったような、凶悪的ないじめではなかったのですが、私が人に対して強く言えない点、誰にも相談はしないだろうと思わせる点、そして、私が騒いでも大きな事件にはならないだろうという点を、カーストが少し上の女子たちに見透かされ、その為に、よいストレスのはけ口に扱われてしまっていました。

 当時、生来の目の悪さのために丸眼鏡をかけておりましたし、思春期が故の肌荒れにも悩まされていましたから、それを揶揄するあだ名をつけられたり、ほかにも小銭を巻き上げられたり、荷物持ちをさせられたりとか、こまごまとしておりますが、何かにつけて、卑下される憂き目を見ておりました。

 私はというと、そういった扱いを内心イヤに思いながらも、笑って過ごしておりました。ここで何かお小事を起こしても、何も変わらないのだと、自分に言い聞かせていました。変わるとすると、このいじめっ子たちの態度だけだ、と。何かお小事を起こして、それによって気に食わないと思われたなら、きっと、今よりひどい目にあわされる。火を見るより明らかなために、そうするくらいなら今ほどの塩梅を耐えていた方が数段マシである、そう考えて、私はいじめというものを仕方がないものだと黙認しておりました。



 それこそいじめっ子の思うつぼだと、貴方は悲観するかもしれませんけれども、私としてはいじめっ子たちにも同情する猶予がございます。

 貴方は、男性ですものね。ですから、女子の持つ、独特な世界観というものが伝わりづらいと思います。いえ、それとも、男性にも、似た世界観があるのかしら?

 先に述べたように、私をいじってきた子たちは、私より格上のカーストの子たちです。この格上というのは、なにも天と地の差が在るほどの格の差ではない。詳しく言えば、ほんの少し上程度、この、少し上、というのが、重要な点です。

 男性でいうところの、年齢的な縦社会のように、女子にも緻密な風格による縦社会がございます。私は最底辺ですけれども、私をいじめてきた女の子たちも、カースト上では私より上ですが、勿論、いじめていた子たちにも、自らより格上の子という存在がいる。自分より少しカーストが上の子に、私同様、憂き目に遭わされていたことでしょう。私の知らないところで、私と同じかあるいはそれ以上か、ともかく、いい思いをしないような扱いを受けていた、と思います。思うというより、当時の学校内の環境はまさしくそうした環境が構築されており、それを指標に女子群は生きていたので、確かな事であったでしょう。

 私は自分より格上の女子に対して靡いたりはしなかった質なので、詳しい生態はわかりませんが、おそらく、きっと、クラスや学年の中で自分が心地の良いように過ごすためには、自分より格上の女子の取り巻きをして、気に入られて、自分のことを認識させて、たまに嫌な目にも合わされて、そうやって、自分の居場所を確保しなくちゃいけません。

 そうしなければ、安泰な青春は送れない。少しでも、よい味を占めたいならば、強い権を持つ子に自身を押し売りする。しかし間違っても、行動を誤ってはだめだ、誤らず、上手に媚びを売る。そうして、自分の存在を認知してもらう。多少の理不尽や不憫に頓着をするのは二の次で、まず取り入ってもらえるまでは己を殺す。そうした、殺伐とした弱肉強食が、表面だってではなく、水面下で繰り広げられていたのでした。



 私は、そうしたカーストという制度の背景を知ったればこそ、私をいじめてきた彼女らのことを憎むことや、恨む事、責めることができないのです。その心情とは、今生に固執してより欲に縋り狂う民生を見つめる仏様のそれに通じるかもしれません。とかく心には、恨みや妬みというものよりは、哀れみや悲しみといった、むしろ同情の念が宿るばかりでした。特に私に至っては、便宜的にはカーストに含まれているのですが、しかし底辺ですし、なにより上を目指そうという野心は在りませんから、きっと誰よりも、そのむごたらしい静かなせめぎ合いを、静観できる位置にいることができていました。その視界から、必死にクラスという鳥かごの中でもがき生きようとする彼女らの姿はひどく滑稽で汚らしく見えて仕方がないのです。

 皆が皆、顔に笑みを浮かべてお互いを褒めちゃいるけれども、そのどれもが、本心からのものじゃあない。文字通り心にもないおべっか。それを繰り広げて、互いを敵ではないと口に顔に体に表しながら、しかし寸分でもほころびを見かければ、それを自分より格上の子に噂という形で提供し、気に入られようとする、そうした、泥沼のような関係性というのを、私は、不可視なものだけれどもまるで手に取ったように感じられました。

 私はそうした世界に足を踏み入れないようにしていましたから、いじめられることはあったにしても、他の子よりは大分気楽に生活できていました。なぜなら不安なことなど、いじめの内容に一憂するくらいで、その他悩まされることなどなかったのですから。



 私がこのいじめというものに対して、あまり悪い感情を持たないのは、一つ大きな要因があります。きっと、このいじめというものを受けていなかったならば、私の人生は今ほどの上振れはしなかっただろうと思える、一つの大きな要因が。

 そう。旦那とのファーストコンタクトが取れたのはこのいじめのおかげでした。このいじめがなければ、もしかすれば旦那との交流すら、高校の内に生じなかったものでしょう。

 私に対するいじめというのは、比較的に表立って行われていたものでございました。先に申しましたように、凶悪なイタズラではないにしろ、容姿いじりや荷物持ちの番、周囲に聞こえるように吐かれる比喩や雑言の類。そうした責めというのが、適当な感覚で行われるのです。

 例えば男の子が目に見えてわかる不良を演じるように、女の子も、逆らっちゃダメな娘というのを学校内で演じなきゃならない。格が上の子ほど、もはや表面上で演じる必要がないくらい地位が確立しているため周囲に強く出ることはほとんどないのですが、微妙で曖昧なラインをうろつく女の子ほど、自身は強気に出られるという格好を示さなければ舐められる。そうした強迫観念から、同性に対しては強く、異性に対しては下目使いに接するというのがもっぱらな処世術であったと思います。この処世術には、同性相手のサンドバッグが必要でした。強く当たるにも、少なくとも同レベルの格が相手であれば、友好関係が見込めなくなる。しかし格上を相手に強く出るなど到底無理。従って少し下程度の相手で、且つ特に友好関係を結ぶメリットのない相手をサンドバッグにしていじめることで、周囲へのけん制にはなる。牽制とともに、同じような格同士でくっついて同じサンドバッグを殴ることで薄い友情をはぐくむこともできる。仲良くなるという行為に言葉はいりません。ただ同じものを殴る、その為の拳、あるいは口さえあれば、口下手でも容易にできる。その体で、私のように騒がずただ笑って理不尽を大抵許す静かな女はサンドバッグに最適だったことでしょう。やがて複数人の小規模のグループが、私をカモにして日に数度口を叩きにくるといった慣例が出来上がっていました。



 ある日、確か昼ごはん休憩の時間だったか、それとも授業の行間だったか、少し長い休みが訪れた時、ソレこそいつもと同じように、いじめっ子がわらわらと群がってやってきました。やれ、いつも一人だけど遊ぶ相手いないの? だとか、やれ、あんたの目、なんだか薄いから起きているのか寝ているのかわからない、だとか、その、へらへら笑うのやめない? みんな、気持ち悪く思ってるんだけど、などと、なかなかに容赦のない言葉の累々、加えてそれらは、世間話の間から、そうした刃をいきなり突いてくる、なんとも巧緻な会話のテクニック、それも、私本人にぶつけてくるというよりは、周りに同調をねだるようにして言う、なんというか、例えると跳弾のような、そんな罵倒の仕方だったと思いますが、とにかく、そういういやらしい言い方で私をいじってきました。私はと言うと、慣れてしまうほど心が強いわけではないのですが、このいじりを最初に受けた時ほどの動揺は受けませんでしたし、この空間を耐えさえすれば、彼女たちもすっきりして勝手に離れていきますので、これを岩のように耐え、たまにさざ波がせせらぐようにして愛想笑いし、タイムリミットはまだか、まだかと待っていた次第です。

 ここで、ある光が横から差してきました。

 その時はまだ交友関係すらなかったとある男子が、その女子群の間を割って入ってきて、「ちょっとごめんね」と。

 たむろする女子群と比べて、頭が一つ二つ分ほど抜きんでた身長の持ち主の男の子でした。それが、突然ぬるりと現れて、話をさえぎってくるのですから、皆一様に口をつむってしまいました。私もその限りじゃあなく、この突拍子もない訪問者に、目を丸くして、見つめることしかできませんでした。

 その長身の男の子は、「さっきね、職員室寄ったら、現国の鈴木先生が君のことを呼んでたんだ。すぐに行かないといけない」とし、言い終わるや、私の制服の裾を引っ張るのです。よく、状況が読めないのだけれども、まあ、先公に呼ばれたとなれば、行かないわけにはいかない。鈴木先生という先公は、ちょっと強面で、特に生徒からも恐れられている先公でした。授業中、聞かん坊が在るとすぐに檄が飛ぶ。課外で遭遇しても、学生のイメージに損なう行いをその目で認めれば、忌憚なく𠮟咤を食らわすという激しめの先公でございました。

 ですから、まあ、行かねばなんと叱責を受けるかわからない。その長身の子に引っ張られるままに、女子群の囲いをすり抜けることになりました。しかし、背後では、やはりちょっとばかり、悪口の風が吹いています。急に抜け出した私が気に食わぬのか、それともこの長身の子に対し思うことがあるのか、きっと前者でしょうが、影の濃い言葉や声が寒気を纏った秋風のようにそよいできて、しかし教室を抜け出せばその風はぴたりと感じなくなりました。

 で、廊下を二、三歩歩いた時点で、その子は裾を離し、おどけたように両手をひらつかせて、「嘘、嘘」というのです。

 「鈴木先生は呼んでなかった。あとはどこにでも行って、時間を潰せばいい」と。二度目の呆気にとられ、私は硬直してしまいました。嘘とは、どういうことだろう。なぜそんなウソを? と。するとその子は、「困っていたんだろう。毎日、あんな風じゃないか。きっと面白く感じてないと思って、連れ出した」と言いました。そういわれ、もう何度目か、思考が止まってしまい、硬直せざるを得ませんでした。

 その子の名前は、私は知っていました。女子社会と隣り合う、男子社会という団塊において、かなり篤実な人で、人気もある男の子でしたから。さらにいうと身長も高く、ガタイもしっかりとした男の子で、吹き抜ける風が、彼の表情を青く照らすような、清涼な雰囲気を思わせる、二枚目の子でした。

 それが、わざわざあの悪態の絶えない環境から、虚言を用いてまで連れ出してくれて、しかも、日常的に、私のことを見てくれていたかのような言葉を言う。気にかけてくれていたのだという、それの意外さと、嬉しさと言ったら。

 そんなの、好きになってしまうに決まっているでしょう。



 ええ、一目惚れでしたとも。瞬間、先行きの見えない泥沼に浸かりっぱなしで、衣服の内側にまで砂粒が入り込み、始終身体をざりざりと削られ続けるような痛みにまみれた世間が、たった一瞬にして石鹸の泡によってこそぎ落とされたようにさっぱりとしたようにも感ぜられました。

 言うまでもないことですが、この長身の子、というのが、今の私の旦那です。こうしたことで彼を知り、交友のきっかけが生まれました。

 しかし、当時の私は、ちょっとひねくれている見解を持っておりました。確かに、それだけで惚れてしまったのは確かですが、実利実害が生じる場合、そうした恋愛感情とは離して様々なことを考えなくちゃいけません。私を助けてくれたこの少年は、果たしてどこまでの正義心があってこのことをしてくれたのか、と。そんな不安が心に生まれるのでした。

 というのも、もしこの正義心が、一回こっきりの正義心、いわゆるその場限りのものであったならば、却ってそんなことをしてほしくなかった、と私は思いました。先に話しましたが、私がいじめについて黙認していたのは、いじめっ子たちの気持ちを高ぶらせないためです。これ以上、ひどいことをしてほしくないためです。気持ちよく私を嬲ることができれば、それだけでそのいじめは過激化しないでしょう。しかし、面白くないと思われたまま幕引きを経ると、後続のいじめが過激化するきらいがあることを私は感じていました。

 彼は確かに表面上助けてくれたのですが、しかし水面下では事情は深刻化しているものです。旦那が割って入り、いじめっ子たちを結果として黙らせた、この事実は、当のいじめっ子たちにすれば大変面白くないことですから、当然、この面白くない出来ごとの清算は私に向かう事でしょう。つまりその場限りの正義感で行われたソレというのは、全くその後に役立たない。やせた土地で炊き出しを行うのは確かに立派な事ですが、肝心なのは、やせた土地を生き返らせて炊き出しを行わなくても生きて行けるようにすることだとか、そういう考え方に似て、現状的にはどうか、将来的にはどうかというのを考えざるを得ない。私は、そうしたものを含めて考えて、いじめっ子たちへの対応を決めていたわけですから、折角これまで波風の立たないいい塩梅で過ごしていたというのに、良かれと思ってのたった一瞬の正義心の押し付けによって現状を瓦解させられてしまうくらいなら、最初からそうして欲しくないと思うのは当たり前でしょう。



 そうした不安があり、当時は彼に対して二面の感情を抱いていたのです。憧れと、恐怖。おこがましい話ですが、せっかく手を差し伸べてくれたのなら、きっと最後までお救い下さるよう、そう願っておりました。文豪の書いた小説の、大悪党みたく、途中で糸が切れることがないよう、祈っておりました。その中で、しかし彼はきっと真実の正義を持つ男の子なのだ、きっとそうに違いないのだという、根拠のない安心も生じるのでした。

 結果でいうと、私はその日からほとんど一切のいじめを、考えなくてよくなったのです。

 というのも、旦那の正義心は、生中なものではなかった。私を中心に取り巻くこの陰湿的ないじめの仕組みを理解していたらしく、救いだしてくれたあの日以降、何度も私のもとに話を掛けに来てくれたのです。

 勿論、例の事柄があった翌日には、いじめっこの集会が私を中心にして行われようとしていたものの、そこでも旦那は現れて、軽い世間体の話を振るようにして、この雑言をさえぎってくれました。

 昨日の先生の件はどうだった、鈴木先生は、強面だが内心は純朴な少年のようにしている、鈴木先生に好感が持てるのはその点があるからだ、心がきれいであれば表面がどれだけ怖くたって人は慕うのだ、逆も然り、表面がよくったって、内側が藻の張った池のようにどす黒く汚ければ、泥臭くって誰も寄り付きたくない、特に常人はそれを見極めることが重要だ、云々。私は聞き流しているかのような体裁をふるまうことでいっぱいでしたけれども、とにかく、周りに集まった有象無象は、明らかに己よりもはるか上のカーストの男子が私と会話をしているという状況をみて、汚い口を開くことはできなくなっていました。

 男子に嫌われたくない、という本能か、あるいは、下手に口を出せば自分が返り討ちにあう、という想像か、とかく、その日を境に、このカースト世界において、私は悲憤をためることも理不尽を感じることも、また心を痛めることも考えなくてよくなったのです。

 そして、いつの間にか私の学校生活の中に、彼が横にいてくれるという時間が設けられたのです。彼にとっては、アフターケアの責任を感じての事だったのかもしれませんが、私にとってはこれほどにうれしい時間というものはない。会話の内容なんてその時その時で、大層なことを話したことはありませんし、私も、決して面白い人間ではないから、旦那のことを心から笑わせてあげることはできなかったかもしれませんが、それでも、その隣にいてくれる、と言うだけでどれほど助けられたか。



 しかし、大分昔の偉い方が有無同然と説いたように、無い場合はなきことを憂い、有れば有ることに憂う、そのもので、この交友関係を得たら得たで、ある不安がぬぐえなくなってしまっていました。

 果たして、この関係性は永遠に続くものかしら? この男の子が来なくなってしまう日が来るんじゃないかしら? と。もし、この男の子が傍らにいるという生活に慣れてしまい、しかしいつの日かぱったりと寄ってくれなくなった日があったなら、きっとその時の孤独というのは、いじめられていた日々と比べてもひどく重い気持ちを患うことになるだろうと、そう危惧していました。その当時はもはや彼が傍らにいてくれる、というのは、精神が肉体の存在を疑わないのと同じくらい、結びつきの強いものになってありました。大げさかもしれませんが、本当に、自分の骨肉の一部とさえ考えていたくらいです。

 しかし人間というのは、根っから変わり者です。環境やその時の気持ちや感情によって、簡単に過去の自分の意見をないがしろにしたりする。どれだけ聖人君主でも裏を暴けば残虐な鬼が潜んでいることだってありうる。邪知暴虐な王ですら、胸中では友情を羨む人間性を有したりもする。そのように、旦那は確かによくできた人で、確かな正義を持っている人ではありますけれども、このやさしさが、本当に一過性のものではないという保証はどこにもない。あくる日に急に私への興味関心が死に絶えて、途端に絡むのがまどろっこしくなる。その可能性をぬぐえないことを、当時の私は、真剣に悩んでいました。心に棲む、この少年の割合が、日に日に大きくなっている。私の中での、彼を慕う思いというのが、徐々に肥えてしまっている。惚れてしまったとは言いましたけれども、いつしか、学校内だけではなく、その外にいるときにですら、自然、彼のことを探してしまうようになっているのでした。家の中にいても、連休の最中でも、必ず脳裏にはこの少年の顔が浮かぶ。角張った手の大きさや、薄い筋肉の張った腕。見上げねば全容を見定められない長身、さらにはその渋い、少年と呼ぶには少し熟した低い声。そのすべてが、私の心の中にあふれている。ご飯を食べるときも、お風呂を喫する時分も、床にはいるときも起きぬけた直後も、彼の幻影が端に見えて、その靄がかった幻影に、やはり私は恋をしているのだと自覚する。

 ですが、いくら私が一方的に熱愛をしても、相手にだって選ぶ権利というものがある。まして彼は、どの角度から見ても魅力的な男性でした。年ごろの女の子が求める要素というものを数多く有している。どの女の子だって、彼にその気があるという素振りをされたら頬を朱に染めてついて行ってしまうはず。

 対して私というのは、周りが垢ぬけてきているというのに、却って垢のこびりついたような女でした。メイクの仕方もわからない。流行も疎い。何分友達も目立った人はいないし、その為に自己研鑽をする機会が少ない。目は悪いし顔も整っていない。コミュニケーションの能力も皆無。色恋沙汰の競争があるとするなら、私は完全に最底辺だったでしょう。無駄にオッズを高倍率にせられ、もし勝てばその意外性のために嘲笑交じりにもてはやされる、そんな位置だったと思います。今にして考えてみても、私が、あの少年を自分の彼氏にしようともくろむなんて、もはや傲慢が過ぎるまでに思える。つまり、この恋というのは、のっけから叶わないものだと、骨肉に沁みわたるまでの常識であると考えていました。

 だけれども、思いは日に日に強くなる。やがて心臓をわしづかみにされたような痛みや圧迫感に苛んで、少年の顔を見るたびにそうした比重の強い感情が漏れ出そうになる。まるで風船の中に液体を注ぎ込んでいくみたく、段々自分の容量の限界に迫ってきて、今にも薄い膜を突き破って、決壊してしまいそうに思いました。

 ああ、少年は、私のことをどう思っているのだろう。やはり、私はただの可哀そうな家畜か何かなのだろうか。愛情というよりは愛着、恋情というよりは憐憫、私は、そのように、いまだに可哀そうだからだとか、助けてやったからにはだとか、そうした責任感、あるいは、愛護のために接されているのだろうか。しかし、そうであったとするなら、私の心は飼い殺しだ。あまりにも大きく育ち過ぎた、心の内の熟れた果肉は、愈々彼に触れてほしくてうずいている。しかしこの気持ちを打ち明けてもし、それの所為で距離をとられたなら。二度も彼の顔を、この距離で眺めることができなくなったなら。そうなってしまったらどうしよう。



 そうした悶々とした苦悩を抱えて生活をしていた、ある日の事でした。

 吐く息が白く天に伸びる、冬の事です。学校が終わり、放課後、私が学校から退散する準備をしているところに、少年がやってきて、「今から暇かな」というのでした。私は、まあ、バイトもしていなければ、これと言った趣味もなく、そのままつまらなく家に帰る予定しかありませんでしたから、暇であると伝えると、「ちょっと付き合っちゃくれないか」といった具合に、少年は半ばはにかみながらいつぞや私にしたように袖を引っ張るのでした。

 その足で町まで歩き、二人ならんで様々なジャンルの店が立ち並ぶ路地を散策することになりました。五時を過ぎると、西方の空が橙からあずき色に染まる中間といった風な色合いになる季節でしたから、その時間になると街中は立ちどころに街灯を灯し始める。さらに言うと、青やら赤やら緑やら、カラフルな電飾が中空に浮かんでいる。私はそうした飾りを見て初めて、そう言えば、クリスマスというものが近かったなと、そう思い出しました。

 「ちょっと、クラスメイトに見られると恥ずかしいんじゃないかしら」

 と私は、少年の横に居られることに浮つきながら言ってみると

 「見られたっていいだろう。学校でも、そんな感じだし」

 という風に、ちょっと素気のない様子でした。

 学校でも、そんな感じ。そんな感じとは、どういった感じだろう。ただの友達? 義務のための家畜? それとも、どこかで好いてくれているのか? 料簡は知れませんでしたけれども、ちょっとやきもきした覚えがございます。

 ファストフード店で一食いただいたのち、また電飾に照らされる街道をあてどもなく、散策しました。そう、あてどもなく。この時になって私は、彼がなぜ私を誘ったかの理由がふと気になりました。当初、着いていけばおのずと理由がわかるだろうとのことで、二つ返事で彼の申し出を受けたのですけれども、一向に、お目当てと思われる場所に足を運びません。放浪するかのように、そこらをうろうろしている。まさか、ファストフード店でご飯を食べることが目的であるわけでも、街中を理由なく歩き回るというのが目的というわけでもないでしょうから、私としては、彼と、このデート紛いの行いを、特別たる日に味わえたというのだけでもかなりの儲けものではありましたけれども、しかしこの理由なき散歩の所以が段々と気になってくる。たまりかねて私は、「何か、用があったんじゃないの?」と聞いてみると、彼は眉をハの字に曲げて「用なんて、大層なものはないよ。ちょっと、ここに寄ってみたかっただけさ」というのでした。

 「私なんて誘っても、楽しかないだろうに」と苦言すると、彼は耳までを真っ赤にさせて「そんなことはない」という。「少なくとも、おれは、君とここに来たかったから誘った。必ず、楽しくなれると思っていたから」と。「楽しくなれるったって、私は気の利いたことも言えないし、性根が素直じゃないから、貴方を楽しませてやれることなんかできっこないわよ」と正直な心境を述べると次には「楽しませてもらおうってわけじゃあないさ。おれが勝手に楽しくなるんだ」と返してくる。どこまでも要領を得ない答えだ、何だろう、まともに電飾の夜景を拝んだことのない私を笑って憂さでも晴らしたいんじゃあないかしら、というような邪推が生まれたその直後、ワシッと急に少年の素手が私の手をひっつかんできて、そのままぐっと固く握りしめられました。痛みが感じるほどの強さではない、しかし生中な力ではほどけないであろう、強く、そして堅固なつながり。彼の手は冬の寒波にさらされ続けていたからか爪の先までが冷たく、陶器のような硬さにも思えましたけれども、その手指にはちゃんと意志と筋が通っているらしく、じんわりとした人の温かさが滲んでくるのでした。

 私は、手に襲った衝撃のために立ち尽くすほかありませんでしたが、少年は次には興奮気味に「なあ、おれのことはどう思っている?」「友達か? それともただのクラスメイトか?」「俺はね、君の、俺への認識が気になっているんだ」と矢継ぎ早に聞いてくるのでした。

 どう思っている? そんな質問は、私こそ彼に聞いてみたかった内容だ。ただの友達か、クラスメイトなだけか。その判然としない関係のために私は決して短くはない間、懊悩をしていた。その手前、ちょっと意地悪気が差して「そっちが言ってくれないなら、答えてあげない」と返すと、「おれはね、どうやら君のことを好いているらしい」と、あまりにも意識外な言葉を発しました。

 「はじめは、確かに同情からきて君を助けたんだ。あまりにも性格の悪い八つ当たりを喰らってるのを見てね、どうにも、こちらの方が胸が痛くなった。そのあとも、どちらかと言えば義務感が最初にあって、君のところに訪ねていた。あの一回こっきりで野放しにすると、却って連中から激しくいじめられるだろうって察したからね。しかしまあ、日々を経るごとに、そう言った義務感というのが、炭酸が空気にもれるように徐々に薄くなっていった。単純に、君ともっと話してみたいという、そうした欲求が頭を出し始めたわけだ」と、少年は、電飾の黄色をその瞳に反射させながら、至極嬉しそうに言う。

 「だから誘ったんだ。君が隣に居るだけで、おれはこんなに楽しくなれる」

 少しの、沈黙。私は、言葉を失っていた。なぜなら、想い人の少年が、私のことを、そう想っていてくれたとは露も思っていなかったから。いえ、そう思っていてくれていれば、嬉しいのになという願望はずっと持っていましたけれども、その願望とは、やはり願望のままで、潰えるものだと覚悟すら覚えていましたから、この結果とは、かなり意外で、そして衝撃的で、夢ではないかと疑いが生じるほどでした。

 だからこそ、私も丁寧になる。人を信じきれない性分でありましたから

 「その言葉、嘘じゃない?」と、自身無げに確認すると

 「嘘じゃない。嘘なら、きっと誘わなかった。本心さ、おれの」と言い、続けて

 「君が嫌じゃないなら、おれと付き合ってはくれないだろうか。君だけを生涯愛し続けると約束する。まだおれらは若いから、言葉に重みがつかないだろうけれど、どうかおれを信じてくれないか」

 と、明確な告白を受けました。

 告白の答えなど、もはや答えるまでもなかったでしょう。私は当時、信じられないくらい大粒の涙を流しながら、少年の手を握り返した覚えがあります。まさか、私の人生に、こんな奇跡が起こるなんて! その日ほど、平々凡々とした私の人生が、ネオンに照らされたみたく光輝いた日はない。

 また、そんな日を受けて、私の中でも何かが変わっていったのです。というのも、これまではいじめの影響であったり、少し家庭がねじれていたりという影響で、私自身、人を信じきれぬ性分で、愛することのできない性格をしていました。実の両親をもそのために信用しきらず、愛せず、密接な関係を有する相手は、その時までは本当に一人もなかった。ないであれば、勿論私自身、愛することも、信じることにも全く必要性を覚えなんだので、その体で、孤独の内に生きて行くものだと、若年ながらに思っていたのでした。

 しかし、違う。考えをあらためなければならない。少年からの愛情をもらっておきながら、人を信じられない、愛せないなどと言っている場合じゃない。私を、こんなにも愛してくれる相手が、身近にあるじゃないか。私を好きだと言ってくれる大事な人間が、すぐそばにある。いじけてうだうだと、泣きごとのようなことを漏らしている場合じゃない。

 私は変わるのだ、少年の愛によって。

 その日を境に、私は旦那のことを愛し、信じ、自分の半身のように思いながら、日々を過ごすことになりました。

 彼の愛が、それのみによって私の根本を変えた。

 これが、私がもっとも愛を重んじる考えとなった発端になります。



 途中、質問をさせていただきたいのですが、貴方はご結婚されていますでしょうか? されている? そう、それは良い事ですね。あなたは、本当に誠実そうな人だ。ちょっとのろけちゃいますが、旦那ほどではなさそうですけれどね。いえ、ちょっとした冗談です。ところで、それで、子供はいらっしゃるのでしょうか。いらっしゃる、それも素晴らしい事です。自分の大好きなお嫁さんとの間の、愛の結晶ですから、それはそれはかわいいでしょう。甘やかしたくもなるはずです。重ねての質問で申し訳ないのですが、子供が生まれた後、環境が変わられたりしましたか? なるほど、煙草を吸わなくなった、と。いつ頃から? お嫁さんがご懐妊された、あたりから、ですか。なるほどやはり、貴方が誠実である、というのは間違いがないようです。

 この質問に何の意味があるのか、ですって? 勿論ありますよ。ちょっと、お察しが悪いようですね。先ほどあなたは、この質問の最も大事なところの答えをご自身で伝えてくださいました。

 お嫁さんが子供を身ごもられたときに、貴方はお吸いになっていた煙草を、吸わなくなったと言ってくれましたね。その点です。あなたは、子供が生まれるから、といって、それまで好んで吸われていた煙草をおやめになった。この際、好んでいたか好んでなかったか、あるいは、煙草のニコチンゾンビとなって摂取せずにはいられないお体になっていたか、その違いはどうでもよいです。肝心なのは、愛する子供のため、お嫁さんの、ご健康のため、貴方はやめがたいお煙草を、おやめになられた。

 これは、まさしく愛、ではないでしょうか。

 お嫁さんのおなかの中に子供がいる。それぎり、煙草を呑むのをやめた。これは良く聞く話です。己の吸う煙草の煙は母子ともに毒である。そう知り、あるいは、周りからそう諭されて、嫌々か、唯々諾々とか、やめられた。しかし、続けることは可能でしょう。周りからさんざん、それについて騒がれたとしても、いや自分は、吸わねばやってられない、吸わねば、頭が滞るのだ、人の喫煙など、他者の物言いに屈してやめるべき事柄じゃあない。せめて嫁のいないときだけでも。そうして、意固地を貫けば、周りも呆れて物を言わなくなる。

 果たしてそれが、貴方のためになるかどうかは別として、煙草をやめる、という、この場合最も難しいであろう禁欲を、そっくりそのまま回避することができる。欲を禁ずるという煩わしいことをしなくても済む。そうしたほうが、ご自身的には気楽なはずでございますけれども、結果、貴方は欲を捨て去る方をお選びになった。欲とは人の身において治りがたい難病と説法で説かれますけれども、自ら寛解になられた様というのは、随分立派なことだと思います。

 私は、鼻が利くのですが、なるほどあなたからは、さほどの煙草の匂いがしません。するとすればそれは、付き合いのある同僚からの匂い移りかしら?

 とかく環境によってやめざるを得ない状況は様々ですし、逆に辞め辛ければ多少なりとも我儘を通すことで、続けて吸い続けることも可能であったはずですが、しかし貴方は、ご自身の意思で、その毒を、含むことをおやめになりました。誰のためか。長期的に見れば、己のためと弁解をおっしゃられるかもしれませんが、直近の出来事を鑑みればやはりそれはご家族のためで、その為にあなたは、身を切って禁欲されました。これは、愛と呼ぶにふさわしい事でしょう。

 私が言いたいのは、愛によって、人は変われるし、変わらせることができるということです。胸を張って言いますけれども、これは絶対に間違いがない。

 愛があるからこそ、人は何かになろうと頑張れるし、それがあるからこそ、つらく険しい逆境の中に在ってもしっかりと足を踏ん張り、噛み締めながら生き残ろうとすることが出来る。愛というものは、そんな力がございます。

 逆に、これは持論なんですけれども、愛が足りなければ、やはりそれは、該当者の意識を変えることも、または自分のことを伝えることもままなりません。自分の意思が届かないのです。努力が足りないから、相手もこちらの意識を空読みして、想定外な行動を起こすのです。



 愛、それは人が人に贈る最大の賞賛であり、そして魂を震わす魔力です。そして私は、少年の、今でいう旦那の愛を受け、その為に自分を、総てのものを均等に疑う自分自身を変えることができました。旦那を、信じぬく自分を手に入れ、その為に彼を本当の意味で愛しぬくことのできる自分を確立したのです。

 しかし、いくら人を変えることができる概念であるとはいっても、必ずしもずっと良い方向に進むとは限らない。なぜならこの世には、私達の間にあるようなきれいな愛の他、様々な愛の存在がある。そしてそれに気づいたとき、その時には、私はもう、どうにも、進むにも退くにもできない状況に陥ってしまったのです。

 これから、事柄の枢要な部分を話そうと思います。きっとこれから先が、あなた方の知りたい話でしょう。

 人生は波にのまれた海難者のごとく、とはよく例えられたものですね。すっかり私は、旦那という大木にしがみつくことができ、安心しきっておりました。己が人生という名の大海に浮かぶ海難者であったことを、忘れてしまっていた。

 高波が寄せられれば水圧に押されてこの大木というのを離さざるを得ません。

 順風満帆だったはずの私の幸福が、高波にさらわれてしまうことになった大事件がございます。



 旦那は、私が横から口を出す必要もないくらい、出来の良い人でありましたけれども、彼の育った環境というのがですね、中学生の時には男子学の中学校に通っていたこともあって、多感な時期に異性慣れをしていないというかわいい部分がございました。世にはびこった、いわゆる、女性の醸す毒素にあまり耐性がないということです。モテるのはモテるのですけれども、私以外の女を、深くは知らない。女性の持つ加虐性、心の内に育んでいる、特に醜い破滅性というのを、知らないのです。そうしたものは、女性と付き合い、多い経験を持って初めて知ることのできる深層心理であり、且つそうして初めて男性側も、女性の持つ破滅性に耐性を、基、自衛力を体得できるのだと思うのですが、旦那はそうした能力が軒並み欠如していました。

 私以外の女性と深い関係になったことがない、というと潔白さが際立つかもしれませんが、しかしそれは、裏を返せば女慣れのしていないことでもあるともいえます。先に言った通り、異性の媚毒というものを知らず、故にその理性は脆弱である、と。

 旦那は誠実で実直な方です。嘘のつき方も知らず、まずもって心に一本の根強い芯を持っている。生真面目な方なのですが、やはりそんなご人傑でも己の内から湧き出でる欲望、もっと言えば煩悩を御することは難しい。私は、結婚後のある時期に、そんな現実を思い知らされることになりました。

 高校の課程修了後、大学に進学し、学び終えてから、すぐに入籍し、晴れて私は、旦那の苗字をすることができました。この喜びというのは、昨今の、男尊女卑思想に異を唱えるという世間の論調から、忌避され始めた文化になりつつありますけれども、私はね、本当にうれしかったのです。ようやく、私のことを旦那の物であると公に認められたといいますか、とかくそれまでは、どれだけ深く愛しても、人間の根っこの方で繋がっても、心が解けるほど理解しあっても、やはり、ただの異性関係と見える。これに、世間は真実性を認めません。なぜなら、覚悟というものが付き添わないから。いつでも別れられる、というのは、それだけに軽んじられます。特に若い男女なんて、くっついて別れてを繰り返す。その若気の至りと言ったような見方をされているのだと、どれだけ旦那を愛していても、結局はハリボテのようなものだと、そう見られているのが悔しくて悔しくてたまらなかったのです。

 しかし実際に、旦那の苗字をいただくことで、自他ともに、私は旦那の伴侶であると認められた。この、名前に銘じられた刻印とは、それほど大事な意味が含まれていると思っています。

 結婚後の暮らしも、とても充実した生活でございました。結婚に踏み切るまでに同棲はしていたのですが、そのころよりもずっと、心が満たされた生活を送れていたといいますか、先に申し上げた通り、やはり自身の名前が、旦那の苗字の傘の下にあるという現実が、世に明るさを振りまいてくれたのだと思っています。

 ですが、ある日。

 わずかなほころびが、平和な日常に現れだしたのです。

 きっかけは旦那の仕事帰りが遅くなってきたという些末なものでした。

 旦那は就業が十八時で、大方遅くても十九時には家に帰宅し、夜食を二人一緒にいただくという生活を送っていました。しかしある時期から、旦那の帰りが十九時を軽く上回り、二十時、二十一時帰りが続くようになりました。

 やんわりとそのことを聞いたことがありますが、その時には、確か、同僚の仕事の手伝いをしている、だとか、上司に難しい仕事を任されたのだ、と言ったことを弁明されました。

 旦那は心の優しい人だから、あるいは働き盛りというのもあって、お給料を増やすために残業を増やしているのだろうと私は勝手に想像しておりました。お給金が増えるというのは、家庭のためにもなりますし、旦那自身も体に不調をきたすこともなく、一層、メリハリと仕事に打ち込んでいる様子でしたから、ただ、頑張り過ぎないようにとだけ、私は留めることにしました。

 このような、旦那の帰宅を迎えたある夜、旦那の衣服から、嗅ぎなれない匂いがあったことに気づいたんです。うちで使っている柔軟剤の匂いは、基本的にソープの香りを使用しています。安いし、はずれがありませんから。しかし私がその時に嗅いだ匂いというのは、ほのかに柑橘系の香りを含むものでございました。

 働いている都合上、他所の香りがこびりついてしまうことはよくある話でしょう。それだから、微弱な香り程度なら、全然気にはなりませんでした。私だって、これまでお伝えしてきた通り、旦那のことは好きで好きでたまらないから、こういうとだらしなく聞こえてしまうかもしれませんが、彼のことを疑ったりだとか、カマかけてやろうとか、そうした気持ちは一切起きない、従順な妻でしたので、まあ、その香り程度なら、いつも通りなら、たとえ気にはなっても、深く考えたりはしないところでした。

 いつも通りなら、ね。

 でも、いつも通りではなかった。少なくとも、日常の中の違和感の澱がたまりつつあった時節でした。

 これは、長年彼女として連れ添ってきた私だから感づくことであり、また、それほど微々たる変化の兆しでした。きっと私ほど、旦那に始終執着しているものでもない限りは、この兆しに気が付かないままだったかもしれません。

 しかし私は得てして感づいてしまったのです。ああきっと、旦那には、今、身体を密接させる女がいるのだと。

 日を追うごとに、旦那の残業の頻度が上がり、やがて、祝日前夜には帰宅すらしないという日も増えてくるのでした。まだもちろん、本当に残業のために遅くなっている可能性もその当時は考えていましたけれども、しかし決定的なものがあって、必ずそうした遅くなる日に、強い柑橘系の匂いを一緒に持って帰ってくる。旦那は煙草を吸わない人だったから、匂いはまぎれることなく残っているのです。きっと、少しは匂いに対して何かしらの対策をしていたのかもしれませんけれども、よほど私には外出慣れがないものですから、かすかにでも、我が家の物にはない雰囲気やにおいというものがあれば、それがどれだけ些末なものでも感じ取ってしまえるのでした。

 先ほど、私は旦那のことをこれまで一度も疑ったりはしなかった、と言いましたがね、この場合、疑いではなく、確信なんです。確信というのは、もはや疑う余地もない。その浮気現場はこの目に映したことはなかったんですけれど、雰囲気や色香、彼の生来の瑞々しい男気の内に、邪念が入っている様だとか、

最初こそまだ生易しい女の勘に端をなした違和感でしたが、日に日に現実性を帯び始め、輪郭が定まり、愈々肉感を持って私の前に現れだしたのです。

 浮気である。旦那は、誰かの肩を抱いている。

 そうした確信を持ってしまった夜、私は激しい動機と不安のために寝付くことができませんでした。

 旦那のいない夜。瞼を閉じると、その暗黒の中で、旦那の顔が幾度となく浮かび上がります。日々の中の彼の顔だとか、ちょっと不機嫌そうな朝の顔だとか、嬉しそうに目尻を下げた顔だとか、あとは、きっと誰にも見せたことがないだろう、蜜月の中の彼の慈愛に満ちた顔だとか。

 しかし瞼を開けると、それらが泡沫のように掻き消え、途端に静まり返ったようになる。横隣りに眠る人はいない。うすぼんやりとした部屋の中で唯一人で布団にくるまっている自分を認識する。そうして、孤独の中で一物思案する。果たして彼は、今どこで、何をしているのだろう、と。

 暗黒の中、唯一天井で煌々と光る豆電球の明かり如きでは、到底答えを見出せないものでした。



 浮気をされている、と察したとき、私がどう思ったか、ですって? そりゃあもう、考えることはいろいろありました。旦那に対して思うこともあったし、私自身にも思うところがあった。様々な思考が巡りましたとも。それこそ、夜も眠れなくなるくらい。

 まず旦那に思ったこと。

 可哀そうな人、そう思いましたね。

 ああ、これは、皮肉の意味ではないんです。

 心の底から、可哀そうだと。

 浮気の内容は知らないのだけれど、きっと旦那は罠にはめられたのだ。ハニートラップとかいうやつ。あれに、うまいこと乗せられてしまったのだろう、と。

 私はね、旦那が浮気をしてしまった一因みたいなのの自覚があるんです。きっとこれが原因だろうと。いえ、これに関しては、私の不注意だとか、不足とかはないのかもしれませんけれども、けど、旦那はきっと、日常的な生活の中でも、この点に引け目を、あるいは、私に幻滅していたんじゃあないかしら。とかくその点をはなしますとですね。

 あなたも気づいていらっしゃるかもしれませんが、私達夫婦には子供がいないんですよ。

 あなたには、子供がいらっしゃるのでしたね。とても、うらやましく思います。世には、子供が欲しくても、手に入らない、なかなか、恵まれない人たちも、多くいますから。かくいう私もそうで、私達夫婦は、おしどり夫婦でしたけれども、とうとう、この間に子供は芽吹きませんでした。悔しい限りです。なんたって、旦那は、子供を望んでいたのですから。私はね、どちらでもよかったんです。旦那と二人一緒に居るだけで幸福でございましたから、それ以上の幸せを求めたら、何か、いけないしっぺ返しが来るんじゃないかって、不安で不安で。私は、ほどほど程度に子供は好きでした。まあ、私のおなかで育てた、旦那の遺伝子を持つ赤ちゃんであるなら、それはもう、旦那が嫉妬してしまうくらいには、愛でるかもしれません。私はほら、この会話でもわかるように、結構、母性本能というか、慈愛というか、女性観念が深い方でしょう?

 だからデキたらデキたでね、深く深く、愛情をもって接するし、愛しぬくつもりでした。一人に渡す愛情と、二人に渡す愛情、これらに、量的な意味での差別は生まれないと私は思っています。一人分作る弁当が、二人前になったからと言っても、大して変わらない、そんな感じでしょうか。

 で、旦那は元々、子供が大好きでした。三人欲しいと。大きくなったら、キャッチボールをして遊びたいと、そう、目を輝かせながら私に語ってくれていました。

 しかしまあ、子供というのは、運なのでしょうね。私の身体の臓器には、特に問題もなかったし、旦那の種も、薄くはなかったようです。けれども、何度夜重なっても、ついに私達夫婦が子供に恵まれることはありませんでした。

 悔しかったですとも。どうして私たちのようなまじめな家庭が子供に恵まれず、後先考えないようなカップルの方には、そう易々と子供ができるのか。根気よく、不妊治療だって行いましたけれども、なかなか、実を結ぶことにはなりませんでした。この点、もしかすれば、旦那も一物考えがあったのかもしれません。それだから、道を逸れてしまったのかも。

 旦那の不義理の始末に、私は大変悩みました。必ず、どこかで暴かなければならない。しかしそれは、夫婦間の間に決裂を及ぼすものであると、世間知らずの私でもさすがに理解できる点です。詰め方を間違えれば、旦那のことを疑っている悪妻となるし、旦那もそれのために私に失望するかもしれない。私が旦那のことを疑うなどということはまずありえないことなのに、当の本人は、必ずしもそうではないとおもうものでしょう。私は確信をもってそうであると、どこかで女性とつながっているのだろうということを聞いてみたかったのですけれども、切り出し方がわからない。こういった、解決が必要な問題というのは至極デリケートで、歯髄に触れるような話題です。お互いが口に出せずにずるずるといってしまう事って多いでしょう。おこなってしまったものは引け目を感じて口に出さず、曖昧に事が収まればよいと思うだろうし、被害を被った側も、その事実を黙認しつつ切り出し方に大変困る。その出来事が、関係性の亀裂に及ぶものだからと、理解しているがためだと思います。同様に、私もその為にこの確信的な事実を口にすることができないでいた。

 でもいつか言わねば。明るみにしてやらねば。旦那をどうにか、この不義理から掬ってやらねば。そう思い、思い煩えども、事態は進展もせず、一重に私の勇気の不足のために、残酷にも時間だけが過ぎていくのでした。



 しかしこの一件はあっけない形で会社にさらされることとなりました。

 どうにも、相手の女性とホテルに入っていくところを、同僚に見られ、その同僚もあまり性格の良い人ではなかったらしく、すぐさまにその情報は会社内に広まりました。

 こうしたゴシップネタというのが、大火に育つのはなにも芸能界に限った話ではありません。むしろ旦那のまじめな人柄を知っていた周囲だからこそ、この浮気というものはギャップという名の油を注ぐ形となって、よく燃えるようになったのです。で、人というのは、他人の不幸を愉快なものと認識しがちだから、この愉快な不幸は軽はずみに、それこそ火種が風に攫われて山火事に発展するような形で燃え盛っていった。私は、暗にこの浮気という事象を察してはいたのですけれども、表向きにはおくびにも出さなかったので、表面上ではこの時期にはじめて、この被害に気が付いた、という形になっています。

 明るみになったことは、願ったりかなったりというところでしょう。私が自ら手を下す、いや口を下すまでもなく、自然的な方法でこれを鮮明にできた。これは良かった。夫婦の亀裂はいかにせよ少なくて済む。すると後は夫婦の問題です。許すか許さぬか。関係は存続するか否か。浮気をされた側の私の意見が有利な状況。しかし私の出す結論は最初から決まっておりました。

 旦那はきっと、女性経験の低さに欠点を見出され、その弱点の所為で不義理を行わざるを得なかった。ゆえに彼はハニートラップに引っ掛かっただけなのだ。人というのは、微塵も間違いを起こさずに生涯を終えることは不可能である。旦那のこの不義理も、内容はどうあれその性質は数あるうちの一つの間違いに過ぎない。私だってきっとこの先、様々な方法で何らかの間違いを起こすのだろうから、こんな些細な間違いに目くじらを鋭く立てて激高するのは後々の私自身の首を絞めることになるし、加えて以降私自身の起こす様々な過ちの可能性を鑑みればそこまで強く言えることはない。

 第一に人間の持つ性質上仕方がない間違いだったといえる。女性が無性に愛情を求めるように男性も同じくらい、肉欲を求めるものなのだ。特に旦那のように女性に対しての耐性がない男性の場合は最もはまりやすい沼に足をとられたものに過ぎない。そう思うと、やはり詰問する気にもならず、もとより、旦那の浮気の一件はことを大きくしようとは微塵も考えてなかったので、相手の女への憤慨は別として旦那のことは許すという意思を直接伝えました。



 一件これによってこの話は平和的に終わったものと見えますでしょうけれど、しかし、事態は私が思っていたより深刻化するのでした。

 さらに言えば、この浮気問題というのが糸を引いてさらなる問題に発展してしまう布石にもなっていたのです。

 例の一件が起きてから、旦那に対する会社の風当たりは強くなったようでした。社内では悪罵が絶えず、これまで通りの、生活、業務は、あまり芳しく行えなくなったようです。あらゆるところで、悪口を言われている、そんな気がしている。場合によっては、対面したうえで罵詈雑言を受けたとも告白していました。様々な内容を言われたと、とても鬱屈した表情で私に伝え、そのうえで何度も何度も、私に許しを請うのでした。

 私は、そんな旦那を励ましてあげる以外に手の打ちようがなかった。勿論、私にはこれっぽっちも責める意思などはないのです。あれは確かに不幸な事だったし、私自身、さみしい思いもした。けれども、それでも私は旦那と元の関係に戻りたかったから、一切を許した。民事でいえばこれで解決。普通に考えれば、これにてこの一件のすべては閉廷したはずでしょう。

 ですがこれのみに終わらなかった。私は許したと、双方の意思によってそうした答えを出したのにも関わらず、どこからか、鉛の弾が飛んできては旦那に着弾する。降伏した歩兵を射的にするような、そんな状況が生じたのです。

 私はね、旦那よりも、そんな旦那をたたく世間の方が、よっぽど腹立たしかったんですよ。罵倒の内容を聞いていて、はらわたが煮える思いがしていたものでした。どうして、あんなひどいことを言うのか。

 皆、口々にこんなことを言っていたようです。「嫁の、私の気持ちを考えたことはあるか」とか、「夫の風上にも置けない奴」とか、「最低最悪の亭主だ」とか、「お嫁さんが可哀そう」とか。

 浮気を叱責、詰問する言葉。同時に、私に同情をする、あるいは、私の感情を代弁しているかのような言葉。

 それを聞いて、私はこう思った次第です。

 抜かすなよ、と。

 誰が、私の気持ちを理解できているのか。顔も見知らぬ有象無象が、勝手気ままに私の気持ちなど名乗りやがって。バカにするな。本当に、私の気持ちを考えたことがあるのか? ならお前はどうなんだ。どういう気持ちで、旦那を非難する。お前は、一時ばかりの堕落をこすられ続け、一方的に罵倒される旦那の事を不安に想う私の気持ちを考えたことがあるのか。

 夫の風上にも置けない? ばかいえ、お前なんぞよりよっぽどまともな夫だ。ただ、運が悪いことが重なったばっかりに、こういった不義理につながっただけで、実態を見れば、お前のように汚い唾を飛ばして人をやじることでしか満たされない腐りきった性根を持つ男と比べれば、天と地の歴然の差がある。

 最悪な亭主だ? 嫁さんが可哀そうだ? 誰の気持ちを代弁している。私に成り代わったつもりか? いうだけで満足しているだけだろう。ちっとも、私の気持ちに添おうとしてくれない。大体、衆生は頭が悪い者ばかりです。こういった一件が起きると、すぐに被害者の気持ちを代弁しようとするやつとか、同情してくるやつとか、非難しようとする輩が沸きますが、私からすれば、このようなもの、夏場の腐りやすい時期に台所に現れる、害悪な昆虫より質が悪いと思うのです。

 なぜなら、自分らはどれだけ加害者をたたいてもたたき返されない。その立場で得意になって、寄って集って言葉で殴りつける。そんな暴力をふるっておきながら、これらを正当化できると思っている。なぜなら我らは正義の拳だから。被害者の悔しい気持ちを、我らが代わってやっているのだ。悪いことをしたやつは言われるのが当たり前で、それほどの非を犯したのだから、これは仕方がないことだ。たたかれるのが嫌なら、やらなきゃよかったのだ。なぜやった? たたかれる覚悟があったのだろう? これは世直しなのだ。そうして、民意である。そう信じて疑わず、誹謗中傷という倫理に外れたことを延々行いながら、それでも自分は正しい行いをやっていると思っている。

 とんだ詭弁です。馬鹿を言え。本当に馬鹿らしい。事後諸葛というやつだ。事件が起きた初頭には大した理論も出せないくせに、いざ終わってこれから騒動を治めようという段階で、ああすればよかった、こうすればよかったとか、誰も求めてはいない意見を、見解を持ち寄って後方で軍師面をする。黙ってろ。

 結局騒ぐ奴らの、お粗末な頭じゃあ、事件を解決する所か、ようやく沈静化する手はずだったのに蒸し返して終わりだ。触れなければそれ以上矛が挙がることはなかったのに、余計な真似をし、種火に枯れ木を添えて再燃させたうえでまだ騒動は終わってないぞと得意になる。何の役にも立たない口先集団。奴らがいないほうが却って世はうまく回るというのに、どうして自分らは世間に必要とされているのだという傲慢な誤解を、改めることもせずにふんぞり返っているのでしょうね。考える頭がないからか。

 貴方なら痛いほどわかることだと思いますけれどもね、いかに悪事をしようと被害者でも加害者でもないどこぞからわいた第三者風情が、調子に乗って事件に踏み込める権限などないのです。まして事件に対する発言権もないのに、誰も求めてない持論をもちよせて、風呂敷広げてべらべらと、評論家の真似事。

 くだらない。事件のことで花を咲かせていい気になるよりさきに、ちょっとは常識を学んで弁える術を養ったほうがよっぽど自分のためだろう。それすらわからず、何ら関係のないところでバカ面下げて正義論。論どころか、相手を一方的に貶すだけの脳みそのないマウントばかり。反吐が出る。

 事件というのは、関係者各位の内に終わらせるべきことなのだ。どうしてお前ら無関係者が入り込める余地があると錯覚をしている。それなら、裁判所に向かい、傍聴席から弁護人の発言を制して持論を述べてみろ。たたいて良い道理が本当にこの国で認められているのなら、咎められはせず、どころか、他の傍聴人から支持されるかもしれない。だが世の中、逆だろう。こんな迷惑な傍聴人なんて、それこそ公判の途中で警備員に肩組まれて部屋から追放されるに決まっている。そしてその様が、いわゆるルールだ。規約だ。さらに言えば民意だ。往々にして奴らは自己の解釈を巧みに民意と挿げ替えているようだが、その理論は、皆が皆、不自然だと気づいている。それでもそれを指摘せずにいるのは、これをうまい事言語化できないだけである。仮令、指摘できる勇者が言語化して詰めても、自分の誤りを認めず、いや、悪いのはそこの加害者だと、ごねて自身を正当化するのが関の山だ。ただ、悪いことをしなかっただけの、良いこともしていない、程度の知れた一般人の持論など、積荷から外れた大根の葉クズほどに意味もない。悦に浸りたければ自室の隅っこで自慰でもしていろ。

 私はね、憤慨いたしました。旦那への執拗な攻撃。これが続いたようで、見る見るうちに度を失っていく様を、身近で見ていました。すると私もだんだん食が細くなり、元気がなくなる。こちらもなんだか申し訳なくなってくる。で、やせた私の姿を見て、周りがまた、燃焼をさせる。みろ、嫁さんの姿を。ああまで、神経をすり減らしている、などと。

 私が神経を擦り減らす結果になったのは、明らかに、周りの騒ぎ狂う集団の所為です。旦那の所業を私はきれいさっぱり許したのでそんなことはもうどうでもいい。なんで本人が、いわゆる世間でいうところの被害者がもうよいといって許したのに、周りが勝手に許さないスタンスをとるのか。どの立場から、『嫁さんが可哀そう』などというコメントを残せるのか。訳が分からない。

 この時私は、加害者という存在は際限なく増えるものだと感じました。そしてその増える加害者というのは、事件に微塵も関係しなかった外野の人間。おおよそ、被害者の心に寄り添おうなどという傲慢な考えが、新たな加害者を生む種火です。そしてこれらは、悪意がなく善意で行われているだけに、純粋な悪意よりよっぽど質が悪い。善意の暴走というのは、悪そのものじゃないでしょうか。

 さて私は、以上のことをもって旦那の犯した不義理をさっぱりと許すつもりでありました。

 確かに私は浮気をされましたが、旦那に対して毫末も被害を受けたとは思わないのです。

 傷心の多くは、外野がもたらした。ゆえに旦那が私に与えた損害などというものは、却ってさほど大きなものではありませんでした。

 勿論、発覚したときは激しい動揺だったり、心痛に悩みましたけれども、旦那に幻滅したり、怒ったり、問い詰めてやろうと思ったことはありませんでした。彼の純真な精神は妻である私が最も理解する所ですし、私はそんな純真な旦那のことを愛したのですから。

 ただ一物、悲しかったのです。

 なぜなら、私はまだまだ努力が足りないとおもったから。

 まだ、愛が足りないのだと思ったのです。子供ができない、というのも一因かもしれませんけれども、それ以上に、このような事情が起きてしまったもっと大きな根本がある。私の愛が、旦那を満たすほど注げてなかったのだ、という事でした。

 愛が足りない故に、旦那に寂しい思いをさせてしまった、他の女が付け入るスキを与えてしまっていた。そして弱点を突かれたばかりに、不義理に向かってしまった。私が至らぬばっかりに、違う匂いのする、女の方へと誘導させてしまった。そのために、旦那の心に、私に対する罪悪を感じる結果を与えてしまった。私はね、それが許せなかった自分がです。

 旦那は、罪悪なんか抱かなくたって良いのです。なぜならば、そうなってしまった責任のすべては愛が足りない私の方に所在があります。もっと旦那のことを愛して愛して、間隙もないほどに愛しぬいてやれば、きっとこんなことにはならなかった。旦那は、一件が発覚したとき、私にやつれたかおをして「ごめんな」と言ってくれました。私に対する罪悪の清算なんてそれで十分。むしろそうして、ずっと下を向かれ、罪悪にかられたまま接される方が、私にとっては苦痛でございました。好きな人のひどい落胆など、ずっと見ていたいと思う人はいないでしょう? ずっとしょげている様子を見るくらいなら、いっそのことそれはそれ、これはこれとして、あっけらかんとしてもらった方が、私にとっては心地の良い処遇だったかもしれません。



 さて、旦那との仲直りした後、私個人にも、どうしても清算しなければならない事案がございました。これをきれいさっぱりに片づけない限り、私の手元にあった、幸せな生活というのは、完璧には戻ってこない。まだ、八割、まだ不完全。

 先ほど口汚く集団的視線によるいじめをののしり、腹立たしく思っていると表明しましたけれども、それ以上に、はらわたが煮えるほど腹立たしく、激しい憎悪を抱く相手というものがあります。この一件、旦那は勿論、一切を不問にして、さっぱりと許したのですけれども、だからと言って誘惑した女の方も問答なく許す、という気までは、さすがにありません。だって私は旦那の嫁です。


 誰の恋人に手を出したのか。舐めてんのかクソガキが。


 ふつふつと湧きあがるマグマのような感情。私は、初めて人に対して言い表せぬ怒りというのを覚えました。高校のころ、少しだけいじめられていたということを先に言っておきましたけれど、それに対して私はさほど気にも留めませんでした。いじめというのは環境による事象です。つまりそうならざるを得なかった環境がある。それを私は諦観的に認めており、それだからこそ受けていたいじめのことはきれいさっぱりに水に流すことができました。

 ですが、この憎き相手においては、そうした、同情の余地はありません。なるほど、高校のころのいじめっ子同様、彼奴の行動原理は、性愛か肉欲か自己愛か、つまりは満たされないものを埋めるため、このような愚かしいことに手を染めたのでしょうけれども、それとこれとでは、やはり感じ入るものが違う。

 私が要約的に入れることができた幸せを、己の欲求の為だけに強奪せしめんとする邪悪がある。

 この一点が、生来波風を起こさずに生きるべしと脊髄に刻み込んで生きてきた私の胸中に、強い憎悪を生み出す要因となりました。



 これは憎き浮気相手の情報を集めているときにつかんだモノですが、旦那を誘惑したメギツネは、どうにも、日常から素行が悪かったようです。素行が悪い、というと、不良などを想起されるでしょうけれども、そう言った、悪漢的な悪さではなく、いわゆる、女性的な悪さが際立っていたというべきでしょうか。業務中のボディタッチが多いとか、やたら上目遣いで話すとか、その気にさせる言葉を会話に含ませるだとか。そうした行為を、日々欠かさず行う人格だったそうです。ああ、汚らわしい。バカみたい。とてもじゃないですが、私には真似ができません。同じ生物とも思えない。ましてそのメギツネは、別の会社の営業の者でしたから、たまたま同じ仕事を進めて知り合ったか、どこぞから旦那の連絡先を聞き及んだことでしょう。

 そうして、その関係にもつれ込むにおいては、必ず相手の身持ちをリサーチするものだと思います。つまるところ、旦那が誰かと籍を入れているかを聞くはずです。平常の女性なら、潔白な恋愛をしたいはずだから、この時点で旦那からすでに嫁がいるという情報が入れば、即刻に身を引くはずでございます。

 旦那が、正直に答えるという根拠? 先にも言いましたが、旦那は嘘を吐けない実直な人ですし、まして女性に対しての耐性がほとんどない方ですから、聞かれればそのまんま真実を語るものだと、私は察しています。仮に、旦那が女たらしであれば、その限りじゃありませんが、まあその仮は絶対にありえない。純真な旦那足ればこそ、きっと嘘偽りなく、妻帯者であると答えたでしょう。言い寄られた時だって、その意思は事実は絶対に伝えたと思います。現場にいなかった私が言うと想像の域を越せないのでしょうけれども、しかしこれだけは絶対そうだったという自信がある。長年の勘。外れることのない意志疎通。必ず旦那はその時に、おのずから妻帯者であることやこうした禁忌的な行為はできないと、きっと答えたのです。

 しかしそれでも懲りずに尻を振りながら人様の旦那に近付いて、盛ったメスらしさを全面に表し、自分の肉欲の寂しさのみを追求して恥もなく自分をアピールした。

 私はどちらかというと、男性のそういう性的なものに対しての耐久度、というのにはある程度理解があります。いくらね、愛情を注いでも、やはり、目の前にいる美女がころんじゃったりして、下着が見えてしまう、そんなハプニングが起きると注視してしまうのが、男性の性です。これは仕方がない。だって、これは本能に刻まれた生き物としての衝動なんですから。遺伝子に組み込まれた弱点であると思っています。こればかりは、愛情とか、そういったものを惜しげなく注いだとて簡単に変えられるものじゃない。トンボの翅をむしり、細い足で四足歩行をさせる芸を仕込もうとしても失敗するのと同じです。トンボは、飛ぶように設計されて生まれている。二本の足で忙しく歩くように設計はされてない。この設計を捻じ曲げようとしても、容易ではない。男性の、性的なものに対しての興味も同じもので、動くものをついつい目で追う猫と同じに、ついつい、目で追ってしまう。視界にいれようとしてしまう。そうした弱点が、在るわけです。加えて、旦那は女性に対して耐性がない人です。つまるところ、他と比べてもやはり、そうしたトラップに引っ掛かりやすい素質は在りました。

許されざるべきはいやしくも、そう言った弱点を知ったうえでこれをたぶらかす、あくどいメギツネに決まっている。私はね、旦那を誘ったという大悪も許せないし、そのアドバンテージをとるために明らかな弱点を突いて手玉に取ろうとする姿勢を許せなかった。勧善懲悪をテーマにしたドラマなんかで、大金欲しさに子供を誘拐して身代金を要求する杜撰な犯罪を企てるものがいますけれども、それとこれ、何が違うのか。結局、弱点というどうしようもないものを用いて相手を陥れようとするその動きは、比べるまでもなく同意なものでしょう? しかし得てして、そうした不穏な蛮行に及ぶ者には正義の鉄槌が下されるわけです。許されるものではないのですから。至極当然ですよね。

 お灸をすえてやらなきゃな、と思いました。

先ほど私は、間違った正義を信仰する馬鹿どもを、メッタクソにこき下ろしてやりましたが、私の据えようとしたお灸は、いうなれば真実の正義でしょう。

 なぜなら、実際に、人の幸福を奪おうとして、犯行に及んだものが相手なのですから、これは、必ず真実の拍がついた正義の実行だと思っています。

 同時に、私はなめられている、と思った。旦那のことは許しました。それで、この一件はなかったことにしましょう、はい分かりました、それではなあなあで、と言った風に、メギツネをほったらかしにすれば、再度どこかで、同じ過ちを繰り返そうとするでしょう。手痛いしっぺ返しがなかったなら、次同じことをやったとしても、また同様に許される、そう甘くとらえるはずです。きつい仕置きがなければ、必ず再犯率は高くなる。で、もし旦那のことを本当に好きになってしまったなら、次は私から確実にかすめ取れるように、もっと柔軟な作戦を持って近づいてくるかもしれない。一度舐められれば、きっとそうなる。なぜならあそこの嫁は、旦那を失う危険に晒されても何一つとして身じろぎをしなかった。したらばそれは、何をしても糾弾しない、弱い人間なのだ。旦那に尻に敷かれている。怖くはない。そうみられれば、それだけで、同様の行為に走る可能性は、グンと上がるのです。

 許さない、そんなことは。

 私の幸せは、私が護るしかないのだ。

 誰も助けちゃくれないのだから。



 これはもう言っちゃおうかしら。いえ、示談になったのだから、言ってしまってもいいわよね。

 あのね、私は、例のメギツネを、襲撃いたしました。ああ、いえ、さすがに、何から何まで暴力に任せたわけじゃあないんですよ。ただ、ちょっとだけね、脅して差し上げたんです。

 ネットや追跡には明るくないんですけれどね、時間には不自由しなかったので、日常の空いた時間でメギツネの情報を明るみにすることに努めました。ほとんど根性を頼りに努力し、何とかその女の住所を割り、勤め先が○○商事であること、年齢は何歳で、何年に△△高校を卒業して近所の大学に入った事。あとはその時に三股かけていたことや風俗業に片足を突っ込んでお金欲しさに親父相手に身体を売っていた過去の情報なんかも手に入れています。しかも信じられないことに、旦那を引っ掛けた時期にはすであの女には結婚を前提に付き合っている彼氏もあるそうでした。考えられませんね。まったくもって、根底から愛のない人間だ事。そうして考えると確かに、愛を何よりも重くとらえる私とは、根っこから全く構造の違う生物同士だったのかもしれません。彼女の愛は金で買えるのでしょう? 愛だって削ればすり減る炭のようで、目減りすればこの一件のように補充をするのでしょう? 対して私の愛は、金では買えないのです。すり減りもしない、金剛石のような愛。

 とかく身辺周りの情報を集めて、日時はこのメギツネが会社から帰宅する時間を狙おうと計画を立てました。

 ただで済ますわけにはいきません。私が恐ろしい女なのだと、頭の先から足の先端までの徹頭徹尾に知らしめなきゃならない。恐れを抱かさなければ、人間は同じことを繰り返す。二度もそのようなふざけた幻想を抱かさないためには、徹底的に、心を折ってやる必要がある。そう考えました。

 それだから、包丁を一丁、新品で買いました。暴力のためではなく、あくまで脅すためのものです。これを服に包んで隠しもち、どのように詰めるかのシミュレーションまで行いました。襲い、逃げられれば、私はその時点で殺人未遂か暴行罪を被るでしょう。さすがにそれだけは避けたい。狙うべくは、彼女の口から二度と旦那には近づかないという制約と、同時に、この襲撃を内密に、あるいは示談という形で済まし、お互いになにもなかった形で元の生活に戻る。そのような落着点。厚かましく思われるかもしれませんが、襲撃というのはそれ相応にリスクのあることです。しかしそれ以外の方法でこれからの生活上での不安点を取り除けないのだとしたならばそうしたリスクを承知で採用して実行に移すしかない。

 真に恐ろしいことと言えば、私の内に燻る獣性です。もし、そのメギツネをこの目にしたとき、果たして私は正気でいられるのか。脅すために持ち寄せたこの刃物の切っ先を、意識外からの衝動でついうっかり刺しかねないのではないか。歯止めは効くのだろうか。

 どうなってしまうか、自分でも確証が持てないのでした。なぜなら、実際刃物をにぎり、どう詰め寄るか、そうしたシチュエーションを刻む間にも、この獣性が自然に湧き出でて、それどころか、その獣性のすぐ近くで、憎悪が、陽炎のように絶えず揺らめいていたからです。

 決行当日、覚悟を決めて夜道に繰り出しました。旦那には、そこはかとない理由をつけて、夜間に外出する、と言ってね。旦那は、私のことを疑うそぶりもなく、行ってらっしゃいと言って、見送ってくれました。少々、心が痛みましたね。この行為が、私の怨み、ひいては、私達夫婦のためになさなければならない一大事ではあるけれども、狂えるほどの怒りの炎の中、わずかに狂え切れなかった私の平常的な精神が、これから仕掛けに行くことはそら恐ろしいことなのだぞと、そうした人の倫理を大きく外れた犯罪紛いのことを、旦那が知らずににこやかに見送ってくれたのだと、このことを良心で受け止めて、微塵の呵責もないのかと、自分の中で問答を行いました。

 それについて、恐れや、申し訳なさはあるに決まっています。これは、私の独断で行う行為。旦那は、私がこれから行う非人道的な行為についてまるで知らない。きっと一縷の危機感すらも、持ち合わせないで私のことを見送ってくれたんですから。

 ですが、このことは、やはり旦那は知らなくてもよいことなのです。秘密裏にことが済まされれば、それでよい。旦那がこの私の身勝手な行為に対して、心の内にささくれを作る必要はない。

 私の愛の不足によって起きてしまった一件ですから、私が片を付けるべきなのです。二度とこういったことがないように、予防を張らねば気が済まない。一度火事が起きれば嫌でも随所が気になるでしょう、それと同じに、ある程度の保全は行っていなくちゃ、安心は訪れません。保全のために生じる一切の汚れを背負うのは、私。夫婦として、晴れやかな明日を迎えるためには、きれいさっぱり、これを清算しなきゃいけない。

 そうこうして、なるだけ前向きにとらえようと案じていましたけれども、それでもやはり、後ろ髪を引かれる思いは常に感じるものです。特に夜道の、人工的な光しか見当たらない暗闇で、不安な点や、良心だ何だという事ばかりを考えていると、少々、鬱っぽくなってしまう気がしたので、ちょっと楽しく思えるように心の転換なんかもしました。

 旦那に嘘をついて、外を出歩くなんて、こんなことは初めてだったんです。

 まるで親の目を盗んで悪戯をしに行く子供になったみたい。そう考えると、胸のそわつきも悪戯のためで、薄い頭痛も小さな罪悪のためのように思えて、少しだけ笑いが止まらなくなっちゃいました。

 私は単純な女なのかもしれませんね。

 そうして歩いた星一つとしてない目の先も真っ暗な夜道は、今でも忘れられません。



 私は、何食わぬ顔で、物静かな駅の入り口で女の姿を待ちました。調べた上では、必ず女は電車を使って帰宅する。駅と言いますけれども、片田舎ですので、とても簡素なものです。小さなロータリーと、自販機が数台と、自転車置き場があるくらい。辛うじて切符は他の駅でも使われているような現行の券売機で、その他、駅が大きいわけでもなければ、その周辺に目立った施設があるわけでもないので、特に夜中であることも手伝って、私以外の人もなく、がらんとしておりました。

 その日は、確か連日降った雨の影響で、風がひんやりと水気を含んでいた夜だったと思います。少々霧っぽくて、水蒸気の中に駅構内の光が乱反射して、蜃気楼のような淡さを演出していました。

 で、駅の玄関口で、降りてくる乗客の顔を、八百屋の前でより良い質の野菜を判別する主婦のような形相で一つ一つ丁寧に見定めていました。くたびれたサラリーマン、デートから帰宅したと思われるめかしこんだ若者。制服姿の女子高生。その有象無象を見定めていくや、そのうち、ある姿を見た瞬間に、身の毛が逆立つ心地がしました。そして、蛇ににらまれたネズミの気持ち、とでも言おうかしら。さすがに、向こうは私の事なんて感づいていないわけですけれど、しかし私は一方的にその姿を視認して、心臓をクッと捕まえられたような感触に襲われました。

 顔、いでたち、雰囲気。シックリとくる女が、歩いてきたのです。その女は、立ち尽くす私に気の一つも向けないで素通りし、駅の光の届かない、夜闇の方へと歩いて行ってしまうのでした。

 いた。あいつだ。私は、服の下に隠した包丁の柄をぐっと握りしめました。

 加えて、私はその姿をみて、やはり気の食わぬ気持がわくものです。なぜなら、旦那も私も、この不祥事のために心身を削られ、夫婦としての関係にも深いひびが入ったような状態が続き、本来堅固なはずの密接な関係に不純な躊躇いが生まれ、空気の淀んでいる生活を送らねばならないというのに、しかしそのメギツネは、あくまで、平常を生きているように見えたのです。そう、まるでそんな事件なんて端からなかったとでも言いたげなほど、その佇まい、いえ、歩き様からは微塵の動揺を感じられませんでした。

 その様にあっけをとられ、また、思考がとどまってしまいました。私は勝手に、この不祥事のために、寸分でもあのメギツネも苛んでいるものと考えていましたから、特に旦那がそうであるように、憔悴し、夜中の帰宅途中不安がって震えながら帰っているものだと勝手に想像していましたから、実際にこの目で見て、ああまでケロッとしている様子を見てしまうと、日常生活に支障をきたすほどの動揺を受けているこちらがばからしく思えてしまうじゃないですか。

 あの女が、旦那の性欲を受け止めたのか。そう考えると、自然、危険物を握りしめた手にも力がこもるものです。ああ、今夜、もしかすれば私の内の獣が暴走してしまうのかもしれない。どうだろう、この刃物を実際にあの女に差し込んだなら、私の内の獣は静まるのだろうか。それとも、その血がさらなる深層のスイッチになりえて、私は、人としてあってはならないものになってしまうのではなかろうか。様々な不安はありましたけれども、根元が頑固者の私はそうした不安が沸きはしても、だからと言ってその獣の燻りにおびえて、踵を返す選択はできないのでした。

 なぜなら、もう腹は決まっているから。今更臆病風に吹かれたからといって、きた道を帰るなんて、北風と太陽に出てきた旅人だって選びはしないはずでしょう。

 もう、どうなってもよい。これから先に起こるあらゆる事物は、私が被るべき罪である。そうして、私はメギツネの後を、こっそりとつけて行ったのでした。



 私の調べが、結構な信用度を持っていたと気づいたのは、メギツネを尾行してすぐの事です。私は探偵をやったことも、ネットストーキングをやった過去もありませんし、その為に、いくらメギツネの身辺を丁寧に洗ったといっても、心の底から納得のいく結果を得られるとは思っていませんでした。もしかすれば、住所を違えていたかもしれない。どこかの情報が、本当は関係のない人間のものかもしれない。何もかもが初めてのことですから、物事の処女航海というのは、予想だにしない事故に見舞われてしかるべきものです。きっと大丈夫うまくいく、そう期待して綿密な計算をしても、必ず波が平らであるとも、風が北東から吹くとも限らない。何の因果か西の果てから日が昇る事象にまみえる可能性もある。それほど、計算通りにいかないか、あるいは、イレギュラーにつままれるかして、断行せざるを得なくなる。そうして苦い汁を飲むのみで行動が終わるというのが関の山だと思っていました。

 しかし、思いのほか、私の調べた通りに事が進んでいる。メギツネの進路は私の調べたものと一定であるし、その道があまり人の気配がないという点も調査通り。物事があまりにもうまく進んでいくのでした。

 唯一、不安点があると言えば、このメギツネを尾行しているにつき、奴が、度々背後を気にし始めているという点でした。まあ私も女性ですから、日没後の外出時はどうしても背後が気になるというのはわかります。また、実際に人がつけてきているわけですから、この、言い表しえぬ底意地の暗い不安は理解しうるところでございます。ともすれば、どこの気の起こりで振り向いてきて、私の正体を認めるかわからない。

 そうともすると、愈々私も腹を据えねばならないでしょう。憎き敵の、後ろの正面に陣取って散歩をするために夜を出歩いているわけじゃない。私には、大志がある。其れを為すべきに、ここにいる。

 ここで私は、ぐっと息を腹に詰め込みました。ここですべてを決しよう、と。ちょうどそこは、近くに民家という民家はなく、周囲には、空き地と、防水層、明かりがあるとすれば、マイナーな商品がピックアップされた自販機や、便所球のようにくすんだ黄色の街灯くらいのもので、こういうとおかしなものですが、人を襲うに適した立地でございました。

 ですから、だっと駆け寄って、服の下に隠していた刃物を露わにし、メギツネの背に手を伸ばしました。

 メギツネの方も、背後から急に近付いてきた足音に感づいてか振り向くそぶりをしていましたけれども、私の方が早くメギツネに到達したために声を上げられるより早く、首元に腕を絡めてやってから、動くな、と。

 私が男性なら、その時点で一切の動きを封じることができたのでしょうけれど、なんせ背丈は同じくらいだし、私も女性だし、いくら不意打ちとはいえその後の抵抗を完全に抑え込むことはできませんでしたから、こう、相手から見える位置に包丁をチラつかせてですね、暴れるなら刺すぞと、とっても低い声で言ってやりました。街灯の光に照らされた、包丁の刃はきっとキラキラして見えたことでしょう。威勢の良かった魚が頭を落とされて脱力するように、メギツネも、荒い呼吸はしていましたけれども随分と静かになりました。

 少々の質問をしたんです、その時。

 お前、私を知っているか? と。メギツネは、知りませんと震えた声で言いました。

 続いて、お前は最近、重い罪を作っただろう、お前は、家庭を持つ男性を相手取って醜い姦淫を行った。あの男性が入籍していて、嫁がいたことをもちろん知っていたはずだ、というとメギツネは、貴方はまさか、と。

 まさか、と言われた時点で、私はこの女がやはり、旦那と浮気した女なのだなと確信しました。いえ、この言い方だとまるで私が確信をもたずしてメギツネを襲撃したように聞こえてしまいますね、正確には、再確信というべきかしら? 勿論情報を集め、必ずこの女こそ私にとっての大逆の仇に等しい犯人であると認めたうえでの襲撃ですが、しかし反応を受けてどうしようもない空虚な感情が私の胸に生じたんです。質問の時、ふらりと、柑橘系の香りが、鼻腔に届きました。この柑橘の匂いを醸す女が、いつの日か旦那の腕に添って同衾した日があったのだ、と。対面すればきっと相手を殺してやりたくなるくらいの憎悪がたちどころに沸くものだ、と、実際それまで強い憎しみや恨みがあったわけなんですけれども、この瞬間に堆積した感情がふっと消えたように、なぜだかなにも沸かなくなって、なんだか悲しいのか悔しいのか怒りたいのかどうなのか、わからなくなってしまったのです。あの空虚は一体、何だったのだろう。それで、さっき言った再確認した、ということですが、ともかく彼女の反応を受け、確かに旦那と褥を共にしたのだという確実性が胸を打ち、こんな虚ろな心情を経て、且つ旦那の愛が少しでもこの女に向いてしまったのだという現実を受けてですね、これまでにふつふつと高まっていた、たぎる溶岩のような激烈な感情はいつの間にか、冷えてしまっていたのでした。さらに言うと、襲撃を行った自分に対しての、罪悪というか、先まであった良心がぶり返してきたのか、まるで私自身が大悪を背負った囚人なのではないかと、思ったほどです。

 ともかく私は、何であればその包丁で、女のことを刺してしまうかもしれないという、そんな不確定な怖さを胸にしてその場にいたわけですけれど、結局はそうした感情には至れず、却って心寂しい思いに苛み、息を吹き返した私の平常心が、この正しくない行動を非難しているような、そんな気持ちがカサを増してきて、愈々私は、心の内の獣が死んだことを感じたのです。

 急に復讐をするのがばからしくなったような、こんなことをしても事態は一考によくはならないと感じるような、そんな淡い絶望が身に染みてきて、でもこんなことをした手前だから、事の真相を聞かねばリスクを犯した意味がないと思い、軽い質問をいくらかしてみました。

 旦那のことはどう思ったか。

 「わからない。ただ、異性としての興味はあった」

 相手が妻帯者であったことは知っていただろう。そのことについて、何か思うところはなかったのか。

 「罪悪感はありました。まだみぬ、あの方のお嫁さんとはどういった方なのだろう、と。これが世間に明るみになったら、私は地獄を見ることになるのだろう、と。私にも、将来を誓った相手がいる。ちょっとその時、折り合いが悪くなっていた時だったのだけれども、きっとこれが理由ですべて破綻するものだとの覚悟もございました。しかし、そうしたスリルが、やはり毒であり、しかし媚毒。きっとあなたの夫も、そうした心地で、私と会っていたのだと思います」

 お前が、主に旦那を誘っていたのだろう。旦那は、嫌そうじゃなかったのか。

 「いえ、正直に言いますと、私から、というより、相手方の方がより多くを求めてきていました。向こうから、会いたいと。確かに、最初にちょっかいを掛けたのは私の方でしたが、そののちの関係というのは主に向こう側からのさそいでした。私は、もともとの彼氏との間の些事にやきもきとしていた時期だったから、彼の誘いは気分の転換であると思って乗っていた次第です」

 旦那のほうがお前を求めたというのか。

 「……それが、最も事実に近い認識だと思います」

 お前は、実際に旦那のことはどう思ったか。

 「……良い人だと。正直なところを言えば、暇つぶしのような、余興のような心持であったのに、この事実が明るみになる寸前までになると、自身の彼氏と天秤にかけていた自分がいた。……彼の愛とは、きっと魔性のものでしょう。人を盲目にする、そんな力があると今にして思います。私も、彼の沼にはまる手前までに陥っていたのです」

 私は最後に、こう言いました。

 「このことは内密にしろ。そうすれば、お前からもらう慰謝料の額だって引っさげてやる。私は旦那との幸せな家庭を取り戻したいだけだ。お前も、元のさやに戻ってせいぜい幸せにするといい。しかし二度も、同じ過ちを犯したならば、その時はきっとお前を刺しに来るぞ。必ず、根元まで突き立ててやる」

 そう脅すとメギツネは大粒の涙を流しながら

 「もう二度と変な気は起こしません。許してください」

 と言うので、私が腕の力を緩めると、メギツネは水を得た魚のようにしてそそくさと逃げ去り、今度こそ、暗闇の向こうへと完全に姿を消してしまいました。

 ……旦那からあのメギツネを誘ったというのは本当か? その点が、暗闇の中からふつふつと湧いてくるようでした。

 いや、あのメギツネが、己の保身のために嘘を吐いたのだと、その可能性がぬぐえない。情状酌量の余地を狙って、責任を転嫁した。その疑いはある。

 しかし、普通であればそこで、旦那の所為にするなと逆上し、もしや刃物を突き立てていたかもしれないのにかかわらず、だのに、そうした責任転嫁を疑う言質をもらってなお、私の感情は機微も揺れないのでございました。

 旦那が、あのメギツネを愛した? 褥の中で? 私というものがあるにも関わらず?

 後に残ったのは、夜風と、刃の銀の反射と、黄色いライトに照らされた、何かもやもやとしたものが結果としてぬぐい切れなくて、呆然と立ち尽くすしかなかった私だけでした。



 私がメギツネを襲撃したという情報が、巷にもれたのはそれから数週間ほどたったある日の事でした。

 復讐のために、妻が浮気相手を襲撃した、と。結構、巷の方では大きな噂話になったようです。

 私は、旦那に面罵を喰らいました。狂っている、なんてことをしているんだ、それはあまりにも理性的じゃないじゃないか、浮気に浮ついた僕がいえることじゃないけれども、人としてやってはいけないことをしたらおしまいだ、と。

 それまでは世間も私の方に同情の風を吹かせていましたけれども、この一件が発覚してから以降は、次なる火の根元は私に移ったように思えます。内容が内容なわけですので、まあ、暴行罪だの、殺人未遂だのと囁かれ、すっかりこっちの話題に矢面が変わってしまい、それまで味方面をしていた周りもまた私に背を向けることになったのでした。

 しかしこの一件のために一度だって裁判所からの出頭通知などのめんどくさい書類が届いたことはありませんでした。脅してやったメギツネが、おそらくは義理を通して被害届等々の提出を行わなかったのでしょう。

 さて、メギツネは私の襲撃を受けてすっかり鬱に陥り、婚約寸前までいっていた彼氏との間柄も破局し、会社も退職するという流れにまで行ったようでした。相応の末路、と言うと少し小気味よく聞こえるかもしれませんが、私の心中は曇り切ったままでした。

 悪役がひどい状況に陥って退場するというのは大変スカッとする事象なはずなのですけれども、どうにも心が晴れなかったのです。襲撃によって私も、修復しづらい傷が増えてしまったから。悪役を誅戮し、不安を消し去って元の安寧の日々に戻る。それが根本の目的だったのに、いざ事物が終わってみれば、得たのは何もない。メギツネも私も、双方、大切なものを失うことに終わりました。

 私はね、旦那との幸せな生活を取り戻したかっただけだった。少なくとも、少し前そうだったように、些細な幸せをかみしめて二人で生活したかっただけなのです。たった一度の、とるに足らぬ事件が為に、二人の関係性には深い深いクレバスが生じ、閉じがたくなった。いえ、文句を言わせていただくとするなら、大半はヤジを飛ばした外野の責任でもあるでしょう。だって私はあくまで旦那のことを許すことができていたのですから、その通り、当人同士の和解で決着できていればもはや大事にはならなかったのかもしれない。ところが、その和解の間に生じた小さな隙間から第三者の有象無象が割って入ってきて、必要以上に旦那を攻撃した。これにより旦那も私に対して控えめになった、もしここで控えめにならなかったなら、私ももう少し心は穏やかだったでしょう。襲撃を志すまではなかったかもしれない。

 ならば控えさせる心持にさせた周りだって、私と同じほどに同罪じゃないか。だのにいつまでたっても蚊帳の外でワイワイと騒いでいる。いつまでたっても、己らが加害者の一端であるとは露も思わない。

 大体、誰が一番憂き目を見たか。被害者の立場である私じゃないか。

 このメギツネに対しての清算だって、必要な事だった。なぜなら、こうして大事を見せてやらなければ、必ずあの女は旦那をとろうと画策する。しかも次には、きっとより確実な一手を持ってやってくるものだろう。いや、旦那とも限らない、きっと、他の人間の幸せを奪わんとするはずだ。そうした手癖を、アイツは持っていた。そんな恐ろしい未来の、堤防を私は築いたのだ。

 だのに、この正しさは旦那には受け入れてもらえなかった。私は異常者扱いにされ、更なる不和の要因にされてしまった。確かに大概乱暴な手だったかもしれませんが、それでも私は、自分にできうる必要な行動を、とっただけなのだと思っているのです。

 総ては、旦那との愛を表したかっただけだった。一重に、その為だけだった。

 深い亀裂は生じてしまいましたけれど、私はどうにかこうにか、この関係性を修復したいと願いました。

 しかし現実は私の願いとは裏腹に、二人どこまでもよそよそしく、夫婦の間合いに、とげがある様な、そんな感覚がありました。近づきたい私に対して、旦那は真っすぐピンと伸びた穂先を、対面上に張り巡らしている。例えるなら、ハリネズミのジレンマを体現したような、そんな距離感を強いられている気がする。そのようだから、夫婦として同居の営みをしていても、なんだか気を使わざるを得ないし、居心地のわるさも常に感じている。近づく隙を与えてくれないというような雰囲気。その状態が平行線のように続くものですから、いくら旦那が大好きな私でも、少しずつ、今の関係のまま現状維持できているだけでも、幸せなんじゃないかと、諦観が生じ始めていたのでした。



 旦那とのぎくしゃくとした生活を送っていた時、少しずつ、私は旦那の心理というものを読み解こうと努めていました。例の一件、私には釈然としないことがあったのです。

 メギツネを、誘ったとかいう文句。旦那には、私という愛すべき人がいて、同時に私にも旦那という愛すべき人がいる。相思相愛のこの間に、どうしてメギツネが入り込む隙間があったのだろう。私の考えでは、男性のそうした浮気というのは、先までに言ったとおり、そのほとんどが女性側の毒気にさらされて抱かざるを得なくなったからだと考えていました。己には、愛すべき妻がある。しかしそれでも、本能が、女性の醸す性的な香りが、そうした理性を溶かして終いに不義理を犯す。これだと思っていたために、旦那がメギツネを誘った、という道理に反した事実が、どうにも喉元に引っ掛かっている。だって、そんなはずないだろう。それでは、旦那の愛が、メギツネに一瞬でも向いたという事じゃないか。理性を溶かされた獣となったならまだいざ知らず、誘った、というのは、その女を抱きたいと、そう願ったがための事じゃないか。つまりそれは、一瞬でも、旦那の愛が、メギツネに向いたということになるじゃないか。しかし旦那の愛の方向とは、常に、私に向いているべきだろう。逸れるはずがない。ただ、私の考える、男性と女性の倫理感に則って言うならば。



 そんな折、ふと私は、気づいたことがあるのです。不倫を題材にした昼ドラマを見ていた時分でした。題材は、すでに妻を持った男性が、小悪魔的な女性にそそのかされて浮つき、本妻と妾、この関係に良心のせめぎあいでうろんこするという、些か、不倫を肯定めいたギャグ調の作品だったと思います。その中では、主人公の男性が、この小悪魔的な女性に対して鼻の下を伸ばして接する場面が幾度もある。その面、というのは、まさに理性を溶かされて、人間性を失った、私が仮定していた男性像そっくりの見た目です。それ見ろ、ああなってしまっては、理性はもはや何の役にも立たない。流れに流されて、己の意思とは関係なく身体を動かすぞ。これだから、ハニートラップは恐ろしい。

 そう思っていた矢先、しかし男性の心境には、私の想定しえない何かが隠されていた。この小悪魔的な女性に愛でられるとき、身体が触れ合うとき、あわや同衾の手前までに行ったとき、その時々に、悩めかしさ、罪悪、本妻への恐怖、そうした感情の動き、その中で、やおらに大きくなる、小悪魔的な女性への関心、興味、そして、好意。それらが膨らんだ結果、男性は、愈々我慢の限界に達してその女性を抱きすくめる。この流れに、私は違和感を感じたのです。

 最初の、男性の持っていた本妻への罪悪や悔恨はわかる。これから生じるであろう不義理を察して、そう思い詰めてしまったのだろう。しかしそこからだ、なぜ、この相手に対して好意というものが芽生えたのか。すでに、本妻への愛は決っているのだろう? どうしてそこで、他の女への目移りが発生する? 好意が発生するというのは、つまるところ愛が生まれたからじゃないか。いつの日か、少年と私が相思の関係になったときよろしく、好意が生まれ、そこに愛が生じる。この主人公は、小悪魔的な女性に対して好意が生じた。生じた故にたまらなく感じ、抱きしめた。この意識的な変化は、まさに愛が生まれたに違いないじゃないか。そしてその変化が生まれるということは、理性も息をしているという事。

 理性は死なず、しかし他の女を愛する?

 不倫、浮気とは、理性は死ぬがゆえに生じるものじゃないのか?

 意識的に、他の女を愛する?

 全体、不倫とはどんな姿をしているのだ?



 不倫、恋人を有するのに、他の女性に手を出す。その行為は、私は勝手に、ハニートラップに引っ掛かってしまっただけだと、そう思い込んでいました。男性の、男性たる、男性故の性欲の強さに付け込まれ、理性を溶かされるために抱かざるを得ない状況にされるものだと、そう思っていたのです。

 しかし、実態は違う。私は男性の不倫行為というのはあくまで受動的な本質があると一貫してみていました。ここまでで何度も言っておりますけれども、理性というプロテクターを破ってしまう女性の破滅性に当てられて、見た目は確かに男が獣のごとくに女性を抱くように見えているけれども、しかしそのあらゆる事柄は女性がわざとつけ入る隙を見せてうまい事被害者の立ち位置に座してことに及んでいるのだと思っていました。つまるところ男性の加害性意識と理性に関りはなく、事に及ぶその一点では男性はひとつの人形で、とうの意識は女性にすべてを握られているのだと、溶けた理性では正常な判断は行えず、それ故に女性の掌で転がされるような形で、事に乗じるのだと思っていたのです。

 しかし、違う。男性も、この行為においては、かなり能動的に動くこともあるのだと。相手側の愛、かりそめじみた恋情に当てられて、この女性は己のことが好きではないか。はたまた、己はこの女のことを好んでいるのではないか。抱いてみれるなら抱いてみたい。そうした錯覚にまみえれば、今宵ばかりは、己の心はこの女に拠る。果たして、同衾の儀に興じれば、慈しみを帯びた掌で愛撫し、慈愛を以て口を交わし、ともに喜ばしい情事にふける。

 この行為のそれは、実に事務的ではなく、よほど情熱的である。本来の、愛を育み、子を為すその行為を、実妻でない相手に対して行う。

 次いで、この同衾を嗜むまでの感情の動き、これもまた、夫婦が営むべき愛に似て、ぜひともこの女性を抱いてみたい、という、まさに、意識有し理性に沿うままに抱くという事。

 それまでは男性側こそ為す術なく底なし沼に入ったよろしくずぶずぶと、己の意識に反して沈み込んでいくものが浮気である、不義理性交であると考えていた私にとっては、そうした自分の中の常識というものをメタ打ちに崩した発見であったと思います。つまり旦那も、己の意思で、理性に沿って、あのメギツネを抱いた。つまりハニートラップだとか、甘い話ではない。自身の意思で抱いたその都合上、私の愛というのは、あのメギツネに一度大敗しているということである。私の愛を、あのメギツネが一度塗り替えた。だから旦那は一度限りじゃあるけれども愛の矛先を違えてしまった。この法則にこそ、私は、浮気の何たるかを感じたのです。



 私は、貴方に熱烈に愛のことを説きましたね。人を変える力が愛にはある。これに間違いはない、ということを、強く断定しました。そのことについて訂正を加える気はありません。むしろ、この一件がより正しさを示したといってもいいでしょう。旦那の愛を自分の恣にしたものがいる。あのメギツネが、愛によって旦那の意識を私から自分の方へそらした。つまり愛とは、やはりそうした力がある。

 上書き。愛による、対象への上書き。これが、メギツネによって行われた。メギツネは、旦那の根本の方までは冒せなかったようだけれど、しかしその実、私にとっての破滅は限りなく近いものだったでしょう。なぜならその当時、旦那の愛はメギツネに向いていた。私というのは、その点でいうともはやメギツネより軽んじられていた存在でしかなかったわけですから。

 すでに起きてしまった事例はさておいて、以降、このようなことが起きないように、事前に察するようにするか、あるいは対策を立てねばならないと思いました。

 旦那に、不倫の意思を持たせてはダメだ。また、そうした性の悪い女が近づくのもためにはならない。それらの、根絶が必要である。そう思い、その根絶に至るための様々な思考を巡らせた結果、ただ一つ、どうしようもない問題にぶつかったのです。それは、旦那と私の、決定的な環境の違いから生じるものでした。

 旦那と私の決定的な違い。

 外の世界だ。



 私は、旦那と結婚してそれから、ずっと専業主婦を行っていました。旦那の収益で家庭を賄えるという点、その代わり、家事の一切を行ってくれるとすごくうれしい、という旦那の要望を受けた点。加えて私があまり外出を好まない点も相まって、日がな家の中で過ごすという習慣が出来上がっていました。買い物や、必要な提出書類を出しに、役所へ行く、ということはあっても、好き好んで散歩に行くこともないし、まして旅行や、景色を見に外に出るといったこともしませんでした。

 外を歩く、というのは辛うじて克服できますけれども、外をほっつき歩いたがために生じる、いわゆる外付き合いが、まだるっこくて嫌なのです。二度ほど顔を見合わせれば、知り合いでしょう。五度面を突き合わせば、それは友達です。十回も行き先を同じくすれば、それはもう親友。ああ、面倒くさい。この、曖昧な基準。人と人との、微妙な関係、距離感。私は大嫌いでした。外に出て、顔を知ったものがいれば、頭を下げるべきか、声を掛けるべきか、何かアクションを暗に強制させられる。

 ですが、声をかける、頭を下げる、そうして帰ってくる返答が、自分の思っていたものとは違った場合、これはこれで癪に障る。目に見えない、人づきあいゲージみたいなものがあって、これは見えないくせに、しかし、関係上必須で、それこそ真夜中の海に素潜りして貝を掘り当てるような、難行をこなさなくちゃならない。

 男性の場合は、打ち解けるのが早いように見えますけれども、主婦、特に、女性のそういう関係はもっと複雑だと思います。先達学生時代の話をちょっとしましたけれども、それから何にも変わっちゃいない。いや、学生時代と比べて家庭内の話が大々的に上がるだけ、今の方がずっと質が悪く感じます。うわべじゃあ、世間体の話をつらつらとしているだけに見せてるが、内々では探り合い。また別の誰かとお茶をしながら、つまみになる話をこそこそと嗅ぎ回っている。どころか、権力のある女に取り入られるために、自ら走狗となって斥候業をこなす小物もいれば、そうした小物は、いずれ打ち捨てられ、自らがひた隠してきた隠匿を白日の下にさらされて、自分がグループから外されたのだと惨めに悲しむ。狡兎死して走狗煮らる、というべきか、外面を見る限り仲良く手を組んでいるように見せて、しかしその内側は、戦国の世もかくやと言わんばかりの心理戦、情報戦がある。学校のころ、ああまで嫌っていた、カースト制度の世間版でしょうか。何であれ私たちは、嫌が応にも、いくつになっても、この制度に付き合わなきゃいけないようです。



 本当に面倒くさい。あの表裏の差というのが、私も女性なんですけれど本当にダメで、その風を感じるといたたまれなくなるし、何より真っ先に離れたくなる。しかし離れると離れるで、根も葉もないうわさをたてられたり、総好かんを食らって生活が劇的にしにくくなる。とくに、私は浮気をされた立場の人間でしょう。また私自身も罪をかぶった人間です。これは、首筋にお肉を何重にぶら下げたネズミが、景観のよい草原で昼寝をしているようなもので、空を飛ぶ猛禽や地を這う爬虫の、格好の餌となるわけです。つまり、そういった肉に飢えた鼻のきく動物が私を見かけたなら、必ず、心配しているという体を装って近づいてくるわけでございます。 往々にして、そうした主婦共は半ば強引に引き留めてくる。いい人である面をしたうえで、です。外の面のみ味方の風を吹かせて、内側は言質を取る準備しかしていない。放っておけば話のネタが出てくるひょうたんか何かとしかこちらを見ていないものでしょう。

 捕まればただじゃすまない。私の経験は、井戸端会議のメインディッシュに上げられて、骨の髄までしゃぶりつくされるでしょう。そもろん、浮気されたという一件は、私としてはかなり傷心したものですから、話のタネにされたくないものです。必ずその場で旦那の悪口は言われるだろうし、そうして、言ったこともないはずの真偽不明の情報が、まるで筋があるかのようにまことしやかに、尾ひれをつけられて話されることでしょう。根も葉もない話でも、一度口に出されて、しかもそれが誰かの耳に入ると、もはや取り返しがつかない。ただでさえもとからそういった付き合いものに弱い上、自己防衛の観念のために外出を控えるといった選択をしたおかげで、愈々私は外の世界に何の未練も感じなくなったのです。

 どころか、ちょっと外に野暮用が生じて出ていくと、どこかで私の悪口をささやかれている気がしてくる。井戸端会議をしている他所の奥さんがふふと笑うと、おや私は、何かおかしな格好でもしていたのかしら、とか、どうだろう、いでたちを笑われたのかなとか、逐一、己が笑いだねにされているような錯覚にまみえ、いてもたってもいられなくなるのでした。

 この心情をのみ聞くと、気の違えた人間であると思われるかもしれませんが、とかく私は、大人になってから、加えてあの悲劇の一件を経て益々世の中の平常から隔絶されているんじゃないかしらと考えるようになって、とうとうふさぎ込み友人という友人をつくるでもなくかといって相談できる相手もいるわけもなく、そうなると外の世界というのは愈々私にとって要件が無くなってくるわけですから、外界に興味を失ってしまっていたのです。



 何が言いたいかというと、世間知らず。もっと言えば、私は、三十坪程度の世界でしか生きていなかったということです。

 外界を気にしたためしがなかった。

 蝉に冬を教えても理解されません。魚に大空のことを語っても首をかしげる。馬に念仏を説いてもありがたさがわからず、豚に大ぶりの真珠を見せても歯が立たんと知ればそっぽを向く。世にはびこる価値や真実、そうしたものは、わかろうとするものにしか効力を発揮しません。真珠も念仏も冬の寒さも空の広さも、それを知る者にしか説得力を持たず、考える余地すら与えない。

 私はどうか。

 私も深くは知らなかったのです。家の範囲以外の、広大な世界のことを。旦那が今日日練り歩いてきたであろう、あまりにも広すぎる世界のことを。

 旦那は、仕事上常日頃から外界の相手をしている。詰まるところ、極論を言えば、私の愛一つに対し、彼が相対する愛の数というのは全世界三十億の愛とまみえる可能性がある。

 私は、懊殺されそうでした。なぜなら、相手はメギツネだけの話じゃなかった。これから先、旦那の色香に魅せられた女が、違うメスが、これに寄ってくるかもしれない。するとまた、私はこのようにして飢え苦しまなければならないのか。私も、旦那からすれば、一個のメスに違いはありません。で、世の中にはそうしたメスが三十億も存在する。私が、いかほどに旦那に愛を与えてみても、もしその三十億の内の一つが、私の送る愛よりはるかに膨大な愛を送る存在であったとするならば、旦那はそちらに行くだろう。なぜなら、愛が人を変えるから。私色の愛に染め上げたとしても、それをすら塗り替えんばかりの愛を持つ女が目の前に現れたなら、きっと、今様に、同じことが繰り返されてしまうだろう。そして、そんな可能性を持つ女が、一体世の中に何人いる? 何十、何千、何万。しかもその素質とは決って目に移らない。一日何人の女とすれ違う? その中に、幾人ほどがそうした害悪的な素質を持った人間であるだろう。そうして考えていくと、今、旦那が亀裂の生じた家庭にちゃんと帰ってくることそれ自体が奇跡に近く、また、この軌跡に外れてしまえば、その日から帰ってこなくなるのではないかという危惧が生じる具合となりました。

 考えろ、世の中は邪淫の世界だ。ありとあらゆる人間がいて、どれもこれもが愛というものを持っている。それは刃物だ。つぎこそ、どこから旦那めがけてそれを投げつけてくる輩がいるかわからない。今日か、明日か。いやさ、これ以降、総ての日、それは死ぬまで、要は生き続けるだけその刃にさらされ続けるだろう。その間、私は果たして、旦那を私の手中から守り抜くことができるのだろうか。片時も緩まず、そうした気配を察することができるのだろうか。メギツネの時だってぎりぎり気づいたのだ。衣服から、他所の匂いがしなかったなら、あるいは同僚とやらが告発しなんだら、いまでも不倫の関係は続いているかもしれない。いや、それのみじゃなく、例えば略奪愛。もし私の手中から旦那がこぼれることがあったとするなら、どうしよう。今様の状況が続き、あっさりと別れることになってしまいやしないだろうか。ああ、恐ろしい。世はまさに邪淫の世界だ。将来が、未来が、明日が、数分後が、総てがすべて恐ろしい。



 恐怖。まさに、それ以外に形容しようのない感情。世のすべてが地雷原。壁に床に空に海に風すらもが旦那への視線の波に感じてくる。邪な、波。私の幸せを、これ以上にけがしてやるという、暴力的なまでの悪意。気にしすぎ、気を病みすぎという人もいるでしょう、貴方だって、そう思うでしょう。しかし、ゼロじゃない。誰かれもが旦那に興味が一切ないというのなら私もやむべきことはない。しかし、旦那を気にしている奴がいるという『可能性』が、私を気に病ませるのだ。あるだけでだめなのだ、ゼロじゃないといけない。ゼロパーセントで、いかなる人間ももはや旦那に興味はないのだ私以外興味が一切ないのだというところまで断定せられないともはや私は落ち着くことができなくなったのです。そうでなくては、いつ、また邪淫の手がよし寄せて旦那に当てられるかわからない。そうなっては、今の状況では、もうおしまいだ。私の愛が瓦解し、旦那がただ奪われる。それだけはだめだ、死守しなくては!



 一つだけ、方法がありました。こうした世界で、旦那の尊厳を守る方法、同時に、私の愛のみを貫ける方法。誰にも旦那を渡さない、最大の方法が。しかしその一手によって、私は愈々大罪の身分を被ることを免れなくなる。もしやすれば、お天道様を二度と拝めなくなるんじゃあないかしら。しかし、そういった大罪を犯さねば、きっと私達二人は報われない。救われない。愛しあえない。ああそうだ、私にはすでに、罪をかぶる覚悟がすでにできていたじゃないか。今にして一つや二つ、罪が増えたところで、何が変わる? そんな罪なんかよりよっぽど、私達の愛の方が天秤に差し込めば絶対に重いはずだ。何をいまさらためらう。私の愛は変わらない。たとえどうなっても旦那のみを愛しぬいてやる。例え私が世界中から嫌われたとしても、それでも良い。旦那と私、二人の幸せが護れるなら、本望だ。この愛は、関係は、永遠に私達だけのもの。きっとあなたが、いかなる姿に変わろうとも、私の愛というのは、日本国の国歌のように永遠であり続ける。旦那が、永遠に私だけのものになる。



 そう、総ては、旦那をこの世の中のありとあらゆる邪悪から守るため。

 動機はそれで十分でしたとも。

 よく考え、さらには、私にとって最大の答えだったと思います。

 人にこの手で危害を加えたのは、これが最初で、最後です。



 犯行の仕方とか、もういちいち言う必要はないでしょう? ひねりのない方法でしたし、おそらくは、現場検証で立証される、殺害の仕方が、そのままの答えだと思います。それはもう、技術のある日本国の検察官の仕事ですから、疑う余地はない。

私は、こういうと何ですけれども、私が行ったことに一種の誇りを感じています。ですから、証拠の隠滅だとか、アリバイの証明だとか、そうした自身の救済は一切望みません。私がやりました。そう、真っ向から裁きを受けようと思っています。

 ええ、勿論。世間は私のことを許しはしないでしょう。こういうのを、サイコパスと呼ぶのでしたっけ。精神異常者だとか、本当は旦那のことが嫌いだったのだろうとか、きっと様々なことを言われてしまうのだと思います。それこそ、いつか旦那がそうたたかれていたように。心無い言葉を日本国津々浦々でいわれ、そうした情報は、ネットを通して私の本名とともに永遠に保存されるでしょう。

 くだらない。外野に、私の気持ちがわかるものか。浅はかな正義心ばかりに、知った気になって好き放題に言う。私の心を、奴ら偽善者がわかるはずないじゃないですか。本当に人を愛したこともない、仮面をかぶり続け、本心を殺し続け、本当の心を曝せる場所がネットの中にしかないような奴らに、どうして私のこの熱意を貶すことができるのか。

 私はやったんだ。真実の愛を貫くために凄絶な修羅の道を選んだ。最後まで、自分の、彼を愛する心というのを徹頭徹尾に貫くために、退路を断った。これほどのことができるか。できるものか。口先だけの有象無象共め。好きな人のために狂うこともできない臆病共が。奴らの覚悟なんて、そんなもんです。

 それにね、刑事さん。私は、自身の手で、旦那を殺害してしまったこと、後悔はないと考えています。

 だって悔しいじゃないですか。人に旦那を盗られる、というのもですがそれの他に老衰、癌。健康被害のみならず、例えば、交通事故とか、通り魔とか。世の中には、数えきれないほどの事件事故が起こっております。この治安が良く平和に満ち満ちた日本国ですら、交通事故というどうしようもないもので毎年数千人が亡くなっています。ただ、運よく生き残っているだけで、この先のおよそ五十年間のどこかで、これに選ばれないとも限らない。私含めて、明日死なないとは限らない。逆に明日も生きているということを前提にして日々を暮らしている、今の方が異常なんです。誰も死ぬことを考えて生きていない。哲学者は日ごろから考えているかもしれませんが、哲学者の場合はもっと崇高な、死ぬという現実的問題を、そのための幸福であるとか秤にかけていたり、ちょっとしゃれ込んだ考えを混じらせてらっしゃるから、これも私のいう死ぬことを考えるとは違う、系統の違うものでしょう。私は、もっと庶民的に、動物的に、そして諦観を以て、死ぬというものを考えながら生きていました。誰よりも、まじめに生きていたのです。

 これは博識な旦那から教えてもらった句ですけど、明日ありと 思う心の 仇桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは という、有名な僧侶の言葉があるそうですね。明日があるとは言っても、夜中に嵐が一陣も吹けば桜は散ります。この嵐が吹かぬとどうして言い切れるのか。言い切れぬ、それだから、今できることは先延ばしせずにやっておいた方が、面倒くさいことかもしれないけれども、却って後悔はないんだよと、旦那は言っておりました。

 すると私だって、納得のいかないもので旦那を失うくらいなら、私がこの手で、殺して差し上げたほうが、後悔はないじゃあないですか。私はたとえお墓の中にいる旦那のことを、変わらず愛し続ける自信がありますし、確かに、自分の手で人を殺すというのは怖いことかもしれませんが、それ以上に、何か回避できないイベントの所為で彼を永遠に失うのなら、これほど悔しいことはない。私にとって、この世に生きる意味というのは、それこそずっと前に言った通り、旦那の伴侶になれたこと、こうして出会えたことであると思っていますので、その幸せが、突如として亡くなったなら、私はもう、きっと、いえ、必ず、その日のうちに、自害するんだと思ってます。それくらい、悲しい事なんです。

 だから、殺した。その点も十分加味して。そんな不安を感じて生きてくくらいなら、払拭しておいた方がマシでしょう? 人ってのは、未来に対する暗闇におびえるものなんですから。何かに掠め取られて消沈するくらいなら、最初からその憂いを潰しておく。それは実に合理的な事だと思いませんか?

 初めて、です。勿論。私はこれまで虫も殺せない娘でしたから。実際、そう心に覚悟を決めて行動に移した時には、それこそ、死んでしまうんじゃないかと思うくらい、ドキドキしました。いつ以来かな。私が旦那と初めて通じた時くらいの、恐怖、不安、動機、手の震え、連関して様々なものを想起しました。

 でもね、それと同時に嬉しかったんですよ。今でも覚えていますけど、私を初めて抱いてくれた夜にね、旦那は、誰にも見せたことのない顔で、私を見つめてくれたんです。必死に動いて、そうしてとても甘い声で、「愛している」と、確かな重みのある感じでささやいてくれました。

 この手で旦那を死なせる時もそうだった。

誰にも見せたことがないような表情を浮かべて、私を睨みつけた。かすれた声で、「僕だって、お前を、愛していたんだ」と言ってくれた。

 たまらなかった。

 表情が、それに、声もが。

 こと切れた彼を抱きしめてですね、深い幸福を味わった後、冷たくなり始めたことを感じて、すぐに、貴方たちに電話を差し上げました。

 本当は彼の後を追いかける手もあったんですけど、けれど、あれでしょう? 世間一般でいうと、そうした場合、自主をするか、逃げるかの二択なのでしょう? 逃げるというのは疲れるし、それであれば、自首しようと思ったんです。後を追う、というのも、死ぬのはさすがに怖かったから。

 旦那との思い出が消えてしまう。それだけは避けたかった。せっかく旦那が、今際の際に大輪の花を咲かせてくれた。これを手放すのが実に惜しい。旦那が最期に見せてくれたあの光景の、余韻をもっとかみしめていたかったんです。

 ねえ、刑事さん? 

 私のことを、蔑みたく思っているでしょう? 胸糞悪くも思ってるはずです。でもね、矢張り私は、どうしようもなく、ソレこそ今でもこよなく、旦那のことを愛しています。言ってしまえば、貴方がご家族を想う、その想いよりもずっとずっと愛している。輪廻というものが本当にこの世にあるとするなら、もう一度、彼の近くで生まれ直したい。例え彼が、私に気づかなくともよいのです。何であれば私は今生の罪を裁かれ、来世が米粒のような虫であっても、よいのです。私は、彼の元気な姿を見られるなら、それでいい。それだけで、私は限りなく幸福なのです。それだけで、十分なのです。



 この激烈な感情を愛情と呼ばずに、何と呼ぶのでしょう?


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

墓地 三石 一枚 @hitohira_sangok

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ