第4話

 次の日、僕は緊張で目を覚ました。

 こんなに冴えた目で学校に行くのは初めてだ。


 教室の目の前で、僕の足は徐々にゆっくりになっていた。

 僕は初めて、自分がこんなにも恐怖に弱いことを知った。

 今になって、本当に自分に興味がなかったのだと思い知る。


 ただ、一回、言葉をかけるだけなのに。

 心臓が跳ねて落ち着かない。

 どうして、走り出す勢いで進めるようになった一歩が、踏み出せないのだろう。

 どうして、どうして、僕はこんなにも―—!



 ──「おはよう。今日も頑張ろうね」



 僕の頭の中に、彼女の声がこだました。

 荒んだ呼吸が、徐々に正常に戻っていく。

 緊張した筋肉がほぐれていく。


 そうだ。そうやって、自然に言えばいい。


 頑張れ、僕。


 深呼吸して、取り入れるんだ。

 彼女を思い出して、僕の声に、僕の体に。

 昔の彼女は僕の中で、まだ、生きているから──。


「浅野さん!」


 僕は彼女の名前を叫ぶと同時に、ずっと近付けずにいた彼女の机に駆け寄っていた。

 彼女は弱々しく顔を上げると、僕の顔を見るや否や、俯いた。

「見ないで……。もう、昔の私とは違う」


 言葉が出なかった。

 こんな彼女を、僕はずっと放っていたなんて。


「浅野さん、僕は味方だから……‼」


 気付けば自分と彼女の手を結び付けて、走っていた。

 廊下に飛び出ると、登校ラッシュを逆走するように、頭も下げず先輩達を体当たりで突き抜ける。



 人気ひとけのない裏庭に入った所で、僕は彼女の手を離した。

 暴れる心臓を掴むようにして胸に手を当てる。

 疲れを前面に出す僕の少し後ろで、彼女はやはり俯いていた。

「浅野さん……」

 瞳さえも隠す伸び切った前髪で表情はわからないが、息が上がっている様子は見えなかった。


「疲れてないんですか?」


 僕の問いかけに、彼女は口を一度開いただけだった。

 しかし、その数秒後、彼女の頬を伝って一筋の水滴が流れた。


「で、ですよね。疲れましたよね」


 人形のような彼女を見て、僕は心を決めた。

 今彼女を救えるのは、目の前にいる僕だけだ。

 一歩、また一歩、彼女に触れられる距離まで近づく。


 僕がその顔に手を伸ばしても、彼女は微動だにしなかった。


 僕は彼女の前髪を、人差し指と中指で挟み込むようにして、そっとすくった。




「──泣かないで下さい」




 彼女は僕の目をようやく見た。

 かつて僕の世界を変え、僕の見るものを輝かせ、今も尚、僕の中に在り続けている瞳。


「遅くなって、ごめんなさい」


 すくった前髪を離そうとする僕の手を、幼子が母の服の裾を掴むように、彼女は強く握った。


「何で、わかったの……」


 彼女は遂に、肩を大きく弾ませて泣き始めた。


「気付かなくていいのに……、こんな風に、しなくていいのに……」

「僕、浅野さんに助けられました」

「でも、あの頃の私はもういないの……」


 彼女はなんてことを言うんだろうか。

 出来ることなら、僕の頭の中の彼女を彼女に見せてやりたい。

 あの日の彼女を思い出すことで、一体どれだけ楽しいと思える瞬間を掴み取れたか。



 彼女に、どれだけ救われたか。



「ねえ、ここまで来た用は何……?」


 僕は、笑った。

 「咲いた」という表現がよく似合う、朗らかな笑顔。

 ありがとう、浅野さん。僕を、こんな風に笑えるようにしてくれて。

 だから、今度は僕から言うよ。


「今日は、挨拶強化週間じゃないですけど」


 たった一言でも、人の心を救うことが出来るって、君が教えてくれたから。


「——おはようございます、浅野さん」

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あさのほし サぁモンスター @sa-monnstar-

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