猛暑日でよかった
アズマ60
猛暑日でよかった
週末の朝、エアコンが死んだ。
うちのエアコン太郎(CVイメージ興津弘幸)は去年からもう何度も「オレはもうだめだ」と言っていた。出会った頃から不治の瀕死だったのだ。ことあるごとに透明な血を吐いては「オレはもう死ぬ、代わりをみつけてくれ」と遺言した。あたしは「バッカやろうおまえが死ぬわけがねぇ」(CVイメージ小俣武史)と宥めたおし、友情パワーでどうにか彼を騙しつづけた。でもあたしもわかっていた。エアコンはもう死んでいた。
リモコンの電源スイッチを押しても息をしなくなった。
そういうこともあるよなと思って「フェーズ2に移行する」と胸に呟き、一人暮らしの一脚しか無い椅子兼脚立に乗っかって、エアコン本体のコンセントにフーフーと息を吹きかけてみたり、本体のカパカパしているところをこじあけてふわっとフィルター掃除のような真似事をしてみた。だめだった。
じりじりと気温が上がってくる。
ぼろ雑巾を絞ったみたいに汗が噴き出す。
猛暑があたしを殺しにかかっているのだろう。
あれを思いだした。宇宙船が宇宙人のような怖いやつに襲われ、仲間はみんな死んでしまい、主人公がどうにかひとり生き残って操縦室に立て籠もる。だが船内の酸素がもう足りない、ひとつしかない脱出ポッドはリモート機能が故障してる、手動で動かすには敵の巣窟を突破しなければ……。
「フェーズ3」
あたしは財布とスマホとスマホの充電コードを握りしめて部屋を出た。
バターンとドアを閉めて背中でもたれハアハアと吐息し、急にハッとして震える指先で鍵をかけながら
「大丈夫……もう大丈夫、逃げ切れたわ……!」
などと呟いていたら視線を感じた。
顔を上げる。頭を動かす。
そこにいたのは隣人だった。
目が合った。
「あ」
同じタイミングで隣の部屋から出てきたらしい。
ぼさっとした感じの男でたぶんあたしと同世代だと思う。大陸的な濃い顔立ちと背中まで垂らしたぐしゃぐしゃの黒髪で、よれよれの半袖シャツにデニムで国籍はわからない。隣に住んでいるのが男性だというのは知っていたけれど、こうしてまともに顔を合わせるのは初めてだった。
「何かあったんですか」
コロコロした声で訊かれた。
日本語だった。
あたしは彼を見た目で判断していた。彼に吹く大陸の風に惑わされていた。外国語で話しかけられるのではと思っていた。ニイハオと挨拶を返すつもりだったから混乱した。
「いや、あの、キャーッエイリアンがーッていうかエアコンガーッみたいな、エヘヘッ」
むちゃくちゃな返答をしてしまった自覚はある。
この猛烈スパイクをどうレシーブしてくれるのか。自分がぶっこんだくせに罪悪感を越してちょっと興味が湧く。
でも隣室の男は特に表情を変えず
「ああ、今日も暑いですものね」
と言った。
やけに滑舌のよい、アナウンサーのような優しい発音だった。そんなふうに淡々と脳味噌のご病気を認定されると心が痛む。
あたしはマンションの外に出るのだ。
彼もおそらく外出するのだ。
そしてここは七階だった。エレベーターに乗らねばならない。非常階段でもいいけどこの猛暑じゃ辛すぎる。
ふたりでエレベーターに乗り込んだときも、エレベーターが何の支障もなく一階に降りている間も、あたしたちは無言だった。
エレベーターの扉が開いたらまた熱風に晒される。
堪えきれなくなったあたしが、
「あのう、さっきのあたしのあれは、エイリアン、じゃなくて!」
なんてフランクに話しかけたら彼はふっと笑った。
「意味は通じたから大丈夫です。えいりあんじゃなくてエアコンですよね。air conditioner。おれは英語と中国語とスペイン語だったら少しわかります、何かあれば相談に乗りますよ」
そう言って、ちらりと会釈して駐輪場に向かい、一番手前に停まっていた鉄屑のような何かに跨がるとスーイと行ってしまった。いやあたしガチガチの日本人ですけども。
あんたのほうこそ謎の華流男じゃなかったんかい。
*
妹が住んでいる町は昭和オタクの臭いがする。
灼熱地獄のなか二十分歩いて昇天しそうだった。その先にひろがる古い住宅地のドン詰まりに長方形の古民家がある。古き良きガラガラのガラス扉をガラガラと開けると昭和の旅館っぽい三和土だ。そこで「ごめんください」と挨拶したら大家のババアが奥から「はーいどうぞぉ」と返事する。その許しを得てから花柄スリッパに履き替えて廊下に上がり、ツルツルに黒光りした急階段を上がって二階に行くと、プライバシーもセキュリティもクソもない引き戸の扉がみっつ左右に並んでいる。その一号室の四畳半が妹の居室だった。この六十年代レトロな下宿形態について、妹はトキワ荘リスペクトのほっこりシェアハウスなどと供述しており。
日曜の午前だから妹は部屋にいた。
あたしは舌打ちした。不在だったら勝手に昼寝するつもりだった。
水色のブラトップに同じ色のパンツという短距離走選手のような夏仕様でくつろいでいた妹は、あたしの顔をみて唇を尖らせると、いきなり「金なら貸さないよ」と言った。
フワーオ!
鋭すぎ晋作かな!
「エアコン壊れたからしばらく同居したいんだけど、」
「よせ姉者。ここではホモサピエンスの言葉で話せ」
「話してるよ。荷物は明日持ってくるとりあえず涼ませて。暑いの」
「エアコン壊れたんなら修理してもらいなよ」
「だめ。もう死んでる。彼はね……円環の理に導かれて逝ってしまったのよ……」
「じゃ買い換えな」
「ノーマネー、おちんぎんノーノー、おさいふの残額ナッシンね」
「ボーナスは? 夏のボーナスは?」
「ボー……ナス……? いったいそれはどんな上級スキルですの……?」
あたしがはわわと動揺しながら口の前にゲンコツふたつを並べると、妹は鼻で笑ってあたしの腕をひっぱたいた。
「何に使ったの?」
「実はね、今回もまた懲りずに推しの暗黒虚無舞台に通いまくって脳髄やられて全部つかった。夏のボーナス全額きっちりカード払いで。でも安心して、これでクレカのポイントがまた溜まるから長期的視野でみれば実質タダ」
「まあリボ払いにしなかった点だけ褒めてやるわ」
あの件についてはもう水に流して欲しいんだよ。
三年前にひょんなことからリボ地獄に陥ったあたしの窮状を見抜き救済してくれたのは妹だった。そのときにあたしは「もう二度とみいちゃんにご迷惑はかけません」と念書をしたため血判を押したのだった。さらに感極まっちゃって、「ヤクザなら指を詰める場面だから」とまな板に指を置いて包丁で落とそうとしたんだけど妹が「まやちゃんはヤクザちゃうでしょ」と冷静に正論を述べてみごと落着したのだ。
そのときに妹は、まやちゃんみたいなバカな姉貴は宇宙唯一無二だ、愛してる、と言ってさめざめ泣いた。あたしは褒められてるのは貶されてるのかわからなくなったけど、ここは妹の名を呼んで誠意をみせるしかないと思った。
「週が明けたらエアコンを買うから、とりあえずあたしを避難させて欲しいんだ。みいちゃん大好き。愛してるからあんたにしか頼めないよ」
あたしが声を改めて嘆願すると、妹はいきなりふわっと頬を桜色に染めた。
「えっ……そんな真面目に、初めて……まやちゃん……」
それで両目を閉じ、背伸びして、あたしに向かってちょこんと唇を突き出した。
アホな顔で熟考する女だ。
「ねえ? いいの? いいんでしょ?」
イラッときたあたしが返事を促すと、妹は両目を開け、ブラトップの裾をもじもじといじりながら小声で言う。
「大家さんにぃ怒られちゃうからぁほんとに来週までだよぉ。ちょっと部屋の掃除してベッドの敷布団を干したりするから外で待っててぇ……」
「いやいや外は暑いから。灼熱で死ぬから普通に」
「じゃコンビニで涼んでて。店内でコーヒーでも飲んでなよ、部屋の掃除が終わったら迎えに行くから」
「いいけど」
あたしは妹に右の手のひらを差し出す。
妹はきょとんとこくびを傾げ、白く柔らかい手でそっとあたしの手を握った。アイドルみたいに両手で握った。
「わたし、まやちゃんの手、細くて長くてエロくて好」
「ごめん握手じゃなくてお金ほしいんだけど。コンビニでコーヒー飲むから。あんたがコンビニに行けっていうんだからあんたがお金だすのが当然じゃない?」
妹がいきなり般若みたいな顔になって、死ね死ね団のテーマを声高らかに歌いあげながらあたしの手に百円玉を叩きつけた。気分屋か。メンタルの上昇下降の幅がやばくないか。いやほんと意味がわかんないんだけど。
蝉の声が聞こえないのだ。
今夏の蝉は少ない。それには理由があって、あまりにも暑すぎるから蝉も参っているらしい。それから蚊も少ない。同じ理由だ。環境はこうして壊れていく。地球はこうして崩れていく。食物連鎖のピラミッドが潰れる。
ゆっくりと滅ぶのだ。
妹の部屋を出て最寄りのコンビニに向かう。あたしは歩きながら推しのことを考えていた。あたしは五年前からひとりの若手俳優に入れ込んでいる。彼という名のドツボに嵌まっている。
五年だ。
五年前も今も変わらず彼は若手俳優だ。
つまり直接的な表現で身も蓋もなく申し上げると、まったく芽が出ない。
彼が初めてアイドル雑誌の隅っこに載ったあの日に全国で生まれた赤子たちも今や五歳児だろう。そしてあの日まだまだ人生のやり直しが利くアラサーのモッサいヒラ会社員だったあたしも、今やツブシのきかぬアラフォーの立派なモッサい会社員だ。
言うまでもなくあたしはうだつの上がらぬ推しに自分の人生の光を重ねていた。
脇役になるために生まれてきたかのような俳優だった。
公式がインスタに上げる楽屋の写真では必ず躰半分が見切れてしまう俳優だった。さらに呼ばれる舞台も最近ではすべてがアホのような演出のお遊戯会だ。あたしは推しを推しているのであって、最近の推しが演じている何かのキャラにはまるで執着がない。それなのに、で、なにゆえにあたしの推しはいつまでも蛍光色のヅラをつけて渋谷ハロウィンみたいなコスプレで踊っているのか。もっと違う仕事をしてほしい。事務所を変えて欲しい。あたしバカだからよくわかんねえけど、シェークスピアのハムレットとか、ソフォクレスのオイディプス王とか、レ・ミゼラブルとか演ってほしい!! 普通の大人向けの演劇をやってほしい!!
推しも来年にはアラサーに突入する。
四捨五入したらおっさんになる。
おっさんはもう太股丸出しの短パンで中学生の役をやっちゃいけない。そんなことしてたらいつまでもハムレットはやれない。ハムレットが何歳なのかは知らないけど、さすがに部活や戦闘にあけくれるバイオレンスな非実在架空中学生ではないだろう。
それであたしは、いっそ、このまま文明が滅亡してしまえばいいのにと思った。
悲観的なのはエアコンが壊れたせいだ。
蝉の声がしないせいだ。
南無三。
初夏のシーズンすべてを推しに捧げたにもかかわらず相変わらず推しは特にこれといった評価も得られず、今後の予定が未定の白紙になっている。私の金は何処から湧いて何処に流れていったのか。いったい誰の焼肉代になったのか。
ぐずぐずと歩いていたら泣きたくなった。
そして道に迷った。
妹の部屋から一番近いというコンビニの場所がわからなくなった。絶望とは方向音痴に至る病だ。
とりあえず住宅街を通り抜けて比較的広い道路に出る。
歩道沿いに小さな店が並んでいる。美容院、蕎麦屋、歯医者、美容院、歯医者、美容院、歯医者、……ちょっと美容院と歯医者の率と圧が強い気がするんだけど。
困ったなと思って立ち止まったのが小さなカフェの前だった。
と、同じ瞬間、古めかしい木製の扉を開けて外に出てきたのは
「あ」
偶然にも見知った顔だった。
つい一時間前に見知った隣人の顔だった。
あたしは思わず息を飲み、さらに深く彼を眺める。長い髪は背中でまとめて清潔なシャツにネクタイを締め、エプロンをかけている。そういえば店の前に置いている自転車は彼のものだ。
表の看板をOPENに掛け替えた彼は、すぐにあたしに気づいて笑った。
「こんな偶然あるんですね。ここ、おれの店なんですよ。コーヒーの店」
「お店やってるんですか? すごいです」
「長いこと親戚がやってんですけど赤字だから畳んでコインパーキングにしようかしらなんていうから、おれがお金を払って借りたんです。赤字は変わらないんですけど、あ、もしお急ぎでなければ寄っていかれませんか。何か冷たいものでも……おれのホットサンド実はちょっと美味いんですよ」
見れば見るほど優しくて美しい男だった。間違いなくハンサムだ。
指摘されて初めて空腹に気づいた。
ランチタイムにはまだ早いけれどあたしは腹を空かせていた。この真夏の朝からエアコンが壊れた部屋で死にかけ、妹の部屋まで歩き、そして今も汗を流している。光の速さでカロリーが消費されていく。
何よりもあたしは、美しい男が作ったホットサンドを食べながらアイスコーヒーを飲みたくなった。つまりこの胸のときめきは間違いなく恋の嚆矢だと確信したのだった。
こんな偶然、運命の恋に決まっているだろう。
あたしは彼の勧誘に乗ってふらふらと店に入った。すでにシャツの背中は汗だくだ。
*
店内は狭くて暗い。
L字形の細長いカウンターがあるきりで、そこに八人も座れば満員だ。テーブル席はない。改装する前はラーメン屋だったのかもしれない。高いスツールにその名残がある。
目の前にいくつもドリップコーヒーの機器が並んでいる。理科の実験器具みたいだ。直前までアイスコービーを飲む気マンマンだったのに、この本格的なコーヒー屋さんの仕様をみて、つい、ホットコーヒーが飲みたくなってしまった。店内のエアコンが予想外にキンキンだったせいもある。
狭く、薄暗く、鬱蒼として、ノイズ混じりの古いジャズが流れていた。
ここだけが学生運動時代の純喫茶みたいな雰囲気だ。壁際の本棚には古い文庫本とレコードが並んでいる。
あたしは小さくくしゃみした。
雰囲気にやられてしまったのではない。最近ではめったに嗅ぐことがなく忘れかけていた匂いを吸って鼻腔がびっくりしたのだ。
「すみません。うち、喫煙オッケーの店なんですよ。表の看板にも書いてあるのですが先に言うべきでしたね」
「大丈夫、平気です」
この雰囲気、しかも喫煙可。この店主は恐ろしく完璧に若者と女性と子連れファミリーをシャットアウトしている。この時代の飲食店が嫌煙家を拒絶するということは、すなわち商売を棄てて自ら茨の道を選択したということだ。ホスピタリティを棄てて趣味を取ったということだ。
彼は薄い食パンでハムとスライスチーズと海苔を挟み、古くさいホットサンドメーカーにセットする。小学生の頃、土曜の昼間に金持ちの友達に家に遊びにいったらそこのママが作ってくれたあれだ。庶民の家にはたこ焼き器がある。セレブの家にはホットサンド器がある。
「このへんにはよくいらっしゃるんですか?」
カウンター越しに彼が訊いてくる。
「妹が住んでまして」
「そうなんですか」
「妹っていうか血は繋がってないんです。あたし中学と高校が女子校だったんですけど、そこの校則で、必ず学年違いの二人組を作らなくちゃいけなくて。付き人制というかバディ制というか、で、そのままずっと腐れ縁で大人になってからも姉だの妹だのとゴッコ遊びを」
「へーえ。昔の少女小説みたいだ」
「あれに憧れて入学してきた子も多かったですよ」
「今はああいうのを百合っていうんですよね。男の子同士はBLで女の子同士は百合でしょ、ネットで知りました」
と、あたしの話を適当な世間話で流しながらコーヒーを淹れていた彼が、はっとして顔を上げ、いきなりあたしに謝罪した。
「ごめんなさい」
「えっ」
「ごめんなさい、おれ、ずっとお隣の部屋のあなたのこと海外からいらした方だと思い込んでて、今朝も……!」
「気にしてないですよ」
むしろお互い様だった。あたしもあなたを異国人だと思ってたんすよと告げようかと思ったけどやめた。
「そういえばエアコンがどうとか」
「壊れちゃったんです。最初から中古品を買っちゃったあたしも悪いんですけど。それで買い換えるまでは妹のとこに身を寄せようかと」
「ここ数年は異常に暑いから古いエアコンは参っちゃったんでしょうね」
飲食店のマスターらしく、またしても当たり障りのないことを言う。
そうこうするうちにホットサンドが仕上がって、一目見ただけで美味いとわかるブレンドコーヒーと一緒に出てきた。
「おれが強引に連れ込んじゃったから今日はおごらせてください。どうぞ」
「いただきます」
美味かった。
ホットサンドにとろけるスライスチーズを挟んでみようと最初にひらめいた人物は未来永劫祝福されるべき。ぜったいに失敗のない宇宙の黄金レシピだ。
「おいし」
「でしょ。軽食はやってないんですけど裏メニューです」
あたしが食べている間も客は来ない。もうすぐ休日の昼間だというのに気配もない。
「お洒落で落ち着いた雰囲気ですよね」
「ありがとうございます。あ、おれって実はこういうこともやってまして」
彼はいきなり取り出したスマホを擦り、SNSのページを開いた。フォロワーが五万人ついているアカウントをみせて「これおれなんです」と彼は笑った。
あとはお約束の、三十路男にありがちな自分語りだった。
「毎日イラストをつけてゆる~い小ネタを上げてるんですけど。最近ウケてるのはこの〝うちのコーヒー屋にくる客シリーズ〟ですね、ここにくる客の観察ネタ。うちわりと不倫カップルとかよく来るんでその会話を書き起こしたりして。万単位でバズり続けてたら、出版社からイラストエッセイ本を出しませんかってオファーが来たんですよ。それでもう書籍化も決まってて、出版社のひとはドラマ化めざしてますって言ってくださってるんですけどー……」
このあたりであたしは五感をスリープモードに切り替えたから後はよく覚えていない。
妹が心配してると思うから、と言い訳しながら店を出た。相互フォローしましょうよと誘われたけど、会社が個人のSNSを禁止してるからとアイドルのようなことを言って断った。
また来てくださいねと彼は手を振った。今頃はあたしの似顔絵を描いて脚色した小ネタを全世界に公開しているのだろう。またしてもの灼熱で気持ちが急降下した。
彼のガツガツした感じ、苦手だ。
悪い人間ではないけど彼はおそらく善人ではない。
嫌いだ。
嫌いだというか、羨ましいのだ。
妬ましいのだ。
たぶん彼の顔があたしの推しにちょっとだけ似ていたせいもある。ぶっちゃけ性的な意味で好みだ。そしてあたしの推しにもう少しああいうガツガツと前に進むハングリー精神があればいいのにと思ってしまった。そうだ誰も悪くない。
――いや悪いだろ。
客の会話を盗聴してネットに上げるなんて飲食店として倫理的にアウト寄りのアウトじゃね……SNSが大炎上して書籍化の話がつぶれてしまえ…そしたら慰めてやるのに、真面目にコーヒー屋で頑張りなさいよと…あーあーあーあー…!!!!!
*
「んもうっ、コンビニにいないから捜したんだよ。スマホ鳴らしてもも出ないし!」
真夏の陽炎がいきなり人間の形になって、光の中から妹が出てきた。交差点の向こうからぱたぱたと駆け寄ってきて、横断歩道の真ん中であたしの頭をばちんと殴る。
ぐいと腕を引っ張られる。暑苦しいけど悪くない。
「ごめん」
「こっちこそごめん、わたし、迎えに来るのが遅くなっちゃった。実はあれから職場の上司に電話してたの、そのひとの実家がこの辺で電器屋さんをやっててね。それで型落ちした在庫を量販店と同じくらい値引きして売ってくれるって。とりあえずお金は肩代わりしてあげるから、クリスマスくらいまでに全額きっちり返してね。来週には設置工事に来てくれるそうだからそれまでわたしの部屋に居候すればいいでしょ。ふー暑い暑い」
あたしと違って妹は有能だった。
いつもあたしを気遣ってあたしを甘やかしてあたしを駄目にする。昔からそうだった。
「ありがと……」
「何処で時間を潰していたの? 通りの向こうにいたの?」
「そこの狭いカフェ。コーヒーしか出さない店。店主がマンションの隣人なの、すっごいハンサムマンでコーヒーとホットサンドおごってもらった」
へえそうなんだねよかったねと言ってくれた妹の声が少し沈む。
あたしは妹の手を握った。
なぜか急に、またしてもうだつの上がらぬ推しについて考えていた。そして美しい隣人のことを。あたしは推しの次の仕事が決まればまた文句を言いつつ舞台に通って金を払う。隣人の生き様を軽蔑しながら親友になって美味しいコーヒーを飲む。もしかしたらそのうち深い仲になるかもしれない。
でもしかし、ばってん、ハウエバー。
日曜真昼の住宅街、人気のない街路樹の下であたしは妹の手を引いて短く軽くくちづけた。
「えっ、急になに」
妹は想像していたよりも驚いてくれなかった。
「べつに。あまりの暑さに頭がノーリターンだよ」
「わたしもこの暑さでまやちゃんへの報われない恋心に拍車がかかってる。さっきのキス、コーヒーとチーズの味がしてむかついた。お口直しにアイス買ってこ」
いつかあたしが恋に落ちるとしたら目の前にいるこの女だな。
だからって、それに気づいたからといってあたしの人生が特に動いたわけでもないれけれど、まあね、今日が猛暑日でよかったわ。
猛暑日でよかった/おしまい。
猛暑日でよかった アズマ60 @under60
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