あさのほし
サぁモンスター
あさのほし
朝、起こす体がだるい。
家の玄関をまたぐ足が重い。
そんな自分を変えたい。けれど、変わるのは怖い。
そんな無限に続きそうな一本線の思考に嫌気が差した時、突如として、彼女は鈴の音を響かせるように僕の名を呼んだ。
その一言は、ずっと僕の中で反響し続けている。
──もう一度だけ、あなたの声を。
***
「──くん」
唐突に、僕の名前が聞こえた。
快適な睡眠から強引に意識を引き戻された感覚にもやもやしつつ、少しぼやけた視界で僕が目線を上げると、一人の女子生徒が僕の顔を覗き込むようにして立っていた。
繊細な黒髪を耳にかける彼女。純粋無垢な瞳が、真っ直ぐにこちらを見ている。
……名前が出て来ない。
いや、これは朝のせいだ。
よく考えれば当たり前なこと。起きたばかりで顔と名前を一致させるのは難しいのだ。
……朝のせい?
朝の、せい……。
あさの、せい……。
「
何だか腑に落ちない思い出し方で僕がこぼした名前に、彼女は笑顔を咲かせた。
「当たりっ!」
その笑顔に、僕は不本意にも頬が熱くなったのを感じた。
寝起きで感覚が鈍っているだけ、昨日から気分が悪かった気がしなくもない、そう自分に対する言い訳を考えている間も、彼女は声を止めなかった。
「君、他人に興味ないのかと思ってた。嬉しいなあ、名前まで覚えてくれていたなんて」
「……なんで話しかけたんですか」
プリントの回収やアンケートの協力なんかを、僕はどこかで期待していたのかもしれない。
彼女が僕に話しかけた理由に、振り回されたくなかったから。
しかし彼女は、見事に僕の心を掌に乗せたのだった。
「今日から、挨拶強化週間なの」
彼女の胸元の委員長の印であるバッジが、爽やかな日差しに反射する。
「おはよう。今日も頑張ろうね」
窓の隙間から吹いた強い風に目を閉じると、彼女は既に自分の輪の中に戻っていた。
彼女の周りは、目線も交わしたことがないような生徒でいっぱいだった。
僕とは違う。
誰に何かを言われたわけでもないのに、僕はそう決めつけるしかなかった。
それほど、彼女は、彼女のいる空間は、遠いものだったのだ。
それと同時に、彼女のあの笑顔と声が、僕の頭にこびりついて剥がれない。
笑顔って、こんなにも嬉しいものだっけ。
おはようって、こんなにも心に残るものだっけ。
僕の頭は、気付けば彼女に支配されていた。
彼女の笑顔と挨拶が脳裏で生きている今、自分が強くなった気がした。
まるで、失敗してもこれがあるから大丈夫、と、自信を持てる武器のようだった。
今まで、自分が嫌だと感じる事から逃げて来た。今まで、変化を恐れて進まなかった。
そんな、ほぼ役割を終えたような僕の歯車は、今日、再び音を立てて動き出した。
笑顔と挨拶がこんなにも人の心を動かすのだと、初めて知った。
今まで勇気が出なかった授業の意見交流、気付けば僕の右手は堂々と上がっていた。
あれだけ先が見えなかった未来に、目標を探す活力が湧いた。
先生に溜め息をつかれるくらい受けていた試験後の補習も、出席命令の名簿から僕の名前は消えていた。
あれもこれも、全て、たった一回彼女からもらった笑顔と挨拶のおかげだった。
彼女は、浅野星は、真夜中だった僕の世界の星となって、見るもの全てを輝かせてくれた。
***
一年後、クラスの半分が知らない顔に移り変わった。
しかしその中でも、記憶に深く刻まれた彼女の姿を、僕の目は捉えた。
彼女を見るのは数ヵ月ぶりだった。
春休みに入る前の三学期から、彼女は学校に来ていなかったから。
「や、やった」
同じクラスだ。思わず、小さなガッツポーズをする。
しかし、彼女の席に近づくにつれ、僕は嫌な予感でいっぱいになった。
僕の瞳に映っていた彼女は、僕の知っている彼女とは明らかに違った。
あの笑顔は面影もなく消え、クラスの中心だという印象が強かった彼女は、そこにはいなかった。
周りを取り巻いていた女子生徒も、話すきっかけをうかがい続ける男子も姿はなく、彼女は一人教室の隅で、何をするわけでもなく、ただ佇んでいた。
僕の世界を変えた浅野星は、かつて胸に光っていた委員長の印であるバッジと共に、消えていた。
知る機会がなかったと目を背けていた、彼女が学校に来なくなった理由。
きっと、僕が声をかけていれば、違う未来があったはず。
僕は、遠い存在だと勝手に距離を置いて、彼女を知ろうとしなかったことを深く後悔した。
「浅野さん……」
でも、話しかけたい。でも、話しかけられない。
これじゃ、前と一緒じゃないか。
そうわかっていながらも、気付けば「おはよう」が話しかけた理由として使える時間は終わっていた。
結局、言えなかった。
彼女にあれだけ、気持ちを、世界を、心を、揺さぶられていながら。
──もしかしてこれは、僕に許された最後のチャンスなのではないか。
ふと、頭の中にそんな考えが浮かぶ。
あの日、彼女に笑顔と挨拶を貰っていなければ、僕はどうなっていたか。
とても考えられたもんじゃない。
そうだ、僕は、彼女に恩返しをしたいのだ。
何かではなく、表情で。
モノではなく、言葉で。
***
次の日、僕は緊張で目を覚ました。
こんなに冴えた目で学校に行くのは初めてだ。
教室の目の前で、僕の足は徐々にゆっくりになっていた。
僕は初めて、自分がこんなにも恐怖に弱いことを知った。
今になって、本当に自分に興味がなかったのだと思い知る。
ただ、一回、言葉をかけるだけなのに。
心臓が跳ねて落ち着かない。
どうして、走り出す勢いで進めるようになった一歩が、踏み出せないのだろう。
どうして、どうして、僕はこんなにも―—!
──「おはよう。今日も頑張ろうね」
僕の頭の中に、彼女の声がこだました。
荒んだ呼吸が、徐々に正常に戻っていく。
緊張した筋肉がほぐれていく。
そうだ。そうやって、自然に言えばいい。
頑張れ、僕。
深呼吸して、取り入れるんだ。
彼女を思い出して、僕の声に、僕の体に。
昔の彼女は僕の中で、まだ、生きているから──。
「浅野さん!」
僕は彼女の名前を叫ぶや否や、ずっと近付けずにいた彼女の机に駆け寄っていた。
彼女は弱々しく顔を上げると、僕の顔を見るや否や、俯いた。
「見ないで……。もう、昔の私とは違う」
言葉が出なかった。
こんな彼女を、僕はずっと放っていたなんて。
「浅野さん、僕は味方だから……‼」
気付けば自分と彼女の手を結び付けて、走っていた。
廊下に飛び出ると、登校ラッシュを逆走するように、頭も下げず先輩達を体当たりで突き抜ける。
暴れる心臓を掴むようにして胸に手を当てる。
疲れを前面に出す僕の少し後ろで、彼女はやはり俯いていた。
「浅野さん……」
瞳さえも隠す伸び切った前髪で表情はわからないが、息が上がっている様子は見えなかった。
「疲れてないんですか?」
僕の問いかけに、彼女は口を一度開いただけだった。
しかし、その数秒後、彼女の頬を伝って一筋の水滴が流れた。
「で、ですよね。疲れましたよね」
人形のような彼女を見て、僕は心を決めた。
今彼女を救えるのは、目の前にいる僕だけだ。
一歩、また一歩、彼女に触れられる距離まで近づく。
僕がその顔に手を伸ばしても、彼女は微動だにしなかった。
僕は彼女の前髪を、人差し指と中指で挟み込むようにして、そっとすくった。
「──泣かないで下さい」
彼女は僕の目をようやく見た。
かつて僕の世界を変え、僕の見るものを輝かせ、今も尚、僕の中に在り続けている瞳。
「遅くなって、ごめんなさい」
すくった前髪を離そうとする僕の手を、幼子が母の服の裾を掴むように、彼女は強く握った。
「何で、わかったの……」
彼女は遂に、肩を大きく弾ませて泣き始めた。
「気付かなくていいのに……、こんな風に、しなくていいのに……」
「僕、浅野さんに助けられました」
「でも、あの頃の私はもういないの……」
彼女はなんてことを言うんだろうか。
出来ることなら、僕の頭の中の彼女を彼女に見せてやりたい。
あの日の彼女を思い出すことで、一体どれだけ楽しいと思える瞬間を掴み取れたか。
彼女に、どれだけ救われたか。
「ねえ、ここまで来た用は何……?」
僕は、笑った。
「咲いた」という表現がよく似合う、朗らかな笑顔。
ありがとう、浅野さん。僕を、こんな風に笑えるようにしてくれて。
だから、今度は僕から言うよ。
「今日は、挨拶強化週間じゃないですけど」
たった一言でも、人の心を救うことが出来るって、君が教えてくれたから。
「——おはようございます、浅野さん」
あさのほし サぁモンスター @sa-monnstar-
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます