春の間に

@shibainu29

第1話

 駅の改札を通り抜け、プラットホームに立つと、アスファルトの黒に紛れて水溜りがまだらに潜んでいた。地面も湿気を帯びているのに、空気だけが乾燥している。春が始まるような、冬が終わったようなこの季節は、すうと息を吸い込むとその分だけ春が近づく気がする。夕方のこの時間は、サラリーマンの風体をした人々と、学生でプラットホームは賑わっている。規則正しく列に並んでいる連中からはみ出して群れを作る女子高生達の横を通り抜け、ホームの先端へ進んでいく。途中にあった水溜りを避けるようにぴょんと跳ねると、その先にも更に水溜まりが待ち受けていて、膝に泥が飛び込んできた。私は指先以上に冷えた膝を叩いて、泥水を軽く落とす。しかしその行為はかえって周囲へと跳ね散らすだけだった。

 元晴と会うのは、いつも決まって先頭車両だ。分かりやすいし、階段を降りてから移動するのが面倒臭いせいか、人も少ない。元晴の所属しているサッカー部の練習が終わる頃に、元晴から電車の時刻だけが連絡される。その電車に乗って、二人で帰るのだ。

 ゆっくりと減速して、電車がホームへ侵入してくる。強く吹く風で髪が乱されるのが嫌で、顔を背けてみるが、やはり前髪は舞い上がってしまう。眉間に皺を寄せていると、ずらした視線の先で、窓越しに元晴が手を振っていた。


 平日の夕方だけあって、見える範囲の席は埋まっている。ドア付近に立っていた元晴の隣に立ち、鞄を下ろす。流石十年サッカーを続けてきただけあって、すらりと伸びた腕や肩に、ふっくらと筋肉が付いているのが、制服の上からでも見て取れる。何となくその腕に手を伸ばしたくなって、自分のワイシャツを強く握った。

「今日はサッカー部終わるの早かったね。」

「雨のせいでグラウンド使えなくて、筋トレだけだったから。」

 手元の単語帳から顔を上げて、元晴が答えた。元晴は放課後は部活が殆どで勉強する時間が取りづらいからと、隙間時間にせっせと英単語を頭に入れている。偉いな、とは思うのだけど私には真似できない。

「これいる?」

元晴は背負っていたリュックを漁り、ポケットティッシュを差し出してくる。何か分からず固まっていると、「汚れてる。」と私の膝を指差した。どうやらこれで拭けということらしい。私はありがたく頂戴することにした。

「昔からがさつなところ、変わんないよな。それくらい拭けよ。」

「拭くもの持ってないくらいがさつなこと、忘れたの?」

「そうだった。」

 元晴は周りの空気を擽る様に笑った。私の性格を知り尽くして、今日だってハンカチすら持ち合わせていないことは容易に推察できるはずの元晴が、今更何故そんなに笑うのか分からない。膝についた泥はしつこく、何度拭いても完全には拭いきれなかった。私が返したポケットティッシュを受け取った元晴は、また単語帳に視線を戻した。

「元晴は相変わらずまじめだね。」

 茶化すような口調で言い捨て、スマホを見ながら乱れてしまった髪を抑えてみる。しかし湿気のせいか上手く整わず、結局頑張ってセットした前髪は崩れてしまった。他の子を真似して重めのワイドバングにしてみたが、ケープで固めたりセットするのが面倒で、結局癖がついてしまっている。

「茉央も髪弄る暇あったら、英単語の一個くらい覚えりゃいいじゃん。」

「いいの。女子は前髪命だから。」

「昔は前髪なんてちょんまげみたいだったのに。これが一番速く走れるんだーって。」

「いつの話してんの。今は流行に乗れる方が大事だから。」

「流行に乗るためにお洒落してんの?なんかそれ本末転倒じゃね?」

私は核心を突かれた気がして、腹いせに元晴の脛を蹴った。「痛っ」と元晴が短い悲鳴を上げる。正面に座っている人がちらりと私達を見たが、すぐにまた目を閉じる。

「無駄話してないで、勉強に集中しなよ。」

「こっちの台詞だよ。こないだの小テスト再試だったの知ってんだぞ。」

「隣のクラスだっていうのに耳ざといなあ。別にいいの、私本番前に覚醒するタイプだから。」

「もうその本番前が近いから言ってるんすけどね。」

「まだ二年だよ。」

「先生達が二年生の三学期は三年生の零学期だって言ってんの、覚えてねえの?」

「ほんとにそれ信じてる人、初めて見た。」

先程の蹴りの仕返しと言わんばかりに、元晴が私の頭を鷲掴みにする。下ろしていた後ろ髪が長い指に連れていかれ、元晴が手を動かすたびに四方八方に跳ね上がる。

「真剣に言ってんの、こっちは。結局間に合わず浪人って、笑えないからな。」

「私は自分の身の丈に合う学校探すから大丈夫だよ。元晴は頭良いとこ受けるんでしょ。そっちのほうが頑張らないと。」

元晴は苦虫を嚙み潰したような顔をして、こちらを睨む。これじゃ暗にこのままじゃ落ちる可能性の方が高いと言っているようなものだ。失言だったな、と察して「ごめんって。」と軽く返す。元晴は何か言いたげな表情を浮かべていたが、諦めたように溜息をついた。

「大学からは独り暮らし?」この空気はまずいと、私は慌てて話を逸らす。

「まあ、その予定。受かればな。茉央は地元残るんだろ。」

「うん。弟もいるし、そんな頭いいとこ行くわけでもないし、上京する理由は特にないからね。」

元々は就職も視野に入れていたのだ。大学に行かせてもらえるだけ、御の字である。それに私は地元を離れる気などさらさらなかった。自分の知らない環境に身を置くのは、怖い。元晴は「ふーん。」とつまならそうに言った。手元の単語帳は先程からめくられていない。

「ここ離れる、寂しい?」

 元晴が太い首を支点にして、形の良い頭をゆっくりとこちらへ向けた。見つめられて、思わず体に力が入り、両足で挟んでいた鞄が空気を吐き出しながら僅かにへこむ。アナウンスが次の駅に停車することを告げ、少しずつ電車が速度を落とす。その瞬間、車内が強く揺れた。駅に停車したらしい。ふわりと浮いた体幹を安定させたくて、無我夢中に手を伸ばす。ぱしっと軽い音を立てて掴んだ先は、元晴の腕だった。先程まで触りたいと思っていたその腕は、少し汗ばんでいて、わたしの手のひらには収まらない程太かった。元晴と目が合う。

「あ、ありがとう。」

出してみて、自分の振り絞るような声に驚く。元晴の腕を掴んだ私の手の上に、元晴の手が重なった。びくりと緊張が走ったのを、元晴は気付いただろうか。

「寂しいよ。」

強張ったままの掌をそっと元晴の腕から離す。元晴も大した抵抗はせず、腕を下ろした。

「駅もう着いたぞ。降りるだろ。」

単語帳を学ランのポケットに突っ込み、元晴はホームへ立った。その後に続き、私も降りる。乗客を積み込み終えた電車は、私達の背後を唸りをあげて過ぎ去っていった。

「なんかずっと一緒な気がしてたけどさ、中学離れてみて分かったわ。意外と俺らの縁ってそんなに強くないんだって。いや、高校でこうしてまた会ってるなら、強い方かもしれないけどさ。」

発車する電車の音に負けない声が、私の鼓膜に響く。

「俺ら、大学行ったら、もう会えないかもな。今度こそ、本当に。」元晴が振り返った。

心臓がどくどくと嫌な音を立てて唸り始めた。言って欲しくない現実が、目の前に現れようとしているのだ。卒業も、変化も、全員に平等に訪れるはずのそれが、私の前にだけ立ちはだかっているような気がする。

「ならさ、その前に俺ら付き合わない?」

その言葉に顔を無理やりあげさせられた気がした。私の心臓の音は静かになった代わりに、頭の中で激しい混乱の渦が巻き起こる。照れくさそうに、元晴は耳の裏を掻いた。

「付き合うって。」

 付き合うって、何だそれ。一先ず、私は笑ってみせた。誤魔化せると思って、笑った。笑顔とは安心させるために使うのだ。相手だけでなく、自分も。それでも元晴は笑わなかった。当たり前だ。当たり前のことなのに、それだけで私の心は揺すぶられる。

「いや、冗談じゃなくて、本当に。」

元晴の傷ついたような声で、私の心も傷つけられる。互いに心を爪で引っ掻きあっているようだった。

「本当にって。本当も何も。」

私達の間で本当なのは、友情だけじゃないか。そう言おうと思ったが、口に出せる訳もなかった。握りしめた拳に、どんどん汗がたまっていく。

「あのさ、何で付き合いたいの?」

頭の中で一番初めに浮かんだ言葉が、口からそのまま放たれる。だって、このまま同じ、友達でもいいじゃないか。ずっと、そうだったじゃないか。そうだ、私達はずっと友達だったのだ。

「何でって。まあ、一緒にいてほしいっていうか、二人が繋がってるっていう、確証が欲しい。」

「別に今だってそうじゃん。」

「それは友達としての話だろ。友達とは、誰だって同じじゃんか。俺は、俺と茉央だけの関係について話してるんだって。」

「友達っていうくくりで言えば、陽菜だって元晴だって同じかもしれないけど。でもそれぞれで見たらそれぞれとの関係性があるから。私にとっては、私と元晴だけの関係があるわけだし。」

「そりゃ、茉央からしたらそうかもしれないけど。でもそれじゃ、弱いんだって。俺は恋人っていう、強い関係性になりたい。友人みたいにいつか切れるかもしれないっていうことを心配したくない。」

「別に、恋人だってすぐ切れる人は切れるし、切れない人は友人だって切れないでしょ。」

「そういうことを言ってるんじゃないって分かってるだろ。」

 そうだ、自分としては意見であったが、元晴からしたら、私の言ったことなど詭弁にすぎない。自分達の中だけで成立している関係性ほど脆弱なものはないのだ。だけど、その脆弱さを恐れるほど私達の関係には、終わりが近づいているのだろうか。元晴は本当に、友情は恋愛で代替が効くと思っているのか疑問だった。恋人というのは互いに恋愛感情が向いているのが特権だが、友人というのは恋愛感情が向いてないことこそが特権なのだ。そのことを元晴は理解しているのだろうか。

 もう同じタイミングでこの駅に着いた人々はプラットホームからは出ていき、次の電車まで時間が開いたこの乗り場は、無人に等しかった。私は黄色い点字ブロックを乗り越えた場所で、縫いつけられたかのように動けないままでいた。元晴は私より先にいるものの、こちらへは近付いてこないから、一定の距離を保ったままだ。一極に集中する視線の先には、高校生の元晴が立っている。成長した晴正の姿なんて見慣れたはずなのに、私の頭の中ではまだ元晴は、ランドセルを背負った小学生姿のままだ。


 元晴とは幼稚園から一緒で、小学校中学年までは放課後によく遊んでいた。元晴は三月生まれで、私は五月生まれ。だから昔は小一からサッカークラブに入っていた元晴よりも、小学校低学年の頃は私の方が背が大きかった。鬼ごっこだってかくれんぼだって元晴が私に叶うことはなかったし、一輪車だって私の方がうまく乗りこなせた。そんな私を見て元晴はいいなー、いいなーとしきりに羨んでいて、私はその言葉を聞くたびに気分が良かった。

「もとはるって、本当にこどもだよね。」

 放課後に小学校のグラウンドで遊びまわった帰り道。歩くたびにランドセルを浮かせながら、スキップするみたいに元晴は軽やかに跳ねていく。小学生の元晴はいつも自由気ままに帰り道を辿っていた。私も私で毎日変わっていく風景が新鮮だったから、文句を言わず元晴の後ろをついて行っていた。シャボン玉みたいにゆらゆらとしているところが元晴のいいところではあったが、呑気すぎる性格が故、同級生からは敬遠されている節もあった。そんなことだから、分かってあげられるのは自分だけだと勘違いしてしまったのだ、愚かにも。

「転んでちょっと血が出るだけでも泣いちゃうし、音読下手だし。まだいちご味の歯磨き使ってるしさ。」

ほとんど言いがかりに近い言葉の数々ではあったが、元晴は怒ったそぶりを見せなかった。元より柔和な性格がそのまま現れたような垂れ目からは何の表情も感じないことが常であったが。言い返されなかったことですっかり図に乗った私は、更にこう付け足した。

「ねえ、名は体を表すって諺知ってる?それ、もとはるにぴったりなんだよ。」

相変わらずおぼつかない足取りの元晴が、急に立ち止まった。何かと思えば、曲がり角の隅にたんぽぽが咲いていたらしい。茎から出る汁で手を汚さないように、元晴はそれを慎重に切り取った。新しいおもちゃを見つけたかのように、まじまじと観察している。聞こえているのかもわからない態度の中、私は続けた。

「ほら、もとはるの名字のふるとって、こどにも読めるじゃん。」

そう言って、私は宙で古戸と書き示した。そんなことしなくても、自分の名前なのだから元晴はきちんと理解できるだろうに、あの頃の私は元晴を子供扱いしたくてしょうがなかったのだ。

「繋げて読むと、こどもとはるになるでしょ。ね、子どもって入ってるじゃん。もとはるっていつまでも子どもっぽいからさ、ぴったりだよね。」

私は得意げに言った。元晴は右手に握っていたたんぽぽへふうと息を吹き、綿毛をすっかり飛ばしてから、やっとこちらを見た。

「そうかも。俺苦手なこと多いし、友達も少ないし。それに、俺に比べたら、まおちゃんはすごく大人っぽいから。」

元晴のその台詞は、案外嬉しいものだった。なんだか元晴よりも、自分が上の立場に立ったような気がしたのだ。大人っぽいという言葉が嬉しいのは、子どもの考えだというのに。

「それにさ、まおちゃんがいう通り、名前見ればわかるよ。ほら、渡仲茉央ってさ、どんどん繋げてくと、となかまおとなかまおとなかまおとなかまお」

滑らかに動いていく唇を「うるさーい」と言って塞ごうとしたが、元晴はくるりとこちらに背を向けた。

「ほら、おとなって入ってるでしょ。」

元晴がネジが緩まったかのように、腕をぶらぶらさせながら笑う。となかまお、と私も口の中で転がしてみた。慣れ親しんだはずの自分の名前が、何だか飴玉のように溶けて、形を変えていく。元晴は茎だけになったたんぽぽには、もう興味を失ったようで、サッカーボールに見立てて小石を蹴飛ばしていた。

「すごい、もとはる。私も気付かなかった。」

気が付いたときには、賞賛の言葉が口をついて出ていた。元晴を褒めたのは、あの時が初めてだったかもしれない。何だって私の方が先にできたから、元晴が私を褒めることが多かった。元晴は驚いていた。何も言わず、照れくさそうに耳の裏を掻いた。


「昔からの腐れ縁だし、今更何言ってんだって感じかもしれないけどさ、俺達の関係がもう終わるかもしれないって思ったら、寂しいよ。」

 元晴はあの頃と同じように耳の裏を掻いて見せた。寂しい。それは私も同じだ。いつも通りのはずの日々にぽっかりと穴が開いてしまうことほど怖いものはない。そう思って、気付いた。気付いてしまった。私が怖いのは、元晴がいなくなることではないのだ。いつも通りの日々に、身を委ねられなくなるのが怖い。だから、元晴がいなくなるのが怖い。みんながする流行りの髪型の話についていけなくなるのが怖い。地元を離れて、新しい場所で生活するのが怖い。何で元晴も、みんなも怖くないんだろうか。

「あのさ、何でそんなに付き合うことに固執してんのか、全然分かんないよ。ずっと友達だったじゃん、私達。」

「ずっと友達だったからこそだよ。もう十年以上もこのままだったんだぜ。そろそろ付き合ってもいい時期だろ。」

「何それ。」

不意に涙腺が緩みそうになって、歯を食いしばった。どうやら友情の延長線上に恋があり、その先に更に愛があるらしい、というのは中学生頃には感じていたが、その感覚が自分の中に染み込むことはなさそうだった。中学校も元晴と同じところに通っていたら、私達の縁はもっと早くに切れていたのかもしれない。だって友情と恋は別のベクトルに乗せられていて、ことさら元晴はお互いが異性であるということを意識しない頃からの付き合いだ。それが今更同じレーンに乗ることなどあり得ない。何だか自分だけが遠いところに置いて行かれた気分だった。

 学校が離れたのは中学校の時だったが、私達は小学校高学年の時には、もう一緒に遊ぶような仲では無くなっていた。以前から薄っすらとあった男女の差が明確になり始め、もう私は元晴に鬼ごっこもかくれんぼも、一輪車も敵わなくなっていた。サッカークラブで動き回ったお陰か、ぐんぐんと元晴の身長は伸びていき、小学校を卒業するころにはとっくに抜かされていた。誰が言い出した訳でもない、ただ自然な流れとして変化していく教室は、酷く薄気味悪かった。その頃からだ。動きづらいからと敬遠していたスカートを履き始め、邪魔くさいからと短く切っていた髪を伸ばし始めたのは。見た目だけを寄せたって、中身がついてこれないのではこれないのでは仕方がない。でもそれでいいのだ。これは私の心が育つまでの応急措置で、そのうち私は大人っぽい、ではなく、本当の大人になっていくのだから。しかし体と心の差が埋まる日は未だ来ず、成長するにつれ差は大きくなる一方だった。

 元晴と遊ぶのがつまらなくなった訳じゃない。ただ、一緒にいるだけで、本当は付き合ってるとか、好きだとか、そういう周りからの目が嫌になっただけだった。それだけだったのだ。だから成長して、大人になれば、元晴も周りのみんなも理解してくれるものだと勘違いしてしまった。


「え、古戸君と付き合ってないの?何で?」

確か、二年生の夏が終わった頃だったと思う。夏休み中に彼氏が出来ず、寂しい夏を過ごしたと嘆く陽菜を慰めていた時だった。でも茉央ちゃんは彼氏いるからいいじゃん、と言われたのだ。陽菜が言う彼氏というのが誰を指しているのか分からず、ぽかんとしていると、元晴の名前を出された。

「何でって、そっちこそ何で元晴?」

「幼馴染じゃん。超ぴったりでしょ。」

「いや、幼馴染だからっていうか。」

私は口ごもった。幼馴染だから付き合う理由も、付き合わない理由も思いつかなかったからだ。そもそも元晴のことは幼馴染で友達だと、陽菜には紹介したはずだ。好きだなんて、一言も言ったことがない。だというのに、陽菜の中では私達が付き合っていてもおかしくない関係性であると変換されていることが、不思議でならなかった。

「えー、幼馴染こそだと思うけどな。カップルが別れる原因って、大体相手の嫌なところに気付いちゃったからでしょ。幼馴染はその心配がなくて丁度良い。相性もばっちりじゃん。」

私は答えあぐねて「うーん。」と曖昧に返事をする。相性がいいというには、友達としての相性と、恋人としての相性、その二つに使う物差し自体が違うのだから、比べようがない。そもそも、その物差しで測ったことすらないのだ。

「でもさー、告白シーズンがこれから来るじゃん?そしたら茉央ちゃんにその気がなくても、されちゃうかもよ、告白。」

「告白シーズン?何で?」

「ほら、もう三年になるでしょ。受験始まったら恋愛にうつつ抜かしてる暇無いし、下手したらお互い一人暮らしとか浪人とか、もう同じ環境じゃなくなっちゃうじゃん?まあだから今が駆け込みラストチャンスっていうか、周りもそろそろ付き合いそうなところに発破かけて、成立させちゃおうみたいな。そういう雰囲気っていうか、ノリみたいなのが最近凄いんだよね。結局ただみんなカップルが見たいの。で、茶化して自分の寂しさ誤魔化したいの。私もだけどさ。めでたいし、騒げるし、一石二鳥じゃん?」

 明け透けな陽菜の物言いは分かりやすいが、面食らってしまう。確かに高校生にとっては他人の関係性など己の暇つぶしに過ぎないのかもしれない。実際その状況に置かれたら私も同じことをするのだろう。ただ自分がその当事者になるのかもしれないのだということを考えると、微かに恐ろしさが積もっていく。

「ねえ、もし古戸君に告白されたら断っちゃうの?」

陽菜の口調はどこか寂しそうだった。元晴への同情というよりかは、身近なスキャンダルが潰れてしまったことに対する残念さが上回っているのだろう。そういう分かりやすいところは好きなはずだったが、今は煩わしかった。

「どうかな。されてみないと分かんないかも。断りづらいしなー、幼馴染だから。」

「便利だねぇ、幼馴染。それで好きじゃないんだから分かんないな。」

「いや、好きじゃないってわけじゃ、ないんだけど。」

好きか嫌いかで分けたら、これだけ長いこと一緒にいるのだから、好きに決まっている。だけどこの感情を簡単に恋愛感情だと言い切るには、勿体無いほど潔白なのだ。

 この話を締めくくるかのように、陽菜は「青春だねえ。」なんて言葉を付け足した。それを聞いた私は、心の中で解答用紙にバツをつけるように、こっそりと否定した。違うのだ。元晴は青くなんてない。青なんかに染まってしまったら、小麦色で笑っていたあの晴正はどこかへ行ってしまうのだ。手を繋ぐと、互いの焼けた肌が境目なくピッタリくっついていたあの頃は、無くなってしまうのだ。だから、この感情を友情以上に汚してはいけない。恋なんて複雑なエキスを含んだら忽ち腐ってしまう。そんな繊細な感情の上で成り立っているのだから、元晴にすらそこを踏み荒らす権利はない。ない、と思っていたのだ。


「元晴はさ、じゃあ何で私と友達なの?」

 だって、元晴と恋人になるために関係を築いていたわけではない。友達なのだ。友達として続いていくと思っていた関係性が急に断ち切られたのだ。返事次第で、というかもう返事以前の問題として、私達の関係性はここで変わってしまうというのがわかってしまう。怖かった。裏切らないでくれ、と心が必死に血を吹きながら訴える。変わらないでいられると思っていたことが変わるのは、足元が崩されたように恐ろしかった。元晴がまた遠くに行ってしまう。私は今が変わることにこんなに慄いているというのに、元晴は前へ進もうとしている。でも、その元晴の手を取ったって、追いつけるわけでもない。私はどうしようもなく子どもで、臆病なのだ。みんな、元晴を含め大人になっていく後ろ姿をただ眺めているだけだ。

「私達は恋人になるのが前提で、友達でいたの?今までのは全部準備期間だったってこと?」

口にして、我ながら酷い言葉の数々だと呆れかえる。こんなの、お互いを傷つけるためだけに発せられたようなものじゃないか。陽菜の明け透けな言葉など、可愛らしく思えてくる。

「そういうことじゃないけどさ。」

 元晴が必死に反論しようとして、酸素を求めるように何度か口を開閉させて、そして閉じた。今の私の言葉に言えることなどなかったのだろう。これまでどんな関係性を積み上げてこようと、最後に告白なんてされたら、今までの思い出達はただの化石になってしまう。酷くずるい言い方をしてしまった。だけど、虚しさが怒りを簡単に凌駕してしまって、今の感情を拾い取ることが出来なくなっていた。

「あのさあ、元晴。」

お腹に力を込めて、なるべく声が響くように意識する。鞄を握る手は震えていたかもしれない。

「別に、元晴は私が彼女でも友達でもいいのかもしれないけどさ。私の中ではそもそも、彼氏としての元晴と友達としての元晴、この二つに差があっちゃいけないの。私達がどんな関係であるにしろ、今までの自分達が蔑ろにされちゃ絶対にいけないの。」

元晴の表情が引き締まる。グッと力の入れられた口角を必死に開いて、元晴は「うん。」と声を漏らした。はあ、と一度熱い息を吐き出すと、指先から体温がすうと奪われていった。

「元晴のことは好きだけど、それは元晴が男子だとか、幼馴染とかそれ以前からある感情だから。それが恋愛感情に置き換わるなんてこと、あっちゃいけないんだよ。私達幼馴染だし、友達なんだから。」

「それは、知ってたよ。」

元晴は緊張を解くように、ふっと息を吐き出した。

「茉央は俺のこと好きだろうけど、いつか他に好きな奴出来るだろうし、俺とは絶対付き合わないんだろうなって思ってた。」

「すごい自信。」

私が揶揄うように言うと、「当たってるくせに。」と返した。

「俺に向いてる感情が恋愛感情じゃないことぐらい、分かるよ。何年一緒にいると思ってんだよ。」

 元晴は無理して笑っていた。さっきの私の表情にきっとよく似ていただろう。長い間一緒にいると似てくるというけれど、本当なのかもしれない。だけど私達はあまりにも近すぎて、慢心してしまった故の出来事なのだ。近いことは仲の良さの証拠ではあるが、仲の良さは互いに秘密がないことの誓約にはなり得なかった。元晴には元晴だけの感情が備わっていて、私の恐怖は私だけのものだった。そもそも自分と同じであるということを、相手に望むこと自体甘ったれた考えだったのだ。

「だけどさ、やっぱり俺茉央のこと好きなんだよ。友達とか幼馴染とかじゃなくて、俺が隣に居ていいって、絶対的な特別が欲しい。」

私はやっと、元晴の目を見ようと思った。元晴の目に映る全てを見ようと思った。昔はもっと近かったはずなのに、今や私は元晴を見上げるだけで首を痛める始末だ。あの頃の元晴とは違って額には面皰があるし、顎にはうっすら髭が生えている。だけど、表情の読み取りずらい眼差しも、形のいい頭も、薄い唇もそのままだった。

「俺達中学校は違ったけど、今も小さい頃と変わんないまんま話してくれるじゃん。それが俺、嬉しくてさ。」

ぼこりぼこりとそこだけ別の生き物みたいに動く喉仏を見つめる。小学生の頃は、俺なんて似合わないと思っていたけれど、今はその言葉がすんなりと耳に馴染む。

「高校生になって、あっという間に三年になる日が近づいて、どんどん大学どうするかとか、将来どういう会社に就職するとか、そういうこと考えなきゃいけなくなるじゃん。今でも精一杯なのに全然未来のこととか考えられなくて、だから、そういう時に昔のこと思い出すと気が楽になるんだ。」

元晴が二、三度瞬き、睫毛がふわりと宙を舞う。そうか、と私は空気を揺らすように息を吐く。もしかしたら、元晴の成長を受け止めきれていないのは、元晴自身も同じなのかもしれない。絶え間なく変化し続ける流れの中に溺れているのは、私だけではなかったのだ。

「昔からの自分を知ってるのは茉央しかいないから。他の友達にも素の自分は見せてるけど、やっぱり本当の自分っていうのは何層にも重なってて、その一番深くを見続けてきたのは、茉央なんだ。」

私を見つめる二つの黒曜石みたいな目が、不安気に震える。元晴の泣きそうな表情なんてものは昔散々見てきたはずなのに、なんだかそれは私の心を酷く揺さぶった。

「ごめん。あんなこと言って。」

あんなこと、は多分告白のことを言っているのだろう。私はその言葉だけで、元晴と一緒に泣いてしまいそうだった。それだけは、元晴に言わせてはいけない言葉だと分かっていたのに。だけど、告白自体私達の関係を壊しかねない、元晴が言ってはいけない言葉でもあったのだ。

「謝んないでよ。」

「うん。ごめん。」

「だから謝んないでって。」

 元晴はその場で息を吐きながらしゃがみ込んだ。そうだ、元晴はいつも堂々としていて、人の目なんて気にしないという風に私の前を歩いている癖、案外泣き虫なのだった。私は元晴に近づいて、頭を乱雑に掻き回した。硬い毛先がちくちくと掌を突いてくすぐったい。元晴は止めさせようと手を振りかぶったが、暫し考えて動きを止め、ゆっくりと下ろした。


 プラットホームから階段を上り、改札を通る。学ランで強く目元を擦ったせいか、元晴の目元は赤い。もう次の電車に人が集まる時間だから、と元晴はその後すぐに立ち上がったが、鼻声だったし、手も微かに震えていた。東口へと続く階段を降りていく。ロータリーに出ると、元晴は不意に立ち止まった。

「俺の恋愛感情はさ、もしかしたらずっと近くにいたせいで勘違いしてるだけで、友愛なのかもしれない。もしくは本当に純粋な恋愛感情なのかもしれない。でもさ、それは俺にも、誰にも分からないんだ。」

ならさ、と元晴はこちらを振り返った。

「友達でも、恋人でもなくてもいいからさ、何か一緒にいられる証明ってないのかな。」

元晴は真面目くさった顔でそう言った。眉間に寄った皺が、愛おしかった。への字口の唇が、風に揺れて靡く癖毛が、愛おしかった。この気持ちさえあれば、この関係性には何もいらない気がした。

 私は十年ぶりに元晴の手を取った。元晴もぎこちない手つきで、私の手を握り返す。少し汗をかいていた。本当は元晴が私の後ろをついてきているんじゃなくて、元晴が私の前を歩いていたのだ。それが酷く寂しかった。置いていかないでくれ、と何度祈ったか分からない。だけどそれは私が見たいように見た元晴の姿だったのかもしれない。元晴も人並みに恐怖し、慄き、立ち止まっていた。

「別に何も証明できなくても、しょうがないから一緒にいてあげるよ。」

何か証拠があるから特別性が担保されるのではない。そこにいること自体が、もう特別なのだ。私は繋いだ手から伝わってくる体温を噛み締めた。元晴の掌は昔よりもはるかに大きくなって、骨ばっている。一年中外でサッカーをやっているせいで肌は焼けていて、私の白い肌とはもう溶け合わない。だけど、この掌の暖かさだけは変わらなかった。

「そう。」

「うん。どうしてもっていうなら、名前の無い関係っていう関係だとでも言えばいいよ。」

「なんかそれ、矛盾してない?」

「矛盾してるくらいが、私達の関係性に似合ってるって。」

「適当だな。」

「適当だよ。知ってるでしょ。」

「知ってた。そうだったな。」

元晴は噛み締めるように、「うん、そうだったんだった。」と呟く。私は手を繋いだまま元晴の隣に並んだ。元晴の方が背が高いから、私の肩は上に引っ張られるし、元晴もかがまなければいけない。歩きづらくて仕方のないそれが、私達を繋いでいるのだ。

「大学受かったら、遊びに行くからさ、たまには帰ってきてよ。」

「うん。」そう答える元晴の声は随分幼かった。

何も私達を繫げる言葉が無くても、ずっとそばにいてやろうと、そしてそばにいてもらおうとひっそり決意する。切れても私達の関係を繋ぎ直すために、手を繋いでやろう。そして、手のひらから伝わる熱と自分の心臓の音を覚えておこうと誓った。

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