インク瓶

瀬乃 菊実

インク瓶

「いらっしゃいませ、キンギョソウ書店へご来店いただき誠にありがとうございます」


 目が覚めると、たくさんの本棚の並ぶ見知らぬ場所にいた。


 目の前には、赤い髪の毛を後ろで束ねた中性的な容姿の人間が一人。その人曰く、ここは書店らしいが、普通の書店のように本が美しく、そして見やすく整理されているわけではなく、文庫から図鑑サイズまで、さまざまな大きさや分厚さの本が雑多に本棚に入れられていた。


「私は自分の部屋で寝ていたはずなのですが、もしや夢遊病……?」


「そんなことはございませんお客様。ここは、この世にあって、この世にはないような書店ですのでお気遣いなく。本を必要とする人に本を届けるため、ちょっと物理法則やらこの世の理やらをすこーしだけ曲げて、お客様をお招きした次第です」


 ……わからないことが多すぎる。おそらく夢の中だろう。さっきベッドに入ったばかりだったし。いやあ、明晰夢とは珍しい。


「でも、私は買いたい本はすぐに買っているし、書店にもよくいって新刊の確認をしているから、これ以上ほしい本なんて今のところ無いけど」


「まあまあお話だけ聞いてくださってもいいではありませんか」


 書店員は、へらへらとした慇懃無礼な態度だ。体調が悪いのもあってのことか、ひどくいら立つ。


 しかし、その人は本棚から革表紙の立派な本やら雑誌やらを山のように取り出し、私に笑いかけた。


「これねえ、全部最近のとある4年間に出版された本なんです。ある条件を満たす本とか雑誌、挙げ句の果てにはメモ帳まで全部を集めた書店なんですよー、ここ。しかもここにあるほとんどの本はもう現実では読めないでしょうね」


「ずるい……卑怯だ。もう読めないなんて言われたらここに居座ってしまう。それで、ここに集められた本って、条件があるって言ってたよね? 絶版になったとか? でもそれじゃあメモ帳なんて含まれるわけがないか……」


 書店人は不思議そうに目をぱちくりとさせて、こう言った。


「おや、お客さんご存じない? 今から4年前に発売されて大ブームを起こした、と言っても通じない?」


「4年前……。申し訳ないけど、流行には疎くてね」


「疎くても知ってるはずなんですけどね。もしや記憶喪失とか? まあいいでしょう、それは『名作メーカー・インク』という商品でして」


「なんだその、子供騙しみたいな滅茶苦茶にダッサいネーミング」


 すると書店員は、一瞬信じられないような顔をすると、突然大笑いをはじめた。


「っぁははははハハハハハ! こりゃ傑作だ。本当に知らないんですか。そうです、ネーミング自体はすごくダサいんですけどね、どストレートすぎるというか」


「だからってそんなに笑う必要もないでしょ。仮にも仕事なのに、そんなので今までやってこれたの?」


「だってここ客少ないですもの。不真面目にもなりますって。まあいいでしょう。そのインクについてご説明させていただきます」


 頼んでもいない説明が始まった。あきれを通り越して、心の中にぽっかりと広い空洞があるかのようだった。もうどうでもいいので、おとなしく説明を聞くことにする。


「そのインクはとある小さなインク工房が作った、万年筆用のインクでした。黒に赤に、万年筆だと定番の色であるブルーブラックなんかもあったそうです。ここまでだと何の変哲も無いただのインクですね。ですがこのインク、『名人メーカー・インク』という名前のように、文章の名人がこれを使って文章を書くとあら不思議。文章に書かれた内容が、目の前に現れるのです」


「文字がバーって出てくるような感じ?」


「いえいえ、例えば探偵の出てくるミステリーがあるとしましょう。ああ、もちろん『名人メーカー・インク』で書かれたやつです。その小説が傑作であれば、読者の目の前には探偵事務所、事件現場、犯人を追い詰めている探偵、その世界にあるほとんどの物が目の前に、幻を見ているかのように浮かび上がるのです」


「そんなすごい技術があったんだね」


「ほんとですよ。なぜ知らなかったんですか? まあともかく、次です。物には必ずメリットもデメリットもあります。『名人メーカー・インク』で書いた駄文は、書いたそばから消えていってしまうのです。なんというか、編集者に近い役割だと捉えられていたみたいですね。

 それで、これは最初はいわゆる物書きさんとか万年筆好きの人の間で流行っていたんですが、だんだんいろんな世代に流行り始めました。全国のありとあらゆる学校に文芸部ができたくらいです。それから、このインクの入ったボールペンが売り出されたり、プリンター用のインクが開発されたりしました」


「そんなに流行ってたのに、なんでそれらで書かれた本が一冊も残ってないの?」


 流行り物だとしても書物は書物だ。何事もなければずっと保存されるだろう。


「それがですね、いろいろあったんですよ。すでに出版されている本を勝手に『名人メーカー・インク』で写したり、インクの原材料が、消えた駄文や有志の作家から寄付された没原稿だったり。でも決定的な原因は、読者が文章に見せられた幻から戻れなくなるっていう事件でした」


「普通だと戻れるんだね」


「もちろん。読者が幻を見ていても、周りの人から見れば本を読んでいるのと変わりないですし。それでですね、その事件の詳細はこうです。

 あるアマチュアの小説家がものすごい傑作を書いたんです。『名人メーカー・インク』を使って。そして、さっきも言ったように、読者がその小説の世界からかえって来られなくなったんです。なんでも、本を手放させても、ずっと虚空を見つめたり、また突然眠ったきり目覚めなくなったりしたとか。それでいよいよ、政府がインクの生産を禁止し、『名人メーカー・インク』で書かれたあらゆる書物の所持を禁止したんです」


まるで童話のような奇妙な現実だなあと思った。


「それじゃあなんでここはその本を保存できているの?」


「言ったでしょう。ここ、キンギョソウ書店は現実にあって、現実にはない場所です。この書店すらも、『名人メーカー・インク』で書かれた小説の一部なんですよ」


 ということは。


「私は寝る前に読書なんかした記憶はないんだけど……。もしかして記憶が飛んでる?」


「そーです。まあこれだけ繰り返していたら仕方ないですね。正直に申し上げます。先ほど述べた大事件のきっかけとなった傑作の世界、それがここです。この物語は、『名人メーカー・インク』についての実話を元に書かれたファンタジーです」


「やっぱりか……。今カマかけてた。ごめん。で、登場人物さん? この本がこうなった原因ってわかっているんですか? 過去の作品を書き写したときはこんなことが起こっていなかったんなら、この作品が傑作とされたこと以外にも原因があるはずでしょう」


 こんなに重要なことを今まで言っていなかった書店員に嫌気が差し、口調がさらにキツくなってしまった。


「鋭いお客さんだ。実はこの作品、未完なんですよ。何かの事情で未完のまま出版されてしまったみたいでして。そのため僕もこんなお喋りしかできないみたいでしてねえ。しかもあなたはこの世界を何度もループして、いつもイライラしながらこの問答をしているんですよ」


「今までの話にループになりそうな要因無かったけど」


「ああそれです。いつもお願いしているんですが、あなたにはこの物語を終わりまで書いていただきたいんですよ。末尾に適当なボールペンで『おしまい』って書くだけでいいんですけど、お願いできますか」


「いいけど、どうやってここから帰るの?」


「ここにある人の日記帳がございますのでこれで擬似的にお帰りいただけます。そこでこの物語を書き換えてください。多分通用します」


 長話にも飽きてきたので了承し、日記帳を開いた。


 目覚めると、ベッドの上に横たわっていた。あろうことか、一冊の文庫本が伏せて置かれている。あの置き方は本が傷むというのに。


 拾い上げて、ページが傷んでいないか確認する。


 しかし次の瞬間、手に持っていたはずの小説はなくなっていて、目の前にはただたくさんの本棚が並んでいた。


 ああ、また失敗したんだ。


 うっかりミスによる絶望とともに、ゆっくりとまぶたを閉じた。

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