明日も甘い温もりを
紫野一歩
明日も甘い温もりを
陽が落ちると少し肌寒く、空が高くなり始める季節。
コツコツと自分の歩く足音が妙に響くなと思っていたら、いつの間にか住宅が立ち並ぶ細い路地にいた。
振り返っても同じような景色で、どうやら長い事歩き続けていたらしい。
スマホで地図を確認すると病院からの最寄り駅はとうに過ぎていて、このまま歩いた方が自宅までは早そうな所まで来てしまっていた。
我ながらぼんやりとしすぎた。
二十時間労働の後に二駅散歩をすることになるなんて。それもヒールで。深夜に。
明日に引きずらなければいいけれど。
季節の変わり目はどうしても体調を崩す人が多くて、病院は人手不足になりがちだ。私まで倒れたら、看護師はきっと足りなくなってしまう。気を付けないと。
日付も変わり、静かな夜。
塀の向こうには何組もの家族がいるはずなのに、気配すら感じない。シン、と静まり返っている路地を一人歩くのは何だか心細かった。
コツコツと私の足音が響く。
ジジ、と切れかけの外灯が明滅していた。
「眠いなぁ」
独り言はすぐに路地に消えた。
しばらく歩いていると、通りの先に橙色の灯りが漏れているのを見つけた。
住宅塀の隙間に組木のように押し込まれたレンガ造りのそれは、どうやら小さなBARのようだった。
はめ込みの窓は擦りガラスになっていて中の様子はよくわからないけれど、人影が時折揺れるのが見て取れる。
ぽんやりと橙色の灯りが揺れるその様子は、何だか金魚が泳いでいるようだった。
「どうですか、一杯」
不意に、声が飛んできた。
驚いて少し飛び跳ねてしまったのを誤魔化しながら声の方へ顔を向けると、扉を開けている女の子が立っていた。小柄な体には少し大き目なカーディガンを着ていて、橙色の灯りに照らされているのと相まってハロウィンのお化けみたいだ。目が合うとお化けの女の子は小首を傾げた。
肩まで伸びた髪がふわりと揺れている。
「何でもありますよ。きっとおねーさんが好きなお酒も」
「……ありがとうございます。でも明日も仕事なので」
「えぇぇ。こんな時間まで働いて? 大変ですね」
「いえ。いつもの事ですから」
私が答えると、何か不満だったのか、女の子は眉根を寄せて顎をむにむにと触り始めた。そのまま何度か、私の頭のてっぺんからつま先まで視線が往復する。
「ココア淹れますよ」
「……え?」
「ココアなら二日酔いになりませんよね?」
「ええ……まぁ……カカオでは酔いませんね……」
「それはラッキー。どぞどぞ。狭苦しいところですが」
女の子はにっかり笑って店の中に戻って行った。
開け放たれた扉からは、ゆったりとしたジャズが聞こえて来て、それに合わせて奏でるように、食器の擦れる音が重なっている。
こんな時間に随分賑やかだなぁ。
私が入ってもいいものか。
何せ私は一人でBARに入った事など無く、小洒落た音楽も、気の利いたカクテルも、語れる趣味も、物語も、何一つ知らないのだ。話せることといえば、どうやったら注射を打つ時に静脈を上手く浮き上がらせられるかだとか、夜間の院内見回りは鼻歌を歌いながらだと怖くないだとか、器具の値段が来月から値上がりするから購入時は気を付けようだとか、そんな狭くて白くて、薬品の匂いのする話ばかり。
何だこの女は、なんて思われたりしないかしらん。
「な~に突っ立ってるんですか! 冷めちゃいますよぅ!」
ひょっこりと顔を出した女の子がこちらを睨みながら唸る。
「ほら、早く早く!」
手を取られて攫われるようにして私はその日初めて、BARというものの中に足を踏み入れた。
○
意を決して入った私が拍子抜けするほど、このBARは柔らかい空気で満たされていた。カウンター五席、テーブル席が四つある、奥に広い空間。ほんのりと木の香りに包まれていて、お客さんはいるけれど全体的にゆったりと静かな雰囲気が漂っている。
カウンターの中では白髪をきっちりと後ろでまとめたおじいさんがグラスを拭いていて、目が合うと「ごゆっくり」と笑いかけてくれた。
きっとマスターだ。
カウンター席には小説を読んでいる女性が一人だけで、私の事は気にも留めていない様子だった。BARでは社交的に何かを話さなければいけないのかしらと不安だった私はその女性を見て少しホッとした。どうやら私のままでもいいらしい。
席に着くと、コトリと静かな音を立ててマグが置かれた。たっぷりの湯気からは甘い香りがしている。
「私が練ってみたんですよ!」
女の子はそう言ってにこりと笑うと、別のテーブルに行ってしまった。
「美味しい……」
ココアは甘く、ほんのり蜜柑の香りがした。指先まで、温かさが染みていく。
思えば、こうやって口に入れる物をゆっくり味わうなんてことをしばらくしていなかった気がする。夜勤も多く、休みも不定期で、せめて食事は気を付けなければと、気にするのは栄養のバランスばかり。自分の食べる数字ばかりを気にして安心していた。
昨日は何を食べたっけ。
夢中でマグに口をつけていたらいつの間にか空になっていた。ぽかぽかしてきて、身体が緩んできて、さっきよりもお店の中を流れる音楽が近くに感じる。
薄寒い外に長くいたからだろうか。心地よいまどろみがやって来て、何だか夢か現かが曖昧になるような感覚。
「どうでした!?」
トレーを持った女の子がずいと私の顔を覗き込んでくる。カウンターに座った私よりも目線が下の、小柄な体。満面の笑み。
間接照明で少し薄暗い店内で、この子だけが向日葵みたいに明るく見える。
「おかわりもありますからね! ゆっくりしてってくださいね!」
「青葉ちゃん、お姉さんのペースがあるから」
マスターの言葉に「おっとと」とトレーで口を塞ぐ青葉ちゃん。反省したように咳払いをして、トトン、と足を踏みかえる。
「おねーさんすっごく疲れてるように見えたので! 甘くて美味しいもの飲むとじゅわ~っと疲れが溶けますからね!」
私の場合ですけど、とはにかむように笑った。
この笑顔とよく似た顔を私は時折目にすることがある。
注射を頑張った幼稚園生や、リハビリが終わって退院する男の子や、手術を終えた女の子がこんな笑い方をする。頑張った子達だ。その子達に「頑張ったね」と親御さんや私が声を掛けると、恥ずかしいような誇らしいような、そんな笑い方をするのだ。
私はその笑顔が好きだった。
青葉ちゃんの髪を撫でると、ふわふわと柔らかかった。少し癖があるけれど、みずみずしくて艶やかで、彼女に似合っている。私の指先はココアのおかげでぽかぽかとしているけれど、それ以上に青葉ちゃんは温かい。
「えらいね……いい子だねぇ」
撫でながらそんな言葉が口を突いて、そして、ハッとした。
ここは病院でなくてBARで、青葉ちゃんは小さな患者さんではなくて初対面の店員さんだ!
青葉ちゃんの笑顔はいつの間にか消えていて、代わりにポカンと呆けた表情が張り付いている。
「……あ、あ……ごごめんなさいね。あの……その……」
私は何をしているのだ! リラックスしすぎて半分夢の中に足を突っ込んでしまっていた。甘くてふわふわで居心地が……いやそんな言い訳を数え上げている場合ではない!
青葉ちゃんは口を開けたまま頭を押さえて、こちらをポケッと見つめている。その視線が痛いくらいに私に刺さるのでどう取り繕ってよいかわからず、わたわたと手を空中にうろつかせるばかり。
「いい子……?」
オウムのように私の繰り返す青葉ちゃん。いくら小柄だと言ってもBARで働いているのだからきっと二十歳は超えているはずだ。その女の子に向かって飛び切りの子供扱いを初対面でかましてしまうなんて。しかもその子は私が疲れているのを気遣ってくれていたというのに、それを偉そうに「えらいね」なんて……私の馬鹿!
せっかく素敵なお店に巡り合えたと思った矢先に、私自らお盆をひっくり返して台無しにしてしまうとは。
「本当にごめんなさい。ココア、美味しかったです」
頭を下げると同時に、ボーン、と柱時計がなった。いつの間にか午前一時を回っていたらしい。これ以上は明日の仕事に響いてしまう。
まだ真っ白のままの頭で何とか会計を済ませて、BARを出る。
先ほどよりも更に寒くなっていて、落ち込んだ体には少し辛かった。
……コート、そろそろ出さなきゃな。
はぁ、と溜息を吐くとココアで温まった息が白く漂った。
本当に美味しいココアだった。
美味しいココアだったのに……。
「あの!」
寝静まった民家の路地に、青葉ちゃんの声が響いた。
振り返ると彼女はお店から半身を出してぴょんぴょんと跳びながら、こちらに手を振っていた。
「また来てください! 明日も! 明日もやってますよぅ!」
絶対来てくださいね! と言ってくれた小柄なシルエットに私は手を振り返した。
遠くて良く見えなかったけれど、彼女は笑っていたように思う。
まだやっぱりコートを出すには少し早いかもしれないな。
なんて思った。
○
出勤日が少し楽しくなったのはこのBARのおかげだろう。
扉を開けた時に灯りが迎えてくれることが嬉しい、そんないつの日からかすっかり忘れていたことを思い出させてくれる。
「亜衣さん! こっちです!」
青葉ちゃんとはすっかり仲良くなって、ココアに添えられるナッツをこっそり多めにしてくれる。私が行く時はいつもいるので偶然かと思いきや、何てことはない、ほとんど毎日シフトが入っているだけらしい。
「大学? ……う~ん、大丈夫大丈夫。要領よく、です!」
最低限の単位はばっちり取っているので、他の時間はBARにいるのだとか。まだバイトをして一年らしいのだけれど、確かに動きはエースのそれだ。
お客さんの注文を手ぶらで受付け、ついでにテーブルを拭いて、ご機嫌過ぎるお客さんを窘めながら、マスターと一緒にシェーカーを振る。本当にくるくると良く働くので、何だかダンスを眺めている気分になって来る。甘いココアと落ち着いた音楽に包まれながらそんな彼女を見ていると、次の日も頑張れるのだ。
ただ一つ、気掛かりなことがある。
「どうですか? 今日のはミルクをちょっぴり多くしてみました」
「うん。これも美味しいよ。甘さ控えめな分、まったりとしていていいと思うな」
「本当!? 昨日から考えた自信作なんです! 亜衣さん好きかな~って!」
「うん。これも好きだなぁ。本当、青葉ちゃんのココアはどれも違って美味しくてびっくりしちゃう。ありがとう」
「……そうですか。……また美味しいの考えますね!」
これだ。
最近、オリジナルココアの感想を言うと、微妙に青葉ちゃんの顔が曇るようになった。すぐにまたいつもの笑顔に戻るのだけれど。
通い始めた当初は私の感想を聞くたびに喜んでくれたのに、今は何だか不満げな顔が一瞬彼女に現れる。
私もそれに気付いてから何とか美味しい以外の感想を付け加えるようにしているのだけれど、どうしても彼女を満足させられないようだった。
国語の勉強はそこそこ真面目で、でもそこそこ不真面目だった私にとって、初めて心の底から現代文を学び直したいと思った瞬間でもあった。
嗚呼、神様! 私に語彙力を! さもなくば死を!
そしてそれとは別にもう一つ、新たな問題が私を悩ませていた。
お部屋が少しずつ汚れてしまっている問題だ。
理由は簡単、帰ってシャワーを浴びた後、すぐにぐっすりと寝てしまう事が増えたからだ。今までは寝ようと思っても眠る事が出来ない事が多かったので、寝られない時間を家事に充てることが出来ていた。
このBARに通い出してからというもの、シャワーを浴びてから眠気が襲って来るまでの時間といったら、まぁ目にも止まらぬ早さなもので、私はその眠気に気付く間もなくベッドに倒れてしまうというわけで。
お部屋の隅に埃がほんのり溜まって来たのに気づかないフリをしていたりする。
少し、BAR通いを控えようかしら。
このまま通い続けるといつまで経っても部屋は片付かないままだし、それに、青葉ちゃんに嫌われちゃうかもしれないし。
きっと青葉ちゃんは、私の代わり映えの無い感想を毎日のように聞くのにうんざりしているのだと思う。だから表情が翳ってしまうのでは?
最初の頃は喜んでくれたのを思い出す限り、マンネリで無ければまた純粋に青葉ちゃんも喜んでくるようになるのでは……と思う。
私もほんのちょっぴり感想を言うのがプレッシャーになって来たところだ。考えれば考える程、良い機会のような気がしてきた。
別にもう来ないわけではない。少し時間を空けるだけだ。
「ありがとうございました」
お会計を済ませて外に出る時、いつものようにマスターの声が背中に当たった。私は振り返って頭を下げる。
いつものやり取り。
お店を出て三歩ほど歩く。後ろから扉が開く音がする。
「また明日も来てくださいね!」
元気な青葉ちゃんの声が掛かる。私は振り返る。
『うん! また明日ね』と言えばいつものやり取り。
「ごめんね、しばらく来れないかも」これでいつもと違うやり取り。
「……えっ」
逆光でよく見えなかったけれど、青葉ちゃんの顔が凍ったように見えた。扉前の小さな階段にちょっと躓きながら、青葉ちゃんがこちらに駆け寄って来る。これもいつもと違う光景。
日付が変わる近くの、冷え込んだ路地。吐く息は白く、もうすっかり冬めいて、空気が乾いている分ちょっとした足音や衣擦れの音が大きく響く。
いつもはBARの中に消えてしまう青葉ちゃんが、目の前にいた。そんな薄着で、外に出て来てはダメなのに。
「……どうしてですか?」
BARの暖色の光にいる青葉ちゃんとは違う印象。少し固い表情も相まって、か弱く壊れやすそうだ。
真っ直ぐな目は健在で、力強く私を見つめている。
「また病院忙しくなるんですか?」
「うん。そう」
「嘘ですね」
口を尖らせてこちらを睨む青葉ちゃんは、いつもよりも幼く見えた。いや、いつものテキパキとした様子がこの子を大人びさせているだけで、今の姿が年相応の姿だろうか。
それにしても、鋭い子だ。
私は自分のマフラーを青葉ちゃんの首に掛けて、丁寧に結ぶ。BARの中は温かいので青葉ちゃんは半袖。こんな寒空の中に居させるなんて気が気ではない。
長引かせてはいけないな。はぐらかす時間は無い。
「青葉ちゃんが大変そうに見えたから」
結び終わったマフラーをポンと叩いて、そう伝えた。
「大変?」
青葉ちゃんが首を傾げるのを見て、おや、と思った。
図星なら少しは気まずそうな顔をするはずなのに。オブラートに包み過ぎたかしら。
「私のココア作るの大変でしょう? それなのに私あんまり美味しいって伝えられてないから」
「へ? いやいや! いつもアレンジしたとこ丁寧に褒めてくれるじゃないですか! 亜衣さん、食レポ出来るんじゃないかな~とか思ってますよ、私!」
今度は私が首を傾げる番だった。何でか話が噛み合わない。
そんなはず無いと思うのだけれど。だって、あの表情は
「いつも不満そうな顔してたのは……?」
「……えぇ?」
不思議そうな表情を浮かべた後、何かに気付いたかのように、パン、と青葉ちゃんは自分の両頬を叩いた。
「嘘、私そんな顔してました!?」
「……うん。だからあまり良い事言えてないと思ってたの。今も気遣ってくれてるんでしょ? 食レポなんて私はとても出来ないんじゃない?」
「いや、気なんか遣って無いですよ! 本当にいっぱい色々言ってくれてますし……」
「じゃあ青葉ちゃんは何が嫌なの?」
「うう……」
青葉ちゃんは口をパクパクと動かしていた後、下を向いてしまった。もじもじと自分の指をつまんだり離したりと忙しなく動いていたけれど、しばらく沈黙が流れた。
「だって……」
音の無い空気に耳が慣れ始めた頃、青葉ちゃんがまた口を開いた。
「だって亜衣さん褒めてくれないから……!」
開頭手術で私の脳を覗いたら、きっとクエスチョンマークで埋め尽くされていた事だろう。
いやいや、さんざ褒めていたと思うのだけれど。確かに言葉は拙かったかもしれないけれど、褒めているかいないかわかる程度の言葉は選べていたはずだ。
「いつも言ってたの、褒めてるつもりだったんだけどなぁ~……?」
「違います! そういうんじゃないです!」
「ど、どういう……」
「亜衣さん、あれから頭撫でてくれないもん!」
アタマナデテクレナイモン――!?!?!?
開頭手術をするまでもない。
きっと今、私の耳からはクエスチョンマークとエクスクラメーションマークが大量に漏れ出している。
何も言葉に出来ない私を尻目に「亜衣さん!」と青葉ちゃんがぐいと迫って来る。ほんのり体温を感じる程に近い。
「私いい子じゃありませんか!?」
「あ……と、とってもいい子よ」
「じゃあはい!」
私の手を取り、青葉ちゃんは自分の頭に乗せる。
相変わらずふわふわと柔らかく、温かい。
言われるがままに頭を撫でると、先ほどまでの固い表情が溶け出すように、青葉ちゃんの顔に笑みが溢れた。
「えっへへ……」
……どうやら私はとんでもない勘違いをしていたらしい。
テキパキと動いてマスター顔負けの働きぶりを見て、勝手に「大人びている」という印象を固めてしまっていた。
初めてお店に来た時に、頭を撫でてしまった時の表情を、とんだ無礼に愕然としているものだと勘違いしてしまった。あの時青葉ちゃんが怒っていたとしたら、帰り際に「また来てください」なんて言うはずないのに。
手の中の青葉ちゃんは、ゆるゆると笑っている。
今にして思えば、大人びているところなんてなかったな。それもそれで失礼かな。
でも、「どうでしたか?」と感想を聞いてくれる時は、いつも頭を初めて撫でた位置にスタンバイしていたな。今思い返して、やっと気づいた。
くすぐったそうに笑う姿があまりに可愛くて、私はギュッと青葉ちゃんを抱き寄せた。そしてギョッとする。
寒空に晒された腕が氷のように冷たかった。
「あ、青葉ちゃん。早く戻らないと凍っちゃう……」
「もう少し」
「ダメよ。風邪引いたら怒るわよ」
「……じゃあ、明日も来てくれますよね?」
青葉ちゃんは私の胸に埋めていた顔をこちらに向けてニッと笑った。
「……それは、ちょっと」
「ど、どうしてですか!」
ここまで来たら取り繕うものもないかな……。私が正直にお部屋の惨状を話すと、青葉ちゃんは私の腰に巻き付けていた腕の力をギュッと強めた。
「じゃあ私が片付けしに行ってあげます!」
「……ええ? な、なんで?」
「だってそうすれば亜衣さん来てくれるでしょう?」
「でも、そんな事してもらうなんて悪いわ……」
「大丈夫です。私、いい子なので」
偉いので! と青葉ちゃんは笑う。
本当に元気を貰える笑顔をするな、と思う。
「でも……」
「行きます! でももリハも無いです! さもなくば――」
こちらを見上げていた顔が、さらにグッと近づく。どうやら背伸びをしたようだ。
吐息が掛かるほど近づいた青葉ちゃんが、そのままじっとり私を睨む。
「私、悪い子になっちゃいますよ」
「…………」
どうやら、私の負けのようだった。
腕の中にすっぽり収まるわがままが、とても可愛く見えてしまった。
既に青葉ちゃんに何を食べさせてあげようか、献立を考えている自分がいる。青葉ちゃんが私の家にいるのをもう想像してしまっている。
悪い子も見てみたい気はするけれど、ひとまずは私のご飯を食べて笑う青葉ちゃんが見てみたい。
「……じゃあ、そうね。また明日」
私の言葉に、青葉ちゃんは満足したようだった。
笑いながら離れて、マフラーを外し始める。
「明日も遅いですよね? お泊まりセット、用意しておきます! お掃除は時間いっぱいいりますよ~?」
フフフフフ、と笑いながらマフラーを私の首に戻して、青葉ちゃんはお店に戻って行った。
明日早速!
……と、驚きつつ、嬉しくなっている自分にもっと驚く。
「あ! 明日もココア、新しいの考えておきます!」
扉が閉まる寸前、青葉ちゃんがそう言って手を振って来たので振り返した。
明日のココアは何だろう。もうきっと、ココアのメニューだけで一ページ埋められるくらい、色々なアレンジを味わった。今度改めて、メニューを作ってもらおうかしら。
パタン、と閉まったドアと共に、また静寂がやって来る。
扉の向こうの橙色の灯りがゆらゆら揺れているのをしばらく眺めていたけれど、冬の空気が早く帰れと冷たくせっつくので、私は踵を返した。
寝静まった、静かな路地。
「いい子だねぇ」
そう呟くと何だかよくわからない笑いが込み上げて来た。
首に巻かれたマフラーが、まだ温かかった。
明日も甘い温もりを 紫野一歩 @4no1ho
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