空に沈む

あおさだ

空に沈む

 空に沈む、は隠語だ。

 カタカタとボールペンを出し入れする音が鳴る。今日はお盆の前日、暑苦しくあるはずのこの世界は、涼しさに包まれていた。彼女は進路相談の紙をぺらぺらと揺らしては、包めて後ろのゴミ箱へ見ずに入れた。


「真面目に考えろよ」

「分かってるでしょ。私には必要ないのよ」


つまらない、そう言うように彼女は頬杖を付き赤玉を祀る神棚を見つめた。

 ここは彼女の家だ。俺らは畳の上に直で座り課題を進めていた。畳の香りが鼻に透き通り、アンティークな小物が多くあるこの家はとても落ち着くものだった。昼間の涼しい世の中でも一番暑い時間、彼女はこの時間を名一杯吸い込んでいた。へそを曲げた彼女は、テレビを机に置いていたリモコンで付けた。チャンネルを変えるわけでもなく、ただただ付けただけの彼女は、手を伸ばし机に頬をくっ付けた。テレビでは丁度ニュース番組で、お盆についての話題だった。


『いよいよ明日に迫ったお盆。今年も多くの通行が予想されます。みなさん体調には気をつけてくださいね。そういえば、お盆と言えば夏祭りですね。お盆ではかの有名な赤玉が祀られているという神社で——』


ピッ、という音が鳴るとテレビの音も画もさっぱり無くなっていた。テレビが消えた要因は一人しかいない。いつもなら怒るかもしれないが、俺は隣の彼女に眉を下げた。それに気づいたのか、彼女は机から顔を離した。目線を合わせようとはせず、机を見たままだ。


「慰めはしないで。もう、前から分かってたことなんだから。」

「なあ。……本当に空に沈むのか?」

「そんなこと言わないで! お姉ちゃんは、空へ舞ったの、何回も言わせないで!」


声を荒げた彼女は、悔しそうに顔を歪ませた。俯いた彼女は立ち上がり、歩き出す。

 外と俺たちを隔てる襖を彼女は開けた。俺も続いて立ち上がり、彼女の腕を掴む。


「おい、待てよ」

「ええそうよ。お姉ちゃんは空に沈んだのよ。……お姉ちゃん、私もいくわ」

「だめだ! おい、どこに行くんだ!」

「鈴を鳴らすのよ! 貴方にとっても、悪い話ではないでしょう?」


俺の手を振り払った彼女は走り出した。縁側を降り、向かったのは神社の方。サンダルを履いて出て行った彼女は、俺の靴を片手に逃げて行った。まずい、このままだと……。

 時刻は三時。深夜を回れば、儀式は始まる。神社の鐘の音は、どくどくと早鐘を打っていた。



 五年前のお盆の前日、彼女の姉は舞を踊った。そのことを彼女は、今でも悔やんでいるのだ。五年毎に行われる伝統の儀式は、異常気象を静めるための儀式らしい。儀式の仕方はこうだ。巫女服を着た娘は神楽鈴を手に伝統の舞を踊る。十一時から一時間、踊り続ける。そうすれば舞は終わり、儀式は終わるのだと言う。儀式に成功したのは、ある条件を満たした娘だけ。何故異常気象が起こるのかも、彼女が舞わなければならない理由も、俺は知ることが出来ないのだ。



 その日、深夜なんて起きれないと彼女の誘いを断り、俺は自分の家で寝ていた。すると深夜の一時頃、彼女が訪れて来たのだ。『お姉ちゃんがどこかに行っちゃった』と。最初は意味が分からなかったが、それからぱたりと彼女のお姉さんを見ることはなくなった。静かに息も無く、世界から消えたのだ。幼いながらに、意味を理解してしまった。



 襖を閉め、急いで玄関に向かう。余っているサンダルを履き、彼女の家を出た。早くしないと、彼女すら居なくなってしまう。山奥にある神社へ向かって、俺は走り出した。



 人通りが賑わってくる表参道。お盆の前日、儀式があるのに加え夏祭りという大々的なイベントが行われるこの神社は、三時からかなりの賑わいを魅せていた。軽いサンダルなんて履いてくるものではなかったと、走った所為で流れて来た汗を拭いながら思う。今更家に戻ることは出来ない。彼女は社殿に向かっただろうし、準備をし始めたら追いつかない。鳥居に一礼をし、一歩踏み入れる。その瞬間、一気に涼しくなったような気がした。左側を通るように走り抜けていく。走り抜けると言っても、人通りが多く自由に動くことは出来ない。それどころか、サンダルを履いた俺の足は踏まれてしまう仕末だ。無造作に縦横に動く人たちは、まともに俺を社殿まで通させてはくれなさそうだった。


「そういえば、五年前の儀式から久しぶりに行われるらしいわね」

「ああ、あの一時間の舞だろ? 舞が終わればぱたりと消えんやから、面白いこっちゃあないね」

「そんなこと言ってはだめよ。儀式をする人は"空へ舞う"らしいのだから。」

「でも、そのお陰で世界は続いているのだろう? はよ暑くならんかなあ?」


お祭りではいろいろな噂が流れるものだ。二人の男女が目の前を通り過ぎる。他人ごとしやがって。お前らがその身になれば嘆き世界を憎む癖に。悪態を吐きながら彼らの横を通り抜けた。するりと抜け出し、やっと階段が見えてくる。汗だくの顔を拭い、見えて来た社殿に向かって登り始めた。


 階段を登り切った先、ぽつりと波紋のように広がり姿を見せた社殿は、いつ見ても大きな構造物で、ずっしりとした建築は揺るがない存在感があった。木々が騒めき、まるで帰れと言われているようだ。でも、この中に彼女が居るのだ。すうと息を吸い、社殿に近づく。

 すると、とある一人が俺の前に現れた。いつから居たのか、凛とした佇まいで小首だけを傾げながら、意味あり気に口元だけ上げていた。髪が長く横髪は真っ直ぐ切り揃えられており、前髪の下から布を掲げ、瞳は見えない。それが不気味だ。手を慎ましく前に重ね合わせ、一つも動くことなく、口だけを開いた。


「お帰りください」

「彼女の関係者だ。入れてくれ。」

「あのお方は後継者。神がお望みなのです。貴方が関わっていいような器ではなくなったのです。お帰りください。」

「神……あいつは後継者なんかじゃない! さっさと返してくれ!」

「いいですか? あのお方が空へ舞わなければ、この世界は崩れゆくのです。それを分かっていらっしゃるのでしょう? さあ、あのお方があのお方でなくなる前に、お家へ帰るのですね。」


淡々と高めのトーンで喋るその人は、首を真正面に戻し、礼をする。もう話すことはないと間接的に言われてしまったのだ。それが悔しくて、ぎりぎりと歯を食いしばる。そんなこと、させる訳にはいかない。


「なぜ彼女なんだ! なぜ、そんなことをしなくちゃいけないんだ!」

「それは、あのお方が言っていたのでしょうか?」

「……それ、は」

「言っていないのでしょう? それは押し付けがましいというものですよ。相手が望んでいないことを善としヒーロー面をする。あー気味が悪い。愚かですねえ。自分を善としなくては自分の価値も見出せないなんて。あのお方が望んでいることなのでしょうか、それは。あのお方は貴方にとって自分の価値を見出すためだけのコマでしかないのですね。ああお可哀想に。あのお方は地獄に居たのでしょう。この偽善者が。さっさとお帰りやがれ。」

「……あいつが空に沈むのを、望んでるかも分からないだろう!?」

「あのお方は自分の意思で来たのです。望んだも同然でしょう。それに、あのお方は貴方の靴をお持ちでしたよ。余程追跡されたくないと見える。邪魔者は、出て行ってもらわないと。」


木々が静かに音を亡くす。人が一歩こちらに近付き、先程とは違う方に小首を傾げまた正面に戻すと、波紋が視界を遮り、神社はぱたりと消えてなくなった。明らかな異常事態に俺は目が可笑しくなったと瞼を擦るが、視界は何も変わらない。どちらにせよ、彼女に会うことは出来ない。


「…………」


偽善者、か。そうかもしれないな。ここで助けに行くのが正しいのか、分からなくなってしまった。

 時刻は狂い、もう十時を指していた。もう、彼女が舞を踊ってしまう。人気の少ない階段を降り、右側の一番下の段に座り込む。情けないな。曲げた足の上に手を置く。結局、彼女すらも失ってしまうのか。

 彼女が元気で走り回っていたあの頃を思い出す。あの頃は、何も曇りのない空の下を駆け回るだけでよかったのにな。短く切り揃えられた髪がふわりと舞い、彼女が振り返る。そんな、何一つない日常の中の彼女が俺の目には一番輝いていた。守りたかったのに。ああ、懐かしいな。

 ころころ、俯いていた俺の足元に一つ赤玉が流れてくる。きらりと太陽を透かした赤玉は、俺の心も見透かした。一つ手に取ると、それはただのビー玉。赤色のビー玉だった。呆気にとられているいるとまたころころと音がし、もう一つ赤色のビー玉が転がっていた。億劫な体に鞭を打ち立ち上がり、そのビー玉を手に取る。すると、またころころと転がっていた。まるで誰かに導かれているようだった。一つ、また一つと、手に取りながらその赤玉に着いて行く。ふと、ビー玉を光に透かせば光はぼんやりと赤色に変わった。この光を、俺は知っている。



 お姉さんが死ぬ六年前、縁側に座っていた彼女は赤玉を光に透かしていた。『何をしているの』と聞けば、彼女はにこりと微笑み『お願いをしているの』そう言った。お願いとは昔話に関係があるらしい。昔、悪いことをしたという冤罪で捕まったとある男はたまたま持っていた赤玉で許してもらったのだ。その赤玉はなんと神だった、と言う話だ。その話とこれに、一体何の関係があるというのだろうか。『世界が平和になりますように、って神様にお願いしてるの!』にぱりと笑った彼女は、赤玉を大切そうに撫でていた。



 赤玉を辿り切ると、もう表参道から離れており、今の季節らしく暑苦しさを感じた。汗を掻きながら前を見れば、ちょうど神社の裏側だった。どうやら周りを一周してしまったようだ。赤玉の道がなくなったと思ったが、そう言うわけではないらしい。ころり、という音ではなくごとっ、というような重たい鈍い音がし、前に視線を向ける。そこにあったのは俺の靴だった。よし、これでこのサンダルともおさらばだ。何もされてないか確認した後サンダルから靴に履き替える。

 そういえば、これは彼女が出て行く時持って行った物だ。もしかして、そう思い上へ視線を向けると、階段があった。不思議には思っていた。彼女が出て行ったのは三時頃。時間的に人通りが少ないとはいえ表から入ったのだろうかと考えていた。まさか、こんな抜け道があるとは。今度は登りやすい靴で軽快に上がって行く。階段を登り切れば、彼女に会えるはずだ。くたくたではあったが、俺は彼女に会いに行く一心で力を振り絞った。

 階段を上がった所に居たのは、彼女だった。木を見上げ、退屈そうにしていた。巫女服を来た彼女は、ただただ何もせず、ぼーっとするのみだった。


「なあ、行かないでくれよ」

「……あ、来てくれたんだ。優しいね」


俺の問いかけには答えず、こちらを見ようともせず思ったことをそのまま口にしたようにそう言った。もしや、一緒に帰る気などないのか。駆け寄ろうと一歩動いた時、彼女は口を開いた。


「来たらだめだよ。時が進んじゃう」

「なんで、なんで世界のためにお前が犠牲になるんだよ」


足を止め、目頭が熱くなるのを感じながら彼女にまた問いかける。そんな俺の声にさえ、彼女は眉一つ動かさなかった。


「あのね、私、神になるの」

「え?」

「神はね、なんでもできるのよ。だから、神様になって、この異常事態を抑えるの。お姉ちゃんのように。もう、会えなくなるかもだけど、許してね。ずっと、私は貴方の中に居るから。」

「なあ、待ってくれ。嘘だろ? 嘘って言ってくれよ!」

「あの時の約束覚えてる?」


凛と澄ました声で言った彼女。神になる、ということは世界の何処かには居るのだろうか。そして、あの時とは、何のことだろうか。いや、心当たりはあるのだ。彼女が泣いていた、あの頃のことだ。



 五年前のお姉さんが居なくなった翌日。まだまだ泣きべそをかいていた彼女に『一生隣に居てやるから泣くな』と言ったんだ。そう言えば彼女は、嬉しそうに『約束だよ!』と小指を差し出した。俺も、小指を彼女に差し出す。泣きじゃくったその目元は赤く腫れていたし、鼻も赤かったけど、彼女はまた俺の大好きな笑顔を見せてくれたのだ。



 過去のことを頭に思い浮かべてながら、彼女を見た。一生一緒、なんて今更叶うのだろうか。すると、彼女は空を見上げた。もう十一時になる頃だ。もう、儀式が始まる。


「あのね、私が舞を踊っている間、見ていてほしいの。綺麗に踊るから、見ててね。境内には入らないようにしながら、見てて。約束だよ!」


くるりと振り返った彼女は、にぱりとあの時の笑顔を魅せてくれた。吸い込まれるような、そんな笑顔には、涙が滲んでいた。その笑顔を見せた後、彼女は社殿に戻って行く。まずい、本当に会えなくなる。


「また、会えるよな」


震えた声でそう言えば、襖を開けようとしていた彼女の手が止まる。そして、こちらを振り返り、真っ直ぐこちらを見た。


「いつか、ね」


なんて、濁して彼女は戻って行った。


 社殿にある赤玉は、光をもう無くしていた。女は、光の無い赤玉を撫でる。目を光らせた女は前を見た。社殿の襖を開け、観衆の前に姿を現す。もう、とっくのとうに、彼女は人では無くなったのだ。さあ、後は舞をするだけだ。掻き消える声も願いも、神は聞き入れない。ただ、新たな贄が来るのを待つだけだ。


 表参道へ戻り階段を登り切るぎりぎりの所まで来れば、もう舞は始まっていた。真ん中で踊っているのは先程会話をしていた彼女だ。これが終われば、彼女とはもう会うことなどない。永遠の別れというものだろうか。手に神楽鈴を持ち、お面を付けて踊る彼女の本当の正体に気付くものなどいない。俺よりも一段上に登る親戚の人も、挨拶を交わす人も、同級生ですら気付くことはないのだ。一時間、過酷にも聞こえる時間は彼女との別れの時間としては短い。俺は、最後の一段を登ることなくぽつりと右側で彼女の舞を観ていた。彼女も、お姉さんの舞をこんな気持ちで観ていたのだろうか。助けることも、別れの挨拶も碌に出来ないなんて。

 コト、コト、と歩く音がこちらに向かってくる。左を見れば、俺を彼女と会わせなかったとある人が居た。相変わらずの姫カットで、顔を見ることは出来ない。こちらに来れば、一つ上の段で彼女を観た。


「ああ、愚かですね。ここの中に入る勇気もないとは」

「……入るなと言われたんだ。約束は果たすよ」

「入るな? ああ、なるほど。結局お話になったのですね。」

「怒らないんだな?」

「今更怒ったところでどうにもなりません。彼女は贄としてこの世から去ることに疑念も感じていないのですから。」

「……にえ?」


訝しげに聞いたのを勘づかれ、その人は小首を傾げた。何故だ。彼女は、神になって世界を救うと言っていたはずだ。もしかして。


「ああ、本当に人間とは愚かだ。一体彼女からどう聞いたのでしょう」

「待て。神になるんじゃないのか?」

「神? ……ああ、馬鹿ですねえ。大した自信だ。その言葉に騙される貴方も。神になれるなんてあのお方に分かる訳ないでしょう。神とは私たちからは見ることは出来ず、存在すら不明瞭な存在。一体どうして神になるなんて断定出来るのでしょうか。世界を救う、それは紛れもなく正義であのお方の使命だ。でも、それが神になる、に繋がることはないのに。それに、私は言いましたよ? 神がお望みなのだ、と。」

「……じゃあ、彼女は何になるんだ?」


震える声で、俺は問いかける。十一時五十分。もうすぐ一日を越してしまう。もしや、いや、そんなことは。

 その人は、首を正面に戻すと、ふと口元の口角を上げた。


「……赤玉になるのですよ。神への供物として。」


その瞬間、俺は足を上げ最後の一段を登った。騒めきが起き上がる観衆の中を通り、彼女へ近付く。駄目だ、そんなこと。こんなことが許されて堪るか。


「早く舞を止めろ! みこと——」


大きな声で叫び手を伸ばす。巫女服を来た彼女、みことはこちらを見た。神楽鈴が彼女の動きに合わせて鳴る。


シャリリン、シャリリン


 巫女服は、その瞬間音を無くし崩れて行く。はらりと落ちた巫女服の中身は、誰も居なかった。俺の足が止まる。どくどくと心臓が早く鳴る。周りは、拍手をし歓声に包まれた。彼女の姿はそこには無く、踊っていたのが本当は彼女ではなかったのではないかと、夢を見てしまいそうになる。ころころ、また音がする。足元に転がって来たそれは、無謀なほど輝き続ける赤玉だった。拍手がいつまで続いたのかは分からない。巫女服の前、跪く俺を観衆は囲った。

 朝日が登り、世界は特有の蒸し暑さを放つ。暑さに感動した人々は、朝日を見、帰って行った。世界は蒸し暑いこの環境に順応し始める。学校は始まるし、会社に行く人だって居る。それでも、まだ俺は、涼しい世界に囚われたままだった。


『約束だよ!』


笑顔の彼女は、音を立てて崩れて行く。


 世界は蒸し暑い通常の世界を取り戻した。泣き崩れ朝まで動かなかった俺の側を通ったその人は巫女服と赤玉を回収し社殿へと戻って行った。彼女の生きている証はこの世界のどこにも無くなった。何事も無かったかのように世界は動き始め、彼女のことを忘れてしまうのだ。

 ただ、一人の少年を取り残して。

 薄暗い部屋の中、少年が住む家で、一人部屋にぽつりと居る少年は、紙に殴り書く。


「み、み、み、……なん、だっけ」


 少年はまだ、涼しいあの頃を忘れられないのです。空に沈んだ少女と取り残された少年。一体どちらが本当の意味で沈んだのでしょうね。

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