ゴッホになった男
梶田向省
ゴッホになった男
チリリン、と鐘の音がして入り口を見ると、上村が店に入ってきた。気取った歩き方で店内を進んできて岡田の向かいに座る。オーダーを取りに来たマスターにキャラメルマキアートを注文して、ようやく岡田に向き直った。
「あのマスター、コワオモテですよね」
自称敏腕編集者は声をひそめて聞いてきた。当然のように遅刻を決めて漫画家を待たせた上で、弁解の一言も挨拶もない。人間としてどうなのか。
服装もどうなのか。貴様の会社は部屋着で出勤することが許されているのか?
「スキンヘッドで目つき悪いって、もうまんまヤクザですよね」
こんな男が担当についているというのも作品の不人気由縁たるもののような気がして、岡田は悲しくなってきた。
文句を言っても上手いこと切り返されるだけだと分かっている。岡田は慣れているので、無関係の話題から入ることに決めた。入りは軽快に。
「クエスチョンマーク?」
「なんです?」
上村は、頭がおかしくなったのか、という目つきで岡田を見ている。軽快すぎたかもしれない。
「知らないのか? 昔、ヨーロッパの――イギリスだったかフランスだったかで、小説家か思想家かなんかが――」
「それ、知ってますよ」
「うるせい。そこは黙って、知らないふりして聞いとけばいいんだよ」
「時間の浪費としか思えませんね」
これでも上村は、多趣味で、認めたくないが博識だ。様々なジャンルに通じているので鼻につくウンチクが多く、雑学のストックも豊富と言えるだろう。
「とにかく、じゃあ、小説家にしとこう。ヨーロッパの小説家が、自分の著書の売れ行きを聞くために編集者に手紙を出したんだ。中身は『?』一文字。『売れ行きはどうですか』という意味だ」
「だから、知ってますって」
「まだ続きがあるんだな。編集者からの返事にはなんてあったと思う?」
「なんで意味のないクイズをするんですか。めんどくさい」
「編集者からの手紙には『!』一文字。『めっちゃ売れてますよ!』という意味だよ」
「……」
「世界で初めて、一文字でのやり取りを成功させたんだな」
「それって、前から思ってたんですけど」
上村は目を細めて唇をゆがめている。これは、皮肉をブレンドした言葉の暴力をふるう前の顔である。
「それ、一文字でやる意味あります?」
なんという奴だ。これは、俺ではなく、ヨーロッパの小説家かなんかをバカにしている。
「で、長くなったけど、単行本三巻の売れ行きはどうかねって聞いてるんだよ」
売れ行きを聞くとき、彼は、一瞬だけ逡巡するような表情を見せる。どこまでいじっていいのか、という顔だ。
それは彼なりの創作人たちへの敬意なのかもしれないが、一瞬でも彼にそうやって考えさせてしまうことが、岡田は悔しかった。
そもそもロングヒットを出す大物の漫画家であれば、彼が「売れない」ネタで皮肉を言うこともあるまい。
「仮に『人生で一度も本を読み切ったことのない人間』がいたとしましょう」
「うん」
「そいつの家の本棚よりは売れてんじゃないですか」
岡田はちょっと笑った。遠慮を入れながらもこうやって「上村節」を忘れない。これはこいつの才能だ。それは認めている。
「……なぁ、上村」
「はい?」
「俺の描いたマンガがすげぇ売れたらさ、どんな感じかな」
上村は斜め上を見上げて少し考えていた。
「いや、売れなくても別に。――いいんじゃないですか?」
岡田は拍子抜けした。てっきり、共にロングヒットを出して大御所になるための夢を語り合うような流れかと思っていたのに。
上村は続けた。
「岡田さんは、もしかして、人気を出したいとか、フィーバーを巻き起こしたいとか、思ってるかもしれませんけどね。流行なんて、ちっぽけなもんですよ?」
「クラスに、体格が良くて喧嘩が強いので、発言力の強い、男子が1人はいますよね。たいてい愚かしい」
「お前の偏見が含まれているような気もするが」
「そいつが、テンション高く、『このゲーム面白いから、やってみろよ!』って勧めてきたとしますね」
「岡田さんは、そのゲームで遊びます」
「俺なのかよ」
「そのゲームはひどくつまらなかった。けれどまさか、ガキ大将に面と向かって『面白くなかったよ』なんて言えるはずもなく、さもそいつが金鉱を見つけたみたいな感じでおだててしまうんですね。他の子もそんな調子で、そのゲームはクラスの中で流行りとなる」
岡田は会社勤めをしていた頃のことを思い出してみた。上司に映画でも勧められたら、やっぱりどうして気に入ったフリだった。たとえ観ていなくても。
「上下関係が存在する現実世界では、そんなもんです。ネット上なら、人間は遠慮を忘れますからね。いくらでも批判ができる」
上村は話しながら自分で顔を歪めた。
「でも裏を返せば、そいつの勧めたゲームの熱狂的なファンが集まって、ファンサイトを開いてるかもしれない」
「ホントにそのゲームあるのか?」
上村は質問を黙殺して語り続けた。岡田は、あるわけないだろう、の意だと受け取ることにした。
「長くなりましたが、つまり何が言いたいかというと、世の中全て、好みなんですよ。上手く読者の好みに合えば、人気が高まる。そこは運ですね。だから、岡田さん、今、ウチの雑誌で一番人気あるの、何でしたっけ」
上村は、基本、自分が編集を担当しているマンガ以外は読まない。興味が無いらしい。つまり、自分の会社の漫画雑誌を隅々まで読まないということだ。社内でも疎まれているんじゃないかと岡田は思っている。
岡田が、雑誌で一番手の作品の名前を告げると、上村はああ、あれでしたっけ、と頷いた。さすがにそれくらいは知っていたらしい。
「あれぐらいになると、もう大変ですよ。少しでも自分の色から外れたものを描いちゃアウトなわけですからね。古来のファンからバッシングを受けるから」
岡田は、妙に納得した。
「何が最も幸せかというと、岡田さんのように、好きなようにマンガを描けることですよ。それが誰かの好みにヒットして、あわよくば影響を与えるかもしれない、人生を変えちゃうかもしれない。そう想像するだけで充分じゃないですか。不特定多数を感動させようなんて欲をかきすぎですよ」
そこまで欲を言った覚えはないが、だが岡田は、少し救われた思いだった。上村の考え方を借りれば、単行本の売れ行きなど気にせず、今まで以上に己の仕事に誇りを持てるような気もする。敏腕編集者というのもあながち間違ってはいないのかもしれない。
「岡田さん、白髪増えました?」
岡田は数秒前の自分の思考を全否定した。こいつはただの無礼な若者だ。
「じゃあさ、自分の作品を好いてくれるファンは、やっぱり大事にしたほうがいいってことだよな? お前の理論でいくと」
「そんなことを言った覚えはありませんけど、まあ、そうですね」
岡田は、しばらく迷いあぐねていた事柄を思い出した。
「俺の、疎遠だった従兄弟がいるんだけど」
「母方の? 父方の?」
「そんなのどうでもいいじゃないか」
「いや、ここははっきりさせておかないといけませんよ」
「母方だよ」
上村は大げさなくらいに何度も頷いて、それで? と先を促した。いちいち癇に障る奴だ。
「その従兄弟の息子がな、ウチの雑誌を定期購読してて、俺のマンガも読んでるんだと」
「珍しいですね」
岡田はいっそ話をやめようかと思った。
「それで、その子の誕生日が近いから、俺にマンガを描いてくれと言うんだ。何も立派なものじゃなくていいから、10ページくらいの読み切りを。って」
上村を伺うと、腕を組んで、顔をしかめている、ように見えた。
「でもお前も知ってる通り、読み切りだとか以前に、マンガを描くのって大変だろ? 一応俺はこれでも週刊持ってるからさ、それなりに忙しいし。ただ合間の時間を縫えば、描けないってこともないから、悩んでたんだ」
「ふん。それで?」
上村は何か言いたいことがあるようだったが、決して話を止めることはなかった。
「さっきのお前の話を聞くと、こういうのは大事にしたほうがいいのかな? と思ってさ。どう思う?」
上村は、今度ははっきりと顔をしかめている。不服そうに口を開いた。
「疎遠だっていうから言わせてもらいますけどね、そんな奴、相手にするだけバカバカしいですよ。岡田さんのマンガを『読んでる』だけで、『気に入っている』かどうかも分からないガキに、時間を割く必要はない」
上村は息をおいて、またまくし立てた。
「ご自分の忙しさが分かってらっしゃるんですか? 意外に世の中、底辺近くにいる人間のほうがよっぽど忙しいんでね、本誌の連載、増刊号の読み切り、単行本の表紙、たくさん溜まってるんですよ、仕事」
岡田は驚いた。上村がここまで露骨に嫌悪感を表すのは珍しい。というより、初めて見る。
言っていることは正しい。確かにレジェンドともなると、ちょっとやそっと連載を休んだって何ともないが、岡田のように日の目を見ない者たちは、休載が続くとすぐに人気が落ちる。その先に待つのは打ち切りだ。
「軽いイラストとか、サインならまだしも、読み切りを描けなんて、図々しいことこの上ないですよ」
上村は肩をいからせて机の縁を握りしめている。
「岡田さん、そんなの、きっぱり断るべきですよ。お前の顔など金輪際見たくない、地獄に堕ちろの言葉でも添えて」
「親戚中から爪弾きにされるぞ」
「ともかく、ファンサービスってのは、そういうもんじゃないです」
「ファンサービス」と聞いて、岡田の脳裏に、ある出来事が鮮明に蘇った。フラッシュバックと言うのだろうか。幾枚もの写真が、脳内でスライドショーを開き始めた。
中学生になるかならないかの頃だったと思う。近所の書店でサイン会が開催されるという噂を小耳に挟んだ。
岡田はその漫画家のことなど、とんと知らなかった。代表作の名前も聞いたことがなかった。今思えば、現在の岡田と似たりよったりの知名度だったのだろう。
それでも何を思ったか無垢な少年は、サイン会に行ったのだった。なけなしの小遣いをはたいてサイン会を開く彼の著作を買ったんじゃなかったか。おそらく、将来高値で売れるかもしれないとか、そういう短絡的な思考が導き出した算段だったのだと思う。
サイン会には驚くほど人がいなかった。事実、岡田が書店に到着したときも、サインを貰っていたのは、化粧っ気のないOLが一人だけだった。申し訳程度に区切られた行列用のスペースには誰も並んでいなかった。
OLが帰った後に岡田が近づくと、漫画家は実に自然に微笑んで、岡田が差し出した単行本にサラサラッとサインを記した。流れるような動作だったので、もしや彼は今日のためにサインの練習を重ねていたんじゃないか、と悲しくなったのをよく覚えている。
しかし、それで終わりではなかった。漫画家の彼は、本を開くと、空いたページを見つけて、そこにイラストを描き始めたのだ。最初は主人公、次に準主役、脇を固めるキャラたち――彼がペンを止めたときには、壮大な一枚の絵のようになっていた。後に確かめると、そこには、その漫画に出てくる登場人物が全て集結していた。
若き岡田は軽く混乱していた。順番を待つ間に、前のOLの様子が見えたが、このようなイラストは描いてもらっていなかった。なぜ? なぜ自分だけ?
漫画家の彼は、微笑んでいた。そして小さな声で、囁いてきた。
「ファンサービス」
岡田は、瞬時に理解した。あのOLも、岡田と同じ、生粋のファンではないのだろう。サインコレクターなんていうのも、世間には存在する。漫画家は、それを見抜いた。だが、岡田のことは見抜けなかった。子どもだったというのもあるが、この子は私のマンガを愛してくれている、と信じ込んでしまったのであろう。
そう気づくと、岡田はほんのひとつまみの罪悪感と、子供心にとてつもない感動を覚えた。
時間にしてイラストを描いていたのは十数分。誰もサインを貰いに来る人間がいなかったからこそ、彼にとっても暇つぶしのような感覚だったのだろうが、岡田は、そのような長時間を自分のために使ってくれた、その事実に感激したのだった。
岡田は、俗に言う「カッコいい」とは、こういう人に使うんだ、と思った。初めて、こんな人になりたい、と思った瞬間だった。
人は、誰かに憧れたら、どうなるか。
たいてい、その人に影響される。
思えば岡田が、漫画家になる、なんてバカげた夢を抱き始めたのはこの頃からだった。
サイン会の漫画家の作品は、全てを読んだ。のめり込んだ。
長いスライドショーを終えて現実に引き戻された岡田は、とりあえず、目の前の上村に向かって、こう言った。
「そんなもんじゃない? いや、ファンサービスって、そういうもんだよ」
目をぱちくりさせている上村を見ながら、岡田は、自分は従兄弟の息子のためにマンガを描くだろう、と思った。考えてみれば状況が酷似している。俺はファンサービスがしたかったから漫画家になったのだ、と気づいた。
そうしたところで従兄弟の息子が、感動していつの日かの岡田のように漫画家になるかもしれない、などといった涙を誘う展開は期待していない。ただやってみたいだけだ。先代から学んだカッコつけを。
自己満足結構。岡田は決意した。10ページと言わず20ページでも30ページでも描いてやろう。上村には内密に。
上村はまだ何か言いたげだったが、そこに注文していたキャラメルマキアートが来て、話は中断された。
「キャラメルマキアート、遅すぎないか?」
上村は腕時計を見ている。
「あの、岡田さん、そろそろ……仕事の話をしませんか?」
岡田は上村の顔を見て、二人して苦笑いをこぼした。
「目的を忘れてたな」
岡田は冷めきった自分のドリップコーヒーを飲みながら、ようやく原稿データの入ったPCを立ち上げた。
水谷は定位置に腰を下ろし、ドストエフスキーの「罪と罰」上巻を開いた。この1ページを一週間は読み続けている。この本を読破することは本来の目的にあらず、読書はただのカムフラージュに過ぎないためである。
子供の頃からパッとしない水谷だったが、唯一の長所が「聴力」だった。小学校の道徳の時間に、友達の良いところを書き出す授業があったが、その際に5人のクラスメートから「地獄耳」と書かれた話はすっかり自分の持ちネタとなっている。
なので水谷の一日の楽しみは、本を読んでいるふりをしながら客同士の会話を聞き、その人物の生い立ち、価値観、信念、その他諸々……それらを想像することだった。平たく言えば人間観察だ。特にこの位置にいると、眼前の席の会話がよく聞こえる。そこには上質なソファーを設置してあるので客がよく座る。
一口に言うと盗み聞きだが、何も筒を壁に押し付けて部屋の中の会話を聞いているわけではない。客が水谷の目の前で、勝手に話をしていくだけだ。本を読んでいるから聞こえていないと思い込んで。
現在、上質なソファーの特別席には、三人連れが陣取っている。中年の女二人と、小学生と思われる男児が一人。男児はレポート用紙の束のようなものを手に持って熱心に目を通している。
「ねぇ、あのマスターのおじさん、ちょっと怖くなぁい?」
カモミールティーを頼んだ女が、もう一人に向けて話しかけた。太り気味で眼鏡を掛けている。水谷は遅れて、どうやら自分の事を話しているらしいと気づいた。
「目つき悪いし、ハゲてるでしょ? なんていうの……昔さ、絶対カタギじゃなかった感じよね」
「ちょっと、聞こえるって」
「大丈夫、何か読んでるみたいだし、こっちなんか気にしちゃいないって」
水谷は口角を上げた。カモフラージュの「罪と罰」は、絶大な効果をもたらしてくれているようだ。
「何読んでるのかな」
「どうせあれよ、いかがわしい雑誌よ」
「ま、堂々と」
水谷は、「罪と罰」を閉じた。カウンターに勢いよく叩きつけてやろうと思った。
「そうそう、あたしさ、あれ気になってたのよ。こないだ、あんた言ってたでしょ」
もう一人のセーターを着たブロンドの女が太り眼鏡にそう言ったことで、水谷は名誉回復を思いとどまった。太り眼鏡がいかなる回答をするのか興味が湧いた。
「『あれ』じゃ分かんないって」
「あの、旦那さんの従兄弟の漫画家さんに、ケイちゃんの誕生日プレゼントを頼んだって言ってたじゃない」
「ケイちゃん」の部分で、変わらずレポート用紙を読み続けている男児に顔を向けた。
「それであたし、そんなの描いてくれるはずないじゃない、って言ったでしょ。あれ、どうなったのよ」
「ああ」
水谷は息をひそめて、一言も聞き逃すまいと構えていた。本を持つ手のひらが熱を帯びている。
その話は水谷も知っていた。ひと月ほど前に来店した漫画家と編集者の二人組。水谷は編集者の語る理論に聞き入って、キャラメルマキアートを作る過程で失敗を重ね、何度も作り直す羽目になったのだった。
はたして漫画家は親戚に向けてマンガを描いたのか? その点に関して実は水谷も関心を抱いているところがあった。編集者は強く反対を示していたが、水谷の目には漫画家にも何か思うところがあるように映ったのである。幾度かあの情景を思い返し、あの時彼は何を思ったのか、答えを導き出そうと考えをめぐらしていた。
水谷の人間観察の極みだった。
「描いてくれたけど」
太り眼鏡はポツリと言った。水谷には彼女の目が、とてつもなく冷徹に見えた。
「なんの連絡もなく箱詰めされた原稿が送りつけられたの。長編よ。200? 300ページぐらいあったわ」
水谷は目を瞠った。ますます漫画家のことが分からなくなった。一体何が彼をそこまでさせたのか。彼にとって、その子どもに漫画を描くことがどんな重要な意味を持つのか。
ブロンドセーターが言いにくそうに何度か口をパクパクさせて、開いた。
「あのね、私、その話をあんたから聞いて、ちょっとその漫画家さんのこと調べてみたの。ちょうど昨日ね。そしたら、あの、もしかしたら知ってるかもしれないけどね……」
「何」
「彼――今連載してるマンガ、打ち切りになったって」
「……」
「――その長編にかかりきりになったからじゃないの?」
太り眼鏡は陰険に目を細めていた。
「ホントにあの人、余計なことをしてくれたよ……この子来年中学受験なのよ? こんな時にマンガだのなんだの言ってられないじゃない。はっきり言って迷惑よ、こんな大長編――」
中学受験が来年に迫ったケイちゃんは、隣でひたすらに大長編を読みふけっていた。濁りのない目を宝石の如く輝かせて。
水谷はカモミールティーを淹れ終えてバイトの竹山君に手渡した。カモミールティーの注文は珍しい。水谷の記憶が正しい限り、開店当初から両手で数えられるどころか、片手で事足りるほどの注文しか来ていない。
カモミールのティーパックを片付けてから、定位置に座った。半年ほど前から、カモフラージュ用の本は「罪と罰」下巻へと変化した。やっと上巻を読み終わったことを意味している。
今日、特別席に座っているのはティーンエイジャー終盤といった年頃の二人連れ。カモミールティー……水谷はデジャヴを感じたが不透明な記憶で、肝心な部分は思い出せなかった。
「あんた、カモミールティーとかシブいじゃん」
「いや、ね、彼氏の家に遊びに行ったとき、そこでお義母さんが出してくれたのがカモミールティーでね、それが美味しくてハマっちゃったんだよ」
「あー? おかあさんって、もしかして義理の母って書く方を意識して言ってんじゃないの? それ。あんた気ぃ早いよー」
「え? い、いやそんなことないよ」
「うそつけ」
水谷は読書のポージングを整えて二人連れにちらりと目をやった。一人は小柄で、もう一人は紫のダウンジャケットを羽織っていた。
「あのおっさんさ、ちょっと顔いかついよね」
小柄のほうが小声で囁いた。年を食っても聴力だけは衰えていない。水谷にはもちろん聞こえている。
「ハゲてるし目つきトンガッてるじゃん? 今は白ひげが逆に仙人みたいな雰囲気になってるけど、昔はさ、柄悪かったよね、絶対」
「わかる。ヤクザとまではいかないけどね」
「しっ。声でかいって」
「あ、良かった。なんか下向いてる」
「スマホ?」
「何見てんのかな」
「多分あれだよ、いやらしいサイト」
「うわっ、ヤダ~」
二人してキャハハと笑っている。水谷は、自分がいつの時代も、外見だけで偏見を浴びる存在であることを悟った。前にもこういうことがあった。今回は、「ヤクザとまではいかないけど」と言ってくれたことに拍手をしよう。
そのうち二人はスマホの画面に釘付けになった。こうなったらしばらくは会話のない世界に豹変することを水谷は知っている。本当に「罪と罰」下巻を読み始めた。
数ページ読んだところでどちらかが声を上げた。
「あ、これ、知ってる?」
視線だけ向けると、小柄がダウンジャケットの顔に、スマホの画面を鼻がくっつきそうなほど近づけていた。
「このマンガ、バズってるよね。家にもあるわ。この人、『世界で初めて死後に評価された漫画家』だってさ」
「あー、知ってる」
「『彼は今世紀を代表する漫画家になるであろう。すでに、唯一無二のレジェンドの地位を確立している。我々の称賛の声を彼の耳に入れることができないのが残念である』だと」
水谷は娘夫婦に勧められながら未だスマホを持っておらず、その漫画家は聞いたことがなかった。
「作品が生前に日の目を浴びなかったなかったことから、彼は、かの偉大な画家にちなんで、『岡田ゴッホ』と呼ばれている、だってさ。なんのこっちゃ」
水谷は息が止まりそうになった。旧友に再会したような錯覚を覚えた。岡田。デジャヴがどの記憶だったのかを思い出した。十年くらい前に来店した中年女性の二人連れのうちの一人が、カモミールティーを飲んでいた。
彼女らは、水谷が気にかけていた漫画家の、当時連載していたマンガが打ち切りになったという情報を落としていってくれた。
件の漫画家の名前が、確か岡田だった。編集者がそう呼んでいた。岡田ゴッホは、まず水谷の知っている岡田と見て間違いないだろう。
そうか、亡くなっていたのか。水谷にとっては一度見かけたことがあるというだけでほとんど知らない人間に等しかったが、自然とその死を悼む気持ちが湧いてきた。
岡田の作品が世の中で脚光を浴びたことに対する慶賀の思いと、彼の死に対する虚無感と、二つの相反する感情が入り混じるという奇妙な感覚を水谷は体験した。バニラアイスを添えたアップルパイのようだ。
「え、ゴッホ知らないの? ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ」
「いや、ゴッホは知ってるよ! なんでゴッホって呼ばれることになったんだろう、と思ってさ」
「え、どっちにしても知らないの?」
水谷も知らなかったので、小柄の言い草にムッとした。
「ゴッホは、生涯で絵が1枚? 2枚? しか売れなかったんだって。弟の宣伝で、死んだ後に才能が認められたっちゅう話だよ」
「へぇ」
小柄は、自ら興味を持った割にそっけない返事を返した。どこか遠くを熱心に見つめている。
「あ、思い出した! その、岡田ゴッホ? の名前、どっかで聞いたことあんな、って思ってたんだけどさ、あれだ、私、知ってたわ」
なんだ。水谷は思わず「罪と罰」を持つ手に力が入った。ダウンジャケットもマジ? マジ? と繰り返している。
「間接的にだけどね。その、彼氏がさ、」
「また自慢?」
「いや聞けって。彼氏がさ、岡田ゴッホのニュースを見た途端騒ぎ出して」
まさか。水谷の心臓の動悸が高まった。
「え」
「俺、この人のマンガ持ってる、って言い出して。しかも数百ページの大長編とか言うの」
「ホント?」
「私も鑑定してもらったら、って言ってみたんだけど。まぁそれはともかく、彼氏ね、岡田ゴッホが定評を得られず失意のうちに亡くなった、てこと知ったら、急に暗くなり始めて」
「感情移入されやすいタイプか」
「いや、なんか違うの。変なこと言い始めて」
「何?」
「彼をゴッホにしたのは俺だ、なんてずっと繰り返してるの」
なにそれ意味わかんない~とはしゃぐ二人を尻目に、水谷は思い出していた。あの日、目に美しい光を宿して岡田の大長編を読んでいたあの子どもを。
水谷は「罪と罰」を閉じた。
(終)
ゴッホになった男 梶田向省 @kfp52
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