三毛別のサンケ

丸鬼

1 シレツカ・モシレ(血染めの魂)

 1916年3月初旬、北海道、古丹別。開拓地の山村。

 春は遠く、早朝の空気は厳しく、しかし凛と澄んでいる。

 ここ数日、猟犬たちがよく吠えるようになった。この吠え方は猪か狐か……羆だ。


 ある朝、いくつかの小屋に羆が入り込んで荒らし回っていた。頼りになる屈強な男たちは数週間前から鰊漁の出稼ぎに出ており、残された女性と子供、旅商人たちは大混乱に陥った。

 駐在所の警官である松田は猟銃を持って現場に走り、羆に向けて発砲したが命中せず、その羆は森に消えた。重軽傷者が数名の他、小屋の中にいた女性1名が左腕から腹部を喰われ絶命しており、軒下のトウモロコシや漬物、鰊も粗野に喰われていた。

 近隣の集落では三か月前に「三毛別羆事件」と呼ばれる羆の凶悪な襲撃事件を経験しており、その記憶がまだ生々しいこの村では、件の羆を地名にちなんで「サンケ」と呼称し、討伐された今も恐怖の対象として日々語り継いでいる。その事件を教訓に、広い場所に食料を集めて囮にし、他に銃を持つ者は慌てて手入れを始めた。


 冬の青空の下、苫前港から内陸側に15kmほどの雪深い道のりを辿って、馬の引く橇に乗って男たちが古丹別に戻ってきた。橇には日用品や酒、食料品がひしめき、特に鰊は山積みにされている。苫前港では鰊漁の好景気で活気が溢れており、おかげで貴重な収入を得やすい。村の若き代表である太田ゲンを含む男たちは顔を真っ赤にしながらも、港での賑わいや、荒れ狂う海と格闘した日々を冗談交じりに話しながら、それぞれの家族に再会する喜びを胸に抱き、無事に村へ戻れたことに安堵の表情を浮かべていた。

 しかし、古丹別の集落が見え始めたその瞬間、村の様子がただならぬものだと気付かされた。いつもは穏やかな村だが、今は空気が重苦しく緊張に包まれているように見えたのだ。男たちから笑顔が消え、不安が広がった。「何かあったのか……?」

 青ざめた表情で村から走ってきた子供たちが口々に、熊が! 熊が! と何度も騒ぎ続けた。その報せに男たちは言葉を失った。子供たちを橇に乗せ、急いで村に向かい、襲われた家々を確認すると、ゲンは膝から崩れ落ちた。

 喰われて死んでいたのは、妻の春子だった。

 村は慌ただしくなり、火の見櫓に登って監視する者、通報のため羽幌分署に急ぐ者、マタギを探しに苫前に向かう者……村のあちらこちらで羆騒動に揺れ動いた。羆の習性から、遺体を取り返しにくると予想され春子の骸はそのまま置いていくことになり、ゲンは泣きながら従うしかなかった。


 その後も何度か羆は襲来したが、なぜか同じ小屋を何度も襲うことが分かった。しかも春子の遺体を取り返す行動がなく、食料も喰われていなかった。村の人々は、何かがおかしいと気づく。羆の目的は食料や人間ではなく、他の何かがある。北海道の小さな村は、理解できない恐怖に震え上がった。そして、この熊害事件の解決のためマタギを探したが、三毛別羆事件が解決した今となってはこの土地を離れたマタギが多く、周辺にはもうほとんどいないことが分かった。

 1人を除いて。

 そのマタギの名は中村五郎。三毛別羆事件のとき実際に討伐隊にいたこともあり、サンケの解剖に立ち会ったり、討伐の後始末などの手伝いを終えて、苫前港で船を待っていたのだった。今回の熊害事件を知らされると、一も二も無く古丹別に向かった。これまで幾度となく繰り返されてきた、野生動物と人間の厳しい闘いが、再び始まろうとしている。


 五郎は古丹別に到着すると鋭い目で村を見渡す。まず、冬の冷気に包まれた村全体が異様な雰囲気に包まれていて、全半壊した小屋と怯え切った人々の様子が五郎の目に飛び込んできた。苫前から来たマタギの姿を火の見櫓で警戒していた者が見つけ、村に救助が来たことを知らせる半鐘が鳴らされると、村人たちが五郎の元へ集まってきた。皆の顔には焦燥と絶望が色濃く浮かび「どうか……どうか、助けてくだせぇ!」とすがりついた。村人の声は震え、涙すら滲んでいた。頼みの綱である五郎に全ての希望を託すかのようなその表情は、マタギとしての強烈な重責を感じさせる。五郎は頷き「何があった?」と低い声で聞くと、数人の村人が震える声で次々に答えた。

「穴持たずだ」

「同じ奴だと思う。もう何度も来てな……」

「なぜか、同じ小屋ばかり荒らしやがる」

 五郎は村人の言葉に耳を傾けながら、壊れた小屋を案内してもらうために村を歩いた。確かに無傷の小屋と破壊された小屋の差が激しく、その判断基準がわからない。例えば、保存食がたくさん干されている小屋は全くの無傷で、農夫が住む隣の小屋が滅茶苦茶に壊されていたりする。状況の深刻さは理解できるが、羆の凶行を呼び寄せる原因が何なのかは、見当もつかなかった。唯一、落ちていた羆の糞を見て、巨体の若い羆であると予想できた。

「な? 何か変だろ?」

「一度狙われると死ぬまで追われるんだ……」

 その言葉にどこか不穏な印象を受けた。まだ不明点は多いが、五郎はマタギとして村人たちを安心させるように力強く言った。

「よし、俺が仕留めてやる」

 村人たちの表情にかすかな希望の光が差し込んだ。

 引き続き、襲われて半壊した小屋を調べると、食料は残されているが手をつけた形跡はあまりない。この時期に貴重な食料を狙わない理由が分からなかった。次に荒らされていたのは複数の小屋が繋がった横長の建物だ。特にひどく荒らされている1室があり、五郎は狙われた理由を丹念に調べた。開拓小屋といえば、人間が暮らし、料理を食べ、寝るところである。ここにいた特定の誰かが目的だと仮定して、ここに出入りする人がどのぐらいいるか尋ねたが、要領を得ない返事だった。この小屋は簡易宿として提供しているので短期間に不特定多数の旅人や行商人が利用していたのだ。今回の襲撃事件で慌てて逃げた人も多いらしく、羆が狙っていそうな人間を洗い出すのは不可能だった。

 隣の壊れた小屋を見に行くと、人だかりができている。五郎が中に入ると、放心状態のゲンと、泣きじゃくるゲンの息子の正吉、その2人に寄り添う松田の姿があった。傍らには女性の痛々しい死体が横たわっている。

 松田は五郎の姿を見て「あれアンタ、サンケのときにいたマタギじゃねぇか。戻ってきてくれたんか」

「あぁ、また出たと聞いてな」

「何件かやられて、ゲンのカミさん……」松田は一瞬言い淀んだが、静かに「春子さんが喰われちまった」と呟いた。

「それと……」

「あぁ、何だ?」

「気のせいかもしれんが……サンケに似ていた」

 五郎はその返事に驚きを隠せなかった。


 そのとき、猟犬たちが異様に吠え散らかし、火の見櫓で警報の半鐘が鳴り、悲鳴も聞こえた。また羆が襲撃してきたのだ。五郎は「ゲン! ガキを連れて隠れろ!」と言い残し、松田と共に銃を持って現場に走った。

 半壊した小屋に入っていく羆が視界に入ったとき、五郎はその姿に衝撃を受けて立ち尽くし、茫然としたまま動けなくなった。その羆の体毛がサンケと同じ「袈裟懸け」と呼ばれる模様をしているように見えたのだ。頭部が大きいというサンケの特徴も一致していて、三か月前の記憶が鮮明に蘇る。

 そんなはずはない!

 三毛別の羆は射殺され、死体となったのをこの目でみた!

 解体するために毛皮をはぎ、肉を煮て食った!

 しかし本当にサンケが蘇ったかのような錯覚に陥り、理解が追いつかずに思考を巡らしていると、なんと遠く離れた別の小屋からも悲鳴が聞こえた。

 今度は何だ?

 この村で何が起きている?

 松田は「あっちは俺が行く!」と言い残し、走り去った。

 五郎は袈裟懸けの羆が入って行った小屋の入口に向けて銃を構えてゆっくり近づくが、どうやら小屋の反対側から羆が飛び出し森に向かって走り出したようで、重い足音が聞こえた。その直後、壁と柱がメキメキと音を立てて、小屋全体が大きな音を立てて崩れ落ちた。周囲に積もっていた雪が勢いよく舞い上がり、白い粉雪が宙に漂って空中にキラキラと舞い散る。崩れた屋根の向こう側に見える、逃げゆく羆の尻に向けて数発撃ったが当たらず、銃を持つ他の村人も撃ったが当たらず、そのまま森の奧に消えて行った。ごく短時間の出来事であったが、確かにあの後ろ姿もサンケそのものであり、自身の心臓が音を立てるほど脈打っているのが分かった。崩壊した小屋の木材の間から静かに冷気が立ち込める中、眉間にシワを寄せて考えていると、松田の向かった方向から銃声や怒号が聞こえてきて我に返った。

 踵を返して小屋に向かい中に入ると、そこには倒れている松田と、羆に追い詰められて怯え切った男が血まみれで狼狽えていた。羆は力任せて男を殴ると、ゴヂュッと鈍い音を立て、男は血しぶきを天井や壁に飛ばしながら勢いよく倒れると、そのまま右足を噛み千切られ、羆の手の爪に引っ掛けられて手元に引きずり込まれ、腹を齧ろうとした。五郎は至近距離から心臓に狙いをつけて発砲し、素早く次弾を装填する。羆は怒りの形相でこちらを睨みながら2本足で立ち上がると天井を破らんとする巨体で、鋭い咆哮を上げたと同時に2発目を頭部に叩き込む。

 羆は後ろによろめき、松田を下敷きにして倒れた。

 五郎は油断なく次弾を装填して次の動きを注視するが、一瞬撃つのを躊躇ったと認めざるを得ない。それは、羆の血だらけの口の中に千切れた足の指が見えたからではなく、羆の肩を見たからだ。なんと、こちらも袈裟懸けの模様をしていて、目の前にサンケがいるように錯覚したのだ。これは一瞬の判断と油断が命取りとなるマタギにとって決して許されないミスであり、しばらく自戒の念に苛まれた。

 倒れた羆は、しばらく動かないまま口から白く暖かい湯気が上がり、やがて全身が脱力して掌が開いた。

 死んだ証拠だ。

 五郎は小屋から顔を出し「仕留めた!」と大声で言うと、張り詰めた空気が緩んで安堵の空気に変わったが「油断するな! もう1頭は森に逃げたぞ!」と言い放つと、どよめきが起きた。

 そこに火の見櫓から救助アリの半鐘が鳴り、警察の討伐隊を連れたゲンが到着した。三毛別の件で顔馴染みになった隊員たちだ。挨拶もそこそこに、すぐ羆の下敷きになった松田を救い出すためゲンと隊員たちが羆を転がすように押し出したが、松田はすでに事切れていた。


 隊長はを拾って、喰われた男の遺体に合わせると、五郎を見て「また会ったな。仕留めてくれて助かった。礼を言う」

「いや、まだだ。もう1頭いるぞ。さっき森に逃げた」

 討伐完了と思い込んでいた隊長を含む討伐隊全員の表情に緊張が走り、すぐさま周囲の警戒と被害状況の確認が通達された。続けざまに羆の運び出しと解体を指示すると有志の村人たちと共に小屋から運び出すことになった。羆に何本かロープを掛け、男たちの手によって少しづつ小屋の外に引きずり出されていった。隊長は羆の腹を叩きながら「……こいつ、サンケに似てるな」と言ったが、若い隊員は気合十分に足を踏ん張りながら「そうですか? どれも大して変わりませんよ!」と一蹴するように答え、重い巨体を押して行った。


 小屋に残ったのは、潰れた松田と喰われた男。

 隊長は、変な方向に曲がった松田の頭を直しながら「首が折れている。頭に一撃食らったんだろう。銃を撃ったら羆に反撃されたってところか」

 その隣の喰われた男は、顎ごと口も鼻も抉られたため歯も歯茎もなく、腹部は一部が齧られて臓物が飛び出すという壮絶な最期で、容赦のない羆の凶暴さが際立っている。隊長は外にいる人だかりに「この者は誰か?」と聞くと、名は伊藤和夫、元は苫前の鰊漁で財を成した漁師で、自分の土地が欲しくてこちらに移住した者と判明した。村人たちは亡骸に手を合わせつつ、今回の異変を話してくれた。

「伊藤さんな、なぜか羆にしつこく狙われてたんだわ」

「そうそう、他に逃げたモンがいても追わずに、伊藤さんだけを追い回してた」

「いやもう、怖いのなんの」

 隊長は「そいつぁまた気の毒に。なんでそんな執拗に追われたんだ?」と聞くが、皆、わからんと口を揃える。「まぁ、同じ小屋や人間を襲い続けるってことは、何かあるんだろう。なぁ、五郎?」

 そこにいる全員がその答えを聞きたくて五郎の顔に視線が集まる。五郎は首を横に振り「まだわからんが、何かがおかしいのは確かだ。とにかく一度狙われるとダメだな」


 外に運び出された羆は若いオスで、古丹別に出たためコタンと名付けられ、近くの川で血抜きと解体が行われると、手際よく毛皮、肉、骨、内臓に分けられた。解体に加わった者は皆「サンケよりデカい図体してやがる」と笑うが、どこかよそよそしく、乾いた笑いになっている。

 五郎は仕留めたマタギの正当な報酬として心臓、肝、胆のう、腎臓を雪と共に革袋に詰めていると、背後で雪を踏む音が近づいてきた。「ぃよ、マタギさん、やったね!」

 商人たちだ。獲物を狩ると、どこからともなく現れる商魂たくましい一団である。しかし、この地で売買を生業にしてきた商才は侮れない。商人たちは鋭い眼光で羆の毛皮や肉を見極め、次々に声が上がる。

「本当に見事な羆だ。相場より高く買おう。どうだい?」

「いや、もちろん御供養の肉は別にしていい。良ければ、その内臓も全部まとめて!」

 目が笑っていない商人たちの笑顔に、羆とは違う恐怖感を覚える。そしてもう1頭がすでに近くにいると分かっているため荷物を減らしたい気持ちも後押しし、持ち運ぶ手間を省けるならこの場で売ってしまうのも悪くない選択肢であった。

「よし、決まりだ。持ってけ」と溜息まじりに商人たちに答えて、喜色満面の商人たちと共に獲物の袋詰めが終わるのを待った。商人の一人が「ここだけの話、サンケの話題が絶えなくてな。おかげで羆全体が高止まりだ。いひひ」と耳打ちして嬉しそうに笑った。

 この笑顔は本物に見えた。


 日が暮れるにつれて降雪が強くなり吹雪になった。山では羆を仕留めると天気が急変し「熊嵐」と呼ばれる猛吹雪に見舞われる。不思議な自然現象で、サンケのときもそうだった。たくさんの麻袋を手際よく馬橇に乗せていく様子を見守りながら、五郎は提示された現金を受け取ると、内臓分のお金を差し引いた残りを「村で使え」とゲンに渡し、静かに立ち去った。

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