2 レプ・シ(残されたもの)

 夜、悲しみと恐怖に包まれる古丹別では、羆と死者の供養の意味も含め、村総出で仕留めた熊肉を食べることになったが、熊嵐の収まる気配がないため、肉は小分けにされて各家々にも配られた。


 熊嵐の冷たい吹雪が戸を叩く中、駐在所に置かれた討伐隊の本部には、ゲンと正吉のように小屋を失った家庭や不安を抱える村人が集まっていた。皆で煮たり焼いたりした熊肉を食べつつも、もう1頭の羆が逃げているためにどこか張り詰めた空気が漂っている。

 五郎とゲンと討伐隊は今後の方針を話し合い、まず討伐隊は村の警備担当と討伐担当に分けられ、隊長はこの本部に留まって指示を出す。松田と伊藤はコタンの犠牲者ではあるが、念のため羆が討伐されるまでそのままにすることとなった。

 隊長は「山に入る討伐班の長だが……五郎に任せたい」と口を開いた。その言葉に、集まった者たちの視線が一斉に五郎に集まった。五郎はこれまで幾度も山を駆け、数え切れないほどの獣を仕留めており、その腕前と冷静さは誰もが知るところだった。この村でも羆を仕留めたマタギとして誰もが一目置く存在になっており、五郎が長に選ばれるのは当然のように思われた。しかし五郎は首を横に振り「断る」と静かに答えた。そこにいた全員が驚きの表情を隠せない。「なぜだ?」と隊長が問いただした。五郎は手に持った番茶をあおり、慎重に言葉を選んだ。

「マタギの狩りは、同じマタギとの連携がなけりゃ、うまくいかねぇ。他の奴に頼め」

 この説明は、山奥での狩りや討伐を多人数で行うには、経験や技術だけでなく、同じように山を知り、信頼できる仲間との連携による優れたチームワークがあって初めて発揮できるものであることを示しており、理にかなっているように聞こえる。

 つまり断るための「もっともらしい理由」に過ぎず、内心では別の考えが渦巻いていた。

 自分のせいで若者を失うような事態は絶対に避けたかったのだ。討伐隊がどれほど勇敢であっても、羆の恐ろしさを知らない。山の恐ろしさを知らない。銃の使い方や知識だけではなく、山や獣の動き一つ一つを読み取る経験と直感が求められる。

羆に狙われたら確実に仕留めなければならない。

失敗は許されず、死を意味する。


 五郎はゲンを見ると、グツグツと煮える鍋から味噌で味付けされた熊肉を皿に移した。

 思いつめた表情のまま、酒ばかり飲んでいるゲンに皿を渡すと低い声で「食え。それが供養だ」と呟いた。ゲンは皿を受け取り、湯気の香り立つ熊肉を見つめて「五郎さん、今回の奴が同じ小屋や人間ばかり狙うというのは本当か?」と聞いた。

「あぁ、たぶんな」

「なら、春子と伊藤が狙われたのは、何か共通した理由があるかもしれない。それを考えていたんだが」

「何かあるのか?」

「……いや」

 五郎は少なからずその考えに共感した。今回の羆は何かがおかしい。しかしゲン同様、思い当たる節はない。


 マタギ装備一式を身に着けた五郎が、灯油ランプに火をともし、銃を担いで玄関に向かった。

「こんな時間にどこに行く?」

「見回りついでに死体を調べてくる」

 ゲンは「俺ん家に行くなら、俺も行く」と言って立ち上がる。五郎はゲンを一瞥して頷き、何も言わずに外に出た。ゲンは熊肉の皿を息子に渡して「正吉、ここで待ってろ」と言って急いで蓑と笠を身に着けた。正吉が用意してくれた灯油ランプを受け取って外に出ると、底冷えするような寒さがすぐに全身に染み渡る。五郎は健脚で、その姿はすでに熊嵐の向こうに消えかけていた。


 熊嵐が容赦なく吹き荒れる中、五郎は雪に覆われた伊藤の小屋の前で立ち止まった。

 粗末な戸は倒れて雪に埋まり、小屋全体の軋む音が不気味に響く。中に足を踏み入れると、目の前には闇に落ちた凄惨な光景が灯油ランプで照らし出された。小屋の壁は爪で引き裂かれ、血しぶきが飛び、屋根の一部は崩れ落ちていた。雪が吹き込む室内は、まるで氷の洞窟のように冷え切っており、囲炉裏には灰の上に薄く雪が積もっている。吹雪が風向きを変えるたびに、破れた壁の隙間から雪が舞い込み、床を白く染めていた。周囲には羆が凶暴な力で残した爪痕や、壊された痕跡があちこちに散らばっている。

 五郎が冷え切った伊藤を調べると、財布の中に「御礼三毛別」と書かれた包み紙を見つけた。中には長さ15cmほどの細い牙のような物が入っていたが、五郎はマタギゆえ一目見てわかった。

 これは羆の爪だ。

 紙に包み直し、懐にいれて他の手がかりを探るも、他は小銭ぐらいしか持っていない。そこにゲンがやってきたが、五郎はすぐさま「おめぇの家に行くぞ」と言って出て行ってしまった。

 ゲンは呆気にとられ、軽く小屋を見渡すと、この場所もかつて我が家と同じように温かい家だったことを想い、今の姿にやりきれない悲哀を感じた。吹雪の音と冷気が、いずれ全ての家の奥底にまで入り込んでくるような気がしてならない。嫌なことばかり考える頭を振り払い、五郎の後を追った。


 ゲンの小屋は伊藤の小屋ほど壊れていないが、壁に大きな穴が空いている。ここから森に逃げたのだろう。ただ冷え切った空気が通り抜け、吹雪の音が小屋の中に響くだけだった。

 五郎は灯油ランプで春子の遺体を照らし、何か手がかりがないか細かく見ていく。

 ゲンが後ろで黙って微動だにしないことに気が付き「辛いなら外で待ってろ」と言った。

「いや、大丈夫だ。ここで逃げるわけにゃ……ん?」

 ゲンは何か気づいたように春子の首の下に手を入れて床を探った。

 五郎はその様子を不思議そうに見て、言った。「どうした?」

「首飾りがない。いつも後生大事に身に着けてたんだ。どっか飛んじまったか?」ゲンは灯油ランプをかざして室内を照らして回るが、見つからない。五郎は「体の下になってるかもな」と、春子を指差した。

 ゲンは「春子、ちょっとゴメンな」と優しく言いながら体を抱えて持ち上げたが、そこには固まった血と臓物しかない。

 五郎は周囲を見渡し「入口や壁穴の雪に足跡が無かったから、誰かに盗られたってことはねぇな」

「せっかくもらった歯だったのに……」

「歯? 何の歯だ?」

「サンケの歯だ」

 五郎は驚いて眉間にシワを寄せた。

「三毛別の救済金に募金したら、お礼に解体されたサンケの歯をもらってな。それを首飾りにして魔除け代わりに春子にあげたんだ」

「お礼にサンケの歯?」

「募金額に応じた返礼品だと言ってた。はした小銭なら何もないが、俺は結構な銭を出したからな」

 春子と伊藤の共通点が見えてきた。

「……伊藤って奴も募金したか?」

「あぁ。詳しい額は知らねぇが、鰊漁の小金持ちだから俺以上に寄付しただろうな」

「それだ! 伊藤は募金のお礼にサンケの爪をもらったんだ」と包み紙の爪を出して見せた。

「爪や歯をもらったから何だってんだ」

「サンケのニオイを嗅ぎつけた羆に襲われたのかもしれねぇ」

「何でサンケのニオイを探してるんだ?」

「……わからん」

 2人が小屋の壁穴から外に出ると、吹雪がさらに激しくなっているのを目の当たりにした。寒風が容赦なく顔に吹き付け、ときおり視界を遮るほどの雪が舞う。寒さが骨の芯まで届くような厳しい環境の中、ゲンは吹雪に立ち向かうように笠で顔を覆い、首をすくめながら五郎の後についていく。


 本部についた2人は凍てついた体を震わせながら、火のそばに座って手のひらをかざす。その熱は暖かく柔らかく、冷え切った指先が少しずつ感覚を取り戻していくのを感じた。

 隊員の1人が「お疲れさん、飲んでくれ」と熱い味噌汁を差し出した。五郎は茶碗を受け取り、ゆっくりと口に運ぶ。その温かさが喉を通り抜け、腹の奧からじわりと広がっていく。

「で、どうだ。収穫はあったか?」と、隊長が尋ねた。

 五郎はその問いに対し、茶碗を手にしたまま、少しの間答えをためらった。思い浮かぶのはサンケの爪と歯だが、これを伝えるのは気が引けた。どんな意味があるのか自分にも分からず、無責任なことは言いたくなかった。

 五郎は隊長を見ながら無言で溜息をつき、その場の者たちは顔を曇らせた。そのとき厠から戻ってきたゲンが「五郎さん、もう爪と歯の話はしたのかい?」と口にした。味噌汁を飲もうとした五郎の手が止まり、微かに眉をひそめた。

 隊長は怪訝な顔で「爪と歯?」

 五郎は少々気まずそうに「あぁ、伊藤がサンケの爪を持ってたってだけだ」と言いながら包み紙を取り出して爪を見せた。「ゲンのカミさんは歯を持ってたようだが、見つからなかった」

 隊長は爪をまじまじと見て「で、これがどうした?」

「わからん。だが羆は鼻が利くし執着心が強ぇ。サンケのニオイが残る残骸を探してるのかもしれない」

「それが本当なら……」隊長はしばらく熟考すると「過去にサンケと闘った羆が、匂いを追ってサンケを探しているんだろう」と顎ヒゲをなでながら言った。五郎もゲンも俄かに信じられない様子だったが、メスを求めてオス同士が争う求愛合戦と考えれば、可能性は確かにある。

 隊長は続けて「なら、この爪を春子さんに持たせて、おびき寄せて仕留められそうだ。……松田と伊藤にもしてもらおう。明日、村人たちに話してゲンの家に運ぶんだ。ゲン、悪いが協力してくれ」

 ゲンは痛々しい表情を隠しきれないが、下唇を噛み、小さく静かに頷いた。

 次の一手が決まった。サンケの爪と犠牲者たちを囮に、あの羆を呼び寄せるのだ。隊長は討伐隊の配置を検討するため地図を開き、ゲンの家の上に爪を置いた。土地勘のあるゲンがいくつかの候補を立て、隊長と隊員たちが意見を出し合う。とんとん拍子に進む討伐作戦立案の様子を、五郎は静かに見守っていた。

 一通り作戦が整うと、成功を祈って乾杯が行われた。

 しかし五郎は酒を飲まず、熊肉を食べ終えると早々に布団に潜る。

 村の静寂が夜の闇に包まれる中、静かに息を整えると、すぐに深い眠りの中へと引き込まれていった。


 翌朝、本部に避難している村人たちとまだ鍋に残っている熊肉を朝食に食べていると、ゲンの元に起きたばかりの正吉が駆け寄ってきた。夜通し泣き晴らしたのであろう、目が赤い。

「おっとぅ、熊のこと、何か分かったか?」

「まぁな。正吉、熊肉を食って大きくなれよ」

「まだたくさんあるんだよ。ちょっと硬くて臭いけど」

 その様子を見ていた五郎は閃き、叫んだ。


「おい! サンケはどこにやった!」


 そこにいる誰もが驚き、正吉は慌てふためいて熊肉を皿ごと落としてしまった。五郎は正吉の落とした肉を指差して言った。

「こいつはサンケの子だ!」

 そこにいる誰もが理解できず、隊長はなだめるように言った。

「待て待て、ちゃんと説明してくれ」

「コタンはサンケの匂いがする物を狙ったんだ。伊藤は爪を持ち、ゲンのカミさんは歯を持っていた!」

 誰も何も言わず、静寂の中に吹雪の音だけが聞こえてくる。

「まだわからないのか! コタンは親を取り戻すために執拗に襲い続けたんだ! サンケは解体された後どうなった? 誰が持ってる? 持ってるだけで危ねぇぞ!」

 ゲンはその話を聞いて、雷に打たれたように衝撃を受け、カッと目を見開いた。自分は三毛別の惨劇に同情し、生活費を削って救済募金を上乗せし、そのお礼にサンケの歯をもらい、記念として、魔除けとして、春子にプレゼントした。しかし魔除けどころか、あの首飾りを身につけていればどんなに逃げても羆から執拗に狙われる原因にしかならなかったのだ。「そんな……」ゲンは口を半開きにしたまま、目の焦点が合わなくなり、その場に座り込む。言葉にならない嗚咽が漏れ、ただ涙があふれてくる。正吉が心配そうな表情を浮かべてゲンの服の裾を掴んだ。


隊長はその考えに同調したが、次にどうするべきか答えが出ない。「五郎、どうすればいい?」

「サンケの残骸がどこにあるか知ってる奴を探してくれ。毛皮とか頭とか手足は大きいから探しやすいはずだ。三毛別や行商人に聞いて、どこで誰に売ったか聞いてこい!」

 隊長はすぐ通達を出し、隊員や村人たちが走って出て行った。


 すぐに、この古丹別に残る行商人が集まり、ここの商品はほとんどが一旦苫前に運ばれていくことを説明した。この商人たちは、羆に襲われる脅威が予想以上の地獄であることを目の当たりにして、自分たちが売り捌くために確保していた手持ちの残骸を差し出してくれたが、どれもたくさんの小さい袋に分けられていた。購入希望者が増えることを見越して、骨を砕いて小分けにして売るつもりだったようだ。少数ながら、これらはすでに三毛別のお土産として買って帰った旅人がいることも分かった。

 これは、すでに外部に流通が始まっていることを意味している。

 そして、これらが本当にサンケのものなのか知る術もない。


 三毛別から来た行商人も似たような返事だった。一番気になっていた頭骨と全身の毛皮ですら、すでに売却のため苫前に運ばれており、ますます事態が深刻化していることを感じさせた。匂いが強く残るサンケの毛皮や骨が広く流通すれば、サンケの子による熊害がいつ起きてもおかしくない。

 このままサンケの残骸回収を続けるか、サンケの子供を探して仕留めるか。

 前者の希望は消えかけている。


 午後、五郎と討伐隊はそれぞれ山に入ったが、結局羆を見つけることは出来なかった。五郎はこれまでと同じようにマタギとしての経験と勘で雪山を歩くが、今回は不発だった。

 討伐隊は猟犬を連れて行ったが、自慢の鼻で捉えられたのは野ウサギやそれを追う狐のような小動物に限られ、その嗅覚を当てにしていた討伐隊は途方に暮れた。犬の鼻で追えなければ自分たちには何もできない。

 皆、疲労の色が隠せないまま失意の下山となった。

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