くらやみメモリ

霧江サネヒサ

くらやみメモリ

 私を忘れないで。

 夢の中で、その一言を聴いて、俺は目を覚ました。


「…………」


 姿も、声も、どんどん忘れていく。夢なんて、そんなものだろうけれど、何故かとても悲しくなった。

 残暑厳しい、今日この頃。

 俺は、のろのろと起き上がり、大学へ行く準備を始めた。

 人文学部、哲学科。うだつが上がらなさそうなところに在籍している俺は、科学哲学の講義へ向かう。


「よう、宮守」

「やあ」


 友人と合流して、隣に座った。

 彼は、明るい髪色が爽やかな印象の男である。


「今日、妙な夢を見た」

「へー」

「誰かが、“私を忘れないで”って、俺に言うんだ」

「勿忘草みたいな人だな」

「勿忘草?」


 俺は、訊き返す。


「勿忘草の花言葉は、“私を忘れないで”だよ」

「君、花言葉なんて知ってるんだ?」

「姉貴が好きでね」

「ふーん」


 勿忘草、か。全く縁がないな。


「それで、身に覚えは?」

「ないよ。というか、ただの夢だし」

「そう」


 話を終え、正面に向き直り、ノートをめくった。

 講義が始まる。


「トーマス・クーンは、著書である『科学革命の構造』で、パラダイムシフトが生じると————」


 教授の話を聞きながら、勿忘草のことを考えた。でも、俺には花の色すら分からない。

 あの人と同じくらい、何も分からなかったんだ。

 講義の後。ネットで検索したところ、青い花の勿忘草が出てきた。青色が一般的なんだろうか?

 他にも、白・ピンク・紫の勿忘草があるらしい。

 その夜、また夢を見た。


「私を忘れないで」


 長い黒髪の白いワンピースの少女が、辛そうに言う。悲痛な告白のように。

 朝、目覚めた俺は、少女のことを覚えていた。

 一体、何者なんだろう? 夢とは記憶の整理だと聞いたことがあるけれど。あらゆるメモリを探っても、彼女は出て来ない。


「…………」


 ひとつ、引っかかることがある。

 記録を閲覧していたら、見知らぬフォルダを発見した。パスワードでロックされている。

 俺は、「私を忘れないで」と入力してみたた。

 開かれたその中身は、暗闇。データが壊れている。

 そこで俺は、データの修復を試みた。

 一日を全て費やして、なんとかなったその記憶は。15年前からの思い出。クラエスと俺の思い出だった。


◆◆◆


 君が、5歳の頃の記憶。


「クラエスってよんで」

「何故?」

「そのほうが、かわいいから!」

「君の名前も素敵だと思うけれど」

「いーやーなーのー!」

「君の名前。残っている光とか、幽かな光という意味だ。綺麗だと思うよ」

「ポンコツ! わたしのいうことききなさいよ!」

「ポンコツじゃない。俺は————」

「うるさい!」

「ごめん」


 君が、12歳の頃の記憶。


「私、もうすぐクラエスじゃいられなくなるの」

「何故?」

「成長期。声変わり。最悪」

「俺は、どうすれば君を悲しませないで済む?」


 長い黒髪に白いワンピースの少年は、俺に言った。


「クラエスのことは忘れて」

「それは出来ない」

「出来るでしょ?」

「……分かったよ」


 そうして、俺は記憶を封印したのである。


「私を忘れないで…………」


 クラエスの最後の呟きは、その後に放たれたから、ほんの少し残ってしまったが。


◆◆◆


 翌朝。俺は、いつものように友人に会う。そして、質問をした。


「倉田末光。君は、クラエスだろう?」

「お前……どうして…………?」

「君の命令には背いていない。俺は、記憶をロックしていたから」

「そんなの、ズルいだろ!」

「ズルじゃない」


 末光、いや、クラエスは、力なくしゃがみ込んだ。


「ったく、相変わらずポンコツアンドロイドだな」

「ポンコツじゃない」

「私は、変わったでしょ? 髪切ったし、染めたし。もう女の子には見えないよね」

「それでも好きだ」

「はは。ありがとう、宮守」

「君は、どうして女の子になりたい?」


 クラエスは、ゆっくりと立ち上がり、言葉を返す。


「昔は、異性愛以外は異常だと思わされてたんだよ」

「じゃあ、もう問題ないな」

「あるよ。お前は、アンドロイドだし」

「人間じゃないとダメ?」

「まだね。物と恋愛するなんて、おかしいって言われるんだ」


 俺は、くだらない風潮だなと思った。人間が、俺たちを人間に近付けた癖に。


「とりあえず、そうだな。また一緒に暮らそう」

「……まあ、ひとり暮らしじゃなくなってもいいけど」

「半畳あれば、俺は文句ない」


「バカ言うな」と、クラエスは困ったように笑った。


「君が倉田末光でも、クラエスでも、俺は愛してるよ」

「バーカ。それは、お前が私の所有物だからだよ」

「その議論は、8年前にもしただろ」

「はいはい」

「時代も価値観も移り変わるものだ、クラエス」

「クラエスって呼ぶな!」


「何故?」と尋ねる。


「その名前は、特別なんだから。ふたりきりの時しか呼ばないように」


 クラエスは、俺を指差しながら言った。


「分かった」

「宮守」

「なに?」

「私を忘れないでくれて、ありがとう」


 そのはにかんだ笑顔は、昔と同じ、俺の好きな表情。

 君のことを思い出せて、本当によかった。君の全てが好きだったのに、君の一部が欠けていたから。

 勿忘草の君よ。生涯、君の傍にいよう。


◆◆◆


 私の5歳の誕生日プレゼントは、王子様だった。両親にそんなつもりはなかっただろうけど。

 宮守は、男性型の機械の友達だった。

 私は、彼に恋をして、世界に苦しめられる。

 女の子だったらよかったのに。

 私は、可愛い女の子になりたかった。

 でも、もういい。

 お前が、私を好きでいてくれるなら。それがいい。

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