日常が変化する(3)


彼女のその真剣な瞳に、思わず喉の奥で言葉を詰まらせてしまう。

ただの朝の挨拶ではない――彼女の表情には、どこか重さを感じさせるものがあった。その目が語る「何か重要な話がある」という直感が、胸の内をざわつかせる。


けれど、こんな状況にどう対応すべきか、ブランには分からなかった。

不意に訪れた気まずい沈黙を打ち破るように、彼は頭を掻きながら口を開いた。


「立ち話もなんだし、うちに入って話そう。っていっても、こんな小さな家でよければだけどさ」


そう言いながら、ブランは苦笑を浮かべた。

視界の横に映っている小さな家にヴィオレと暮らし始めてから、他人を招いたことなど一度もなかった。

ましてやライラのような高貴な雰囲気を纏う相手を迎えるなんて、考えたこともない。


――家に招くって、どうすればいいんだ?


内心でそんな疑問が頭をよぎる。

養成学校で「人を招く際には、紅茶などをもてなすのが礼儀だ」と誰かの会話から聞いたことがあるが、今の自分にそんな余裕があるとも思えない。

それでも――ただ立ち話を続けるよりはマシだと思い、精一杯の言葉を紡いだ。


「狭いし、特に大したものは出せないけど……」


そのぎこちない提案に、ライラは一瞬目を丸くした。

だが次の瞬間には、柔らかな笑みを浮かべて頷く。


「ありがとうございます。ぜひお邪魔させていただきます」


彼女のその穏やかな言葉に、ブランの緊張が少しだけほぐれた。


「じゃあ……こっちだよ」


ブランは戸惑いながらも彼女を家へと案内し始める。

その後ろをついてくるライラの足取りは軽やかで、彼のぎこちなさを気に留める様子は全くなかった。


ブランはライラを案内しながら、内心では少し焦りが募っていた。

――突然の訪問。どう対応するべきなのか、未だに答えは見つからない。


ドアを開けると、小さな家の中には簡素な家具と、生活感のある雰囲気が漂っている。決して豪華とは言えないが、ヴィオレと二人で過ごすには十分な空間。


「……その、どうぞ」


気恥ずかしそうに促すブランに、ライラは静かに頷き、部屋の中に足を踏み入れた。

彼女の動作はどこまでも洗練されていて、この簡素な空間にはどこか場違いな美しさが漂っていた。

――まるで一枚の絵画が、現実の中に紛れ込んだかのように。


「温かいお家ですね」


部屋を見回したライラが、柔らかく微笑みながら感想を漏らす。その声は部屋の静けさに溶け込み、どこか心を落ち着ける響きを持っていた。

彼女のその言葉に、ブランは肩の力が抜けるのを感じる。


「狭いけどさ。住むには十分なんだ」


ブランは照れ隠しのように笑いながら、わずかに目をそらす。

普段なら気にも留めない家の狭さや簡素さが、彼女の前だとなぜか気になってしまう。


ふとライラの視線が部屋の奥へと向けられる。

その先には、寝台で穏やかな寝息を立てているヴィオレの姿があった。


「この子がヴィオレさんですよね?」


ライラが静かに尋ねる。その声には、親しみと優しさが滲んでいように感じた。

彼女の言葉に気づいたブランは、少しぎこちなく頷く。


「そうだよ」


ブランはそう言いながら、柔らかく微笑む。

その言葉には、ヴィオレへの深い愛情が滲んでいた。


ライラは視線を寝台へ向けたまま、静かにヴィオレの寝顔を見つめている。

その瞳には、まるで咲きかけの花の蕾をそっと慈しむような、優しさと繊細な感情が宿っていた。


「とても穏やかな表情をしていますね」


ライラの静かな声が部屋に溶け込むように響く。

その言葉を受けて、ブランもふと視線をヴィオレに向けた。


毛布に包まれた妹の顔には、確かに安らぎが漂っていた。

どこかで微笑んでいるようにも見えるその寝顔に、ブランの胸にある小さな不安が、そっと和らいでいく。


「最近、ようやく安心して眠れるようになったんだ」


彼はそう呟くように言いながら、そっと寝台に近づいた。

眠るヴィオレを起こさないよう細心の注意を払いながら、その頬に手を伸ばす。


「前はずっと辛そうだったから……こうしてぐっすり眠ってる姿を見られるだけで、ホッとしてる」


彼の指先が、ヴィオレの白い頬に優しく触れる。

その冷たくも滑らかな感触を確かめるように、彼は一瞬目を閉じた。


しかし――胸の奥に秘めた感情が、重く響く。


ヴィオレを蝕む病は、今も確実にその力を振るっている。

それに対抗する手段はまだ見つかっていない。

今できるのは、ただ薬で病状を抑えることだけ――それ以上の解決策は、いまだ手の届かない場所にある。


「……早く治してあげたい。そして、ヴィオレには幸せになってほしい」


その言葉は、自身に向けた誓いでもある。


彼の灰色の瞳に宿るのは、揺るぎない決意と微かな焦り。

たとえどれだけの困難があろうとも、彼女を救うという目標だけは決して諦めない――そんな固い意思が、静かに彼の中で燃え続けている。


ライラは黙って、そんなブランの背中を見つめていた。

その背中から伝わるのは、言葉では語り尽くせない深い愛情おもい

ブランがどれほど彼女のことを大切に思い、そのために生きているのか――その決意が、彼の立ち姿から滲み出ているようだった。


そんな彼に、ライラは言葉をかけることができないままただ静かに目を細める。その横顔に、彼女の瞳はどこか温かな感情を浮かべる。


やがてブランがふと振り返り、その視線がライラの視線と重なった。

不意を突かれたようにライラは小さく目を見開いたが、次の瞬間には穏やかな表情を取り戻す。


「……客人を立ちっぱなしにするわけにもいかないし、そこの椅子に座っててくれよ」


ブランは照れ臭そうに頭を掻きながら言葉を続ける。


「今、何か飲み物を用意するからさ」


彼の声はどこかぎこちなくもあり、それでも心配りがしっかりと込められていた。


「ありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきます」


ライラはその言葉に微笑みながら、小さく頷いた。







ライラの前に置かれたマグカップから、ほのかに漂う紅茶の香ばしい香りが部屋の空気を優しく満たしていた。

湯気が立ち上り、朝の冷たい空気と混じり合う中、彼女は静かにカップに手を伸ばす。


ブランは、自分のマグカップを持ちながらライラと向かい合う形で椅子に腰を下ろした。その瞳には少しの緊張と、相手の話を真剣に受け止めようとする意志が込められている。


カップを両手で包み込みながら、ブランは軽く口を開いた。


「それで、話っていうのは?」


いつもより少しだけ低く、けれど真摯なその声が、静かな部屋の中に響く。


ライラは、マグカップを見つめたまま短く息を吐く。

その仕草には、何かを語るための覚悟が宿っているように見える。


「……」


一瞬の沈黙が、二人の間に流れる。


やがてライラはカップをそっとテーブルに置き、その淡黄色の瞳でブランを真っ直ぐに見つめた。その瞳の奥には、揺るぎない意志と、わずかな迷いが入り混じっているようだった。


「ブラン君。これから話すこと、少しだけ真剣に聞いてもらえますか?」


彼女の声は柔らかくも、どこか決意を感じさせる響きを持っていた。

ブランはその声に一層の緊張を覚えながらも、頷いて彼女を促した。


「話というのは、ダンジョンのことなんです。」


ライラはそう切り出すと、目の前の湯気立つマグカップにそっと口を近づけた。一口、紅茶を含み、ゆっくりと香りと温かさを味わうようにする。その動作には、どこか慎重さと落ち着きが感じられた。


「昨日、ブラン君と別れた後のことです。どうしても、あの異例の現象が気になってしまって……」


淡黄色の瞳が再びブランを見つめる。その視線は真剣そのもので、軽い話ではないことを告げているようだった。


「家に帰ってからも、どうしても頭から離れなくて。グレイシア家の記録や、過去の事例について調べられる限り調べてみました。」


彼女の言葉に、ブランは少し身を乗り出した。


大規模なスタンピード。その大群の中で見た異質な存在。そんな存在を裏から操っている者がいる可能性――。


その全てが、ただの偶然では片付けられない何かに繋がっている気がする。まるで、見えない手がダンジョンを操り、破滅への筋書きを描いているかのように。


「何かわかったのか?」


ブランがそう問いかけると、ライラは一瞬考えるように視線を落とし、やがてゆっくりと頷いた。


「はっきりとした答えには至っていません。ただ……いくつか気になる記述が見つかったんです。」


彼女の指先がテーブルの端を軽くなぞる。その動作から、彼女が感じている重さと緊張が伝わってくる。


「記録の中には、“ダンジョンが意思を持つとき、それは混沌の兆しであり、黒の始まりである”という記述がありました。」


ライラの静かな声が部屋に響いた。その言葉は重く、そして不吉な響きを孕んでいた。


「黒の始まり……?」


ブランは思わず眉を寄せ、考え込むような顔をする。その意味をすぐに理解できるほど、彼の中に知識の蓄積はなかった。

しかし――「黒」という言葉が持つ響きに、どこか不安な感覚が胸を突く。


その言葉を耳にした瞬間、ブランの脳裏に浮かんだのは――魔物の核である「魔石」だった。


魔石――それは、魔物を討伐した際、その体内から現れる魔力の結晶体。その役割は魔力の源泉であり、いわば魔物の生命を司る“心臓”のような存在だ。そして、その魔石の色によって魔物の性質や強さが判別されることも多い。


だが――「黒」。


その色彩が示す意味は特別だ。


黒い魔石。それは、魔物の中でも特異な存在を象徴するもの。加えて、世界における嫌悪と忌避の象徴でもあった。


ブランは思わず拳を握りしめる。

その色彩は、彼自身が背負う「白の魔力」と同様に、この世界から拒絶され、疎まれる存在。


ただ、黒が嫌悪の象徴として刻まれているのには、明確な理由がある。それは、その魔力色素を持つ者が「人間ではなく、魔物である」からだ。


人間が持つ魔力の色は多彩だが、それはあくまで自然界の属性を象徴するものとして認識されている。一方で、魔物に宿る魔力の色――特に黒は、混沌そのものであり、破壊と呪詛の象徴とされていた。


純粋な黒の魔石は、他の魔石とは異なる性質を持つと言われている。その魔力の流動性は高く、不安定でありながら、膨大な力を秘めている。その力を人間が利用しようとすれば、使役者の精神を侵食し、時には命すら奪うこともある。


「黒の魔力――それを持つ魔物がダンジョンの異常現象に関わっているってことか?」


ブランは低く呟いた。その声には警戒と、どこか抗えない予感が滲んでいた。


黒――それがただの象徴に過ぎないのか。それとも、現実に何かが動き出している兆しなのか。


ライラもまた、その瞳に真剣な光を宿しながら頷く。


「ええ。その可能性が高いと思います。そして、もしそれが真実なら……ダンジョンに潜むのは、単なる魔物の群れでは済まないかもしれません。」


彼女の声には微かな緊張が混じっていた。


――黒。それが意味するものは、一体何なのか。


ブランは無意識に握りしめた拳を見つめ、その緊張を解くように一度深く息を吐き出した。指先に伝わる微かな震え。それはきっと、本能から伝達した不安の表れだ。


視線をそっと下げると、テーブルに置かれたマグカップの中で、少し冷めた紅茶が静かに揺れている。ブランはそれを手に取り、一息で飲み干した。まだ微かに残る温かさが喉を伝い、張り詰めていた胸の内を少しだけ和らげていく。


「……ライラ、ありがとう」


彼はマグカップをテーブルに置きながら、真っ直ぐに彼女を見つめた。

その目には、彼女の言葉をしっかりと受け止めたという意思が宿っている。


「この情報は、きっといつか役に立つと思う。」


その言葉を聞いたライラは、一瞬驚いたように目を丸くした。

だがすぐに、微かに頬を染めながら穏やかな微笑みを浮かべる。


「お礼を言うのは私の方です。ブラン君が真剣に耳を傾けてくれたおかげで、こうして話すことができましたから」


ライラの言葉は、柔らかな微笑みとともに紡がれる。その声には、確かな信頼と感謝が込められていて、ブランは思わず息を止めそうになるほどだった。


「話したいことは、これで全部です。とにかく、この話をブラン君に共有しておきたくて……」


言葉の最後に少し微笑んだ彼女の表情は、どこか晴れやかだった。その姿を見たブランの胸の中には、温かな気持ちが広がっていく。


彼女が自分を信じて、ここまで話してくれたこと。それは間違いなく信用の表れであり、信頼そのものだ。


「ありがとう、ライラ。話してくれて嬉しいよ」


ブランの素直な言葉に、ライラの微笑みはさらに深まった。


――しかし。


「そして、実は……これとは別件があるんです」


ライラの声が、少しぎこちなくなった。その瞬間、彼女の瞳がふと揺れ、落ち着きのない視線がテーブルの上を彷徨う。


「私も今日は、養成学校とダンジョンに行くことを禁止されていて……その……時間があるので……」


徐々に彼女の声が小さくなっていく。まるで風に流されて消えていきそうなか細い音だ。


「その……もし良ければですけど……一緒に西都を回るお誘いをしようって……」


最後の方はほとんど聞き取れないほどだったが、それでも彼女が伝えたいことはしっかりとブランの耳に届いた。


「……一緒に西都を?」


ブランが確認するように問い返すと、ライラはピクリと肩を震わせ、ぎこちなく頷く。


「そ、そうです! あ、あの、気を遣わなくていいんですよ! 断るなら……その、気軽に……」


耳まで赤く染めながら、視線を泳がせている彼女の様子に、ブランは思わず口元に笑みを浮かべた。


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まず初めに、私の拙い文章を読んでくださり、ありがとうございます。

ゆっくりと書いていく予定です。

時々修正加えていくと思います。

誤字脱字があれば教えてください。

白が一番好きな色。






























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