日常が変化する(2)
ブランの目の前にいるのは、養成学校で見せる真面目な顔つきの彼女でも、ダンジョンで見たあの鋭い意志を宿した戦士のような彼女でもない。
清楚な服装に身を包み、朝日を受けて輝く深緑の髪を風に揺らしながら微笑む、どこか柔らかく穏やかな雰囲気を纏った少女だった。
その姿は、ブランがこれまでに見てきたどの彼女とも違っている。
「おはようございます、ブラン君」
柔らかな声とともに、ライラが微笑みながら挨拶をする。その声は朝の静けさの中、どこか清涼感を伴って耳に響いた。
彼女がブランの前まで歩み寄り、足を止めると、陽光を受けた深緑の髪が風に揺れてきらめく。その優雅な動作の一つ一つには、自然と目を引くような品が宿っていた。
その姿に、ブランは思わず息を呑む。
「……お、おはよう、ライラ」
遅れて返事をするブランの声が、どこかたどたどしくなるのも無理はない。
彼女の所作は、一朝一夕で身に付くものではない。育ちの良さと気品が滲み出ており、貴族の子としての素養が自然と現れているのだと、改めて感心させられる。
西国を支える中心地、首都ウェスト。
壮麗な城壁と広大な市街地を持つこの都市は、西国全土の政治、経済、文化の中心地として繁栄を極めていた。
その発展の礎を築いたのは、この地を治める五つの大貴族の存在だと言われている。彼らの影響力は計り知れず、王権を支え、国土を広げ、文明を築き上げてきた。
――そして、その五大貴族の一つに数えられる名門こそ、グレイシア家である。
深緑の髪を持つ少女、ライラ・グレイシア。その名に刻まれた「グレイシア」という響きは、この国において特別な意味を持っていた。
古くから魔法の才能を血脈に刻み込み、代々優れた人材を輩出し続けてきた名家。文武両道に秀で、国内のみならず周辺諸国にまでその名声を轟かせている。その名を聞けば、誰もが「魔法の名家」としての威厳と伝統を思い浮かべるだろう。
中でも、この家系が誇るのは風の魔法における卓越した技術。旋風の如き迅速さ、嵐の如き力強さ――その風を操る技術は他の追随を許さない。風の魔法の第一人者として、その名は魔法史に刻まれ、現代に至るまでその威光を失わずに輝き続けている。
『グレイシア』。
かつて、この国に魔法と貴族の制度が根付いた時代からその地位を確立し、他を圧倒する力を見せてきた。その存在は、クレアの名に刻まれる『ヴァルラーク』と肩を並べるだけでなく、貴族社会の頂点を占める存在として認識されている。
――魔法を極めた存在、
その名に恥じぬ力と品格を備えた彼らの存在は、今もなおこの国を支える一つの柱であり続けている。
「グレイシア」という名を耳にした瞬間、人々の表情が引き締まり、敬意と畏怖の入り混じった視線を向ける。それほどまでに、この家が国にとって重要な存在であることを示している。
――その中で生きるライラ。
彼女の存在は、グレイシア家という巨大な基盤の一部として期待され、また、その名を重んじる者たちの目に常にさらされている。
しかし、目の前で微笑む彼女の表情からは、そんな重圧や期待を感じさせる気配は微塵もない。
ただ、風に揺れる深緑の髪と淡黄色の瞳が、朝日を受けて柔らかな光を纏っているだけだった。
その光景を前に、ブランはふと、彼女の背負うものの重さについて思いを巡らせる。
そして同時に、目の前の少女がそれを抱えながらも、変わらない笑顔を見せる強さを持っていることを実感した。
「こんな時間に君に会えるなんて、全然考えてなかったよ。それで、今日はどうしたんだ?」
ブランは軽く笑みを浮かべながら尋ねた。
昨日、彼女が告げた『敬語禁止』という言葉をしっかりと覚えていた彼は、余計な気遣いをせず、ただ素直に感じたことを口にしただけだった。
ライラはその問いかけに、一瞬困ったような顔を浮かべたが、すぐに口元を引き締め、深く一礼する。
「まずは、手紙も出さずに突然訪問してしまったことをお詫びします。本当に申し訳ございません」
彼女の突然の謝罪に、ブランは一瞬、目を見開いた。
――えっ、謝る必要なんて全然ないだろ?
そんな言葉を返すよりも早く、ライラは真剣な表情のまま続けた。
「貴族間では、このような無作法な訪問は御法度であり、本来ならば許されないことです。急なことで申し訳ありませんでした」
それは、貴族社会において根付いた、下位の者が上位の者へ敬意を示すための厳格な制度に過ぎない。本来であれば、大貴族に分類されるライラ・グレイシアが、どこかの貴族の屋敷を突然訪れたとしても、それを咎める者などいるはずがない。
――彼女の持つ地位と権威は、そういった行動を許容するだけの絶対的なものだからだ。
だが、ライラがわざわざこの場で謝罪の言葉を口にしたのは、彼女自身が貴族の慣習に縛られることなく、真摯な姿勢で人と向き合おうとするからに他ならない。
それはつまり、彼女が背負う『グレイシア』という名が、単に権力や特権の象徴ではないことを物語っている。
――地位や身分に囚われることなく、全ての人々に敬意を払い、真心を持って接すること。
それこそが『グレイシア』の真髄であり、その姿勢がどれほど多くの人々の信頼と尊敬を集めてきたのか、計り知れない。
ライラの行動一つひとつには、そうした家系の伝統と、自らが信じる信念が込められていた。
だが、貴族間の常識など知る由もないブランにとって、その言葉は予想外のものだった。
「えっ……? いや、謝ることなんて何もないだろ?」
彼は困惑した表情でライラを見つめる。突然の謝罪に戸惑いを隠せない様子だった。
ブランにしてみれば、ライラがこの家を訪れることに何の問題も感じていなかった。訪問を前もって伝えようが伝えまいが、相手が誰であれ、それは些細なことに思えたのだ。
だが――それは、あくまで彼の常識。
貴族という特異な社会に生きるライラにとって、それは礼儀を欠く行為と見なされる可能性もあるのだろう。
――自分には分からない世界のルール。
ブランはそんな認識の差を感じ取りながらも、ライラの真摯な態度に少し圧倒されるような気持ちを抱いていた。
「本当に気にしなくていいよ。突然だろうと何だろうと、来てくれたのは俺にとって嬉しいことなんだから」
慌ててそう言葉を返すブラン。しかし、そのぎこちない笑顔にライラが口元に笑みを浮かべたのを見て、彼は内心で自分の未熟さを痛感する。
――やっぱり、貴族の考えって難しい……
そんなことを思いながらも、彼女の礼儀正しい姿勢にはどこか好感を抱かずにはいられなかった。
そんな彼の言葉にライラは少しだけ目を見開く。そして、微かに頬を染めながら、小さく笑みを浮かべる。
「……そう言っていただけると、少し救われます」
その声は静かでありながら、どこか安堵を含んでいた。
風が二人の間をそっと吹き抜け、草の香りを運んでいく。
――それにしても、一体どうして彼女はこんな時間に?
ブランは胸の中に浮かんだその疑問を、そのまま口にしようとした。
けれどその前に、ライラの淡黄色の瞳が再び真剣な光を宿し、彼を見つめていた。
「実は、少し話したいことがあって……それで、ここに来ました」
その言葉の響きに、ブランの胸の中に小さな緊張感が芽生える。
彼女の瞳に込められた真剣な想い。それが何を意味するのか――彼にはまだ分からない。
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まず初めに、私の拙い文章を読んでくださり、ありがとうございます。
ゆっくりと書いていく予定です。
時々修正加えていくと思います。
誤字脱字があれば教えてください。
白が一番好きな色。
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