未亡人
kotonoha39
未亡人
雨は細く、針のように尖って黒色のこうもり傘に打ち立てていた。夕べの名残の、弱々しい雨だった。
台所、家の周り、川のそば。夏だというのに、辺りはうっすらと寒々しく、爽やかさの欠片もない。先週の、気だるい、湿った空気や、鳴り響く蝉の声が噓のようだった。街はいま、檻のような雨に囲まれて、静寂に満たされていた。ましてや、墓地には空気がぴんと張り、独特の緊張感に包まれているからなおさらである。
街の北、寺の裏手の墓地の端、「無」と彫られた墓のそばに、傘を差した女性が座っていた。白く短い髪が、丸い眼鏡に数本、さらさらと掛かって、彼女が動くたびにかすかに揺れる。その奥の目は伏せられ、どこか一点を見つめている。
墓は彼女の夫のものであった。毎週、墓参りに来るのが彼女の日課となっていた。
もう亡くなってから何年か。墓は今も堂々と立っているが、昔より古びたように彼女は感じた。墓に供えられた花は最近の暑さにしおれ、墓をよりいっそう寂しげにしている。彼女の手にも替えるための花はない。
なぜ人は、墓に花を供えるのだろうか。その人の好きな花も知らずに…。
そういう思いが、彼女の心のどこかにあったのかもしれなかった。ただ、供えられた花はしなびて、いつか枯れてしまう。その前に彼女が取り換える。墓ができたときから、ずっとそうだった。
葬式の時、彼女は気丈に振舞った。少し涙ぐむだけだった。葬式の準備で忙しく、夫の死について深く考える暇もなかった、というのもあるが…。
だが、墓ができた時、あぁ、死んだ、と思った。もうこの世にはいないのだと思った。墓に花を供えるとき、線香をあげるとき、その時々で夫の死を実感するのであった。
夫が亡くなってから今まで、いつも通り過ごしてきた。精神を壊すこともなかったし、何か異常があるようには感じられなかった。
ただ、日常を過ごす中で、ふっと、とてつもない力で、どこか遠くへ連れていかれてしまうような、胸の中に真っ暗な穴が開いて、重い闇が沈むような喪失感を感じた。そして喉が渇く。暗闇が喉の奥まで這ってきて、喉を焼くのだ。そういう時、彼女は心臓をさすった。
墓石は雨粒にその表面を覆われ、膜となって、数少ない柔らかな光を反射していた。雲の間から、薄みがかった黄色い光が射してきている。雨の音はいよいよか細く、傘や天井、地面を打つにはもう力を失っていた。
昼というには早すぎる時間だったが、あまり長く居すぎても、と思い、彼女は立ち上がって、出口へ足を向けた。裾の端は雨に濡れ、また、少し汚れている。名も知らぬ人たちの、墓の森の中を歩いて、寺へ近いバス停へ向かった。
寺には紫陽花が咲いているが、もうおしまいといった感じで、赤、青、紫、と微妙な色彩を描いていたのが、くすんだ緑色に、コーヒーをこぼしたような茶色がところどころあるのみである。中には、茶色い蝶が集まったように、もう枯れてしまったものもある。
そんな紫陽花を見ながら、暇をつぶしていると、しばらくしてバスがやってきた。バスに乗り込むと人はまばらで、彼女は、入ってすぐの椅子へぽつんと座った。それを確認した後、一度その大きな体を震わせてから、バスが発車した。
しばらく彼女が空中へ視線を投げていると、バスの左側から、柔らかな光が差し込んできた。その光は、バスが移動するにつれて、手すりや椅子に、細やかな陰影を作り出していく。銀色の手すりはその光を反射し、辺りの景色を美しく映し出していた。彼女にとって、見たこともないような光だった。
光は、山吹色のような暖かい色ではなく、真っ白に伸びていて、それが辺りに降り注いでいた。真夏ではあるが、彼女は雪を思い出した。地面に積もった雪と、そこに反射する光とを。雨はとっくに止んでいた。
バスが終点へ近づき、建物が続くようになるにつれ、光はますます白みを帯びてきている。そうなるにつれて、バスの中は暗さを増し、外の明るい景色とは全く別の世界のように思われた。
彼女がバスから降りると、やはりいつもより景色が白みを帯びて感じられた。真夏の太陽が、真上から刺すような清々しさもなく、かといって曇り空の、飲み込まれてしまうような鬱々とした感じでもない。夕方の、郷愁を誘うような光でもない。
あぁと、彼女は思った。空を見渡して、右半分は雲が、水墨画のような細かな光の加減を作り出している雲が、覆っているが、左半分は青空がまだ見える。完全な曇り空でもないが、雲一つない青空でもない。だから、いつもより繊細な、崩れてしまいそうな景色を作り出しているのか、と。
遠くの山なみには霧がかかり、遠くへ行くほど青くなって、輪郭を失っていく。川は昨日より流れを増し、夏の終わりを告げようとしていた。
ふと、彼女は足を止めた。夫と出かけた、いつかを偶然思い出したのだ。
そういえば、その日も細かな雨が降っていた。今の季節より少し前、近くの川へ行って、散歩をしただけだった。今の今まで忘れていた、ただの日常。確か、川沿いには、紫陽花の列が長く続いていた。輝くような紫陽花が。
光はさらに白く、束となって街に降り注いでいた。黒い傘にも、白い髪にも、そして紫陽花にも。どの場所にも、少しの水滴がついていて、その美しい光を反射していた。
未亡人 kotonoha39 @kotonoha39
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
参加中のコンテスト・自主企画
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます