白金の助五郎

鯨井弘

白金の助五郎

 その年の春は誠に穏やかな日和続きで御座いましたので、火付盗賊改ひつけとうぞくあらためかたのお頭、垣内かきうち監物けんもつ重明しげあきはいつにも増してのんびりとした様子で、もうかれこれ半刻(一時間)は旅の思い出を語っておりました。

 故郷ふるさとである京のことなので、御用聞きである御車みくるま三吉さんきちは先程からとしておりますが、与力の佐久間さくま典膳てんぜんは落ち着きなく、あっちを見たりこっちを見たりと、ほとんど腰を浮かしております。

「もう後二週間もすれば、京の桜も満開じゃないかね?」

 と、監物が問えば、

「ええ。京は桜の名所もぎょうさん揃うていなさりますさかいなあ。あちらこちらで花弁が舞って、人の心にもと花が咲くんですえ」

 三吉が揚々として懐古します。

「この太鼓持ちめ……」

 話を終わらせる為に典膳は悪態をつきますが、彼のこの調子には二人共慣れているので、気にせず続けます。

 すると、思い立ったように監物が顔を上げて、彼の方を指差しました。

「そうだ。其方そなたも一度行ってみたら良いよ。京へ行ってね、少しは風情でも学んできたまえ」

「何を仰いますか」

 とうとう堪え切れなくなり、典膳は語気を荒らげます。

「そう言って私を追い出そうとしても無駄ですよ。何のかんのと言って、職務を怠けるおつもりでしょう」

 典膳はまくし立てますが、監物もただでは引き下がりません。

 いつまで経っても平行線続きの二人の姿を微笑ましく思いつつも、三吉だって久し振りに里帰りをしたかったので、監物の肩を持ちます。

「まあまあ、ええでっしゃろ? 俺はお頭の意見には賛成でっせ。京はええとこです。あら一遍行かんと損ですえ」

 三吉の話す言葉は花街のものらしく、いつもはゆったりとしているのですが、こういうときだけは大阪の商人あきんどのようになるので、流石の典膳も後れを取ってしまいます。

「そうだとも。休みを上げるから、ね? 一度行っておいでなさい」

 上役の命令とあらば行かざるを得ないので、典膳は三吉を案内人に据えて、京へ旅立つことにしました。

 とはいえ、目的は行って見て帰ってくるだけという認識をしているので、典膳は驚く程早足で進みます。

 険しい山道の続く中山道を、旅程も無視してと歩むので、京へ着いたのは月が真上に向かう頃だというのに、宿はまだ決まっておりませんでした。

 にも関わらず、三吉はもう一歩も動けぬという有り様で御座います。

「さあ、どっか良い宿はねえのか。ないなら野宿でも構わぬが」

「勘弁しておくんなんし……」

 とは言いつつも、

(こないな夜更けに快う泊めてくれる宿なんて)

 三吉は内心気が気でありません。

 しかし、だからといって野宿などもっと無理な話です。

 考えに考えて、一か八か彼は古巣へと飛び込みました。

 その頃、京の祇園で〝つるや〟といえば、誰しもが羨望の眼差しを向ける美麗な置屋でしたが、三吉はそこで育ったので御座います。

 賑やかな花街の雰囲気に、僅かばかり気後れしている典膳を、今度は三吉が引っ張ってゆく番でした。

「姉さん、三吉です。今晩、泊めてもらえやしまへんやろうか」

 少し声を張り上げると、二階からやや駆け足で、一人の芸子が降りてきます。

 彼女の顔を見て、

「あれまあ、小菊こぎくちゃん?」

 先程までの疲れは何処へやら、三吉の方も典膳を置いて駆け寄りました。

「えろう立派になったなあ。こないだまでを下げてたいうんに。よう似合っとるよ」

「姉さん方のおかげです。三ちゃんこそ、大だなの手代さんみとうね」

「そない言うてもらえるなんて、嬉しいわあ。お母さんは元気になさっとるかえ?」

「ええ。二階に居られます。うちが案内させてもらいまひょか」

「おおきにありがとう。頼みますわ」

 と、三吉はすっかり縮こまっている典膳の手を引いて、小菊に付いてゆきます。

「お母さん。失礼致しやす。お変わりないようで何より……」

 養母の市松に鋭い目付きで一べつされて、三吉はそっと姿勢を正しました。

「本に、あんたも変わらへんなあ」

「はい」

「江戸へ発ついうて挨拶に来てから三年間、便りの一つもくれへんで、俺がどれだけ寂しい思いをしていたか……」

「あ、えっと、そらあ、えろうすんまへんでした。何分、慣れぬ江戸住まいで忙しく――」

「言い訳なんぞ聞きたかありまへん」

 普段は口の上手い三吉がすっかり俯いてしまったので、典膳も思わず助け舟を出そうとしますが、市松が溜め息をついた瞬間、場の空気は一変しました。

「全く仕方のない子やなあ。一先ず今晩は泊ってもええけど、明日からは町の方の宿を探しなされ。後ろのお侍さんの為にも」

 何度も礼を言う三吉の傍らで、典膳も静かに頭を下げました。

 市松の言う通り、置屋という空間は彼にとって居心地の良いものではなかったのです。

 白粉の匂いだけで目眩がしてしまうのは夜になっても変わらず、よっぽど三吉を起こそうとしたぐらいなのですが、あまりに幸せそうに眠る彼を見るとそんな気も失せてしまい、そうこうしている内に夜も明けてしまいました。

 朝食は刻んだ生姜とわかめの入ったうどんです。

 花冷えが応える身体に薄口のと生姜がじんわりと沁みて、三吉の気付かぬ間に典膳の機嫌もだいぶ良くなりました。

「ここまで来たらまずは、祇園さんの元にお参りに行かなあかんですよ」

 なんて語る三吉に従って、典膳は八坂神社へと向かいました。

「あっこにある朱色の建物が本殿です。五十年位前に公方様に建ててもろうたんですけど、随分貫録が付きなさって、美しい限りでしょう?」

「ふむ。これは確かに、中々良いものだな」

 他の建物に比べると、まだ傷も多くは付いていない丸柱をなぞりつつ、典膳は答えます。

(それにしても涼やかだな)

 と、視線を落として、

(や、これは……)

 思いがけず息を呑みました。

 本殿は、底が見えぬ程深い池の上に造られていたのです。

「ほな、次は俺の一押しの場所へ行きまひょか」

 参拝を終えて、石畳の上を歩きながら、三吉は提案しました。

「祇園さんも凄くええとこでしたけど、そこはもっと綺麗なとこですえ。俺は特に桜が好きなんですけど、佐久間さんにも気に入ってもらえたら嬉しいなあ」

「で、そこは何てえとこなんだ」

「そら着いてからのお楽しみです。あ、清水きよみずさんやと思いました? 惜しいといえば惜しいんですけど、まあ、色々想像しておくんなんし」

 煮え切らない三吉の態度に、典膳はまたを曲げ始めましたが、

(どうでも答えるわきゃねえ)

 胸の内で唾を吐くだけに止めました。

 かの桓武かんむ天皇は平安京を碁盤の目の如く整えようと尽力しましたが、未だにその面影が残る京の町は誠に歩きやすく、様々な景色を楽しむ余裕を持たせてくれます。

「あないなお店も出来たんですねえ。帰りにでも寄ってみまひょか」

 とか、

「あっこは秋に行くと綺麗ですえ。山全体がぱあっと燃えとるように化粧しなさるさかいに」

 とか、そういう話をしている内に、二人はすっかり目的地である地主じしゅ神社に到着しておりました。

「これはまた」

 典膳は笠を持ち上げながら、境内の桜を見上げました。

 溶けない雪がはらはらと舞って、頭や頬や肩を撫でながら、土の上に降り積もってゆきます。

「どないでっか?」

「……美しいな」

 感慨にふける典膳の邪魔にならぬよう、三吉はもう何も喋りません。

 しかしその内、大の大人二人が並んで立っている光景に耐えられなくなったのか、典膳は頭を掻きながら歩き出してしまいました。

 三吉は微笑しつつ、彼の後ろを走ってゆきます。

 拝殿の天井は狩野かのう元信もとのぶによる竜の絵が描かれており、これを俗に『八方にらみの竜』というのですが、二人もまたその竜に睨まれながら、無事に参拝を終えました。

「あんにゃろう、まだ睨んできやがる」

「あの竜さんはなあ、夜毎天井から抜け出して滝の水を飲みなさっとったさかいに、逃げられんよう目に釘を打たれてしもうたんですえ」

「ざまあみろってんだ。盗人風情も、ちったあ釘を刺さにゃ駄目か?」

 胸を叩かれて、三吉は痛いところを突かれたような気がしました。

 今は当然足を洗っていますが、三吉は昔盗みで生計を立てていたのです。

(にしてもこら、言い過ぎや……)

 三吉は右腕をすくめて袖の中に収めると、そのまま青い布で顔を覆ってしまいました。

 それに気付いた典膳はと顔色を悪くしますが、時既に遅し、三吉は肩を震わせます。

「そないなこと言わんでおくんなんし。俺やってあの頃のことは十分反省しとります。そやさかい、今やって主さんに喜んでもらおう思うて……」

 こうなってしまうと、普段役宅内で鬼と恐れられる典膳も、成す術がありません。

 肩を掴もうとした手が宙を舞って、彼は負けを悟ります。

「ああ! 悪かった。ちょいと言い過ぎたな、許せ」

 途端に、打って変わって三吉は上機嫌になりました。

 と、いうより、彼は元から泣いてなぞいなかったのです。

 嘘つきは泥棒の始まりともいいますが、子供の頃ならまだしも、これは全く本当なのかもしれません。

 典膳はいつもいつも、彼のこの調子に音を上げてしまうのです。

「けッ、勝手にしろ」

「さあ、今度は佐久間さん、貴方が機嫌を直す番ですえ。お互い、ちいとばかし悪ふざけが過ぎましたなあ」

 彼は何も言いませんけれども、相変わらず三吉は気にしておりません。

「〝それ花の名所などころ多しといへども

 大悲の光色添ふゆゑか

 この寺の地主の桜にしくはなし〟と歌われた地主桜。一本の樹に一重の花と八重の花が二つ仲よう咲きなさる美しさは、他の何処に行っても見れやしまへん」

 無視こそしていましたが、典膳はきちんと話を聞いておりました。

 地主桜の方に近付いて、香りを嗅いでみたり花に触ったりと、彼なりの方法で楽しんでいるみたいです。

 三吉も小鳥が啄んだ花を拾ったりなぞしておりましたが、茶屋の方に懐かしい顔を見付けたために、意識はすっかりそちらへ向かってしまいました。

にいやん!」

 大声を出すものですから、典膳もすっかり気を取られます。

 三吉が誰かと話しておりました。

 すらりとした長身で、一見大店の若旦那風の男です。

「おい、三吉」

「あっ、兄やん。紹介させてもらいますわ。この人は、俺が日頃お世話にならせてもろうとる方です」

「……佐久間典膳だ」

「それはそれは。三吉がいつも御面倒をかけております」

 腰を折った姿は本当に品が良く見えましたが、その細い目に宿った鋭い輝きを、見逃す典膳ではありませんでした。

「佐久間さん、助五郎すけごろうはんは……」

 と、まで言って、三吉は思わず躊躇しました。

 実のところ、この白金しろがねの助五郎という男、彼もまた盗人稼業に身を沈めていたのです。

「つるやのええ旦那さんでなあ。俺も小さな時分から弟みとうに可愛がってもろうとるんですえ」

「三吉。そらちいと言い過ぎですわ。あたしは見ての通りの素町人。まあ、ここでお会い出来ましたのも地主さんの御縁、お見知りおきくだされたなら幸いです」

 一見何でもない会話の裏側で、三吉は頭を抱えました。

 助五郎が盗人であるとしまうのは、勿論不味いことですが、典膳が火盗改かとうあらたメの役人であると知られてしまえば、三吉の命までもが危なくなってしまいます。

「ところで、三吉。お前またつるやはんの元に身ぃ寄せとるんかえ?」

「いやあ、昨夜ゆうべは着くのが遅うなってしもうたさかいに、無理言うて泊らせてもらいましたけど、今晩からは、どこかええ宿を探そう思うとります」

 二人の会話を聞きながら、典膳は居心地悪く髪を撫で付けます。

「あー……まあ、おめえら、積もる話も色々あるだろうから、俺はあっちで桜でも見てるわ」

「いいえ。折角の旅気分に水を差したのはあたしの方。ここらでなしてもらいまひょ」

「なら、明日話したらどうだ。俺だって、一人で回ってみてえとこもあるから」

「そらあええ考えですなあ。どうです? 兄やんの方は。ご都合宜しければええんですけど」

「ほな、お言葉に甘えさせてもらいまひょ」

「明朝またこの場で」

 と、約束を取り付けて、助五郎は桜吹雪の中を去ってゆきました。

「えろうすんまへん。もう五年は会えとらんもんでしたさかいに、佐久間さんのことも考えんと……」

「まあ良い。気にするな」

「どうせならここで、何か食べてから宿を探しまへんか? 俺、もうお腹が空いてしもうて」

 花より団子という言葉通り、空腹の前では美しい花もかすんでしまいます。

 桜の塩漬けが混ぜ込まれた白餡は、春の陽気に照らされてつやつやと輝き、味も大変宜しいものでした。

 小腹も満たされたので、いよいよ宿を探し始めます。

 幸いにして監物から、

「路銀の足しに……」

 なんて、渡された銭がかなりありましたので、少しばかり値の張る宿に泊ることにしました。

「そういえば」

 浴衣の襟に手を入れつつ、三吉が切り出します。

「一人で回りたいところがあるいうて、言いなさりましたけど、どこへ行かれるんですか? 島原はんですかえ?」

「てやんでえッ、んなわけあるか。奉行所ぶぎょうしょだよ、奉行所!」

「えっ、御役所おやくしょに?」

 驚いて、三吉は典膳の隣に座ります。

 折角良い風呂に入って身を清めたというのに、また冷や汗が出てきてしまいました。

「そないな、物見遊山しとるときまで、お役目のことを考えんでもええでしょう?」

「俺は物見遊山だとは思ってねえ」

「そやけど、何でわざわざ……」

「良いか?」

 典膳は冷や酒を一息で飲み干すと、猪口をやや乱暴に置いて、三吉と向かい合いました。

「おめえも知っての通り、上方から大江戸へ下って悪さをする奴が増えてる。それもこれもお頭のやり方が手ぬる過ぎるからだ! 今はおめえが居るからまだ良いが、このままじゃ上様のお膝元が、上方の贅六ぜいろくにぐちゃぐちゃにされちまう。だから京の奉行所とも手を組まねえといけねえのさ、不本意だがな」

 典膳の言い分には中々筋が通っておりました。

 何を隠そう三吉自身、

「江戸の新しい火盗改メの頭は、随分な昼行燈らしい」

 などという噂を聞いて、江戸へ向かった一人なのですから。

「でも、佐久間さん。お頭なら何が来たって、捕まえられる思いますえ。現に、俺やってこうして捕まえられてしもうたんですさかいに。あら虫をおびき寄せる為の罠です。飛んで火に入る夏の虫いうでっしゃろう?」

 こればかりは、監物に捕らえられた当時の感想そのままです。

 彼は十人でも十五人でも、大勢の人数を相手にして大立ち回りを繰り広げられる強さを持ちながら、先の噂通りのことをしているのですから。

「あの噂はねえ、私が流しているのだよ。ふふふ……」

 三吉は以前、彼にそう教えられて、随分と驚いたものです。

 それは典膳も薄々感じているらしく、三吉の注いだ酒をと見詰めていました。

「……だが、話を通すのに損なこたねえ。おめえ、何でそこまで頑なに嫌がる」

 典膳の瞼が日本刀のように反り上がって、

「誰かを庇ってんじゃねえだろうな」

 低い声で問うてきたので、三吉は密かに両手を上げました。

「そうです」

 案外素直に吐いたので、典膳もついつい拍子抜けしてしまいます。

「誰を庇っていやがる」

「そらまだ言えまへん」

 しばし無言が続きました。

「もし……俺自身のことやったら、どないします?」

「ああ?」

「今までの言動は全部嘘で、ほんまは人殺しも厭わへんような奴やったらいうことですえ」

「いや」

 典膳は眉間を押さえながら答えます。

「そりゃねえ。おめえに限ってそりゃねえや」

 猪口を手放して、布団に寝転がった彼の表情を、三吉は覗き込みました。

「おめえと話してると頭が疲れる。俺あもう寝るぜ」

「はい。お休みなさい」

 典膳が寝入ったのを見届けてから、三吉は明日の準備を始めました。

「これ、俺のお薦めです」

 翌朝、早速彼は典膳に一枚の紙を渡しました。

「何だこりゃ」

「昨夜の内にまとめておいたんですえ。褒めておくれやす」

 京の名所が書かれたそれを、行くにしろ行かないにしろ典膳は受け取りました。

 宿から同時に出て、四つ目の辻で彼と分かれた三吉は、約束通り地主神社の方へ向かいます。

 助五郎は三吉の姿を見付けると、吸っていた煙管を煙草入れに仕舞って、静かに手を振りました。

 地主神社より清水寺への道を歩きつつ、昔話に花が咲きます。

 と……。

「三吉。お前に話さへんとあかんことがある」

 藪から棒に助五郎が告げてくるので、三吉も思わず身構えます。

「わしはな、この稼業から足を洗わせてもらうよ」

「えっ、そらほんまですか?」

「嘘や冗談でこないなこと言うか」

 助五郎は笑いながら三吉の頭を撫でます。

「お前は相変わらずやなあ」

 京へ来てからしきりに、

「相変わらず、相変わらず」

 と言われている気がしました。

「俺やって変わりました」

「どう変わったんや?」

「俺は、一足先に堅気にならせてもらってま」

「ならお前、今は髪結い一本か」

「そうです」

 かつての三吉にとって、髪結いは大店の商家に入り込む為の手段でしかありませんでした。

「成程。先を越されてしもうたか」

 と、変に神妙な面持ちをした助五郎が、ふと表情を変えて、

「振り向いたらあかんど」

「……お役人ですか?」

「いや、ちいとばかし厄介なもんに絡まれとってなあ」

 役人とは違う、素人の尾行ならば撒くのは簡単です。

 建物の陰に潜んで、三吉は逆に相手の顔を盗み見ました。

「あの男」

「知っとるんかえ」

渦潮うずしお藤九郎とうくろういう盗人です。驚いたなあ。てっきり江戸でしか盗みはしいひんもんかと」

卦体けったいなことになっとる。京の者が江戸に下って、江戸の者が京に上ってくる世の中か」

 藤九郎が諦めたのを確認してから、三吉は彼のことを助五郎に説明しました。

 彼とその親分・暑月しょげつ久衛門きゅうえもんは、監物の恐ろしさに一早く気付き、彼が火盗改メの頭に就任してからは、目立った行動をしていなかったのですが、かつてはかなりことをしてきたそうです。

 典膳が時折思い出したように話すので、三吉もすっかり覚えてしまいました。

「ところで、何で兄やんは藤九郎なんぞにけられていなさるんですかえ?」

「まあ、恋敵でな」

「恋敵?」

 三吉は目を白黒させました。

 美男の助五郎ですので、昔から女性に思いを寄せられる機会も多かったですが、彼の周りには今まで浮いた話の一つもなかったのです。

「お相手は誰です?」

「お前も知っとるやろ。つるやの、小菊や」

「えっ、小菊ちゃんですか? そら、嬉しいことですなあ。何せ小菊ちゃんは、ずっと兄やんのことを好いとったんですさかいに」

「ああ、祝言の約束もしたんやけど、まあ、そこにあの久衛門が横恋慕しよってなあ」

「そういうことですか」

 と、三吉は納得しつつも、

(足を洗うなんぞ言いなさったのも、小菊ちゃんの為か)

 なんて考えると、笑みが抑えられません。

「それじゃあ、兄やんは何で食うてゆくおつもりで?」

「料理屋をやろう思うてな、もう店も見付けたんやけど……」

「俺、見に行きたいです!」

「店を?」

「はい」

「まだ何もないけど、お前が見たいならええよ。ほな、行こか」

 助五郎の店は綾戸國中あやとくになか神社の側にあるのですが、今日は何だか妙に騒がしく見えます。

「あッ、助五郎さん!」

「助五郎さん、見ておくれやす。奴らが……」

 血相変えて中へ駆け込む助五郎の後を、三吉は何とか付いてゆきます。

「ッ――!」

 店の中がめちゃくちゃに荒らされておりました。まさに上を下へといった具合で、机や椅子は引っ繰り返され、割れた食器があちこちに散らばっております。

「……三吉、悪いなあ。折角見たい言うてくれたのに、こないなことになってしもうて」

 助五郎は三吉の脇を通って店を出ると、周りの人達に向いて、

「皆さんも、えろうすんまへん。後のことはわしらが片付けますさかいに、皆さんは御自分の商いに戻っておくれやす」

 そう告げて、彼は店の中へ戻ってきました。

 立ち尽くす三吉の肩を叩きながら、

「さあ、お前にもちいとばかし働いてもらいまひょうか」

 などと、破片を拾う彼の姿には、別段変わったところは見られません。

「兄やん、は、いつもこないなことっ、されとるんですか」

「いや、ここまでされたのは、今日が初めてや」

「そんな、」

 しばしの沈黙。

 後に……。

「やり返すべきです」

「三吉。阿保なことは言うな。わしはもう足を洗うた。これが堅気になるいうことや」

「なら、奉行所に訴え出て――」

「こないなくだらんことで、あのお方達の手を煩わせられるわけないやろ!」

 そこで、三吉は思い出しました。

 助五郎は盗人だてらにどうして、奉行所の人間を好いていたのです。

 彼は昔から口癖のように、

「ええか、三吉。家の者にもように盗むんや。そやないと、役人さんに迷惑がかかってしまうさかいに」

 と、話しておりました。

「それに今は西の御役所が番をしていらっしゃる。わしはあそこの御役所さんとは反りが合わへんのや」

 呼吸を整えて、声を押し殺しながら彼は返しました。

 西町奉行所の悪評を、三吉は意外なところから再び耳にします。

「畜生、あの西町の贅六め!」

 宿に帰るなり、奉行所へ行った筈の典膳はこの様子です。

「江戸っ子は酒に飲まれぬ」

 なんていう話もありますけれど、

(はて、ほんまにそうやろうか)

 三吉は苦笑いを浮かべつつ、

「佐久間さん。自棄酒は身体にようないですえ」

 彼の顔を覗き込んで、

(あれ……)

 静かに目を丸くしました。

 どうにも、典膳が泣いているように見えたのです。

 いいえ、確かに彼は鼻を啜っておりました。

「今、水を持ってきますさかいに、ちいとばかし待っていておくれやす」

 部屋を出て、階段を降りながら三吉は思考を巡らせます。

(俺が京に居った頃の西御役所さんは、そない悪いお方やなかった。三年……。誰か違うお方に代わりなさったんやろうか)

 宿の人から水の入った湯呑み茶碗を受け取ると、彼はなみなみと満ちたそれを零さぬように、慎重に部屋へと戻りました。

「ささ、佐久間さん。お冷やしでありんすよ」

 助五郎の店を片付けた際に付いた手の傷と、三吉の顔を交互に見てから、典膳は何も言わず冷や水を飲み干しました。

「どないしなさったんですかえ?」

「西町の奉行所へ行った」

 典膳はぽつぽつと事の顛末を話し始めました。

 三吉を見送った後の彼は、予定通り京都西町奉行所へ足を運んだのですが、出発前に監物に頼んでいた書状が、

「届いていない」

 と、言われたそうです。

「左様な筈はない。もう一度良く確認してくれ」

「いや。確かに届いてはおらん。お主が本当に火盗改メの与力であるというのなら、書状とやらを持って出直してこい」

 往来でここまでの屈辱を受けたのですから、典膳もそれ以上無駄な時間を使うことはありませんでしたが、どうしても怒りが治まらず、こうして酒を飲んで時が過ぎるのを待っていたのでした。

「お頭がほんまに、書状を忘れたいうことは、あらへんのですかえ?」

 内心監物へ謝罪の言葉を述べてから、三吉は提言しましたが、

「いや」

 典膳は小さな声でそれを否定します。

「お頭は確かに適当だが〝絶対〟と約束したことをたがえるような人じゃねえ」

「飛脚さんが遅れていなさるとか」

「そりゃ、まあ、あるかもしんねえけど……」

 監物が飛脚に書状を託したかどうかは別として、川止めなどの被害に遭ったのならば、誰も何も責められません。

 役人の言う通り、無理にでも監物に書状を書かせ、持参すれば良かったのです。

 典膳は唇を噛み締めながら頭を掻くと、やや疲れた顔付きで、三吉の方へ身体を向けました。

「そういやおめえ、怪我してやがったな。何があったんだ」

「ちいと、店の片付けを手伝うたんですえ」

 なんて、微笑んだ三吉の顔が急に硬いものに変わって、

「そや。今日町中で、渦潮の藤九郎を見かけました」

「何、何処でだ」

「地主さんの参道です。その……俺ら尾けられまして」

 今度は、三吉が典膳に説明をする番です。

 助五郎と小菊の間に、久衛門が横恋慕をしたこと、その所為で、助五郎が嫌がらせを受けていること……。

「成程な。そりゃ奉行所がああいう手合いばかりなんだ。治安も悪くならあ」

「……佐久間さん。一緒に、久衛門一味を懲らしめてはくれまへんか」

 三吉の要求に、典膳はと口角を上げて、

「俺あ、おめえのその言葉を待ってたんでい」

 立ち上がりながら腕を捲ります。

「長崎じゃねえがあいつら江戸のかたきだ。俺が必ず討ち取ってやらあ」

 二人は早速、久衛門達についての情報を集めることにしました。

 典膳は市中を回り、三吉はつるやへと向かいます。

「小菊ちゃん、居るかい?」

「三ちゃん!」

 助五郎と恋人関係になってから、客前には出ていないのでしょう、お茶を挽いていた小菊は、三吉の再訪に顔を綻ばせました。

「実は昨日助五郎兄やんに会うてなあ、色々聞いたよ。先ずは、おめでとうさん」

 顔を赤くして頷く彼女の姿は、やはり年相応な乙女の姿です。

 三吉にとって市松が母であること、他の芸子達が姉であることと同じように、小菊は年の離れた可愛い妹でした。今も昔も。

「……俺は小菊ちゃんの幸せを心底願うとる。そやさかい、聞かせておくれ。暑月の久衛門について、知っとることを」

 名前が聞こえた途端、彼女の顔がさっと青ざめました。

「や、辛いなら無理しいひんでええよ。ただ、ちいと気になる話を聞いたもんやさかいに、何ぞ助けになれたら思うて……」

 僅かに震える彼女に求められて、三吉は彼女の手を握りました。

 白くて小さな手です。

 せめて温もりを与えられるよう、彼はその手を優しく撫でながら、辛抱強く彼女が話し出すのを待ちました。

「あ、あの人は……江戸からいらしたお人で」

「うん」

「それで、その、いっつも、弟分いうて、いいなさる人を、ぎょうさん連れとられました」

「成程」

「私、いつものようにお座敷へ出させていただいて、舞を見てもろうたり、お酌をさせてもろうたりしとったんやけど、あの人……しきりに私の手を触ったりして……」

 三吉は何も言わず、小菊を見守ります。

「きちんと断ったし、姉さん方も守ってくれなさったんやけど、あの人……」

 泣き出してしまった彼女を宥めながら、ふつふつと気が逸るのを感じておりました。

「無粋な人やな」

 表わすのには、その言葉だけで事足ります。

 小菊が落ち着いたのち、三吉は彼女から大事な情報を聞かせてもらいました。

 久衛門一味が集まっている店の名前です。

 お礼と共に、

「恩返しみとうなもんやさかいに、助五郎兄やんには内緒にしといておくれやす。何も心配することはあらへん、俺が必ず何とかする」

 と、伝えておいて、三吉は典膳に報告する為、宿へと戻りました。

「へえ、久衛門一味の溜まり場を、か」

 監物の指示もなく動ける状況故か、典膳はいたく上機嫌です。

「よしよし、おめえも中々やるじゃねえか。上出来だ」

 翌朝、早速彼らは教えられた場所へ行き、久衛門達を見張りました。

「おい、出てきたぞ」

 典膳がそう言うと、三吉は朝食を摂る手を止めて、ちらと顔を覗かせます。

「見たことあらへん顔ですなあ」

薄羽うすば音松おとまつって奴だ。やっぱり来てたか。あいつは久衛門の腹心なんだ」

「何処へ行くんでしょう」

「おめえ、尾けてみろ。俺あ顔を知られているからな」

 典膳の命に従い、三吉は彼に気取られぬよう尾行を始めましたが、途中でふと思い付いて、わざと下手な追い方に変えました。

 すると……。

「やい、てめえ、さっきから何をちょろちょろ尾けてきてやがんだ」

 予想通り気付かれました。

「何の目的で探っていやがる。まさか奉行所の回しもんか?」

「そないなこと……誰が奉行所の犬になりますか。離しておくれやす」

「聞いたことに答えろ! 何の目的がある」

あんちゃん、盗人やろ、しかも京のもんやあらへん。あずまから上ってきた連中に、わしらの縄張りを荒らされたら堪らへんさかいに、ちいと尾けさせてもらいました」

「何、縄張り……!?」

 手を離されて、三吉は襟を正しながら息を吐きます。

「あんたも、聞いたことはありまっしゃろう? ここらは元々、高砂たかさごぶんきち親分の持ち場やったんや。あの人が亡くなった後、わしら子分がそれぞれ話し合うて今に至っとる。それをぽっと出の余所もんににされるなんていうたら、黙っていられるわけあらへんやろう」

「畜生ッ」

「わしを殺すつもりでっか? 宜しい。そないなことをしたら、あんたはいよいよわしらの敵になりまっせ?」

 軽々しい振る舞いの内で、三吉は音松の様子を観察します。

「……どうすりゃ良い」

 流石の彼もたじろぎ、怒りを抑えながら問いました。

(かかった!)

 三吉は悪戯な笑顔を見せます。

「わしも仲間に入れさせてもらいまひょ。そうしたら、知り合いにも話を通してあげますさかいに」

 音松に連れられて、彼は久衛門と対面する機会を得ました。

 藤九郎も、三吉が助五郎と共に居た人間だとは気付いていないようです。

「で、おめえは一体何が出来んだ」

「はい。わしは髪結いの真似事が少々出来まして、大店の家やろうが何処やろうが、見事に中へ入ってみせましょう」

 いくつかの会話を交わして、三吉は合格の印を貰えたのですが、宿へ帰ったとき、典膳は非常に気分を害しておりました。

「佐久間さん。怒っていなさりますか」

「ああ」

「何に」

「おめえが、あの盗人達とべたべたしていやがるからだよ」

 とは言われても、三吉にはそれの何が駄目なのかが分からないので、もう一度問うてみます。

「盗み癖が再発すんじゃねえだろうな」

「あれまあ、そないなことありまへん。第一、あの人達のやり方は、俺が親分に誓うたことと合いまへん。もう一度盗人に落ちるとしても、あないなところはこっちから願い下げですえ」

 しばらく、彼らは互いの顔を見詰め合っていましたが、やがて、

「おめえ、俺と一緒に居ねえ方が良いな」

 典膳は睫毛を伏せました。

「朝も言ったが俺は向こうに顔が知れている。二人で会ってることがら、てめえの命が危なくなるだろ」

「信じてくれなさるんですか?」

「しゃあねえからな。俺も、あの店の近くに宿を取る。目印に笠を下げておくから、何かあったら来りゃ良い。それ以外は好きに動いていろ」

 翌日、三吉は旧知の仲である北風きたかぜ総太夫そうだゆうを訪ねました。

 彼もまた、高砂の文吉の元で盗みを働いていた一人なのですが、三吉は彼が足を洗ったと、助五郎から聞いていたのです。

「ふーん、成程な。そないなことなら、手伝うてやろうやないの。それで、奴さん何処を狙うとるんや?」

「烏丸の方にある、呉服問屋の駿河屋さんです」

「ああ、あっこか。よう髪を結いに行っとるわ」

 人懐っこく笑っていた総太夫の顔が、みるみる内に昔と同じものになって、

「そんなら都合がええ。あっこの御新造さんは若い方でな、まあ……面白い噂が耐えへんのよ」

「まさか……兄やんも手を出しなさったんですか」

「阿保。わしゃそないな女子おなごに手は出さへん。ただ、お前のような若い男は好かれるやろうな。わしと同じぐらいの色男なんやさかいに」

 総太夫の手引きのおかげで、三吉は駿河屋へ入り込むことに成功しました。

 男性と女性、どちらの髪も結える三吉は大変珍しがられ、やがては重宝されようになったのです。

 久衛門達からぶつけられる、

「まだかまだか」

 の催促に、そろそろ嫌気が差そうという頃、三吉はようやく、駿河屋での食事に招かれました。

 これは昔から、彼の十八番だったのです。

 初めの内はお行儀良く振る舞いながらも、その場の全員に程よく酒が回ってくると、

「ちいと、厠を借りさせておくれやす」

 なんて廊下へ出て、家の間取りを頭の中へ叩き込みました。

(良し、あっこから中へ入って、蔵、蔵は……)

 三吉が珍しく必死になっていると、

「三吉さん?」

 後ろから声がかかりました。

 噂の御新造さんです。

「どうなされたんですか? 憚りは向こうですえ?」

「いやあ、あないにええお酒を頂いたのは初めてでしたさかいに、だいぶ酔うてしもうて」

 三吉が額に手を当てながら、

「ふわふわしてええ気持ち……」

 わざとよろけてみせますと、彼女は彼の身体を優しく受け止めました。

 三吉は彼女の様子を注視しつつ、

「御新造様。ちいと、何処かでゆっくり休ませてもらえまへんか……?」

 これはこの場を切り抜ける為の嘘に過ぎなかったのですが、三吉にとっては思わぬ幸運がありました。

 何を勘違いしたのか、彼女は彼を蔵の方へ連れて行こうとしたのです。

 こうして連れ込まれることは薄々予想していたので、三吉は具合の悪いをして彼女の手から逃れ、無事に駿河屋の間取りを久衛門達に報告したのです。

「良し。これで準備は整った。押し込みの日取りは、五月の八日だ。良いか、おめえら、八日だぞ」

 そこで、三吉はときました。

 五月になれば、東町奉行所の門が開くのです。

 彼は早速典膳の元へ行って、そのことを伝えました。

 しかし……。

「奉行所の手を借りるなんざ御免だな」

 彼はまだ旋毛を曲げていたのです。

「そないなこと言わんでおくれやす。東の御役所さんは、そない悪いお方やない聞きますえ?」

 典膳はずっと顔を背けておりました。

「もしかしたら、お頭の書状もあちらに届いていなさるかもしれんし」

 全くこのままでは埒が明きません。

「……佐久間さん」

 わざと低い声を出すと、流石の典膳も微かに反応をしました。

「貴方もご存じの通り、御役所は斬り捨てを許されておりまへん。それを、いくら江戸でお許しが出とるからいうて、黙って斬ってしもうたら、佐久間さんが悪者になってまうやないですか」

 典膳は一度三吉を睨んでから、やっと重い腰を上げました。

 月を跨いで東町奉行所の門が開いた頃、典膳がそこへ向かうと、

「火付盗賊改方の、佐久間典膳殿で御座いますね。お話は聞いております。さあ、どうぞ中へお入りください」

 何事もなく客人として案内されたのです。

 彼はそれから一時程(二時間)情報を交換し合い、最後に久衛門一味のことを伝えました。

 すると、

「何、助五郎が左様な目に合っているので御座いますか」

 青木あおき彦左衛門ひこざえもんという同心が、盗みの企てではなく、そちらの方へ関心を寄せたのです。

「佐久間様。貴方に斯様なことをお訊きするのは、筋違いだと存じてはおりますが、助五郎は、何故なにゆえ私にそのことを話してはくれなかったのでしょうか」

「……私も、連れの者から伝聞しただけの話ではありますが、あの男は〝こんなくだらないことで、あのお方達の手を煩わせるわけにはゆかない〟と、言っていたそうです」

「左様な気兼ねを……いえ、貴方に申しても仕様のないことで御座いますね。暑月の久衛門らのことは、私達にお任せください、と、言いたいところなので御座いますが……」

 濁した青木の言葉を、与力の一人が引き継いで、

「佐久間殿。お恥ずかしながら、我々には江戸の盗人を相手にする為の知恵がありませぬ。是非、今一度、貴方の力をお貸しいただけないでしょうか」

「それは願ってもいないお話ですな。元を辿れば、久衛門一味を取り逃がしたのは、我ら火盗改メにとって、拭うことの出来ぬ大きな汚点。喜んでお手伝いさせていただきましょう」

 典膳達はそのまま夜が更けるまで、捕り物の段取りを話し合いました。

 奉行所から駿河屋へ向かう際にかかる時間や、盗人らが抵抗した場合、家人の安全を如何にして守るかなど、何度も何度も実際の道を辿って、計画を立て直します。

 そうこうしている内に、押し込みの日取りが来ました。

 三吉の作った絵図面を元に、彼らは駿河屋の中へ押し入ります。

 久衛門達は刃物を持っておりました。

 家の者を脅すところまでは、百歩譲って三吉も容認出来たのですが、御新造へ手を出そうとする姿を見て、

「そないなことは、しいひんでもええでっしゃろッ」

 三吉は覆い被さった男の身体を、強く蹴って退かします。

「てめえ、今まで気ぃ遣ってやったら良い気になりやがって!」

「もう我慢ならねえ、殺してやる!」

 怖がる彼女を背に、三吉は覚悟を決めました。

 と……。

「ッ――!」

 匕首あいくちを振りかぶった音松の顔が痛みに歪み、ぐらりと姿勢を崩しました。

「兄やん!」

 助五郎が石を投げたのです。

 彼はそのまま三吉の方へ駆け寄り、久衛門らへ出刃包丁の切っ先を向けました。

「青木様に教えてもろうてな。全く無茶なことしよって。怪我はあらへんか?」

「はい!」

「助五郎、てめえ……ッ!」

 斬りかかってくる久衛門の刃を軽く助五郎が、家人を一階へ逃がすと、それを合図にしたように、部屋の中がと明るくなりました。

「――暑月の久衛門!」

 猟犬の唸り声と共に、龕灯がんどう提灯の光の中から、典膳の姿が現れます。

「この俺の顔を、見忘れたとは言わせねえぞ!」

 せきを切ったように捕り物が始まり、抵抗虚しく、久衛門一味は奉行所へ引かれてゆきました。

 これから、老中ろうじゅう並びに京都所司代きょうとしょしだいへ伺いを立ててからにはなりますが、恐らく全員死罪になるそうです。

 そして三日後、邪魔をする者も居なくなり、開店の準備が整いつつある助五郎の店へ、青木が訪れていました。

「先日の、久衛門一味の件、世話になったな」

「いえ、実際に動いてくださったのは三吉と佐久間様です。あたしは何も……」

「いや、其方は彼奴きゃつらの嫌がらせによう耐えた。私がもっと早うに気付いていれば良かったのだが、面目ない」

 そう言って、彼は深く頭を下げました。

「青木様。頭を上げておくれやす。隠そうとしたのはあたしなんですさかいに」

「む……。そうだ、其方に渡したいものがあってな」

 青木は懐から取り出したそれを、畳の上へ慎重に置きます。

「受け取ってくれると、嬉しいのだが……」

 助五郎は包んである布を捲って、

「こら……十手、ですかえ?」

「ああ、御奉行様に其方のことをお伝えしたところ、誠に喜ばれてな。この十手を預けるお許しを頂けたのだ」

 彼は深呼吸をしつつ、姿勢を正します。

「……世の為人の為、いや、私の為にも、御用聞きとして、共に働いてほしい」

 助五郎はしばらく目を伏せて、

「一度、ともよう話し合うてから、考えさせておくれやす。何せあたしらは、新婚なもんですさかいに」

 と、それだけ答えました。

 すると、三十男が切なげに眉を下げながら、

「それは、断りの返事と捉えて良いのだろうか?」

「さあ……ふふ、どうでっしゃろうなあ」

 助五郎が煙に巻くその頃、三吉と典膳は中山道をせっせと歩いておりました。

「くそっ……二週間が一ヶ月になっちまった。お頭がお役目を怠けてねえと良いが」

「まあまあ、他のお方も見張っとられますさかいに、大丈夫でっしゃろう。それより、新しゅう路銀も送ってもろうたことですし、帰りはゆっくり行きましょうなあ」

「……まあ、今回だけはな」

 ところで、監物の出した書状の件ですが、帰ってきた典膳が彼を問いただしてみたところ、

「東西どちらにも出した」

 なんていうことで、監物は西町奉行所への抗議文を、またもや無理に書かされることになったので御座いました。

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白金の助五郎 鯨井弘 @Isana_no_Keigan

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