第4話(最終話)

 翌日になって、メアリーは普段と同じモーニングルーティンをこなしながら、何かが起きるのを待った。きっと何かが起きる予感があった。それが具体的にどう、とは言えない。でもきっと連絡があるなら夫からだろうと思っていた。

 メアリーは昼からのルーティンを早めに切り上げると、コーヒーを淹れながら連絡が来るのを待った。待っているうちに夕方になった。赤い光が家の中を照らし出す。そろそろ夕食の準備を、と思い立ったとき、電話が鳴った。すぐさま電話をとった。相手は予想通りだった。

「メアリーか。大変なことになった」

「どうしたの?」

「母さんが倒れて……、……死んだらしい」

 メアリーはどくんと心臓が跳ね上がるのを抑えきれなかった。


 あの椅子に座ったものは死ぬのだろうか。

 いや、自分は生きている。だがケイトも義母も、あの椅子に座った途端、翌日には命を落とした。これは偶然なのか。メアリーの中では既に違和感は強烈なものとなってこびりついていた。ただの偶然だとしても、偶然にしてはできすぎていると思っていた。

 一度目ならばまだしも、二度目まで。

 いや、ケイトはまだしも、義母の場合は――メアリーが明確に、椅子に座るよう促してしまった。これは殺人と言えるのか。それとも。

 いったいいつからこんなことになってしまったのか。

 いったいいつから――。

 メアリーの視界に、緑色が映った。


 翌日、メアリーが買い出しに出て歩いていると、ちょうど立ち話をしている女たちが目に入った。メアリーは軽く会釈をしたが、彼女たちはひそひそとメアリーを見ていた。

 声は聞こえなかったが、きっと自分を疑っているのだと思った。

 二人ともメアリーの家に来て、すぐ翌日だ。あの二人はいったい何をしたのか。この家にやってきた二人がどちらも翌日に死んだという事実は、少しずつ村へと浸透していた。このままではメアリーが殺したと思われてしまう。そうでなくとも周囲の人間からそう思われては終わりだ。

 メアリーはただ、普通の暮らしができればよかった。夫を立て、ひっそりと影で彼を支え、ともに野菜を育て、この村の人間のように慎ましやかに暮らしたかった。そうすることが幸福であったはずなのに、その幸福はいまや遠くへ向かってしまった。こんなことがあってたまるものか。

 確かめなければならなかった。

 そういえば、と彼女は思い出した。

 ケイトも、義母も、あの緑の椅子に座ったとき、冷たいと言っていた。


 メアリーは家に帰ると、自分の椅子に座り込んでいるジョニーの横に立った。

「コーヒーでも飲む?」

「ああ……。うん、そうだね。頼むよ」

「インスタントでいい?」

「うん」

 時間外のコーヒーを、少し時間を掛けながら作る。

 ゆっくりと冷蔵庫を開けて、間違えたふりをして棚を開ける。インスタントコーヒーを取り出す。

「ダメね。お湯を沸かすのを忘れちゃった」

「いいよ、気にしないで」

 メアリーはヤカンに水を入れて、コンロにかける。

 お湯が沸くのを待ちながら、タイミングをはかった。

「ねえ、……そういえば、椅子には座ってみた?」

「椅子?」

「私の椅子」

「何か変なのかい?」

「いいえ。そういうわけじゃないけど。買うときには座り心地とか、見てみた?」

 ジョニーは考えているようだった。

「せっかくだし、座ってみる?」

 とうとうその言葉を伝えた。

 彼女の言葉に、彼は少しだけ珍しがった。彼女がこんなことを言うなんて。しかし、気晴らしをしたかったらしく、立ち上がると椅子を引いた。

 彼女がコーヒーを二つ持って赴くと、彼は緑色の椅子に座っているところだった。

「座り心地はどう? 冷たかったりする?」

「そうだね。少し冷たいかな」

「……そう」

 メアリーは少しだけ笑みを浮かべた。


 翌朝になって、メアリーは久々に六時を過ぎてから目を覚ました。

 隣にはもうジョニーはいなかった。きっとさきに起きたのだ。自分の妻が久々に遅くまで寝ているから、そのままにしたのだろう。メアリーは体を起こした。部屋を出ても、物音ひとつ聞こえてこなかった。廊下に出て、その先にあるダイニングへと向かうまでずっとなにも聞こえなかった。そしていよいよという時になって、心臓の高鳴りは最高潮に達した。一歩、また一歩と前に進む。

 最初に見えたのは、床に転がった足だった。二本。ちゃんとある。見覚えのあるパジャマ。足先は天を向いている。次第に下半身がすべて見えてくる。パジャマの上は乱れていた。ずいぶん暴れたと思われた。ぴくりとも動かない。床は赤く染まっている。

 彼女はようやく、ダイニングに入り込んだ。

 床に倒れ込んだ夫の口から、ぬらぬらとした赤い血が流れていた。まだ時間はそう経っていない。指先は喉をかきむしるようにして止まっていた。目は見開いたままで、恐怖と戸惑いが見てとれた。時間さえも止まったみたいだった。彼女はもうなんとも思わなかった。夫の死体を避けて歩き、その先にある椅子の前に立った。椅子は、メアリーを迎え入れる準備が整っていた。じっと緑色を見つめる。背を向けて、おずおずと手すりに両手をかける。

 そっと腰を下ろす。

 椅子は生温かった。いましがた誰か座っていたかのように。

 ようやく、椅子は彼女のものになった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

メアリーの椅子【全4話】 冬野ゆな @unknown_winter

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ