第3話
翌日になっても、メアリーはどこか憂鬱なままだった。
あまり眠ることもできなかったが、なんとか朝のモーニングルーティンだけはこなした。
――睡眠はとれてないけど、昨日よりはずいぶんとマシね。
今日はちょうどパンが切れる日だ。買い出しにも行かねばならない。店はこのあたりで一軒だけで、そう離れてはいないが少し歩かないといけない。日常は守らねばならなかった。
外へ出てしばらくすると、ある家の前で人だかりが出来ているのに気付いた。ケイトの家の前だ。今日は集会もないのに、奇妙だ。
「どうかされたんですか?」
メアリーはおずおずと人だかりの一番後ろにいた女に訊ねた。
「メアリー、ごきげんよう。それがね、ケイトさん、家の中で倒れてたんですって」
「ええっ?」
「さっき荷物を届けに来た人が発見したらしくて……、どうも亡くなってるみたいなのよ。お年だったものねえ」
「それは……お気の毒に」メアリーはしどろもどろになる。「彼女、昨日うちに来たのよ。そのときはまだ元気で……」
答えてくれた彼女が、あっ、と声をあげた。人々の隙間から、家の中から担架に乗せて老女が運ばれてくるのが見えた。老女の顔がこっちを見ている。はらりとめくれた隙間から見たケイトは、メアリーを見ている気がした。なにしろその表情は驚愕と恐怖に見開かれていたのだから。
ケイトは孤独死だった。
警察が来ていろいろと調べていたようで、小さな村は少しだけ浮かれていた。人口の減ってきたこの村で、孤独死なんてそれほど珍しいことじゃない。警察がやって来て簡単な調査をすることも、それほど噂になるようなことでもなかった。けれど今回は違った。あのケイトの表情。メアリー以外の人々もあの表情を見たのだろう。まるで何かに怯えたようではないか。だからこそ、村じゅうで浮き足だったのだ。だが結局、警察は何も言ってくれなかった。たぶん病死だろうという事になった。
ジョニーはメアリーが不安な顔をしているのを見て、何かを勘違いしたらしい。
「そう落ち込むことはないよ。誰にだって平等に死は訪れる。それがたまたま、きみが会った次の日に訪れただけさ」
そう言って慰めたが、メアリーはそれどころではなかった。
不吉だった。
あの椅子に座ってからケイトは死んだのだ。ジョニーの言う通り、本当は偶然だったのだろう。
一刻も早く、ごく普通の生活に戻るべきだ。
そのためにはあの椅子の存在はあってはならなかった。しかし、それをどうジョニーに説明しよう。それとも、ジョニーに仕事を辞めてもらうところから始めるべきか。
一週間が経っても、メアリーはあの椅子に慣れなかった。座るたびに何か生温いような気がした。
その日の朝、夫を送り出してから再びチャイムが鳴った。今度は誰だろうか。はい、と声をあげて玄関へと向かう。ドアを開けると、見覚えのある人物が立っていた。
「お義母さん……?」
ジョニーの母である人物がその場で笑っていた。
「久しぶり! さあさあ、中に入れてちょうだい!」
彼女は笑いながら中に入ってきた。ぐらりと世界が歪んだ気がした。
これほどまでに心が引きちぎられそうなのに、また厄介な人間に捕まってしまった。
「ジョニーがね、あなたが気落ちしてるみたいだから行って見てやってくれないかって」
「い、いえ。私――そんなことは」
「いいのよ、疲れているときは頼っても!」
メアリーにとって、夫の母――義母は苦手な人間だった。
彼女もまた夫と同じだ。彼女は自分の夫、つまり義父が死ぬと同時に畑を畳んでしまった。自分の子供も興味が無いと知るやいなや、すぐさま売りに出した。そして、「こんなお婆ちゃんがいたら迷惑でしょ」と言って、さっさと町の方へ引っ越ししてしまった。そこの方が医者が近いから、とかなんとか言って。メアリーは呆気にとられていた。ならば自分はなんのためにこの家に来たのかわからない。目上の人間がこうもあっさりといなくなることに閉口した。責任はどうなるのだ。
「メアリー、ちゃんと食べてる?」
「え、ええ。はい」
無責任な女。
それが義母に対するイメージだ。
家を放棄して勝手に村から出ていった女。自由などというまがい物に目がくらんだ女。
「家事はもう終わったの?」
まるでいまからこの家を掌握するような勢いだ。
「だ、大丈夫です」
「あらそう?」
そう言って彼女は冷蔵庫を開けた。ふうん、と何かを確かめていく。やめて、と言いたかった。私の世界にずかずかと入り込んでこないで。
義母が他の貯蔵庫を見に行こうとしたので、メアリーは慌てて声をかけた。
「あ、あの! お義母さんはどうしてここに?」
「あら、ジョニーが呼んだって言わなかった? あなたが疲れてるみたいだから手伝ってやってくれって。わたしも最初は断ったんだけどね、あなたが解決すべき問題よって。だけど家に一人じゃ不安だからって。年寄りをこき使うもんじゃないわよ」
義母はまだ何か言っていた。
「ちょっと野菜が減ってきてるわね。そういえば、三つ隣のアンさんは元気?」
彼女がそう尋ねながら棚を開けていくので、メアリーは更に追わなければならなかった。
「げ、元気です」
「そう、それなら良かった。トマトソースがやたらとあるけどどうしたの?」
「それは、この間亡くなったケイトさんに貰った……」
答えている間に義母が別のところへと足を伸ばす。そのたびにメアリーは彼女を追っていった。一通り家の中を確認し終えると、彼女はにっこりと笑った。
「でも思ったより元気そうね。良かった」
「はあ……」
「あなたも町に来る気はない?」
「ええと」
答えに窮している間にも話題はどんどんと移り変わっていく。どうにかしなければ。
「あ、あの、コーヒーを淹れますね」
メアリーはそう言ってキッチンへと逃げ込んだ。
「いいわね」
義母はそう言ってようやくダイニングの椅子に手をかけた。
「そういえば、椅子を変えたの?」
その声にハッとして、振り返る。
義母は食卓椅子をじろじろと見ていた。
義理の父母が住んでいたときから変わっていないテーブルと椅子。そのひとつだけが変わってしまった椅子。
「ひとつだけ違う椅子なんだもの」
「壊れてしまったので……」
「そういえば、最後に見たときにちょっとがたついてた椅子があったわね。あれだったかしら」
ひとつだけ違うのが珍しいのか、椅子を引き出す。
「座ってみますか?」
言ってから自分で驚いた。
あれだけ自分でも嫌っている椅子に、義母を座らせるなんて、そんな――。
「そうねえ」
義母は何も思わなかったのか、そのまま座り込んだ。
「でも、ずいぶんと冷たい椅子ね」
メアリーの記憶はそこで途切れた。
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