第2話
メアリーは翌日、五時半きっちりに目を覚ました。
いつも通り四十分までに着替えと洗顔を済ませた、家じゅうの窓を開け、朝刊を確認する。そこで六時。心地良いほどに時間ぴったり。洗濯機のスイッチを入れて、朝食の準備を始める。目玉焼きにベーコンを焼き、食パンをトースターに入れる。コーヒーを淹れる前に、六時二十分ぴったりにジョニーを起こす。そして夫がのそのそと準備を整えている間に、ようやくコーヒーの準備を始める。
すべてのモーニング・ルーティンの半分を終えようとしていたとき、彼女は息を呑んだ。
緑色の革張りが視界に入ると、彼女はすべての動きを止めてしまった。まるで異質なものがある。強烈な違和感と忌避感が彼女を支配して、持っていたトレイを取り落としてしまうところだった。
「どうした?」
夫がのそのそとリビングにやってきて、ようやくハッとする。
時間が遅れてしまう。
「ご、ごめんなさい。いますぐ準備に取りかかるわ」
「疲れてるんなら僕がやるよ」
「いいえ、あなたは座っていて。時間に遅れちゃう」
「大丈夫だよ、少しくらい」
「だめよ!」
彼女が狼狽し、動きをとめていたのは、実際にはほんの二、三分くらいのことだった。
だがたったそれだけであっても、彼女にとっては忌むべきことだった。普段通りの動きが出来ないことに、怒りが混じる。夫のせいではないのに――いや、夫のせいなのだろうか。
メアリーは自分の座るはずだった椅子を見た。緑色の異質な椅子。おずおずと座ってみる。なんだか生温い気がした。いましがた誰かが座っていたような生ぬるさがあった。だが、夫は自分の椅子に座って朝食を食べている。それに、夫はいつも自分の椅子に座って食べているから、この椅子に座るとも思えない。どうにも深く座る気になれなかった。少しお尻を移動させて、前のほうにだけ腰掛ける。なんだか、だれかの上に座っているようで落ち着かない。夫は気付いていないようだった。
「……前の椅子はどうしたの?」
「もう車に積んだよ」
「積んだ?」
「粗大ゴミに持っていこうと思ってね。あの大きさだったら僕の車にも入ったよ」
「……そ、そう」
いまにも、「持って行かないで!」と叫んでしまうところだった。
けれどもそれは出来なかった。
夫を見送ったあとはずいぶんと静かになった。
彼女はこの緑色の革張りの椅子に立ち向かわねばならなかった。まだやることがある。朝のルーティンは終わっていない。時間だけがどんどんと過ぎていく。彼女は黙って椅子を見つめた。ようやく息を整えた頃には七分が経過していた。これ以上立ち止まっているわけにはいかない。朝のルーティンが終わったら、また別のルーティンが始まるのだ。それが彼女の日常だ。一刻も早く。彼女の日常を取り戻さねばならなかった。
洗濯物を干し終えると、いつもの時間よりも二十分も遅れていた。いつもは九時半ぴったりに花に水をやっているのに。あの椅子のせいだ。洗濯物のカゴを持って部屋の中に戻る。
明るい日差しの入ってくる部屋のなかでハッと視線を感じると、あの椅子がメアリーを見ているような気さえする。振り返ると、その先に椅子が周りの風景から浮いたようにそこにあった。あまりに長い時間、向き合ってしまった。玄関先からのチャイムの音で我に返ると、彼女は持っていたカゴを床に置いた。
ドアを開けると、その先には老婆がひとり。
「こんにちは、メアリー」
人好きのする顔で、手編みのカーディガンを羽織った老女が笑った。
「こ、こんにちはマダム・ケイト」
背筋が伸びた。なにしろ彼女は典型的な――この村の女性だ。
「どうぞ、あがってください」
「すぐ帰るから大丈夫よ」
「いえ、お茶ぐらい出しますよ」
そうは言ったが、促されるようにケイトは中へと足を踏み込んだ。
持っていたバスケットを、重そうにテーブルの上に運ぶ。
「今年はトマトがよくとれてね。余っちゃうから、トマトソースにしたの。そしたらソースまでたくさんできちゃって。お裾分けに持ってきたのよ」
「そうでしたか、ありがとうございます。いまちょっと手持ちがなくて……何かお返しできるものがあればいいんですが」
「あら、いいのよ。あなたのところはジョニーが畑をもうやめちゃったでしょう」
メアリーはぎくりとした。
「そ、それは……」
「もったいないことをしたわね。いい畑だったのに。でもきっと私の旦那よりマシだわ。あの人ったら、作った野菜をすぐだめにしちゃったんだもの。もちろん、生きてるときの話だけどね。」
バスケットの布を開け、中から大きな瓶をいくつか出してくる。ケイトの言葉はどこか遠くに聞こえていた。まるで責められているように感じて、心臓がばくばくと跳ねる。棚からは何も見つからない。このあいだ貰ったじゃがいもがあったはずだ。あれにしよう。メアリーは後ろを振り返った。
「あら、椅子を変えたのね」
何気ないケイトの言葉に、引きつりそうなほどの緊張が走った。
「あ、それは……」
「ひとつだけずいぶん違うのね。だれの椅子?」
「違うんです、椅子が壊れてしまって……」
いったい自分がなんの言い訳をしているのかわからない。
「へえ、そう」
彼女が自分に対してどう思っているのか、メアリーはそれ以上聴けなかった。
しっかりしていない女だと思われただろうか。
異質な女だと思われただろうか。
それとも――。
ケイトはおもむろに緑色の椅子に手を伸ばした。面白そうに軽く座ってみせる。
「ふうん。座り心地は良いわね。ちょっと冷たい気がするけど」
それからのことは、メアリーは覚えていなかった。じゃがいもを手渡すと、ケイトと何か話した気はする。だけどなにを話したのか、さっぱり覚えていない。頭が空っぽのまま、メアリーは黙々と次のことをし始めた。夕方には、何も知らないジョニーが機嫌良く帰ってきた。緑の椅子はそのままだった。
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