プロットぷくぷく企画
朽木 堕葉
幾らでもある落ち葉の中から
暗雲が空一面に広がっている。ぽつぽつと雫のような雨が、ぼーっと見上げている合間に、土砂降りへと変わった。
頬がやけに冷たい。当たり前よ。こんな雨の中にいるんだから。
ほんの数時間前、交際男性から別れを告げられたときのことが脳裏では
私はそんなに弱い女じゃない。
それが強がりだということは、明来自身が一番わかっていた。
帰宅するとシャワーを浴びた。髪を乾かし終え、クローゼットから適当に取り出したものに着替え、雑なメイクを施すと家を出る。
雨はもう、止んでいた。なんとはなしに、明来は茜色の空を睨んだ。
目的の場所なんて、特にありはしない。ただ、今は独りで家にいたくはなかった。近くのアーケード内をふらつき、たまたま目についた焼肉屋に入った。
たらふく食べて、大いに酒を飲んだ。
明来が気づいたときには、薄暗い夜道を千鳥足で歩んでいた。支払いを済ませたことはかろうじて覚えていたが、金額がいくらだったかさえ、思い出せない。それほどの酩酊状態に陥っている。
これは、ダメ――思った瞬間、明来はひっくり返りそうになったが、どうにか近くの電柱に背中を預けることには成功した。電柱に背中をこすり付けながら座り込む。
明来の肩が小刻みに震えた。笑っているのか、それとも泣いているのか、自分自身でももはや判然としない。
意識を失う寸前、投げやりな想いが脳裏を占めた。
もう、どうでもいいかな。
まず最初に明来が違和感を覚えたのは、ベッドではなく布団の上で寝ていることだった。酷い二日酔いのおかげで、上半身を起こすのにも苦労し、
「ここは……?」
周囲を見回すとそこは和室だった。着ている服は、変わっていない。頭を揉むようにしていると、
「おや?」
目を丸くしたおばあちゃんと明来の視線が交わった。
見覚えがあった。明来のアパートの近所の公園で、何度か姿を見ていた。優しそうなおばあちゃん――という印象でいたその顔を、いっそうくしゃっとさせて微笑みを浮かべた。
「もう、起きて大丈夫かい?」
「えっ。いえ、私……」
慌てて立ち上がろうとしてくらっとなった明来を、おばあちゃんが片方の腕で支えた。もう一方の手には盆があり、水の入ったコップが載せてある。それを差し出し、もう少し寝ているように明来に促すと、襖を閉めて行ってしまった。
明来は素直に厚意に甘えることにした。
今日が日曜日で良かった、と思いながら、鳥の鳴き声に苛まれつつも再び眠りに落ちた。
二日酔いがだいぶ和らいできたこともあって、明来は改めておばあちゃんにお礼を述べた。
「構いやしないよ。さすがにびっくりはしたけどねえ」
おばあちゃんは気さくな様子で手を振った。はいこれ、と柿を明来に手渡すと、どこか物憂げな表情で言った。
「失恋でもしたのかい?」
「わかるんですか?」
明来は目を見開く。おばあちゃんは快活な笑い声を上げた。
「そらあたしだって、乙女だったからねえ」
「良かったら、聞かせていただけませんか?」
「なんだい? 恋バナってやつをかい?」
明来はまだ、失恋のショックから立ち直れる気がしなかった。 ほかの人の恋愛話を聞いてみたい気分だったし、この優しいおばあちゃんのことを、もっと知りたい気持ちもある。
「そうだねえ……」
おばあちゃんは遠い目になって、語り始めた。
馴れ初めから始まり、初デートの場所や二人きりの旅行――たくさんの思い出話が、懐かしそうに口をついて出ていった。
明来は興味深そうに聞き入っていた。
意外と大胆……! それは酷いんじゃない? ちょっと時代を感じるかも。
熱く共感したり冷めたり、真顔になったりと、目まぐるしいものである。
「――それでプロポーズしてくれた場所なんだけどね」
「どこだったんですか?」
おばあちゃんは、ややもったいつけてから口を開いた。
「それが法隆寺なんだよ。まあ、あの人らし――」
途中からおばあちゃんの言葉が呻き声に変わった。苦しそうに胸を両手で押さえ込んでいる。
「どうしたんですか……⁉」
狼狽えて叫ぶ明来の前で、おばあちゃんは横倒れになった。右へ左へと体をよじらせ、もがき苦しむ有り様に、明来は青くなって立ち上がった。その拍子に、手から柿が落ちて転がっていった。
慌てて取り出したスマホで119番通報をしながら、明来の目は無意識に転がっていった柿を追っている。柿はちゃぶ台の脚にぶつかり止まった。ふと、ちゃぶ台の上にあるハガキに視線は引き寄せられた。
間もなくして電話がつながる。明来はおばあちゃんの容態を伝え、ちゃぶ台に身を乗り出すと、ハガキに書かれてある住所と名前を的確に読み上げていった。
『
明来は病室の脇にある名前を確かめた。あのとき、ハガキの宛名に記されていた名前と一緒だ。
緊張した面持ちで、コンコンと扉を叩く。
どうぞ、という返事に明来の顔は綻んだ。あのおばあちゃんの声だ。失礼します、と扉を開いた。
「お久しぶりです」
「おや、あんたかい。……嬉しいねえ」
ベッドに寝そべるおばあちゃんが、申し訳なさそうに笑った。そのやつれた顔に、明来はどうにか微笑を崩さないでいられた。
そこは個室で、おばあちゃん一人だけだった。明来は用意してきた花瓶と花を鞄から取り出し、窓辺に飾り付けを始めた。
「息子は遠方でね。来てくれたのはあんたくらいのもんだよ」
花を花瓶に差し込んだ明来の手が止まった。予想外なことに口を開く。
「旦那さんは……?」
するとおばあちゃんは視線を逸らし気味に、苦笑した。
「とっくの昔に、離婚しててね」
明来は意外に思った。あんなに旦那さんのことばかり、あのとき話していたのに。たしかに今思えば、二人で暮らしているような生活感が、なかったような気もする。
「どうして」
「あたしも若い頃は喧嘩っ早くてね。ちょっとした弾みだった」
嘆息して、おばあちゃんはあとをつづけた。
「一目だけでももう一度、会いたいねえ。あんなのでもあたしが生涯で愛したのは、あの人だけだった……」
そして、棚の引き出しから一枚の色褪せた写真を取り出して見詰めた。
「その、お医者さんはなんて?」
「長くはないらしいけどね」
答えると、おばあちゃんは写真をひと撫でした。
「会って謝れたらいいんだけどね……」
明来はおばあちゃんの物悲しそうな横顔に、胸を打たれたようになった。我知らず、尋ねていた。
「旦那さんの所在は――わかりますか?」
おばあちゃんは首を傾げる。
「昔、住んでた場所ならわかるけど……どうしようって言うんだい?」
何度も目をぱちくりさせるおばあちゃんに、明来は意を決して、宣言するように言った。
「私がお連れしてきます」
十月中旬の連休と有給休暇を活用して、明来は“旦那さん探し”の旅に出た。
最初からわかっていたことだが、それは遅々として進まないでいる。
今現在も、奈良公園で数匹の鹿に追い回されるという災難に見舞われたばかりである。
「……どうして私のとこにくるのよ。鹿せんべいを持ってる観光客なら、そこらにいるじゃない」
明来は鹿から逃げ切ったあとで、息をゼェゼェさせながらぼやいた。
仕切り直して、聞き込みを再開する。奈良公園がおじいさんの散歩コースだったと、おばあちゃんから聞いていたのだ。観光客ではないと
半日は費やしたあたりで、ようやく好ましい反応が得られた。
「おや、これ源さんじゃないか。ずいぶんと若いときだな」
老人男性が口にした言葉に、明来は質問を重ねた。
「源さん――その
「家までは知らんな。けど、どうせいつもあそこにいるよ」
「あそこ?」
老人男性はとある居酒屋の名前を告げた。
それはおばあちゃんの思い出話に登場した店の名前にあったものだ。
「ありがとうございます! 行ってみます!」
と明来はお礼を言うなり、タクシーを拾いそこへ向かった。
居酒屋の戸を開き、明来は開口一番に店主に尋ねてみた。
「あの、すみません。こちらに源三さんは――」
店主はみなまで言わせず、指でカウンター席の端を示した。「そこにいるよ」
明来はそちらに視線を向ける。自然と眉が寄った。如何にも
借りてきた写真の若い頃よりもずっと頑固そうな顔つきに、躊躇いが生じる。が、明来は
勇気を振り絞って、おじいちゃんこと源三さんに話しかける。
「あん?」
すっかり酔っぱらっている様子だったが、構わず明来は自己紹介と併せて事情を説明していった。聞いているのかまるで定かではなかったが、
「はんっ。今更なんだってんだ。知らん知らん」
源三さんは突っぱねると、ハエでも散らすように手を払う。豪快に麦焼酎を呷った。
明来はカッとなった。
「おばあちゃんが最期にあなたに逢いたいと言っているんですよ! それも謝りたいって‼」
明来の剣幕に、店内が静まり返った。ほかの客たちのざわつきが歓談に戻るまでのあいだ、源三さんはジッと明来を
「
小馬鹿にする口調だったが、その眼は明来に関心を示すようでもある。明来のほうは、あからさまな
「いけませんか?」
「べつに悪かぁないさ。……謝りたい、か」
源三さんは変わらず明来を注視していた。一瞬だけ、その瞳で光が揺らいだように、明来には見えた。しかしその目は店主へ向いてしまった。
「かっちゃん、アレ頼むわ」
「あいよ」
店主は呆れ気味に肩をすくめると、麦焼酎を差し出した。それも明来の目の前に。どうやら、源三さんが飲んでいたものと同じらしい。
「なんですか、これ?」
「なんだ? おまえ下戸なのか?」
「いえ、違います。私が聞きたいのは――」
「飲み合いでお嬢ちゃんが勝ったら、言うことをきいてやるってさ」
見兼ねた様子で店主が口を挟んだ。言葉のあとに、お気の毒に、というような笑みを付け足して。
「えっ、そんな。こんなキツイお酒……」
「なんだなんだ。そんなへっぴり腰で遠路はるばるやってきたのか?」
意地悪い笑みで源三さんは言った。反射的に明来は声を荒げた。
「やらないとは言ってませんっ」
「んじゃ、決まりってことでいいかい? 始め!」
パン! と店主が手を鳴らした。途端に源三さんはグイと麦焼酎を呷った。すぐさま店主に注がれたものも、飲み干してしまう。
ハッとして、明来は出遅れたのを悟った。慌てて目の前のグラスを手に取ると、一気に胃に流し込む。新たな一杯分も、間髪入れず飲み下す。
実のところ、明来は自分が酒豪ではないかと疑うことが、ときどきある。飲み会の席で、二次会・三次会と同じ調子で飲みづづけても、最後まで酔っぱらった経験がないからであるが。今更ながら、私ってお酒が好きなのかな――という考えが頭をもたげる。
とにもかくにも、今は自分が“酒豪”であると信じた。
横目でちらと源三さんを見ると、最初から酔いが回っていたはずだというのに、勢いは明来とほぼ変わらない。
おばあちゃんのためにも、明来は一心不乱に麦焼酎を飲んだ。このあいだ
いつの間にか、周囲が野次馬の声援やら罵声で騒がしくなっている。なかにはどっちが勝つか賭け事をする者さえいるようだった。
人の気も知らないで、と明来は野次馬たちを胸の内で詰りつつも、手を休めない。
長いこと白熱した勝負は、やがて店主が呆れ顔で勝敗を告げて幕を閉じた。
「お嬢ちゃんの勝ち。……で、そろそろ店じまいの時間なんだがな」
先に酔いつぶれてカウンターに突っ伏す源三さんを見下ろす明来も、それどころではなかった。
嗚呼、また二日酔い……。
明来が真っ赤になった顔で思っていると、店主が手配したタクシーに乗せられ、奈良県滞在中に借りていたホテルの一室でその夜を明かすことになった。
「おばあちゃん?」
病室に入り、にこやかに笑う明来。
あとにつづく鹿の被り物をした源三さんに唖然とする。
「えっ。どうして馬じゃないのよ!」
明来はつい、素でツッコミを入れてしまう。負けじと源三さんが言って返す。
「奈良には鹿しかないんじゃ!」
「病室ではお静かに願います」
通りかかったらしき年配ナースさんのドスの利いた声が病室に響き、二人はしゅんとなって黙り込んだ。
そんな二人の様子を見て、可笑しそうにおばあちゃんは笑い声を上げた。
「来てくれるなんて思ってなかったのに」
「来るつもりなんてなかったが、男に二言はないんでの」
源三さんは鹿の被り物を脱いで脇に抱えると、面映ゆそうに坊主頭を掻いている。
「あの子に一杯食わされた?」
「馬鹿野郎。一杯どころか――」
明来は口を開きかけたが、柔らかく目を細めると踵を返す。そっと病室から抜け出した。
廊下を進みながら、名残惜しそうに耳を傾けづづけた。遠ざかる二人の声が、完全に聞こえなくなるまで。
帰路の間、落ち葉の
――あたしが生涯で愛したのは、あの人だけだった。
「あの人だけだった、か……」
明来は街路樹を見上げて、つぶやいた。
つっけんどんなおじいちゃんだけれど、悪い人じゃなかった。おばあちゃんと会話中の照れ隠しの顔を思い出して、明来はクスッとする。
「私にはそんな人――」
不意に明来の髪が乱れた。木枯らしが木々を揺らし、舞い上がる落ち葉に紛れて、鞄の隙間から覗いていたハンカチを持ち去っていった。
明来が慌てて追いかけていると、一人の男性が咄嗟にそのハンカチを掴んだ。
「タチの悪い風ですね」
誠実そうな青年がハンカチを差し出すが、明来は微動だにできない。
彼が背にする山々はすっかり、紅葉している。
今の明来の頬の色も、それとよく似ていた。
プロットぷくぷく企画 朽木 堕葉 @koedanohappa
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