蝿の王のあの子

あるかとらず

蝿の王のあの子

 意味、というのは大事だ。

 ぼくはどんなことにも意味があってほしいと思う。いつどこで、だれと出会った、なにを知った、そういうこと全てに意味があってほしい。なにげない所作にすらも意味が与えられてほしい。

 だってそうでないと、生きていることがまるで馬鹿みたいじゃないか。なんの意味もない出来事が流れていくだけの人生を生きて、なんになるだろう? だからやっぱり、全てのことには意味があってほしい。

 苦しみにも意味があってほしいと思う。いや、むしろ苦しみこそ意味があってほしい。そうであれば、どんな苦しみにだって耐えられるから。


 ぼくが苦しみの意味を知ったのは、小学四年生の冬の終わりだった。

 その頃、友達のいなかったぼくは、昼休みを毎日図書室で過ごしていた。図書室は、学校のなかで一人でいることが唯一許される空間だ。外からはいつも運動場で遊んでいる子供たちの声が入ってきて、ほかにもページをめくる音やだれかがこそこそと話している声がときおり聞こえていた。そんな空間のなかで、基本的にはみんなが一人でそれぞれの時間を静かに過ごしていた。

 その日、読むためではなく、ただ机の上に開くための本を探して本棚を眺め歩いていたぼくの目に、「ノストラダムスの大予言」というタイトルが偶然入ってきた。

 あ、これ、知ってる。

 ノストラダムスという名は当時でもテレビのバラエティなんかで目にする機会があり、なんとなく興味を引かれたぼくは、その本を棚から取り出して席につくと、不気味な色彩の顔がアップになった表紙をめくり、ページを進めた。

 その本はタイトル通り、十六世紀に生きた占星術師であるノストラダムスの予言を扱った本だった。内容としては、ノストラダムスが書いたとされる「諸世紀」という詩集がいかにその後の未来を言い当てたものであるかを検証した上で、そこに書かれた、一九九九年七月に世界が滅亡するという内容の予言を紹介し、恐怖を煽るというものだった。


   一九九九の年、七の月

   空から恐怖の大王が降ってくるだろう

   アンゴルモアの大王を復活させるために

   その前後の期間、マルスは幸福の名のもとに支配するだろう。


 「ノストラダムスの大予言」の著者である五島勉は、本のなかでこの恐怖の大王は超光化学スモッグではないか、行き過ぎた汚染に苦しんだ大衆による反乱が狂乱者(アンゴルモアの大王)を生み出し、マルスの意味する軍隊がこの反乱を鎮圧するのではないか、という説を推していた。

 他にも核ミサイルによる滅亡の説や、彗星衝突による滅亡の説などが紹介されていて、そういったスケールの巨大さが妙に現実味を帯びていた子供のぼくは、書かれてある内容の恐ろしさが一層真に迫って見えた。しかし残念と言うべきか、そのときの年号は二〇〇九年で、つまり予言が指す一九九九年からはすでに十年が経っていた。

 予言は外れていた。

 「諸世紀」に記されてある他の予言については知らないが、少なくとも滅亡の予言に関してノストラダムスは間違えていたのだ。あるいは五島勉による詩の解釈が間違っていたのかもしれない。とにかく、予言は当たらなかった。

 ……ふうん。

 なんとなく落胆を覚えながら、ぼくは本を閉じた。そして午後の授業を受け、いつものように家に帰らず、学校の近くにある団地の公園で寒さに震えながらぼーっと鳩を眺めていると、突然ある発想が降りてきた。

 それは、「恐怖の大王」というのは他でもないぼくのことを指しているのではないか、という発想だった。

 というのも、ぼくは一九九九年の七月に地元の病院で生まれていた。予言の詩は一九九九年七月に恐怖の大王が降ってくるだろうと言っている。もし一九九九年七月にこの地に降り立ったぼくが恐怖の大王だとすれば、世界はまだ滅亡を免れてはおらず、ぼくによって滅ぼされる運命にあるのかもしれない。

 ……という妄想をした。ぼくが世界を滅ぼす幼稚なイメージは、どれも全く現実味を伴っていなかったが、科学者になって世界中の人をゾンビに変えるウイルスを開発したり、恐ろしい核兵器の理論を構築したりする自分を想像すると、単純にわくわくしたし楽しかった。

 でもそのイメージは、何度も繰り返されるうちに次第に強度を増していくようになった。ぼくは自分が恐怖の大王であるという妄想を、夜になって父親がぼくの寝床に入ってくる度に繰り返した。

 これは親戚がいつかの集まりで話していたのをたまたま聞いただけなのだが、ぼくは生まれたときから顔が母親にそっくりで、父親には全然似ていなかったらしい。それは母親が父親とは別の男との間にぼくをつくったからだという噂もあって、母親が突然家を出ていってから、父親は母親に顔がそっくりなぼくの身体を変なやり方で触るようになった。

 小学四年生のぼくはやせていて、まだ陰毛も生えていなかったし、声も高くて女の子に間違えられることだってあった。父親の行為がエスカレートしていき、遂には母親の名前を呼びながらぼくを抱くようになると、ぼくは決まってこの苦しみには意味があるのだと考えた。世界に終わりをもたらす「恐怖の大王」へと至るルーツとして、きっとこの苦しみには意味があるはずだ……


 しかし意味は意味としてとどまり、ぼくは世界を滅亡させようとなにか具体的に策を立てたりはしなかった。ぼくは子供で、行動力もなかった。恐怖の大王はあくまで遠い将来のぼんやりとした自分像であり、今の自分がなにかしら行動を起こすという発想自体がそもそもなかったのだ。

 ぼくはただ意味にすがって、苦しみに耐えていただけだった。

 だけどある時期から急に、〈世界を脅かす自分〉という像が具体性を帯び始めた。それは五年生に進級した春、小野君というクラスメイトと一緒に下校していたときのことだった。

 小野君は背が低くて陰湿な性格をしており、猫を殺しているといった噂まで流れているような奴だった。そんなクラスでもわかりやすく孤立していた小野君とぼくが一緒に下校していたのは、ひとえにぼくにも友達がいなかったからで、ぼくは小野君と一緒にいながらも、心のなかで小野君のことを軽蔑しきっていた。

 その日、小野君が道ばたで見つけた毛虫を石で潰しているのを、吐き気をこらえながら隣で眺めていると、

「そういや、違うクラスで〈豚〉を殺した奴がいるって知ってる?」

 と小野君が言った。

「え? 知らん」

 〈豚〉というのは、町の東にある山の、ふもとのあたりで暮らしている個体、またはその集団を指す隠語だった。小野君が言うには、ぼくたちの二つ隣のクラスの生徒が、常習犯的に彼らを殺していたのが学校に露見したらしい。

「なんか、二年前もあったよな」とぼくは言った。

 そのときの犯人は中学生の不良グループで、学校でも問題になったらしいが、事件は警察などが関与することもなく内々で収まったらしい。

「なー。今回も、あの時みたくなんもなかったことになるんかな」と小野君は呟いた。「人殺してんのに、捕まらんで許されるってすごくねえ?」

 その言葉に、ぼくはびっくりして目を丸くした。

「いや、〈豚〉は人ではないやろ」

「え」と今度は小野君の方が目を丸めた。「でも見た目は人そのものやんか」

「でも、父ちゃんも、先生も他の大人もみんな、〈豚〉は人やないって言ってるで」

「ええー……でも、やっぱり、人やなくてただの動物でも、殺してなんもないってすごいよな」

 いや現に芋虫を殺しとる奴がなにを言ってるんだ、という言葉をぼくは呑み込んだ。

「まあ未成年やし、なんか捕まったとしてもそんな刑重くないやろ」

「まあなー」

「てかさ」とぼくは気になっていたことを思い出した。「それよりすごいのは〈豚〉の方やない? 家族とか知り合い殺されてんのに、なんもなかったで済ませられんのやばいわ」

「あーそれは、なんかあるらしいで」と小野君はにやりとした。

「なんか?」

「宗教っていうか、生け贄みたいな? 自分たちのトップを、自分たちを殺した外の人間たちのなかから選んで決めるとか」

「は? なんそれ。意味わからん。きも。やばー……」

 ぼくは話のわけのわからなさに引きながらも、そういうわけのわからなさを内包した集団が、わりあい近い場所に存在していることに感動していた。

「けっこう有名な話やけどな。知らんかったん?」

「うん」

「ははは、まあ入谷は友達おらんもんな」

 それはお前もだろ……と思いながら、今聞いた話の衝撃で足が痺れたように動かなくなっていた。それに気づいた小野君が、

「どしたん、ビビりすぎやろ」

 とにやにやして言った。

「今の話さー……自分たち殺すようなやつ上に据えて、〈豚〉になんのメリットがあるん?」

「さあ? 一番残酷な奴トップにして、〈豚〉以外の奴を皆殺しにするための将軍にでもするんやない? 知らんけど。〈豚〉ってこの地域以外にも、日本中大勢いるらしいし」

「は? 〈豚〉って、あの山のふもとに住んでるやつらのことやろ?」

「いやなんか、人種? 人じゃないなら人種っていうのもおかしいけど……まあええわ。ほら、あいつら、おれらと顔つきとか明らかに違うやん。おれらとは、根本的に祖先が違うみたいよ? だから人じゃないって言われてるんちゃう?」

「へえー……」と言いながら、ぼくは数回しか見たことのない彼らの顔を思い浮かべてみた。確かに、大人でもぼくたちと同じくらいしかない背丈とか、ものすごい猫背とか、それこそ豚のように大きな鼻とか、彼らに共通してぼくたちにはないものがいくつも思い当たる。

「そっか。やっぱりおれらとは違う生き物なんや」

「せやで。なんならあいつら、自分たち仲間内でも殺し合って喰ったりするみたいやし」

「うわ、やばいな」

「きしょいわ、マジ」

 本当に気持ち悪い。関わりたくない。

 しかしそれ以来、ぼくはなぜか憑かれたように〈豚〉に関する噂を集めるようになった。どうしてこんなに〈豚〉が気になるのか自分でもわからなかったが、〈豚〉という存在にぼくはまたたく間にのめり込んでいった。

 といってもぼくには小野君の言うとおり友達がいなかったので、調べると言っても例の〈豚〉を殺した子の噂話が聞こえたらそばに移動して聞き耳を立てたり、学校の近くの図書館で〈豚〉に関する資料を探したりといったものだった。残念ながら図書館ではほとんど収穫を得られなかったが、クラスメイトの噂によれば、例の子は中学生のときと同様、どうやら無罪放免されたようだった。

 その話を、クラスのなかでも比較的大人しめなグループがしていたとき、ぼくは思いきって彼らに話しかけてみた。

「なあなあ、〈豚〉ってさ、自分たちを殺した人間のなかからトップを選んでるんやろ?」

 ぼくが突然会話に入ってきて、グループにはわかりやすく気まずい空気が流れたが、グループのなかでも特に優しい雰囲気の子が、

「そういう話もあるよね」

 と答えてくれた。

「それって、なんのためなんやろうね?」

「聞いた話やと」と近くに座っていたチビが口を開いた。「自分たちを殺した人間から王を選んで、仲間以外を皆殺しにするために蜂起するんやって」

「蝿の王やろ。蝿の王」と違うチビが茶化して言った。

「蝿の王?」とぼくは聞いた。というか、小野君の想像していた通りやないか。

「知らんけどな。なんかそのワードは聞いたことある。なんにせよ頭おかしいわ」

「へえ……」

 その日の放課後、ぼくは図書館に寄って「蝿の王」というワードについて調べてみた。一九五四に出版された同名の小説もあったが、どうやら元ネタは聖書に登場する蝿の王ベルゼブブであり、いわゆる七つの大罪のうち「大食」を司る悪魔のことを指す言葉のようだった。一応豊穣の神という側面も持ち合わせているらしいが、それにしてもそんな存在をわざわざ上に据える意味は皆目わからなかった。

 蝿の王……

 しかしなにかが引っかかっていた。ぼくは図書館の机を指の先でこつこつと叩いた。

 蝿の王。

 王。

 ……王?

 そのとき、突如としてある確信がぼくを貫き、目もとからすうっと涙が一筋こぼれた。

 恐怖の大王。そうだ、恐怖の大王とは、もしかして蝿の王のことを指しているのか?

 ただのこじつけに過ぎないような発想なのに、そのときのぼくは、苦しみの意味を突然だれかに肯定されたような気がして嬉しかった。今までにないほど気分が高揚していた。

 ああ、蝿の王こそ恐怖の大王なんだ!

 だとしたら、ぼくも〈豚〉を殺さないといけないんじゃないか? だってぼくは、いつの日か恐怖の大王として世界を滅ぼす存在なのだから。

 運命で決まっている、というのは一種の免罪符と言えるかもしれない。予言の内容を自分の中核に据えていたぼくには、それがなおさら当てはまった。ぼくは家からナイフを持ちだしてリュックにしまうと、早速山のふもとまで歩いて坂道に辿り着いた。

 あたりはすっかり暗くなっていた。まだ夏にもなっていないのに、虫の鳴き声がうるさく響いていた。ぼくは古い家々の間を縫って歩いたが、ほとんどの家には明かりが点いておらず、道にも人の気配は感じなかった。家の庭には自転車やサッカーボールなどが無造作に置かれ、人の住んでいる痕跡が色濃く残っていた。

 どうしてだれもいないんだろう……?

 全員でぼくを待ち伏せしている、というありもしない想像が浮かんで、背中が冷たくなった。あるいは、誤って廃墟に入ってしまった可能性も考えられた。

 首に伝う汗を拭うと、耳に入ってくる音に違和感を覚えて立ち止まった。

 それは木々のざわめきにも似ていたが、むしろ獣の咆吼の方が近い気がした。咆吼は絶え間なくあたりに響き渡って、虫の音と共に異様な空気で山を覆っていた。

 ……なんだろう?

 不意に、視界の端を人の形をした闇が横切っていった。

 なんだ今の。〈豚〉か?

ぼくは慌てて後を追い、奥に曲がる細い道を進んだ。道はシダやらエノコログサやらが両側のフェンスからはみ出て子供一人がなんとか通れるような狭さで、そこを抜けるとアスファルトの車道に合流した。車道の向こう側には山奥に続いていそうな舗装されていない獣道がのびており、そこから煙がもうもうと空に立ち昇っていた。さっきの音もそこから聞こえてくるようだった。

 キャンプでもやってるのかな?

 ぼくは車道を横切ると、慎重に山道に足を踏み入れた。キャンプのような集まりはどうやら少し上の広場で行われているみたいで、ぼくは木の陰から広場の方をこっそりとのぞき込んだ。

 最初は、巨大なミミズの群れが蠢いているのかと思った。

 よく見ると、ミミズの正体は裸体の〈豚〉だった。広場の中央で噴き上げている火を囲うように、数十人の〈豚〉たちがそれぞれ裸で絡み合っていた。

「なにしてんの……」と言葉が口を突いて出た。

 けれど父親から受けていた虐待のせいで、彼らがなにをしているのかぼくはちゃんと理解していた。

 〈豚〉たちは重なりながら上気した声をもらしていた。ときには例の咆哮のような叫び声を上げ、がくがくと身体を痙攣させた。彼らが動くのに合わせて、大きく膨れ上がった影が木々の上で大袈裟に揺れていた。

「おえ……」

 吐き気が込み上げた。ぼくは気持ち悪さから逃げるように、中央のたき火に目を向けた。そこでは薪と一緒になにか大きな生き物が数匹焼かれており、その生き物は……どう見ても人の形をしているようにしか見えなかった。

 恐怖が全身を走り抜けた。今すぐに逃げ出そうと思う一方で、ぼくは硬直したようにその場から動けなかった。全体で一つの生物を形成しているかのような光景に呑まれて、目を離せずにいた。


「なにしてるん?」


 心臓が口から飛び出るかと思った。慌てて声のした方を振り返ると、ぼくより少し後ろの方に立っていた木から、ぼくと同じくらいの背丈の影がひょこんと飛び出ていた。広場からもれる光でちらちらと顔の一部が映って女の子だということはわかるが、全貌はよく見えない。

「入谷君も、あいつらを殺しにきたん?」

「え?」

 ぼくの名前を知ってる……?

 だれだろう、と女の子の方に近づこうとして、気づいた。

 声が止んでいる。

 恐る恐る、振り返った。広場にいた数十人の〈豚〉たちがみんなぴったりと動きを止めて、表情の読み取れない顔をぼくに向けていた。

「ひっ……」

 ぼくはもれかけた悲鳴をなんとかこらえると、回れ右をして一目散に山道を駆け降りた。

 やばい。やばい。やばい。

 ぼくは途中で何度も木の根につまずきかけながらも、振り返らずに獣道を走り、車道を横切り、細道を抜け、下のふもとまで降りた。頭が完全に恐怖に支配され、なにも考えられなかった。

 だからぼくに話しかけてきた女の子のことを思い出したのは、山から大分離れたところまで走って、一息ついてからだった。

 あれ、だれやったんだろう? ぼくの名前を知ってるみたいだったし、もしかしてクラスメイトとか?

 クラスメイトという可能性に思い当たると、ぼくは急にとてつもない羞恥心に襲われた。

 ああ、クラスの女の子の目の前で、かっこ悪く逃げ出してしまった!

 そして家に戻る頃には、恥ずかしさが、自分は人を殺せないのだという絶え間ない自己否定へと様相を変えていた。ぼくは〈豚〉を殺せなかった。殺せるわけがなかった。


「入谷君も、あいつらを殺しにきたん?」


 その仲間を見つけてちょっと安心したような声を思い出すたび、耳がぼうっと熱くなった。そしてその夜、父親が寝床に入ってくると、ぼくは自分が内側からばらばらに壊されてしまうような気がした。どうしてそんなに脆くなってしまったのか、理由は明白だった。

 苦しみが意味を失ったのだ。

 〈豚〉を殺せないぼくが蝿の王になることはできない。つまり恐怖の大王にぼくはなれない。この苦しみはいつかぼくが恐怖の大王になるための布石なんかではなく、苦しみはただ出来事としてのみあって、ぼくは意味もなく父親に犯され続けるのだ。

「春香、春香……」と父親が耳もとで囁いた。「春香、絶対離さんからな。ずっとずっと一緒やで」

 もうずっと父親に犯されているときには流していなかった涙が、ぽろぽろとこぼれた。肌にかかる父親の吐息が気持ち悪くて気持ち悪くて気持ち悪くて気持ち悪くて気持ち悪くて仕方なかった。

 早急に意味を取り戻す必要があった。父親によってぼくが完全に壊されてしまう前に、〈豚〉を殺さないといけなかった。


 翌日、もしかしたらクラスで昨日の女の子から話しかけられるかもしれないと思ってそわそわしたが、そんなことは起こらず、ぼくは気を取り直して再び山の方へと向かった。

 前回より早くに出発したからか、山のふもとに着いても陽はまだ落ちていなかった。流石にいきなり前日と同じ道を進むような勇気はなく、ぼくは比較的ひとけのなさそうな道を選んで登っていった。

 昨日とは違って、家のなかや表の道からは人の声が聞こえていた。昨日のよくわからない儀式に参加していた〈豚〉たちは、もうぼくの顔を覚えてしまっただろうかと考えると怖かった。

 人気の多い住宅地を離れて森のなかに入った。昨夜は暗くて意識に入らなかったが、足もとを覆うシダが絡みついてきて気持ち悪かった。一人で行動している〈豚〉はいないかとしぼらく道とも言えない道を歩いて、小さな川に行き当たった。川はぼくが立っている道から見下ろすような場所を流れており、折よく〈豚〉の子供らしきチビが水に浸かって遊んでいた。

 よし、あいつにしよう。

 ぼくは子供に気づかれないよう、さり気なく木の陰に入った。子供に近づくには、どこからかあの川床まで降りていかないといけなかった。川床に降りると子供の方は当然ぼくに気づくだろうし、ナイフを出せば逃げるか抵抗を受けるだろう。仲間の死には無頓着だとしても、自分自身の死についても同じだとは思えなかった。

 ぼくに殺せるだろうか?

 いや、殺せる殺せないじゃない。殺さないといけないんだ。それにあそこにいるのは、ぼくでも殺せそうな子供なのだ。

 でも子供だからこそ見逃してあげるべきなのではないか、というもっともらしい倫理観がぼくの臆病をかばい立てた。そうやってうじうじ動けないでいるうちに、子供は水遊びに飽きて川から上がろうとしていた。好機を逸したという言い訳が、ぼくをほっとさせた。


「入谷君も、あいつらを殺しにきたん?」


 その言葉が、またぼくの臆病を責め立てた。

 胸が苦しかった。ぼくは自分の情けなさを許すために、妥協案を一つ絞り出した。

 せめて足もとに落ちている石を、あの子供に向かって投げよう。それもちゃんとした殺意を込めて。

 それが当たらなかったら仕方ない。とにかくチャレンジはしないと……

 そばに転がっていた、ぼくでも投げられそうな大きさの石のなかで一番大きなものを拾うと、心臓が高鳴った。どこか頭上でトンビがぴょーひょろろ、と鳴いていた。ぼくは右手を大きく振りかぶると、今水から上がったばかりの〈豚〉めがけて、持っていた石を思いっきり投げ付けた。

 まあ、当たらないだろうな。

 しかし、飛んでいった石は〈豚〉の後頭部に見事に当たり、がつんと音を立てた。〈豚〉は川のなかに倒れて、しぶきがあたりに飛び散った。よく見えなかったが、頭から血が流れている気がした。

 ぼくは昨日と同じように、一目散に山を駆け降りた。昨日と違うのは、確かな達成感と嫌悪感が胸にうずまいていたことだった。嫌悪感は、小野君が毛虫を潰しているのを横から眺めていたときと同じ種類のものだった。端的に言って冷めていたのだ。

 そしてある心配が首をもたげた。

 あんなやつ……あんな、毛虫と同類みたいな子供を殺したせいで、ぼくが捕まるようなことになったらどうしよう?

 それからの一ヶ月ほどを、ぼくは過剰に怯えて過ごすことになった。あの子供が死んでいることはもうバレただろうか? 通報を受けた警察が見当をつけて、ぼくの家まで訪ねてきたらどうしよう? ぼくの怯えっぷりは、それこそパトカーや救急車のサイレンを聞いただけで、ビクッと肩を震わせてしまうほどだった。

 でも結果的にはなにも起こらなかった。警察がぼくの家まで訪ねてくるどころか、地元で話題にすらならなかった。

 もしかしたらあの子供は死んでいなかったのかもしれない、とぼくは考えた。あのときは気絶しただけで、ぼくが逃げた後にむくりと立ち上がり、犯人の見当もつかないから鳥の仕業とでも考えて、大事にはしなかったのかもしれない。

 でもぼくのなかで、彼はとりあえず死んだということになった。ぼくは人を殺したのだということにした。そう思い込むことで、確かな自信を得た。

 ぼくは人を殺せる。

 すごい。こんなに簡単だったんだ。

 ぼくは再び山に向かった。今回も住宅地を離れて森に入り、そこから畑が段差になって広がっている場所へと迂回した。

 梅雨に入ってから連日雨だったせいか、道はぐちょぐちょに濡れていた。畑では支柱から垂れたきゅうりが水滴をぽつぽつと落としていた。畑の真ん中あたりで、一人作業している〈豚〉が見えた。どうやら支柱の間に張ったネットへと、つるを一つ一つヒモで結びつけているようだった。

 ぼくはリュックに隠してあるナイフを意識しながら、畑に足を入れ、ゆっくりと〈豚〉のもとへ近づいた。恐ろしさは感じなかった。おそらく大人なのだろうが、背丈もほとんどぼくと変わらないくらいなのだ。

 〈豚〉の方もすぐにぼくに気づいたようで、ぼくが恐れて逃げ出した夜と同じ、なんの感情も読み取れない顔でじっとぼくを見つめていた。西日で、農夫姿がオレンジに染まっていた。

 ふう……

 周りを見渡しても、遠くで一人作業している〈豚〉がいるだけで、他に人の気配はなかった。

 目の前の〈豚〉が言った。

「だれかが見ているところで殺してくれないと、意味ないですよ」

 血の気が引くとはこういうことか、と思った。

 どうして気づかれたんやろう? 道を聞くふりをしてリュックからナイフを取り出し、刺し殺す算段やったのに。気づかれていた場合にどうするかなんて考えとらんかった。どうしようどうしよう、どうすればいい?

 予想外の反応に混乱しているぼくを尻目に、彼は遠くで作業している〈豚〉を大声で呼んだ。この隙に逃げてしまおうと思ったが、結局呼ばれた〈豚〉が畑に入ってきても、ぼくの足は竦んだまま動かなかった。

「どうしました?」とその〈豚〉が言った。

「ああ、ごめん。今から殺してもらうから、この子評価してくれる?」

「ああ、はい。わかりました」

 殺してもらうから、と言った年長者らしき〈豚〉はぼくに向き直ると、首を傾け、筋肉で膨れ上がった部分を指した。

「そのナイフで、この奥を刺してくれたらいいですよ」

 ぼくはめまいがして倒れそうだった。

 どうしようどうしようどうしよう。

 どうしようもこうしようもない。ぼくは〈豚〉を殺しにきて、〈豚〉はぼくに殺されることを受け入れた上で待っているのだ。そんなことがあり得るのだ。

 悪質なドッキリを仕掛けられているような気分だった。立っている地面がぐらぐらと揺れている心地がした。

 ぼくはリュックからナイフを取り出した。

 目の前の〈豚〉は、これから自分を殺そうとしているぼくの顔を凝視していたが、ぼくの方は彼の顔を見返したりはしなかった。顔を見たら、絶対に殺すことができないという確信があった。

 手が馬鹿みたいに震えた。

「やっぱりやめますか?」と〈豚〉が言った。

 やめる? やめられるんか?

 飛びつくようにそう思ったとき、突如として不思議なことが起こった。ぼくはここにいる自分を離れて、まるで映画のスクリーンを眺めるように自分を後ろから眺めていた。

 それは、ぼくの苦しみの意味を問う映画だった。観客席にはぼく以外にも大勢の観客がいて、スクリーンに向かって大声でヤジを飛ばしていた。

 殺せ! あの苦しみを無駄にする気か?

 唐突にシーンが切り替わり、初めて父親に抱かれて呆然としているぼくがスクリーンに映った。そこにいるぼくはまさに人形だった。父親の思うとおりに動かないと、容赦なく髪を掴まれて殴られた。ぼくのなかに意思は存在してはいけなかった。

 スクリーンは映し続けた。カーテンの外を走っていく自転車のライト。学校に忘れないよう、枕もとに置いてあった給食袋。上気した声を出している父親の股に、顔をうずめている人形……

 そうだった。あのときもぼくは、スクリーン越しに眺めるように自分を見ていたな。あのとき、ぼくはぼくであることに耐えられなかったんだ。

 またヤジが飛んだ。

 殺せ! あの苦しみを無駄にする気か?

 殺せ! 蝿の王になれ!

 殺せ! そして恐怖の大王となれ!

 殺せ! 殺せ! 殺せ!

 映画のなかのぼくがナイフを固く握った。観客席にいるぼくは思った。

 ぼくはぼくでありたい。


 気づけば、目の前にいた〈豚〉はもう一人の〈豚〉に抱えられながら倒れていて、首からはどくどくと血が溢れていた。ナイフを握ったぼくの右手に目を移すと、赤黒い血でべっとりと汚れており、強烈な吐き気が込み上げてきた。

 最悪な気分だった。


 でももっと最悪なことに、翌朝になって登校すると、ぼくが〈豚〉を殺しているという噂がクラス中に広まっていた。

 「入谷君も、あいつらを殺しにきたん?」の女の子が広めたわけではないようだった。どうやら〈豚〉を殺した現場ではなく、帰りに公園で手や服に付いた血を落としているところをクラスメイトに目撃されたらしい。

 クソ、とぼくは後悔した。だれもいないと思ってたのに……

 油断していた。いや、周りに注意を向ける気力がそもそもなかったのだ。

 それからしばらく、ぼくは以前にも増してクラスで無視される状態が続いた。小野君でさえもぼくに関わるのを避けているようだった。虐められるかもしれないと思っていたが、みんな怖がっていたのか、直接的な攻撃にまで発展しなかったのは幸いだった。

 それでも教室の居心地は確実に悪かった。だけど学校を休んで父親に連絡がいくと困るので、ぼくは登校を続けるしかなかった。その頃、父親はぼくの行動に対していつか母親に向けていたように過敏になっており、家に帰るのがちょっと遅くなるだけで、一晩中物置部屋に折檻されることもあった。

 だからぼくは無視に堪えていない風を装い、毎日学校に通い続けた。そういう姿勢を見せていると、たまに暗黙のルールを破ってぼくに話しかける奴も出てきた。

「お前、〈豚〉殺してるってほんまなん?」と話しかけてきたのは、クラスでも力が強くて喋りが上手いからいつも輪の中心にいる柴田だった。きっとぼくを無視することで、自分も他の奴みたいにビビっていると思われるのが嫌だったのだろう。

「なあ、ほんまに〈豚〉殺したん?」と必要以上に張り上げた声で柴田は聞いた。

「……知らん」

「やってないん?」

「やってない」

「嘘やあ。見たってやつもおるんやで。やったんやろ」

「勝手に言えや。どうでもいい」

「ということはやったんやな」

「知らん」

 しつこいな、と柴田の横を通り過ぎようとすると、柴田はずいと足を出してぼくの前に立ち塞がった。

「なんで隠すんや。〈豚〉殺すとか別にみんなやってるやろ」

「はあ?」

「俺も殺したことあるよ、二人ぐらい」

 こいつ馬鹿だ。ぼくに変な対抗意識を持ったせいで、自分からクラスのタブーを踏んでしまった。

 ……と思っていたのだが、柴田が〈豚〉殺しを嘘か本当かはともかく公言したことで、逆に〈豚〉殺しが度胸試しのようなノリで密かに流行し始めた。

 は? 一体なにが起きているんだ?

 状況の変化に付いていけなかったが、クラスの男子みんなが殺した〈豚〉の数を競うようになると、当然ぼくの立場も変わった。なにしろ〈豚〉殺しブームの発端なので、クラスのなかにはぼくを尊敬……とまではいかなくても、畏怖するような奴まで現れた。

 でも実際は、ぼくなんて大したことなかった。

 クラスの男子たちの殺し方はぼくが引いてしまうくらい過激で、小野君なんかは〈豚〉を五人殺して、それぞれの身体の一部を切断してつなげたキメラを作っていたし、他にも腹から取り出した腸で縄跳びをする奴や、屍姦まがいのことをする奴もいた。その様子を、携帯を持ってきている奴が写真に撮り、クラスのみんなで共有していた。

 どうしてみんな、そんな簡単に〈豚〉を殺して、残酷に遊べるんだろう?

 不思議で、かつ羨ましかった。蝿の王としての資質が自分より他の人にあるかもしれないという可能性が恐ろしかった。

 だけど週末の午後、クラスの男子数人で一緒に山に向かったとき、ぼくは理解した。

 道の真ん中に立って、小野君が〈豚〉の頭を金属バットで殴って殺すのを隣で眺めていたとき、ぼくのうちに込み上げてきたのは、性欲に限りなく近い嫉妬だった。

 そのとき、ぼくは全身が熱くなるのを感じていた。さらにはクラスメイトの前だからか、明らかに気も大きくなっていた。小野君が殺した〈豚〉をいたぶるのに、ぼくは夢中になって参加した。そばには評価者である〈豚〉もいたが、そんなのお構いなしだった。

 ぼくは情欲に突き動かされるまま、死んだ〈豚〉の身体に他の男子から奪ったノコギリの刃を入れ、切断し、細かくバラバラにした。骨の粉が宙に舞った。死体が欠損すればするほど、逆にその死体が自分のものになっていくかのようだった。

「流石にやりすぎやろー」と小野君はぼくへの畏怖を滲ませて言った。

 ぼくは得意になっていた。

 その日、さらに二人の〈豚〉を殺したぼくたちは、満足して帰途についた。次の週には四人殺し、その次の週には五人殺した。写真はいくつも出回った。

 しかしそんな風に肯定的な雰囲気が作られていても、〈豚〉殺しに伴う不吉さはどうしてもぼくたちにつきまとった。度胸試しだった〈豚〉殺しは次第に肝試しみたいなオカルトの様相を帯び始め、殺した〈豚〉の死体は、その一部を夜中に学校区の端にある教会の前に置かないといけない、といったルールが作られた。

 教会? なんで?

「なんか教会の前に死体の一部を捨て置いてたら、次の日には丸々骨になっとるらしいんよ」とクラスメイトの一人が教えてくれた。

「なんそれ」

「柴田が言ってたんよ。昼に捨てても神父とかが死体を片付けてしまうらしいんやけど、真夜中になってから捨てると、次の日には捨てていたそのままの形で骨になっとるって」

「へえ……それほんまの話?」

「同じこと言ってる奴は他にもおるで。ただ夜中に置いてたら必ずそうなるとは限らんらしいけど。確認も朝早くに行かんとやっぱり神父が骨を片付けてしまうって」

「ふうん」

 〈豚〉殺しのブームに新しくわいた神秘に話題というか畏怖の立場を持っていかれ、ぼくは正直面白くなかったが、一方でその神秘に純粋に惹かれてもいた。

 いくら身体の一部だけとはいえ、死体がそんなに早く白骨化するものだろうか?

 その日、ぼくは父親が眠った頃を見計らい、昼の間に殺して家の裏に隠しておいた〈豚〉の腕を持ち出した。一緒に置いていた防腐剤が効いたのかはわからないが、その時点で腕はまだあまり腐っていなかった。

 教会は一応学区内にあったので、そこまで距離もなく、走って三十分ほどで着いた。ぼくは正面の扉の前に〈豚〉の腕を置くと、少し離れた住宅の陰に隠れ、持ち出してきた双眼鏡を取り出し、教会の正面を見守った。

 住宅街は物音一つせず、遠くを走っている車の音が聞こえていた。街灯は蛾に覆われ、細々と光をもらしていた。不思議な緊張があたりに満ちていた。

 そして五時間ほどが経過した。

 空は夜明けの前兆を示し始めていた。放置された腕の周囲には、蝿が数匹寄ってきたくらいで依然としてなんの気配もない。

 やっぱり、所詮は肝試しのために作られた怪談でしかなかったのだろうか?

 そうして帰りかけていたぼくの半分がっかり、半分安心の心のうちを裏切って、彼女は現れた。

 教会の扉が突然ごとんと音を立てて開き、なかから女の子らしいシルエットが忍び足で出てきた。ぼくは慌てて双眼鏡をのぞき込んだ。暗がりに隠れて顔はよく見えなかったが、女の子の背丈がぼくとほとんど変わらないことから、ぼくは一人のクラスメイトを思い出した。

 中町音羽。

 両親がおらず、教会付属の養護施設に住んでいるらしい女の子。

 もしかして、クラスで〈豚〉殺しが流行っていることを知っている中町さんが、死体の一部をなにか動物の骨とすり替えて、男子を脅かしていたのだろうか? それがあの噂の正体だったのか?

 そんな安直な考えを浮かべていたぼくの目に、信じられないような光景が映った。

 中町さんは〈豚〉の腕のそばに立つと、自分の右腕をかかげて静止した。そして気づけばその腕の周りに、いつの間にわいたのか黒い靄のような大量の蝿が立ち込めていた。

 ……え?

 蝿はすぐさま〈豚〉の腐りかけた腕にたかると、隙間なくびっしりと卵を産み付け始めた。〈豚〉の腕は時間を置かずにもぞもぞと蠢く白い塊へと変貌した。それは孵化したばかりのうじの集団だった。

 白い塊からはときたま米のような粒がぽろぼろとこぼれ落ち、そこからたちまち羽が伸びて、成虫の蝿が飛び立った。蝿は飛び回りながら重なり合って交尾をすませ、うじたちの隙間にまた卵を産み付けた。それは明らかにおかしいスピードだった。けれどそんなこと知ったことかと言わんばかりに、うじはみるみるうちに肉を喰い尽くしていった。それはまさに溶かした、としか言いようのない光景だった。それを中町さんは近くに立ったまま、逃げることもなく黙って見ていた。

 肉がなくなって骨だけが残ると、蝿やうじの集団は途端に姿を消し、中町さんも教会のなかへ戻っていった。ぼくは念のため十五分ほどその場で待機した後、ゆっくりと骨のそばに近づいた。肉の滓すら残っていないきれいな腕の白骨は、ぼくが見た光景が幻覚やその類ではないことを証明していた。耳には地響きのような大量の蝿の羽音が鮮明に残っていた。

 さっきのは、つまりどういうことなんだろう、とぼくは思った。中町さんが大量の蝿を飼っていて、これまで死体の一部が一夜で骨になっていたという噂も、その蝿が産み付けたうじが、死体を喰っていたってこと?

 ありえない。

 混乱した頭のままぼくは家に戻り、寝ている父親が起き出す前に学校に行った。今朝見たことについてはだれにも話せなかった。ホームルームが始まる前に、いつもと変わらない様子で中町さんが教室に入った。

 その日を、ぼくは下校時間まで中町さんを観察して過ごした。ぼくが見ていることを知られるのは怖かったから、後ろから、あるいは焦点をずらしながらだったが、それでもこれまで気にもしていなかった中町さんの色々なことがわかった。性格は明るい方で友達も多いこと。授業は集中せずにぼうっと受けていること。休み時間には男子に混じってドッジボールをやったりすること。笑うと目が細くキュッと締まってちょっと可愛らしいこと。あんな光景を見た後なのに、笑った顔が可愛いなんて思えることが不思議だった。

 やっぱり今朝見た光景は、夢かなにかだったのだろうか?

 ずっと耳もとで鳴り続けていた羽音の合唱は、もう聞こえなくなっていた。


 だけど昨晩からの出来事が夢でもなんでもなかったことを、予想だにしない方向からぼくは教えられることになった。学校から帰って玄関に入ったぼくは、いきなり父親に首根っこを掴まれ、防音設備のある自室に引きずり込まれた。家からこっそり出ていたことがばれていたのだ。

 ああ、最悪。

 その日から、父親はぼくを自室に監禁した。服を脱がされた後、パイプ椅子に手足を手錠でくくりつけられ、ベルトで肩と胸を三発叩かれただけで、ぼくは状況に抗う気力を喪失した。

 父親は毎日ぼくの性器を口に咥えて舐め回し、遂には噛みちぎって咀嚼し、飲み込んだ。ぼくは泣いた。屈辱や不可解さのためではなく、ただ痛みによってぼくは泣いた。そして自分の現状にも気づかされた。この男の行動にはもう限度がない。ぼくの知らないうちに、そういう段階はとっくに過ぎてしまっていたんだ。

 父親は次にノコギリを持ち込んで、次は指を食うと言った。

「知ってたか? お前は俺の子やないんやで。俺の遺伝子を少しも受け継いでない。でもそんなこと俺がお前を食べてしまえば一緒やろ。お前は俺の一部になるし、それでようやく本当の家族や」

「あほか。きしょいねん。死ねや」

「ははは。舐めた口聞くなや。ああ?」

 父親に思い切り顔を殴られると、ぼくはもうなにも言う気にならなかった。

 父親はまずぼくの右手の手錠を外すと、腕を机の上に押し付け、小指にノコギリの刃を当てた。ゴリゴリゴリゴリ……と音が響き、あまりの痛みにぼくは感覚を失って、真っ白になった頭の隅で、それでも苦しみの意味について考えた。

 父親はぼくの目の前でぼくの指をバーナーで焼き、骨から剥ぐようにして齧り付いた。そうして、言葉通りぼくを自分に取り込もうとしていた。

 ああ……

 そのとき、ぼくは雷に打たれたように気づいた。ぼくも父親と同じだった。父親がぼくの指を食べて自分の身体に取り込むように、ぼくも〈豚〉たちを、自分の苦しみの意味に取り込んでいたのだ。取り込むとは、つまり相手を否定する行為だった。相手が自分ではないということを否定する行為だった。相手が相手として独立する「他者」であることを、真っ向から否定する行為だった。

 取り込まれたくない、とぼくは思った。そうだ、ぼくはぼくでありたい。

 父親は小指の次に、薬指も中指も人差し指も親指も全部切り落として飲み込んだ。右手首にもう一度手錠をかけ、今度は左手の手錠を外し、そうしてぼくに勝機が訪れた。

 バカが。

 ぼくは指のなくなった手を手錠の穴から抜いて、欠損部から滴る血を父親の目に振りかけた。父親が一瞬怯んだ隙に、左手を父親の手から振りほどき、父親の目玉を指で刺した。

「あっっっ、ああああっ、ああああああああ!」

 父親は絶叫して座り込んだ。ぼくは床に落ちていたノコギリを左手で拾うと、父親の首の膨らんだ部分めがけて勢いよく振り下ろした。びゅーっと噴き出すように血が飛び散った。ぼくはもう狙いもなにもなく、めちゃくちゃにノコギリを振り下ろした。

 死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね……

 死んだ。そして死体を前にして、ぼくは急に途方に暮れた。

 この死体、どうすればいいんだろう?

 事態の展開に巻き込まれるようにして人を殺してしまったが、〈豚〉を殺したのとはわけが違うし、殺しても問題にならないなんてことは当然ない。

 どうしよう……

 死体を隠す? どこに? それに隠す場所があったとして、一人でもできるのだろうか? 指を失ったぼくの右手。

 それとも、とぼくは思った。教会に行って、中町さんに頼もうか? どのくらいのあいだ監禁されていたのかもわからないけど、もはや懐かしささえある中町さん。君の蝿で、〈豚〉の腕みたいに父親を溶かして骨だけにしてください。


「いいよ」と中町さんは言う。


 これが藁にもすがる思いというやつだろうか。ぼくは中町さんとクラスでもほとんど会話を交わしたことがなく、そもそも中町さんが蝿を飼っているという確証も秘密を守ってくれるという保証もなかった。けれど疲れや焦りのなかでただなんとなく会いたい、話をしたいという純粋な気持ちがあって、それが無性にきれいに見えて尊重したくなり、ぼくは教会まで中町さんを訪れた。

 服を着替えて外に出ると、空は赤みがかっており、教会に着く頃にはすっかり暗くなっていた。教会のチャイムを鳴らし、扉から怪訝な顔の神父が出てくると、ぼくは右手を隠しながら、山で遭難していた、今朝保護されたばかりだととりあえずの嘘をついて、中町さんを外に呼んでもらった。

「すごいね」と出てきた中町さんは言った。「久しぶり? ずっと学校来てなかったよね。え、ていうかボロボロやん。大丈夫?」

 教室で聞くのと変わらない調子の声を聞いて、ぼくはなぜかその場にへたり込みそうになるほどほっとした。以前あんな光景を見ているのに、中町さんに対する恐怖心は全くと言っていいほどわいてこなかった。ぼくはほっとしすぎてこぼれそうになった涙をこらえ、

「大丈夫やない。死にそうかも」

 と言った。

「えー……ていうか、ちょっと!」と中町さんは目を丸くしてぼくの右手を持ち上げた。「これやばいやん。え、え、指どうした?」

「うん、まあ色々とあって」

「色々」

「そう、色々。それよりさ、聞きたいことがあるんやけど」

「え? うん。なあに、ていうか、うちらなにげにちゃんと話すの初めてやない? 突然ここまで来てどうしたん?」

「ほんまにそうやけど、ごめん。あのさ、中町さんって蝿を飼ってたりする? 前、教会に〈豚〉の腕を捨ててから隠れて見てたんよ」

 そうぼくが言うと、それまで心配と警戒の間を行き来していた中町さんの顔つきが、急に冷えたものになった。

「それ、だれかに言った?」

「言ってない。ぼく、ずっと学校休んでたやろ」

「あー……はは、確かに」

「助けてほしいんよ。身体の一部では済まんけど、骨にしてほしい死体がある。どうしても」

「……それってさ、入谷君がずっと学校休んでたことや、その全身ボロボロの状態と関係あるん?」

「うん」

「えー……警察とか呼んだ方がいいんやない?」

「それはできん。お願い」

「うーん……」と言って、中町さんは目をつぶった。「ちょっと厳しいな。もう二度とやるなって言われてるし、ばれたらまずい」

「それは、ごめん」

「ていうかそんな義理ないし! ちゃんと話すのやってこれが初めてやん」

「ごめん」

「いや、例えば〈豚〉やったらいいんやけどね。違うんやろ、ていうかやっぱり人?」

「うん」

 頷くと、中町さんはこれ以上ないほど深いため息を吐いた。

「そっかー……あー、そうよね。やから来たんよね」

「…………」

「やったら、えっと、いくつか約束してくれる?」

「いいよ、もちろん。なんでも」

「とりあえず今まで見てきたこととか、これから見ること、とにかくうちに関することは全部だれにも言わんといて」

「うん。約束する」

「あと、うち、もうすぐ転校するから。そしたら、うちのこと見つけにきて」

「え?」

 中町さん、転校しちゃうんだ……

「お願い」

「見つけに、なの? 会いに、やなくて」

「そう。その二つだけ約束して」

 どう違うんだろう、とぼくは思った。同時に、そんな簡単なことでいいのかとも思った。

 とにもかくにもぼくは約束を了承するしかなく、中町さんをそのままぼくの家に連れていった。てっきり蝿の詰まったカゴかなにかを持ってくるかと思ったが、中町さんは手ぶらだった。

「多分、入谷君が思ってんのとは結構違うんよね。あんま見んといてほしいんやけど」

 中町さんは父親の死体を見ても平静さを崩さなかった。ゆっくりと死体に近づいて、その上に腕をかざしたかと思うと、腕がスライムみたいにどろっと崩れ、そこから蝿がわいてきた。

 え、すごい。

 ぼくは吐き気をこらえながら、父親の死体が溶かされていくのを見ていた。

「うちもよくわかってないんやけど、うちの身体の、さいぼう? のなかには人と蝿の二つの設計図があるんやって。なんか、でぃーえぬえーってやつ。あと、目に見えないくらいの小さな機械も沢山入ってて、それでうちが思う通りに、うちの身体を人にも蝿にも作り替えてくれるんよ」

 ……よくわからない。でもそれって、中町さんの身体が蝿でできているってことなのだろうか?

「なんでそんなことになってんの?」とぼくは言った。

 中町さんは笑って、

「うちは、最初から試験官で作られた兵器やから」

 と言った。

「兵器?」

「そう。起こりもしない戦争のための兵器」

「……だれに作られたん?」

「それは秘密」

「もしかして〈豚〉?」

「〈豚〉は関係ないよ。あはは……うちを作った奴らな、うちを持て余してんの。勝手に作ったくせにな」

 そう言った中町さんの口からも蝿がわいた。伸ばされた腕は、もう骨が露出していた。

 父親もあっという間に骨になった。

 ぼくと中町さんは軽くなった父親の残骸をリュックに詰めると、山の奥の山道から外れた場所まで運んだ。山中の気温は暑く、ぼくたちはわいてくる汗を拭いながらスコップで深い穴を掘って骨を埋めた。その上に落ち葉をかぶせると、中町さんはあー疲れたーという顔をして、すでに元に戻っている腕でひたいを拭った。

「ありがとう」とぼくは言った。「マジで助かったわ」

「感謝してやー、ほんまに」と中町さんは笑った。

「あのさ……」

「ん?」

「いや、今更こんなこと聞くのも変やけど、なんで助けてくれたん? その腕のやつだって、見せたくなかったやろ、多分」

「あー……」と言って中町さんは笑い、考えるそぶりをした。「〈豚〉、殺してたやん?」

「え?」

「うちもさ、〈豚〉殺して、蝿に喰わせてたから。というより、うちが喰ってたのか」

「…………」

「あはは。ていうか、もしかして入谷君覚えてない? 前、〈豚〉が広場で儀式してたとき、一緒に木の陰から見てたん」

「え……ああ!」

 ぼくは思い出した。広場でまぐわう数十人の〈豚〉。中央で燃やされていたのも、きっとぼくのような人間に殺された〈豚〉だったのだろう。それを木の陰に隠れて見ていた女の子。


「入谷君も、あいつらを殺しにきたん?」


「あれ、中町さんやったん⁉︎」

 中町さんは笑った。

「やっぱり気づいてなかったんや。そうそう、入谷君、急に山降りてくからびっくりしたよー」

「ははは……」

「あいつら、ああやってその月に殺された分だけ子供作ってんの。ほんまキモいよな」

「はー……マジか。獣みたいやな」

「まあ〈豚〉やしね」

「たしかに」

「殺しても全く罪悪感わかへん。でもだから殺してるんやなくて……うちもさ、入谷君と一緒なんやと思う。自分の状況にムシャクシャしてて。憂さ晴らしっていうか、八つ当たりっていうか」

「……うん」

「やからシンパシーかな、助けた理由は。勝手に一緒にしてごめんね」

「ううん、一緒やろ」

 本当は違うけど、今ここで言う必要はなかった。

「あはは。そっか、よかった」

 中町さんは俯いた。風が吹いて、頭上の木々がざわめいた。この時間が終わってしまうのが名残惜しかった。

「うちら、もっと前から話せばよかったな」と中町さんが呟いた。「知ってた? うちら、誕生日一緒やねんで。うちの場合、誕生日というか作られた日やけどな。でもそれで入谷君のこと、なんとなく前から気にはなってたんよ」

「え、ぼくの誕生日知ってんの?」

「うん。クラスの人の名前と誕生日は、なんか全部覚えてる。おかしいやろ」

「別におかしくはないやろ。嬉しいよ。そっか、本当にもっと前から話せばよかった」

「…………」

「また会いにいくよ……やなくて、見つけにいくよ。絶対」

「……うん、ありがと。そうしたら、また一緒に人を殺そうね」

 そう言い残して、中町さんは次の週に本当に転校してしまった。ぼくの方は、子供を虐待していた父親が失踪したということで周りがごたごたしており、一時的に教会の施設に預けられてからは、傷の治療や、使えなくなった右手の代わりに左手を利き手にするためのリハビリなどで忙しくて、学校に戻ったときには中町さんはもういなくなっていた。

 ぼくもすぐに転校した。違う町で、新しく暮らす施設が見つかったのだ。

 新しい学校へ移ると、ぼくは〈豚〉殺しをぴったりとやめた。父親が死んだからではない。父親が死んだからと言って、ぼくが虐待に苦しめられた事実はなくならないし、新しい学校ではぼくの〈豚〉殺しの噂がすでに広まっていて、毎日虐めを受けていた。苦しみは消えなかったし、だからこそ苦しみには依然として意味が必要だった。

 でもぼくは〈豚〉を殺せなくなった。その町には〈豚〉が住んでいなかったのも理由としてあるかもしれない。でもぼくはわざわざ前の町まで電車で行って、再び〈豚〉たちの住む山のふもとを訪ねたのだ。

 それは肌寒い日だった。イチョウの葉を踏みしめながら坂道を登ると、ぼくは早速家々の間を通る道でサッカーボールを蹴っている〈豚〉の子供たちと出くわした。ぼくに気づいた〈豚〉たちは、また例の表情の読み取れない顔でぼくの顔を見つめていた。ぼくもうっかりして一番手前にいた〈豚〉の顔を見てしまった。そしてその瞬間、自分がもう二度と〈豚〉を殺せないことを悟った。

 目の前の〈豚〉は、どうしようもなく「他者」だった。特徴的な大きな鼻を持ち、けれど個性的な目尻の皺を持ったその顔は、彼の歩み育んできた年月を滲ませ、彼が一つの人生を持つ「他者」であることをなによりも雄弁に語っていた。

 それは新鮮な驚きだった。父親に喰われていたとき、自分に取り込むとは相手が「他者」であることを否定する行為だなんてぼくは一丁前に考えていたが、「他者」というものが一体なんなのか、実際にはなにもわかっていなかったのだ。「他者」とはまるで、掴んでも溢れていく無限だった。目の前の〈豚〉は、ぼくの苦しみの意味には決して取り込めない、彼自身の意味をうちに秘めているように見えた。それを無視して彼を殺すことが、急にとてつもなく恐ろしい行為であるようにぼくには感じられた。

 ぼくは長いこと呆けたように〈豚〉の前で立ち竦んでいた。坂の下に目を向けると、住宅に囲まれた小さな畑にコスモスが花を咲かせているのが見えた。

「殺さないんですか?」とその〈豚〉が口を開いた。

「…………」

「はぁ……残念です、本当に。私たちは、あなたにとても期待していたんですよ?」

「……ごめんなさい」

 ぼくが言うと、〈豚〉は「あーあ」と声に軽蔑を滲ませ、それっきりぼくに対する関心を失ったように、他の子供たちを連れてどこかへ行ってしまった。

 それからは、二度とあの町には帰っていない。

 小学生の間に東北で震災があったが、ぼくはなんの影響も受けずに中学生になり、高校生になった。高校を卒業すると、大学には入らず、住んでいた町からできるだけ遠い東の地方まで移って就職した。そのうち恋人もできた。地味で大人しいが親切な子で、休日は二人で色んな場所に出かけたりした。ぼくは中町さんとの約束をずっと覚えていたが、会いにいくことはおろか、居場所を調べることすらしなかった。中町さんやその他あの町に関する記憶は、常に父親からの虐待や沢山の殺しの記憶を伴い、そのせいかぼくは彼女について思い出すことを知らず避けるようになっていた。

 それで約束を先延ばしにするうち、過ぎていく時間が約束を自然と反故にしてしまった。ああ、ぼくは中町さんの存在さえ記憶の奥の方へと押しやってしまっていた。

 だけどある朝、ニュースが関東で大量発生している、人を喰う蝿について報道し、ぼくは思い出した。

 中町さん。

 ニュースやネットで調べたところによると、どうやら数日前から〈豚〉の武装集団が、日本各地で放火事件を起こしていたようだった。彼らは東京の国立大学に所属する生態学研究室の地下で飼われていた蝿人間(中町さん?)を解放するため、その蠅人間が大学から陸上自衛隊教育訓練研究本部へと移送される日を狙って護送車を襲撃した。それが今回の事態を引き起こしたようだった。

 各地に進軍する〈豚〉の軍隊。

 ……マルス?

 また懲りずに〈豚〉を自らの意味に取り込もうとしている自分に気づいて、ぼくは苦笑した。この期に及んで……ぼくは馬鹿だ。彼らは彼らでなにがしかの意味に従って動いており、ぼくの持つ意味とは全く独立して世界に牙を剥いたのだ。その意味が蝿の王ならば、相手の持つ意味に取り込まれていたのは〈豚〉ではなく、むしろ蝿の王になろうとして彼らを殺戮したぼくの方だった。

 〈豚〉に襲撃され横転した護送車からは、隙間から漏れ出てくるように蝿がわいたらしい。蝿は次々と道行く人の穴という穴を塞いで窒息死させ、屍体になれば卵を産み付けて、その卵から孵化した蝿がまた人を襲って……という感じで、関東中にその蝿がはびこるようになった。蝿の集団は死の靄と呼ばれ、通り過ぎた跡には骨以外なにも残らなかった。防護服を装備した自衛隊による駆除作戦は一時的に功を奏したが、〈豚〉の武装集団による奇襲もあって部隊は壊滅、最終的には全員うじに喰われた。やがて本州中に行き渡った蝿は海を渡り、世界各地へと拡大していった。

 世界が終わるかもしれない、とみんなが口を揃えて言っていた。

 ぼくはと言えば、もちろん事態のやばさに引いたり、中町さんの転校後の顛末を知って約束を守れなかったことを後悔したりという気持ちもあったが、なにより中町さんに対する嫉妬があった。ぼくが世界を終わらせたかったのに、という嫉妬。

 でも〈豚〉に選ばれたのは中町さんだった。

 彼女こそが文字通り蝿の王で、そして恐怖の大王なのだ。

 蝿はもちろんぼくの住んでいる町にもやって来た。みんなと一緒に骨の髄までうじに喰われ、からからの骨と食われかけの脳味噌だけになった自分を上から見下ろしながら、ぼくは今更、自分がずっと中町さんのことを好きだったことに気づいた。

 ごめん、と涙も流せないのにぼくは泣いた。ごめん、中町さん。ごめんね。見つけにいってあげられなくて、助けてあげられなくてごめん。約束を破ってしまってごめん。助けてくれたのに、君を忘れようとしてごめん。ごめん。ごめんなさい……


「いいよ」と中町さんは言う。


 その声は、ぼくが自分を許すために作りだした都合のいいそら耳なのかもしれない。だけど気づけばぼくは大量の蝿を骨と脳味噌にまとい、人間の形に再生されようとしていた。蝿のなかにある中町さんの人としての遺伝子が、ぼくを復活させるために次々と呼び起こされ、身体が人の輪郭を取り戻していった。自分の意識がその新しい身体に宿り始めているのを、ぼくはぼんやりと感じていた。


   一九九九の年、七の月

   空から恐怖の大王が降ってくるだろう

   アンゴルモアの大王を復活させるために

   その前後の期間、マルスは幸福の名のもとに支配するだろう。


 ああそうか。ぼくは恐怖の大王ではなく、アンゴルモアの大王だったんだ。

 中町さんがぼくを復活させることは、一九九九年の七月にぼくたちが生まれ落ちたときから決まっていたことなんだ。

 それは新しい意味だった。これからぼくが生きていく上で、他のなによりも必要な意味だった。

 ありがとう。

 そう呟いて、ぼくはゆっくりと目を開けた。

 中町さん。

 今度こそ、絶対に君を見つけにいく。

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蝿の王のあの子 あるかとらず @alcatrazbook

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