「お嬢さん、名前は?」

 透き通るような声を辿っていくと、悪戯っ子みたいな笑みを浮かべている泉さんが、わたしに向かって手招きをしていた。

「体調悪いんじゃないんですか?」

 チャラい令和のギャルというよりは、昭和の学園ドラマのサブヒロインのようなギャルと、落ち着いている性格の人を合わせたような人であったのか。

 瞬時に、泉さんに対してのお淑やかなイメージは曇りがかった。

 わたしは、不思議そうに首を傾げるのではなく、素直に面倒臭いと思っていることを表情で表す。

 泉さんは目を瞑り、口元を抑えて笑った。わざとらしい笑い方をする人だが、悪い人ではないように感じる。

「学校の保健室にに来てみたかっただけよ。お名前、間成さん、だっけ?」

 名前の確認をした泉さんは、再びわたしに質問を投げかけた。わたしは静かに頷いたが、泉さんが何をしたいのかわからないでいる。

「私ね、妊娠してるの」


 思わず、そっとドアを閉める。


 何故、初対面の小学生相手に妊娠の報告をするのか理解できない。


「そうですか」


 妊娠がおめでとう、なのか。

 妊娠が大変ですね、なのか。


 どう返答するのが正しいのかわからずに「そうですか」の一言で済ますことにした。


 泉さんのお腹の辺りを少し見てみるが、目立っていない。


 泉さんは体をゆっくりと起こすと、布団を剥ぐってベッドから降りる。

 そして、わたしの手首を掴むと、先程横になっていたベッドの中に引き込んだ。

「ちょっと、何なんですか?」

「いいから、聞いてほしいことがあるの」

 わたしは羽多先生を呼びに行こうとしたが、泉さんがそれを阻止した。

 泉さんはわたしを引きずるようにそばにあった椅子に座らせると、自分もベッドに腰を下ろす。

「年下の子と、恋バナしたかったのよ」

 先程まで魂がないような目をしていたというのに。

 今の泉さんは、魂が身体に跳ね返ってきたみたいで生き生きとしている。

「相手は、オーケストラの指揮者なの」

 泉さんの話は止まらない。わたしの意見を挟む隙もないほど、一方的に話を始めた。


 相手は年上。

 彼の横顔は、彫刻のプロフェッショナルが作った美術品みたいに綺麗で、細くて小さい目で自分のメガネを探す姿が鈍臭い。

 けれど、泉さんは愛しく思っていること。


「赤ちゃんには、すごく感謝しているの」

 泉さんはそう言ってお腹を撫でた。一週間前に産婦人科に一人で行って、結果がわかったらしい。


 わたしは興味もない話を聞いているだけで、特に相槌も打たず、この時間が早く終われと心の中で繰り返し唱えるが、泉さんがわたしを離してくれる様子はなかった。

「こうでもしないと、彼はずっとひとりでいるだろうから」

 泉さんの横顔も彫刻品のようだ。整った顔と曲線美が魅力に感じる。


 泉さんの心に、少しなら触れてみてもいいかと思った。

「指揮者の男、自分に子どもがいるって、知らないんですか?」

 泉さんの話を遮るように答えた。

 しかし、泉さんは、わたしの問いに答えず、話を勝手に進めた。

「指揮者の男じゃないわ。名前は、秀一郎さん。彼はね、音楽に夢中なの。音楽に夢中な秀一郎さんが、私には綺麗に見えるの」


 わたしは泉さんの話を聞いても、何も思わなかったが、この話からわかることがある。


 泉さんは指揮者の秀一郎さんのことが好きだということ。人間的に好印象というよりは、側で支えたいという思いがかなりあること。

 そして、その好きという気持ちをずっと胸に秘めていたということ。

 それはきっと苦しいことだとは思う。

 だけど、泉さんの表情からは、瞳の奥をじっと見ても読み取れなさそうだった。

「じゃあ、泉さんは秀一郎さんに何を求めているの?」

 保健室では、わたしと泉さんの声しか聞こえない。

 けれど、私が疑問を投げ掛けてから三秒くらいで、体育館の方から、オーケストラの演奏が聞こえてきた。

「彼はね、『自分のために音楽を奏でてほしい』って言っているわ」

 泉さんはピアノの鍵盤を叩くように人差し指を動かしている。まるで、指揮者に指示を送るような身振りだった。

「つまり、別の誰かに向けて演奏をしないでほしいってことですか?」

 泉さんは、人差し指の動きを止めて、拳を軽く握った。

「そう。でも、わたしは秀一郎さんのためにしか演奏しないから、彼の望みは叶えられない」

 泉さんの話を聞いていると、オーケストラの演奏が止んだ。

 おそらく挨拶トークでもしているのだろう。

「自分のための演奏だったら、演奏にまとまりがなくなる気がするんですけど」

 泉さんは小さく笑う。

「指揮者は司令官みたいなものよ。みんなが指揮者のいうことを聞く。それは吹奏楽部に所属したとしても同じ。自分勝手過ぎたり、相手を敬う気持ちがない人なんかは、そもそもオーケストラの指揮者にはなれない」

 自然と説得力がある、わたしは泉さんの神秘的な笑みに好奇心と恐怖心とは異なる不気味さを感じた。

「じゃあ、何で秀一郎さんは自分のため演奏しろって言ってるのに、泉さんはいうことを聞かないんですか?」

 適当に考えた質問ではない。話に頷くわけではなく、自分が知りたい質問をすることができているこの空間に居心地の良さを感じている。

「憶測だけど、秀一郎さん、自信がないんじゃないかな」

 泉さんは自分の両手を優しく撫でて、擦っている。

「秀一郎さん、指揮者になってまだ数年なの。若いし、経験も業界内で見たら少ないわ。だから、彼は不安な気持ちで音楽を奏でてしまう」


 小さな笑みが、徐々に消えていってしまっている。 

 泉さんは、何も感じない顔に近くなっていた。


 わたしは泉さんの話を聞いていて、また思ったことがある。

 秀一郎さんに対しての思いは、泉さんが勝手に思っていることであり、彼が本当に望んでいるかどうかがわからない。

 しかし、泉さんはそれをわかった上で、彼の望みを叶えてあげようとしている。それはきっと、彼女の自己犠牲から来るものだと思う。


「秀一郎さん、最低な人じゃないですか? 自分のことしか考えていないじゃないですか。赤ちゃんだって、魔が刺しただけかもしれないし、泉さんが産みたいんじゃなくて、秀一郎さんを想って産むってことですよね? でも、秀一郎さんのためになっているわけではないかもしれないですよ。余計に、秀一郎さんは自分の中に閉じこもってしまうかもしれないですよ。ちゃんと親になれるとは思えません」

 わたしは、秀一郎さんという人に対して怒りを覚えていた。

「そうね。でも、彼は音楽を愛しているわ。だからきっと、自分のために演奏してほしくないんだと思う。親って、子どもと一緒に親になっていくんだと……私は思いたい」

 泉さんはわたしから視線を逸らして、窓の外を見た。

 そして、小さく呟いた。

「間成さん。オーケストラはね、指揮者がタクトで音の長さや大きさを決めるの」

「だから?」

 全く同じことを羽多先生にも言われた気がするなと、ぼんやり思った。

「指揮者がタクトを振るタイミングは、演奏者が音を出す前なの」

「だから?」

 わたしは、やれやれと肩を落とす。

「指揮者がタクトを振るとね、演奏者はそれに合わせて音を出すのよ。でも、指揮者が思い描くような演奏をすることは滅多にないの」

「だから?」

 泉さんは、わたしの目を見た。そして、ゆっくりと頷いた。

「指揮者がタクトを振るタイミングは、演奏者が音を出す前。始まりの合図で作品作りが始まる。それってすごく面白いと思わない?」

 オーケストラ団員の迫力がある演奏が再び始まった。大きく振り切るような演奏は、しばらく耳に残るのだろう。

「大人になって、自由に選択できるようになった。でも、選択肢の羅針盤があるわけじゃないから、自分の舵取りをしなければ、ただ流されていくだけ」

 泉さんは立ち上がってわたしに手を差し伸べた。

「間成さん、結局のところ、優先順位のトップは自分なの。自分の人生は、自分で舵取りするんだから」

 泉さんは、そのように言って笑ったが、笑顔はどこか悲しそうだった。

 神秘的な笑みが薄れていっている。

「オーケストラって、指揮者によって演奏が変わるんですね」

 泉さんに話しかけると彼女は小さく頷いた。そして、わたしの方を見て微笑んだ。それは、わたしが今まで見た中で一番の笑顔だったかもしれない。彼女も彼と同じで、音楽が好きなのだ。

「そう。だから面白いの」

 泉さんは、秀一郎という男に忠誠を誓っているせいだからなのだろうか。

 はたまた、すがれる人同士、寄り添い合おうとしているだけなのか。

「大人の事情なんて知らないので、わたしからは大したことを偉そうに言う権利はないと思います。けど、赤ちゃんのためにも後悔する選択はしたらダメですよ」

 適当に言った台詞なのに、泉さんの瞳が一瞬揺らいだ。

 その瞬間、わたしの中で、ドラマの台詞が脳内で再生された。

「赤ちゃんは、自分でお母さんを選ぶらしいです。それを承諾する権利は、お母さんになる泉さんにあります」

 自分の考えも付け加えて、泉さんに話してみた。

 泉さんはというと、伝承話を聞いているような、他人事の話を聞いている時みたいな、なんてことない顔をしていた。

「もし、そうなら、なんで私のところに来てくれたんだろう」

 鼻で軽く笑って、お腹を撫でた。

 軽蔑でも、卑下でもなさそうだった。

 単純な理由だと思う。

 知りたいという思いで、お腹を撫でているようだった。

 オーケストラの音が、静寂な空気が流れる保健室からすると、うるさく感じる。

 美しい音色のはずなのに、邪魔な音に聞こえる。

 今は、彼女のためにも、静寂がぴったりだというのに。


 わたしが、もし泉さんを母親に選ぶのであれば、きっと些細な理由であるに違いない。


 今の泉さんも、秀一郎さんのように綺麗な彫刻にも見えるが、少し消えてしまいそうな儚さを備えている。


 光を浴びていなさそうだ。窓際ではなく、展示されている部屋の中でも、一番影になる場所にポツンと飾られている。


 味が出ると言う人もいるかもしれない。

 でも、わたしは見てみたい。

 泉さんが月ではなく、太陽みたいな人になるところを。


「寂しそう、だからじゃないですか?」

 泉さんは、わたしの方に顔を向けて「それだけのために」と静かに苦痛の笑みを浮かべた。

 でも、自分の中で納得しているようにも見える。

「そうね、確かに」

 自分の胸に手を当てて唱え、再確認をしている。

「小さい子どもなんて、大人の何億倍と優しい心を持ってますから」

 自分も、そうだったと微笑を作ってみた。きっと枯れた笑みだ。

 わたしを産む決意をした両親の悲劇は、物心ついていた時から知っていた。

 大学生だったわたしのお母さんを残して、飲酒運転の事故に巻き込まれた、社会人一年目のお父さん。

 お母さんが時々、幸せそうなのに寂しそうに見えるのは、きっとわたしのお父さんのことを考えてしまっているからと思えてしまう。

 元気さ加減でいえば、わたしの母には劣るが、泉さんも同じ類のオーラを感じる。

「産まれる前の赤ちゃんなら、尚更。透けてしまうくらいに優しい心を持っているわよね」

 徐々に理解してきたらしく、参ったなと更に深く苦しんでいる表情になっている。大袈裟でもなく、伝わりずらいが、「なんで私なんかのために」と言い出しそうな予感がした。

「まあ、わたしの言葉を鵜呑みにしすぎなくても大丈夫だと思います」

 わたしの言葉の力に、人を変える力なんてないのだから。付け加えてそう言おうとすると、泉さんはすっきりした顔を向けて言った。

「話して、良かった! まだ、赤ちゃんを授かったってことは、お医者さんにしか言ってなかったし。間成さんは、話しやすかった」


 偶々、わたしが保健室に居た。だから話をしたように思っていたが、「良かった」と言ってもらえたことに嬉しさを感じている自分がいる。


「私、絶対に立派なお母さんには慣れない。自分を優先するから。けれどもし、赤ちゃんが私を選んでくれたんだったら、この世を生きてみてほしい」

 泉さんは、ゆっくりと赤ちゃんに、自分の声とメッセージを伝えるように付け加えた。口に出しているので、当然側にいるわたしも聞こえる。

――色んな人と出会ってほしい。

――秀一郎さんと私から離れることになっても、離れさせるように距離を置いてしまったとしても、好きな人と好きなことをしててほしい。

――季節が巡る中で感じたことを、大切にしていてほしい。

「お母さんは、高望みなんてしない。過保護になんてなれないと思う。でも、赤ちゃんには、生きてみてほしい」

 オーケストラの演奏は止んだ。まだ、耳と頭の中に音色が響いている。

「自分のためだったはずなのに、赤ちゃんに生きていてほしいなんて、悪酔いしているような気がしてたまらない」

 無責任なセリフに聞こえるが、泉さんの表情は、しっかり生身の人間みたいだ。

 温かく包み込むような眼差しを、泉さんは、自分のお腹に向けていた。

 整った彫刻が、不恰好に動き出そうとしていているような気がした。

 泉さんの赤ちゃんも、光を浴び続けていてほしい。

 わたしも、他人事のようで、そうではない気持ちになっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

保健室に来た彫刻品 千桐加蓮 @karan21040829

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画