沢蟹
太刀山いめ
痩せっぽち
「俺の酒が呑めねえってか」
そう俺は語気を強めた。相手は誰かって?
「分かりましたよ呑みますよ」
そう言って「俺」は徳利をトクトクと鳴かせて猪口に
そう。俺が怒鳴ったのは鏡に映る自分自身。ただ手酌でやるのは面白く無い。故の一人芝居。これでも「大部屋役者」をしていた時も有る。長台詞は覚束ないがチンピラ台詞くらいならお手の物だ。
くいっと猪口を煽る。
「くー、空きっ腹に染みるねぇ」
「だろう?」
「もうね、鼻から抜ける香りが違う。こりゃあ梨かね?」
「お、それに気付くとは馳走した甲斐が有るよ。これは
トクトクと注ぎ、また猪口を煽る。
「成る程ね。吟香と……あー、今日銀行行ってくるの忘れてた」
現実に引き戻される。年金の支給日だったのだ。澤乃井の吟醸の事ばかり考えていてすっかりと忘れていた。俺は徳利に残った分の酒を呑み干しながらとっとと仕舞にする。
空きっ腹に響いたのは事実。急に動いて目が回りトイレに駆け込んだのは仕方の無い事と言えよう。
トイレでうずくまってから、酸っぱくなった喉と口を洗面台でゆすぐ。
それから歯を磨き、こじんまりした仏壇に手を合わせる。
「今日も1日…お前の居ない日を過ごしたよ」
意地悪くそう言うと、早々に床に就いた。
「今日の酒は味わいが違うね」
「だろう。封を切って半月もしたら
「へえ、そいつはなんでかね」
「生酒は酵母が生きてるからね。何せ呼吸してるもんだから味わいも変わる。どうでぇ、梨から変わったろ?」
「ああ、今じゃ熟れた苺の味がするよ」
「てめぇも分かってきたじゃねぇか」
「痛え痛え、そうそう人を叩くんじゃないよ」
「この旨味に気付いた奴はそうは居ねぇからな。悪いな」
「…そうだね。もう居ないねぇ」
今日も一人芝居。一升瓶の半分を空けた位に澤乃井吟醸生酒は味わいを一変させた。酒呑みの道楽として生酒は少しゆっくりと嗜む。そうすると酵母が発酵をして味わいが封切りから変わるのだ。昔は家でも爽やかな酸味の酵母の生きた「どぶろく」も作ったものだが、今は国が許してはくれない。戦後は其の辺バタバタで米と麹と酵母で一ヶ月あればどぶろくも作れたが…
生酒は透き通りどぶろくの田舎臭さも無く、だがどこかどぶろくの様な生命力を感じさせる味わいで俺の好みだった。
「うげぇ」
またトイレに駆け込む。少し深酒をするとこれだ。すぐに吐き戻してしまう。その苦しさが小一時間程続くと何とかおさまり眠気も出てくる。
また仏壇に手を合わせる。
「今日も一日が終わるよ。お前の居ない一日が」
俺はそう恨み事を言って床に就くのだ。
「コイツは美味そうだねぇ」
明くる日スーパーに寄ると生きた沢蟹がパックに入れられて売られていた。パックには「唐揚げに」と書かれていた。
「そうだねぇ。カリッと揚げたこいつで一杯」
買い物カゴに小ぶりのパックを放り込みレジに並んだ。
「お前さんも呑兵衛なのかね。すっかり手足も赤くして」
台所で沢蟹を揚げ焼きにする。パチパチパチパチと綺麗な音を立てて沢蟹が揚がっていく。中には元気が良すぎてフライパンから飛び出す猛者までいる位。
俺は中でも活きの良い数匹を選び、深めの洗面器に入れて飼ってみる事にした。日陰を好むので鍋蓋で蓋をしてやる。
「今からお前さん達のお仲間を食っちまうからね」
カラリと揚がった沢蟹に天日塩を振り掛けて熱いうちに頬張る。
パリッ、サクッ
軽い音と食感。小ぶりのパックだったのもあり、これなら残さずに済みそうだ。
「美味いねぇ」
「それは良かった」
「たまには台所に立つものだね」
「ほんにほんに」
そしてまた一升瓶の日本酒をクビリと呑むのだ。
「俺も沢蟹のお仲間かね」
手足は酒精で赤く、顔は赫赫としており揚げられる前の沢蟹そのものだった。
「最近食事摂られてますか?」
かかりつけ医がそう聞いてくる。
「飲んではいます」
「それはお酒でしょう」
「まあ、そうですがね」
「禁酒せよとは言いませんが、見る見る痩せていっているのが心配です。紹介状書きますから一度精密検査を受けましょう」
「自分の体は自分が一番知ってます」
「お願いですから…」
かかりつけ医が頭を下げた。「先生様」にここ迄されては何とも居心地が悪い。
「分かりました、分かりましたから頭上げて下さいよ」
「では紹介状書きますので」
「はい、分かりました」
「…ちょっと吐きやすくなったからって心配し過ぎだろう」
「そうですねぇ」
お決まりの一人芝居。鏡をちゃぶ台に置いて。
だが段々と顔が赫赫としてくるのが分かる。赤色を通り越して赫赫。まるで茹で蟹の様だ。
「今日は此処で終いにするか…」
落ち窪んで生気を失った瞳が鏡からこちらを見据えていた。
病院にて。
「胆管が腫れ上がっていますね。これが吐き気の原因かと」
大学病院の医師がそう告げる。
「それと心臓の肥大もみられますね。心音も宜しくない」
「そうですか」
「それと…以前から何かしら苦しみ…が有ったのでは無いですか?膵臓に影が有りまして」
「そうですか」
「体力も落ちてらっしゃるので一気に検査とはいきませんがレントゲンではそう出ています」
「そうですか」
俺は己の骨張った手先を改めて見た。赤ら顔では無いが、節くれ立った指先などは威嚇する蟹のようだった。
アパートに戻るとそこには先客が居た。
「父さん久しぶり」
「何のようだ」
息子が訪ねてきていた。大抵の用件は同じなので煙たくあしらおうとする。
「頼むよ父さん。年金出たんでしょ?」
「お前には関係の無い事だ」
「頼むよ父さん。今月ピンチなんだよ」
「お前のピンチは年金支給日に関係あるのか」
「パチンコで使っちゃって…このまま嫁さんにバレたら最悪離婚だよ!頼むよ父さん」 そう言って息子は土下座をする。
人に頭を下げられる様になりなさいと教えては来たが、それをまさか金の無心の為に活用し始めるとは思わなかった。親一人子一人で有るから金の無心の候補筆頭は俺になるわけで…
「これでなんとかしろ」
俺は下ろしていた年金の何割かを息子にやった。
「ありがとう、ありがとう」
息子はすっかり軽くなった頭をコメツキバッタの様にパタパタと下げると早々に帰っていく。
「我が子ながら…」
苦虫を噛んだ気分で腹部に鈍痛が走った。
「さあ、澤乃井も今日で終わりか」
「感慨深いですね」
「ああ、一升も一生もあっという間さね」
「やだよ人聞きの悪い。縁起でもない」
「もうじき鈍痛ともおさらばさ」
そう言って俺は澤乃井をぐいと煽る。
それからは早かった。鈍痛が激痛に変わった。
買い物に出ることもままならず、家賃の振り込みが遅れ、大家さんが訪ねてきて「第一発見者」となった。
急いで救急車を呼ばれ搬送される。
ステージ4の膵臓がんで、全身に転移していた。
飲酒は身体の痛みを誤魔化すために呑んでいた。吐いては呑み吐いては呑み…
入院しても今迄と変わらずに見舞いにも来る者はない。今は酒の代わりに鎮痛剤の注射がなされ、吐き気も強く点滴をする事になる。
最早手足は枯れ枝の様に細々としてしまった。だが腐ってはいられない。小さな沢蟹の様に爪を持ち上げて威嚇する。「俺はまだまだ死なないぞ」
瞬く間に臨終を迎える。口角泡を飛ばす勢いだったのが、死にかけの蟹が泡を噴くのと変わらない状態にまで衰えた。「うぇっ」と泡の代わりに胃液を吐く。
「澤乃井…を、もう…一度…」
「すみません、お酒はダメなんです」
「知って…る。だから…澤乃…井の…ふ」
俺の意識は暗い沼に沈む様に段々と消えて行く。「どうかもう一度澤乃井を」
「面倒だなぁ、親父の遺品整理」
「そう言わないの。たった一人の肉親でしょう」
夫婦が遺品整理をしている。夫は渋々、妻は甲斐甲斐しく。
「うぇっ、臭いと思ったら蟹が死んでら…」
「えー、それは貴方が片付けてよね」
「血の繋がりのない親父の為に動きたくないよ」
そう。先立った妻の連れ子。それが一人息子。 なので亡くなった老人には血の繋がりのある肉親は一人も居なかった。
「お義父さん最後迄お酒お酒って。呑兵衛のイメージ無かったのになぁ」
「お袋が死んでから何処か変だったし。嗜好も変わるさ」
口々に文句を上らせながら二人は整理をしていく。
「澤乃井ばっかりだな…いくら東京に昔住んでたからって未練タラタラかよ」
「そう言わないの」
「だってよー」
「あら」
妻が何かに気がついた。
「このお酒の蓋」
澤乃井酒造と言う東京に蔵を持つ酒蔵がある。その代名詞の「さわのい」の酒瓶の蓋には「小さな蟹」が描かれている。それは清流にしか住まない「沢蟹」を描いていると一説では言われている。
老人はその清流を感じて徳利を傾けていたのか?最後に求めたのは酒か酒蓋か…当人なき後遺族がその思いを汲んでくれたかも定かでは無い…
『澤乃井には蟹が棲んでいる』
ある老人のメモより。
終わり
沢蟹 太刀山いめ @tachiyamaime
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