夢④

 階段を上り終えるまで。


 輝く碧天の下。金曜日。平日昼間。

 某大学の旧校舎にて。


 雲一つない。世界を覆う青い空。台風が去った翌日がこんな天気だった。

 遮るものがない。真上に達した太陽から力強い日差しが降り注がれる。コンクリートが吸収して吐き出す熱量が、まるで壊れた床暖房のようだ。

 殺人をも厭わない破壊力。

 死者が出ても不思議ではない気温。

 行き交う人々を熱地獄へといざなう昼の時間帯。

 生物の体力を削り続けている記録的猛暑――酷暑は、数日間過ぎた今でもまだ序の口でさらに続いていくことが確定しているとのことだ。 

 

 外界からのストレスにも違いがある。

 夏と冬、暑さと寒さでは異なるストレス。

 寒さを軽減するには、上着を羽織ったり防寒グッズを身に着けることで対応が可能なのだが、暑さを軽減するのは難しい。それは帽子や日傘が役に立たないほど、熱中症で倒れ亡くなる人が毎日のように報道を賑わしているからだ。

「雨が降れば」

「風が吹けば」

――誰かの呟く声があちらこちらで湧いて出てくる。

 少しでも暑さが和らいでくれることを祈るも、太陽は常に不変である。凛とした姿で空に君臨し暴虐な仕打ちを地上に振りまく。


 ある一人の男がいた。

 この灼熱の暑さの中、この男だけは熱を感じていないのかもしれない。

 長い、長い階段。

 螺旋状の階段がある。

 建物の横に設置された屋外階段。野ざらしで老朽化し簡易に造られたこともあって、危険かつ剣呑な雰囲気が誰もが感じる。躊躇して別ルートを選ばせる程の階段をその男は上っている最中だった。

 時折強い隙間風が吹き、階段を踏み外しそうになる時もある。何回も下を見ながら踏み外さないように丁寧に足を動かす。見下ろすたび、危険極まりない最悪な事故を想定してしまう。


 落ちてしまった時の衝撃は、

――考えただけでも恐ろしい。

 地面に叩きつけられて散らばった自分の未来を見てしまった気分になってしまう。


 男の足は震えていた。


 時間がない。

 刻一刻と時間が進む。止まることなく新しい未来を更新していく。事故が起きて男の時間が止まっても時間の針は休んでくれはしない。

 男はまだ若かった。

 死にたくない気持ちは誰にでもあるが、その男は人一倍死に対する恐怖が強いようで、最悪な場面を常に連想してしまうネガティブな癖があった。高所恐怖症も手伝ってか、イメージは悪い方向へと猪突猛進していく。死ぬイメージから今は、死なずに済むも脳に酷く重い障害を持ってしまい、自分の意思を伝える手段を失った未来――植物状態になってしまったらと。


 そんなにこの階段は長いものではない。一般の成人男性なら数分程度で上り終える。少なくとも無事に完走できればの話だが。


 そもそも彼はこの危険極まりない階段を使用しているのだろうか?

 高所恐怖症の彼がこの階段を使うのがそもそも異様であり不自然だ。高所恐怖症であることを今思い出したのか?

 急いでいるためにこちらの方が近道だと踏んだのか? それともこの階段しか無いと思ったのだろうか?


 男には時間も階段も長く感じられた。

 焦りと恐怖が男の精神状態を犯しむしばむ。

 男は時計を見た。約束の時間と原時刻がつい先ほど重なり合ってしまった。それが男を狂わした。焦りは極限まで達した。

「間に合わない」

――絶望の色が濃く、青い空まで塗り潰されてしまいそうだ。

 溜息混じりの弱々しい言葉は、隙間風に簡単に飛ばされ連れて行かれた。

 諦めるのは簡単だ。

 だが、男にはその選択肢は無かった。考えられるほど頭が正常に働く状況下では無かったため、選択肢がひとつだけしか浮かんでこない。

――行くことだけ、進むことのみ。

 急げばまだ待ってくれているはず。

 しかし、足が動いてくれない。生まれたての子鹿よりも酷く震える。二足歩行が困難かつ難渋だと数分前の彼に知る由もなく、階段のある地点から縫い付けられたように動けない。

 意志だけでは体は動かない。いくら「動け」と命令しても拒絶ボイコットされてはお手上げである。

――下を見るな。見てはいけない。

 自分に言い聞かせる。言い聞かせても震える足だけでは体は支えられない。前屈するように手が階段についてしまえば、視線は自然と下に向いてしまう。

 事故が起きない限り、この階段が改築され安全なものへと変わることはないのかもしれない。その事故の第一号が自分なのではないかと不吉な思考がよぎった瞬間に全身が硬直し震えるだけの案山子と化した。


――決心するしかない。

 ストレスはピークに達している。

「これ以上は――」

 下は見ない。上だけ、前だけ。

 極限までのストレスが強引に男を突き動かした。

 壊れたかけのおもちゃがスイッチを入れなくても動いてしまうように、生命の危機を度外視してまで我を忘れた無謀な行為に出た。

 男は階段を上った。

 走り出した。

 震える足は感覚が無い。

 踏面を蹴る実感が無い。

 ふわふわとした感じたくもない浮遊感の中、イメージから創り出した視覚化された透明な映像を頼りに、上だけを見て走っている。

 追い詰められた鼠が猫を噛むことがあっても、想像していた危険性がすぐそこで顔を覗かせている事実は無くならない。ただ彼にとっては、遅れて機嫌を損ねてしまうことの恐れの方が強かったのかもしれない。


 そんなに長くない階段はすぐ上り終えることが出来た。結局のところ一分もかからなかった。

 何故階段を上るだけで最悪な事故を考えてしまうのか、男は落ち着きを取り戻すと疑問を覚える。安全性が認められないジェットコースターに乗る前と無事に帰還した時の心境の差を考えるようなものである。

 それはこの時ばかりのことでは無かったからだった。責任感が強いため何度も続く失態を許せない。罪悪感と自分のやるせなさに支配され、自分を更に追い込んでしまう。そして加速するように悪化していくばかりだった。

 もはや心の病なのだが、それを認めることも許せない。自分の内面の症状を知ろうともせず、日常を送っている。


 遅れたのは自分の責任。 

 この階段を選んだのも自分。

 高さの恐怖に恐れて縮んでしまったのも自分。

 ただ自分が臆病なだけなのだと、問題は心の弱さにあるのだと。

 積載されたストレスが、男の心の許容量限界の手前まで来ていることなど知ろうともしない。自分自身の救難信号メーデーに気付かず、気付こうとすらしない。


 些細な約束だった。

 プリントを貸してもらうだけの大したことのない小事しょうじ

 命を賭けるにはあたいしない小さな約束。

 数分遅れた程度で怒る友人ではなかった。

 だが男には無理やりにでも動かさないと、一生閉じ込められていただろうという確信があった。

 責任感、いや自分のプライドであろうか。無理やり走ることが自分を変えられる一歩なのだと感じたのかもしれない。

 そのきっかけであると信じたのかもしれない。

 

 傷が深刻なまで深くえぐられていることに気付かずに。

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殺意に満ちたその場所で 大神祐一 @ogamidai

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