Ep2:途方に暮れる
小鳥のさえずりにしてはやけにガアガアと鳴かれ、夢が暮れたのだと気づいた。目を覚ませば不思議なこと、森の洋館で美女達と遊んでいたはずが、狭くかび臭い部屋に一人きり、板のようなベッドに横たわっているではないか。これでは公爵気分も縮れ悴むだけだろう。ああ、窓の隙間から漏れる朝の風がひどく冷たい。
国語辞典のごとく硬い枕に頭を置き、二度寝したいところ、外のかもめがうるさく喚くのでそうもいかず、再び現実と相見えることにした。偉そうにこう綴ったのはまだ寝起きだからだろう。閉じた片目は公爵のままなのだ。そう自暴自棄にしているとさらにかもめがうるさく鳴いて、そうまでして俺を起こしたいのかと、俺は氷のように冷たい窓をかっぴらいて一言文句をいってやろうとした。しかし外の霧の漂う景色に昨日の甘ったるい煙が思い浮かぶと、頭がぐわんぐわんと苛むものだから、黙って画用紙じみた布団に包まった。あの霧と対峙するくらいなら耳を塞いで寝ると決めた。
そうして現実逃避に勤しむもやはり寒い。雪山で遭難しているのかと寝ぼけるほどにだ。こうなるともうこの薄っぺらい布団に巻かれ、時間の溶けるまで耐え忍ぶしかない。しかしどうにも長く感じて気を保てなくなったので別のことを考えようと、また開いた目を凍らせぬためにも、部屋に置いてあった本を開いて目を泳がすことにした。
朝日が顔を照らすまで文字をなぞっていると、自身が日本語ではない何かしらの言語の達人になっていたと気づいた。もちろんそれは英語でもなく、たぶん西洋のものや中東のものでもない。全く見ない言語だった。といっても社会の点数が低かったからあまり自信がないが。ちなみに読んだ本のタイトルは『ラピッドの航海記』 ジャンルは剣と魔法のファンタジー。冒険者ラピッドがアトラスという世界の南にある海を凶悪な海賊と対峙しながら航海していくものだった。つまらなくはないが、無性に某海賊漫画を読み返したくなる内容だった。クリスの港でヒロインが叫ぶところはほぼパクリ――――本の話はこれほどにしてそろそろ動くとしよう。
俺は辛気臭い宿の萎びた階段を降り、嗄れたドアの音に耳を塞ぎながら外へ出た。今日は悪夢を見てもいいからもう少しだけいいところで寝たい。いや、その為に頑張るんだ。そう意気込んでいたところキューとお腹が鳴ったので、まずはレストランを探すことにした。
ちょうど朝が過ぎたころ、大通りに色鮮やかな露店が立ち並んでは足の踏み場もないほど賑わっていた。俺はレストランのパラソルの影からそれを覗いて、本当にあれを潜ってきたんだなと疑った。
手持ちの金は多くない。メニュー表を見るとどれも金貨十枚以上と値が張る。俺が持っているのはたったの二十数枚。思わず俺は「この国の物価高すぎだろ」と舌打ちしてしまった。これに気づいたのだろう、若い女性の店員と目が合う。俺はとっさにメニュー表で顔を隠した。しかし、
「お客様、ご注文はお決まりですか?」
と無慈悲にも店員は俺に話しかけてきた。払う金もなかったから帰ろうとしていたのに、こう話しかけられると気まずい。まだ決まっていないと素直に言えればいいものの、さぁ注文を伝票に書くぞと店員は目を煌めかせていて断りにくい。どうしようかと俺はさらにメニュー表に顔を埋めて悩んでいると、店員は待ちかねたのか積極的に、
「鮭のムニエルがうちの人気商品なんですよ~」
と優しく微笑みながら言ってきた。俺はさらに窮屈な気分になった。悩めば悩むほど店員はイカのフライがどうとか、トマトシチューがなんだとか、聞いているだけでもお腹一杯になるくらいに畳みかけてきて、しまいには早口になったとおもったら目も血走って、俺は怖さのあまり胃がムシムシと痛んできた。もう降参しよう。
「じゃ、じゃあ鮭のムニエルで」
「わかりました!」
店員は勢いよく返事すると、ルンルンとスキップして厨房へ去っていく。なぜレストランの椅子に座っただけでこんなに気疲れするのか。やはりこの国はおかしい。
おかしいといえばどうかわからないが、メニュー表の文字もさっきの本の言語だった。それだけでなく町のあらゆる看板もそうなのだからあれが公用語なのだろう。それをまったくスラスラと、一体いつの間に覚えたのか。俺は別人ではないのかと自身を疑う。ガラスに映る自分の姿が紛れもなく自分自身なのも、なんだか気持ちが悪い。ただそう酔っていても始まらないので、皿が来るまでこれからのことを考えた。
昨日は暗く、町をほとんど回れなかった。なんたって逃げるに必死だったから。まだ行っていない場所に交番、他にも外国人に対応してくれる施設もあるのかもしれない。
「でもどこにあるんだろ……うわ!?」
「なにがですか?」
店員がムニエルの乗った皿を机に置きながら俺へ訊いてきた。思わず呟いていたのを聞いていたらしい。これはまた面倒なことになった。ニッコリと目をパチパチとさせて俺の返答を待っている。答えなきゃいけないものなのだろうか、さっきの対応もあってあまり関わりたくないのだが。いやそう悩んでいる間に、店員はだんだんとその目を期待の星空で満たし、俺へ向け始めていた。さっさと答えてしまおう。そんな大したことじゃない。
「交番です。交番、知りませんか?」
「こうばん? コウバン? 小判?」
「あ、やっぱいいです。料理いただきます」
「あ、はい。ではこれ、置いておきますね」
店員は長い紙に錘を乗せたあと、頭を傾げながら奥へ去っていった。やっと安心したと胸を撫で下ろしていたら、店員の置いた紙の先がペラペラとそよ風に揺れていてぎょっとした。あの店員のよく回る舌ベロのようだ。ちなみにそれを捲ると鮭のムニエルの値段が金貨十四枚とわかった。これはなんとしても避難所を見つけなければ。そうぼやきながらも俺はムニエルを堪能した。あの宿の二倍の価値があると思えば妥当な味がした。
食べ終えると、床まで蕩けた頬を持ち上げ、支払いをし、俺は歩き出した。まずは大通り、次は港の方面、あとは人通りのある安全そうな裏通りだけ。昨日のこともあって入り組んだところには入りたくない。どうせ交番はそこにはないだろうし。
そうして一日、町を歩き回っていたら夕暮れ時になっていた。結局交番や市役所などは見つからず、そもそも警官の一人も見かけず、俺は途方に暮れた。町の影は大きくなって俺を焦らす。そのほどに頭を縄で締め付けられた感じがして、だんだんと意識も朦朧となった。すると歩き疲れて千切れそうな足は勝手に彷徨い始め、小路から通りへ裏を跨いで、最後は今、桟橋まで下りていた。顔を合わせたのは果ての海。斑模様の夕日を浮かべ、もうどこにもいけないのだと俺を諭す。これ以上混乱しても海で溺れ死ぬだけ。桟橋に足をぶら下げ、俺は情報を整理する。
わかったことがあった。一つ目はここには俺のような日本人はいない。顔形が似ている人はいても、日本のことはみんな知らない。それだけでなくアメリカや中国など、他の国でさえも。そもそも世界の知識がないみたいだ。人見知りが勇気を出して聞いたのに全員ボケているのか。二つ目はもっとひどい。ここはどうやらアトラスという世界のクリス港という町らしい。薬をやっているのは裏の人間だけではないのか。さすがにそれを聞いたときには病んで「本と現実の区別がついてない?」と嘲ってしまったが、逆に大笑いされた。外国人に冷たい町ランキング世界一だ、この町は。そして三つ目は――――騎士のコスプレをした人は紛れもなく"騎士"らしい。泥棒を捕まえたり、喧嘩の仲裁をしている姿を二、三度見た。コスプレもここまで行けば本物だろう。ちなみに鎧の股間はふんわりとしてなく、すぐに着脱可能で、手から火を放つ魔法騎士なんかもいるらしい。「そんなの騙されるの、子供だけだろ」って騎士に言い返したら、手から火花を散らして「子供ですら知ってる」とまた大笑いされた。いつから自分が魔法騎士だと自認すれば魔法が使えるようになったのか。なお神はキリストでも仏でもなく、ロアマトだと。コイツが犯人か。
剣と魔法の世界――異世界――なんて存在するわけがない。なのに町の住人の言う事も半ば嘘ではないと信じてしまうのは、きっとこの緑結晶の剣のせいだろう。今日だって猫や亀といざこざを起こして刺してみれば二足歩行したり、お手玉したり、高速で回転したり、さすがに竜宮城には連れてもらえなかったが拍手してくれた。確実に刺した相手を思い通りに命令できる力がこの剣にはある。いわば魔法の力がある。朝読んだ本の中には半魚人なんかもいるらしいが、これも真実かもしれない。
そう耽っていると夕陽もすっかりと沈んで、月が見え始めた。最安の宿でさえ金貨七枚。手持ちは一枚足らず六枚。野宿するにはどうしても夜は冷える。どうするかと俺はまた頭を抱えた。向こう見ずなのは最初からだったが、連鎖してまで俺を懲らしめる必要はないだろう。ムニエルは完全に俺の躊躇だったか。
「にゃーん」
猫の数匹がボラードをぴょんぴょんと跨いで遊んでいる。つるっと足先が触れて一匹海へ落ちた。桟橋が低いからすぐに陸へ上がってきた。愉快なものだ。猫は人間と違って毛皮があるから、こういう夜はそれ程怖くないのだろう。ああ、そうか。あれを敷いて寝れば夜も越せるかもしれない。俺は冗談めかして剣を握りしめたが、猫は雷に打たれたがごとくビビッとすぐに俺に気づいてどこかへ逃げてしまった。布団が動くのもこの世界ならあり得なくないと思ったのに。
そうふざけてもすでに選択肢は一つしかない。生きるためにこの異様な剣を悪用する。人間を刺し操る。例えば宿屋の店主を――――その行為を想像すると噎せ返りそうになった。また胸の奥が何かに引っ掻かれるような感覚があった――――こうなってまで俺はどうして。過去へ霞んでいく白い雲に俺は情けなさを吐きかけようとした――――トコトコと後ろから足音がする。
「恋人でも待っているのかね。少年よ」
なかなかにキザなセリフな気もするが、それを台無しにするような声色だった。またその見た目もなかなかに。一言でいえばピザをごくごくと食べながらデカい腹を掻いているおっさん騎士だった。やはりピンとこない。俺がそう首を傾げるとおっさんはガッと顔を赤くして、
「これでも儂は騎士隊長だぞ!」
と怒鳴るものだから余計に格好が悪い。酔っ払いに絡まれているのと何が変わらないのか。それこそ騎士の出番ではないのか。そう問いかけたいところだが、俺は草臥れたまま言い返した。
「何か用ですか。おっさん」
「おっさんではなく隊長だ少年よ。まぁいいだろう。こんな夜更けに一人で何をしている。この町の名誉ある騎士として若者を憂い、声を掛けたのだ」
やはり世も末だろうか。騎士にまともな人間はいないらしい。まずはピザを食べ終えてから話してほしいものだ。その様子で憂いていると言われても説得力はまるでない。色々と面倒なことになる前に逃げてしまおうか。
「まぁだいたい予想はつくのだが。昨日の夜、儂の部下から金を貰ったのは君だろう。見た目の特徴もピッタリ合うようだ」
背中のなかなか嫌なところを突かれた。俺が誰だか目星がついているということだ。逃げようなら覚悟しろ、とおっさんはじんわりと笑みを浮かべた。あの図体ゆえに、おっさんだけなら逃げ切ることもできるだろうが、隊長の命令だと数を掛けられれば逃げ場はなさそうだ。俺は静かに言い返す、
「何が目的だ」
「それはこっちのセリフだよ。さっきから聞いているだろう。君は何をしているのかと」
「何といわれても特に……」
「特になんだね」
正直に言えば路頭に迷った。なのだが、それを言うと何か嫌な予感がする。おっさんはよくアメリカのキャラクターのするようなドヤ顔をして俺を睨んでいた。あの感じはそう、俺の今の立場を知っているという顔だ。何が目的だと俺はおっさんに聞いたが、恐らく俺に何かを要求するつもりではなかろうか。行く当てがない、その足元を狙っているのか。なおさら騎士とは思えないあり様だ。
「うむ、仕方あるまい。やはり非行少年ゆえか。よかろう、とりあえずこれを受け取りたまえ」
その怪しげなドヤ顔をやめるとなんともない顔つきで俺の手首を握り、その上に金貨数十枚を置いてきた。先ほどの予感は外れていたのか、おっさんは「かまわん。かまわん」とフンフン笑いながら俺に金貨を取るように勧めた。やはり勘違いだったみたいだ。俺はおっさんのその言葉に甘え、金貨を受け取った。おっさんはまた「かまわん。かまわん」と笑いながら俺に呼びかけた。正直まだ気持ちの悪いおっさんだが、俺は一言だけ「ありがとう」と言ってその場を去った。
向かうその通り道の闇の深いところに寒気を感じつつも、俺は走っていく。あれほど変だと罵った騎士だから少し申し訳なかった。だけどここは感謝するべきだと、俺は昨日よりも金貨五枚だけ高い宿へ泊った。
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