火葬

タバタトモヨシ

第1話

ゴオオオオッ―…バチっ……ぱきーーーー…ジジッ、ジーーーーーーー…ーーぱちっ、ぱッチ…


「暑っつい……」


ばき


「我慢なさって」


 今夜も熱帯夜。風でさえ熱気を孕む八月に、私は自室に寝そべっている。床の冷たいところを探っては足で捕まえてゆく。が全く以て体が冷えない。まるでサウジアラビアを纏っているような……

 狭い部屋の天井にうなじをくっつけた大きな鹿のぬいぐるみが、暑い暑いとぼやく私を「我慢なさって」と窘める。我慢なさいと言われたところで斯様な暑さはどうにもできず、ふたたび気ままに床の冷たいところを探る。額を見ようと頭と目をぐりんとすると、網戸の手前に菊が一輪、二輪、三輪……ここからでは重なってしまって正確な数は分からない。起きて数を確かめる気力も暑さに吸い取られて、一つ大きく息を吐いた。頭上から声が降ってきて、

「覚えておいでですか」と言う。

「なにを」と、随分な間を置いて答える。

「初めて出会った日のことです」

「ああ……」

覚えているもなにも、出会ったのは数日、一週間ほど前である。奈良への遠足で気持ちが昂っていた私は、家に帰るなり母に鹿のぬいぐるみが欲しいとほざいた。彼女がどんな人間か、知らぬはずではなかったのに。真に受けまいと高を括っていた。まんまと彼女に置き場に困る馬鹿みたいに大きなぬいぐるみを購入された。

「アタクシは、貴方に喜んだ訳ではございません。こうして一緒に暑がって見せているのは、紛れもなく、貴方の母上――サエコさんの望みであるからです。彼女がアタクシを買わなければ、アタクシはこんなに、サエコさんに焦がれることは決してなかったでしょうに」

笑わせてくれる。縫い包みが人妻に焦がれるたぁ。禁断の恋、なんて託けて、その背徳感とやらをまるで馬鹿みたいに泳ぐのだろう。この鹿が、私の母に抱いているのは純真で透明な慕情などではないのは分かる、それは明瞭に。こいつぁ、妻であり母である立場に縋り付き、振り回される他ない憐れな女性が可愛らしくてたまらんのだろう。サエコに塔の上から「貴方はどうして鹿男なの?」とでも言わせて、ロミジュリ的展開に腹の綿を踊らせる。そんな至極くだらんことを思っているのだろう。綿が人ぶって……

「わからんこともないがな。サエコは確かにいーい女だ、Julietにも劣らない。」

ペストマスクをつけた、木彫りの馬が口を開く。否、口は見えない。

「サエコさんが貴方のような馬面を相手になさるとでも?ロミオ気取りも大概にしなさい」

「ああ!なんと喧しい鹿だ!」

暑い、暑い。着ている服がべっとりと背中に貼り付いてしまって、実に不快だ。巨大な鹿と、潔癖な馬が余計に私を暑くする。馬も鹿も、大して変わらんではないか。全く、実に愚鈍な団栗たちである。

「そもそも、アタクシはこんな餓鬼がサエコさんの息子であるのが許せない!ああ、もしもアタクシが人なら、喜んで天からの生を野上サエコの子とするのに!」

どいつもこいつも底無しの阿呆のような顔をして、生意気に恋慕を語ってみせる。そんなものを語ったところで、ただのぬいぐるみと木ではないか。際限なく不毛だ。

「ああ、そうかい。でも、あと数時間、いや、数分で俺たちぁ死ぬ。昔話なんざ、終いにしよう」

口論に対してつっけんどんに水を差す。

「ええ、それが良うございましょ」

やけにおとなしいな。サエコに自分が刻まれたとでも思っているのだろうか。ええ、マア、実に、どうでも良い。

 もう一度、網戸の前の菊を見る。先程よりは幾分か、減ったように思う。花も茎も黒くなって、力無く花瓶に凭れている。いずれ、私もああなる。当然、鹿男も馬もああなる。また一輪、菊が黒くなる。

 サエコの泣き声が聞こえる。母としての自分を失ったからだ。それも翌日にゃ綺麗になくなって、労るご近所さんからまた、自分の立場を見出すはずだ。彼女の人生はこの先、きっとマンホールの蓋のようであろう。

 暑さが一段と増してきた。脇から汗がとめどない。すっかり足は燃えてしまって、床のヒンヤリも感じられない。これからどうして身体を冷やそう。黙った鹿男を仰ぎ見る。もう彼はペシャンコだ。使い物にならない。木彫りの馬を横目で見れば、派手に倒れて動きもしない。サエコの泣き声が三周目のループに入った。ハンケチももう濡れるところはなく、枯れた声を染み込ませることもできない。憐れな女だ。

 もう菊はすっかり真っ黒だ。鹿男もずいぶん小さくなって、馬はもう最早夜の松の葉のようで、次はいよいよ私の番。どんどん、ドンドン、火照りゆく。あゝ、なんということだ、すっかり汗は枯れてしまった。あつさをこえて、冷えてきた。どんどん、どんどん、冷えてゆく。教え子の進路の件でけんもほろろな英語教師を思い出す。馬みたいな顔をして、鹿みたいなことを言っていた。

 右目が、チラッと冷たくなった。ハッカ油を入れすぎた風呂の湯を目に入れたみたいだ……

 暑い、暑い。あつい、あつい、もうすぐだ。もうすぐ、終わる。私の、私の、鹿みたいな、馬鹿みたいな人生が、やっと、やっと……



「……熱っ」

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