雨過天青
じゅじゅ/limelight
雨過天青
「ありがとうございました」
掠れた声で挨拶をし、ドアを閉める。ドアノブを握ると、思わず離してしまうくらいに冷たい。
放課後、誰もいない廊下を一人、ペタペタとスリッパの足音だけが木霊する。
プリントを持つ手はもはや肉塊となり、自分の両肩に石が実際にのっかかっているかのようだ。
誰もいない教室に入り、自分の席へついた。プリントを広げると、日本語で大きく『進路調査票』と書いてある。
「はぁ」
誰もいないのだから大きくため息を吐いてもいいだろう。僕は深く息を吸って、もう一度わざとらしくため息を吐いた。
「僕の居場所って、どこなんだろうな」
プリントを見つめながら呟く。筆箱を取り出し、プリントを埋めようと思ったがシャーペンを持つ手に力が入らない。
やがて僕は筆箱と一緒にプリントごと、カバンにしまった。
教室を見回す。日課黒板には金曜日と書いてあった。星期五、だったっけ。
僕は顔に両手を当てて、目を閉じた。夏にしては異常に冷たい手が僕の熱い顔面に熱冷まシートのように冷やしてくれる。けれど、僕の頭は冷えることはなかった。
僕は、日本に住む中国人だ。それだけを聞けば、最近はグローバル化も進んでいるし、中国は世界で人口が二番目に多いのだから、よくあることなのかもしれない。
けれど、僕は高校2年生で、今は夏休みど真ん中だ。
星期五とは中国語で金曜日という意味になる。星期1なら月曜日、星期6なら土曜日なのに、なぜか日曜だけは星期日と言う。
そんなことはどうでもいい。
「Aくんは、中国の大学の受験も視野に入れているのかい?」
「はい、一応……」
頼りない声で答えた。そんな弱々しい僕の発言でも、先生は一言一句、目まぐるしく手を動かしてメモしていく。
「でも、日本でいい所に受かれば、そのまま日本の大学に行きたいと思ってます」
後から言うと、先生はふむふむと呟きながらそれも記録していった。僕の事情を把握して、親身になって相談に乗ってくれている先生には感謝してもしきれないくらいだが、今日はあまりメモをして欲しくなかった。
元々、中国の大学を
それでも。それでも、僕は中国人だ。18歳になったときに中国籍か日本籍か選ぶチャンスがあるらしいのだが、両親が中国人であるし、幼少期は中国で過ごしたため僕が日本籍を選ぶことはない。
そしたら国籍関係が付き纏ってくる。集団心理上、どうしても異国籍の人を生理的に受け付けない人は存在する。クラスのみんなは僕に優しく接してくれているが、社会に出ても同じかどうかはわからない。
おまけに、どうしても文化の違い、言語の壁、物事の捉え方の根本的な違い……これら全てを回避することはできない。
たとえ日本で育ったとしても、僕は日本人ではないのだから。
やはり中国へ帰ろう。そうすれば少なくともみんな同じ中国人だから、これらの課題は全て解決される。
————そう思っていた時期が僕にもありました、なんてね。
一概に中国に帰れば解決されるというものでもなかった。
中国に帰ったら帰ったで、今度は自分自身に大きな負荷がかかる。
日々の学校生活を通して僕が使う言語は日本語。
今の僕は中国語よりも日本語の方が得意と言っても過言ではない。もちろん日常会話くらいの中国語はわかる。けれど、年が経つ毎に帰省した時の僕の話す中国語はぎこちなくなっていった。
つまり、もし僕が帰国すると、母国語をまた一から勉強するという現象が起こる。
それだけではない。これに関しては頭が上がらないが、日本の和食というものは非常によくできたものだと感心させられる。
食事だ。生憎、僕の消化器官はあまり強くない。消化不良なんて日常茶飯事だ。
邪推かもしれないが、自分が日本から帰ってきた人間だという理由で半日本人扱いされたらどうしようと思うと吐き気がしてきた。
こんな、最悪僕が全て背負って耐え抜けばいい問題だけならどれほど良かっただろう。
さらには僕の進路で両親の人生をも左右するのだ。両親からは僕が中国に帰るなら一緒に戻り、日本にいるなら残ると明言されている。
二人は僕の進む道を応援してくれているのは確かなのだが、いざ明言されると気が重くなる。
おまけに、中国にいる親戚からは帰省するたびに「戻ってこないの? 」と問われる始末。
僕の進路一つで、様々な方面への影響が出てしまうのは火を見るより明らかだった。
考えれば考えるほど気分が沈んでいく。
————高校生の悩みにしては重すぎるのかもしれない
「あーあ。やめやめ」
自分に言い聞かせるように大きな声で呟いて立ち上がる。
窓を開けると、じめっとした熱風がエアコンに冷まされた空気と混じり合う。夏の太陽は既に17時を回ったにも関わらずまだ正午のように強く照りつけていた。
空には無数の小さくて黒い雲が浮かんでいる。
下を見るとあっつあつであろうコンクリートの道が広がっている。
ここから飛び降りれば楽になるのかな、と何度考えたことか。おかげで窓際に来る度に足がすくんでしまうようになった。
「雲かぁ」
無意識に発していた言葉だった。あの雲にこんな何日も豪雨が降るような重たい悩みを乗せて雨を降らせてくれたら晴れるだろうかと変なことを考えていた。
刹那、本当に雨が降った。超がつくくらいの局地的豪雨だ。
空を見上げると、太陽は依然としてー輝いている。僕は雨の発生源を袖で拭った。けれど、雨は止まなかった。
「情けねぇ……ほんと」
これで何度目かわからない。進路の悩みなんてあって当然だ。大学受験で第一志望に受かる人の割合は60%だと前にネットで見たのを思い出した。
みんな、なにかしら進路に関する悩みを持ってて当然だ。それでも誰一人としてそれを表に見せることはない。だから、僕に泣く権利はない。自分で悩んで、自分で決断しなければならない。
これは紛れもない、僕の進路だから。
「君が羨ましいよ」
僕は宙に浮かんでいる雲に向かって投げかけた。僕のこのドンヨリとした悩みも雨に紛れて降らせて、そしてあの灼熱の太陽でカラッカラに晴らせて欲しい。
飛び降り防止用の鉄棒に腕を乗せ、僕は無心で空を眺めた。熱風が優しく頬を撫でる。
しばらくして、階段から足音が聞こえるようになった。途切れ途切れだったためどうせ施錠の先生だろうと思い、僕は空を眺めたまま突っ立っていた。
「やっぱここだったか」
聞き慣れた声に僕は驚きを隠せず、振り返る。教室に姿を見せたのは、施錠の先生ではなく友達の
激しく息を切らしており、制服は汗で透けて黒いシャツが丸見えになっている。
あまりにも予想外の人物の登場に僕はただただ雄大を見つめることしかできなかった。すると、雄大は息を切らしたまま僕の手を取った。
教室の冷気で冷め切った僕の細い手とは違い、熱く分厚い手が僕を包み込む。手汗で少し湿っているが、その手はすごく温かった。
「行くぞ、早く」
「ど、どこに? 」
「……お前、まさか自分の誕生日忘れたわけじゃないよな? 」
誕生日、という単語を聞くと同時に僕は再び日課黒板を見るが、終業式の日の日付だった。
「そ、そうだったっけ……ごめん」
泣いたすぐ後のため、声が掠れて震えている。そんな僕を見て、雄大はため息を吐いた。きっと誕生日すら忘れて、この誰もいない教室で一人虚しく泣いていた僕に幻滅したのだろう。
「ったく、せっかくの誕生日に泣くなよ。またなんか悩み事か? 」
顔を触ると、依然として雨は降り続いていた。僕は急いで拭うが、まだ止む気配はない。歯を食いしばって堪えようとしたが、それでも洪水のように溢れ出してくる。
自分でも自分に参ってしまった。
「はぁ……誕生日会の主役が泣いて登場とか聞いたことないぞ。ほら、何があったんだ? 遅くなったのは全部後で俺のせいにしとくから、聞いてやるよ」
雄大は元から悩みを打ち明けられる数少ない人物だった。彼に泣いている姿を見られたのは一度や二度じゃない。けれど、僕は
「いいんだ、ごめん。行こう」
こんな重い話は流石に友達にすることはできない。きっと、彼にも彼の悩みがあるだろうから。
「おう、後でお前にもちゃんとあのダサいタスキつけてもらうからな」
3ヶ月前の
「っ、はは」
思わず笑いがこぼれる。それを聞いた雄大は
「あ! 今思い出して笑ったろ!? Aも絶対に笑ってやるからな。覚悟してろよ」
「……うんっ」
雨上がりの地面はネバネバで、一度洗ってから学校を出たい自分だったが、どうやらその時間も残されていないらしい。
下駄箱を出て、僕は雄大の背中を追いかけるように走る。熱風はより一層強くなり、蝉の声が街中に反射している。
何度も通った道、何度も見た変わらない風景。そして、向かう先にはこんな僕の、自分でさえ忘れていた誕生日を祝ってくれる優しい友達がいる。
これからどんな人生になるのか、誰にもわからない。けれど少なくとも今の僕の居場所は間違いなく此処にあるし、何処に行っても僕は独りじゃない。
信号で止まった時に空を見上げた。まるで雨上がりの空であるかのように、雲一つない空が広がっている。
それは異様なまでに至極、煌めいていた。
雨過天青 じゅじゅ/limelight @juju-play
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