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 彼とは、それきりになった。


 数日の無断欠勤が続き、教わっていた連絡先に電話した。だが携帯電話の番号は、すでに使われていなかった。

 固定電話にかけてみたところ、年長らしき女性の声が受話器越しに聞こえた。


「あの、響生くんはご在宅でしょうか」

「ひびき──?」


 急激に声の調子が硬化した。強い口調で問われる。


「この番号はどこで知ったんですか」

「え? 本人からですが」

「あなた、誰です? これは、なにかの冗談ですか」


「……え? いえ」

 そんなまさか、と応じる間に、大声でさえぎられる。


「悪ふざけはやめて!」


 ありえない、と厳しく断じられて、言葉を失う。


いますから!」


 女性の激昂が、鼓膜を震わせる。

 受話器が叩きつけられたのか、ブツッと回線が切れる音が続いた。断続する電子音を聞いているのもわからないほどに、混乱していた。


 娘。──息子ではなく。


 八年も前に。

 すでに、亡くなっている。


 断続する電子音が、頭のなかで、こだまする。


 一体、どういうことだ?

 考えるしかなかった。本人の口から、身の上話を確かに聞いた。


 絶望から逃れるために自らの身体からあふれだしたものに触れ、飲みこまれたと告白された。そして──


 耳もとで続く断続音がうるさい。通話を切って目を閉じ、天を仰ぐ。現実が揺らぐようで、なにかにつかまっていないと不安だった。


 彼は男ではあるが、心は女性だと語った。女の子だった身体から、男の子の身体に乗り移ったと明かした。


 では、乗り移る前の、少女の身体はどうなった?

 電話口の母親らしき女は、娘は死んだ、と叫んだ。


 死んだ? 入れ替わったから?


 彼の話を信じるならば、彼と暮らしていた両親はどうなったのだろう。彼が消えたことで彼のまわりの変化は修正され、別れずにいた両親も存在しなくなった——?


 世界が元通りになって、俺は少女を亡くした母親に電話をかけてしまったのか。

 もしくは適応できない心身を抱え、思い詰めた青年の妄想に付き合わされただけだったのか。


 あの日からひとつだけ、変化があった。

 見えるようになってしまったのだ。自分にも、人の感情が。


 明るい感情と暗い感情。良い感情は回りを明るく照らして、いつしか消えていく。

 悪い感情は突き詰めてはいけない、と彼の祖母が言った理由が今なら分かる。


 あれは足もとから広がり、澱んでいく。心の片隅に集まって、縒り合わさって一本の境界線を生む。


 それは、生と死のはざま。心と体をわかつ、境界線と化す。

 人生は喜びよりも不遇の連続だから、時に暗闇を見つめたくなることもある。


 見えるようになれば、いつか生み出した者を飲み込む。彼もそうだったんだろうと思う。


 彼は消えた。再び、消えてしまった。


 自分の足もとを凝視する。蠢きうねり、絡まる黒い鱗の紐が現れ、触れてほしいと誘惑する。


 彼はどこへ行ったのだろう。

 疑問の答えは境界線を示す、注連しめを越えた先にある。

 




                <了>











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注連(しめ)を解く 内田ユライ @yurai_uchida

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