3


「え……?」

「気づいたら、真っ暗闇でした。目を凝らしてもなにも見えない」


 身動きができない。


 狭い空間でなにかに締め付けられている。苦しいのに、高揚感があった。これでいい、このままでいれば── 


「死んでしまう。それでもいい。そう思ったら目の前に、ふいに何かが見えました。暗くて小さな穴を覗き込んだかのように、目が合った。人の目でした。お互いがすこしずつ離れていくうちに、相手の顔が判別できたんです。見覚えのある女の子でした」


 ゆっくりと言い切って、大きく息をついた。


 遠ざかっていく、少女の顔は──

「あれは、僕──いえ、わたしの顔だったんです」


 なにを言われたのか、理解に時間がかかった。まさに、鳩が豆鉄砲を食う、ということわざを体現していたと思う。


「な……っ、なに、を言ってるんだ?」


 ちょっと待て、かつがれたのか。これは悪ふざけなのか。

 笑うに笑えなかった。


「気がついたら、自分の部屋で寝てたんです。でも、何かが違う。明らかに変わってしまっていた」

「ちょっと……待ってくれ、それって」


「ええ、入れ替わったんです。どこかの世界の誰かと。たぶん、同姓同名の」


 女から、男へ。

 彼は、清々しく笑って言った。


「男の身体となってわかったのは女の、……少女の身はどれほど危険にさらされているのかということでした。狙われる、弱い獲物ではなくなって、とても安全になったから」


 それでも、男同士の競争は熾烈でしたが、と笑う。


「この身体、頭は悪くなかったから助かりました。両親も喜んでくれましたよ」

「両親……? 離婚したんじゃなかったのか」


「なぜか、別れてないんですよ。すこぶる仲がいいとは言えませんが」


 ふふ、と含んだ笑いで応じる。

「我が子が男だったから、この世界の両親は別れずにすんだのかもしれませんね」


 でも、と続ける。

「なかなか都合良くはいかないんです。今度は自分に嘘がつけなくて困りました。取りつくろっていけると思ったんですけど、身体が変わっても中身は、心は変わらない」


 彼は右の手のひらを胸の中央に置いて、視線を落とした。


「わたしの心は異性が好きでも、男の身体だから同性愛になってしまうんです。ずっと隠していましたが、ついに両親にばれてしまって……家に居づらくなってしまって」

「それで、なるべく家にいたくないから深夜や早朝のアルバイトを?」


 ええ、と青年はうなずいた。

「こんなことを他人に話したのは、はじめてです」


「親御さんには、理解してもらえないのか?」


 彼はこちらに目を向けた。澄んだ目には透明な感情があった。


「いいんです、もうあきらめました」

「え……、それはどういう……?」


 言葉の意図を問おうとしたが、彼は答えなかった。

 唐突に透明な壁が現出して、あいだを冷たくへだてたかに感じた。


 それきり彼は、あたりさわりのない接しかたに終始した。近づいたかと思った親密さは、遠く去ってしまっていた。


 話を切り上げて会計を済ませ、退店する。店の外で、青年は礼儀正しく飲み代の礼を告げてきた。 


「どうして、僕を誘ってくれたんですか」

「どうしてって……」


 彼の顔へと視線を向ける。

 白く、闇に浮かび上がる顔。どことなく定まらない、中性的な雰囲気をまとう。


 他者と違う違和感が、俗っぽい明かりを放つ夜の街から浮かび上がって見える。ぼんやりと考える。どうして、か。


「別れた女房と暮らしてる息子が、きみと同じくらいの歳だったから、かな」

「そう、ですか」


 まっすぐに向けられた視線が、ふっと緩む。


「僕は、あなたが好きでしたよ」


 やわらかに微笑む表情で、彼が打ち明ける。


「前の場所で暮らしてたときに、別れて会えなくなった父みたいで」



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