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 それは、黒い小さな固まりが次々と、ぼろぼろとこぼれるようにあふれ出てくるんです、と青年は口にした。


「母が心の底から謝ってくれたあともずっと、あれは母から生まれ続けました。でも、母は気づいていないんです。他者には見えないうじが内側から湧いたみたいでした。母の気持ちが死んだから、腐って崩れてこぼれだした。こぼれたぶん、母のなかみが減ってしまうようだった」


 こちらへ向けられた目線を落とす。


「祖母は悪いものを見続けて、考え続けてつきつめてしまうと、ろくなことにならないよ、と言っていました。でも──」


 居酒屋の床を見ている。板の間から暗がりへと視線を走らせるので、つられて同じ方向へと目を向けた。

 なにもない。隣席の客の足もとには、ふつうの影が落ちているだけだった。


「誰も気づかないけど、母は酷い有様だった。あれらはうねって這いつくばりながら、部屋の隅でひとつになって大きく育っていくんです。人は……平静を装っていても、表面上は朗らかに笑っていたとしても、心のなかまではわからない」


 怖かったです、と苦しげに吐露した。


「母の態度や言動は、無言で僕を責め立てるものでした。僕が我慢すればよかった。そうすれば、母はあんなふうにはならなかった。だから僕は自分を責めて、責め続けてわかってしまったんです。母は自分のことばかりだ。自分の幸せを一番に考えてる」


「それは──」

 言葉にしてはいけない。なのに青年は、揺るぎない推測にたどりついてしまっていた。


「最初から、僕はいらなかったんだ」


「違う!」

 大声で否定していた。


「そんなわけがないだろう、働く間にひとりで留守番させるのが心配とか、寂しくないようにとか、親心があっただけだよ。そもそも要らないなら、我が子を引き取ったりしないだろ?」


「嫌がらせ、だったんです」

 迷いなく断じ、悟りきった笑みを浮かべる。


「母は、父が欲しがるものを最後まで渡したくなかっただけなんですよ。だから離婚後は我が子の顔を見なくてすむように祖母に預けたし、引き取らざるを得なくなった後は、躊躇ちゅうちょなく新しい男をつかまえるために利用した」


 男児への性的な興味を持つ男に、母親が惚れるとは思いがたい。そこまで疑うのかと胸が痛んだ。


「子を要らないと考えている親と、一緒に暮らせますか」


 青年は淡々と語り続ける。


「耐えられませんでした。許せなくて、気がついたら、自分の足もとからも、たくさん湧いてたんです。黒い蛆虫がうねって、踏み場がないほどだったんです。もう一歩も動けない。これが自分の現実だと思い知りました」

「……」


 喉が固まってしまっていた。

 どんな慰めの言葉をかけようとも、疑いを抱いた相手を許せなければ相手の心には届かない。


注連しめ縄ってわかりますか」


 唐突に話が飛んで、要点を見失う。思わず訊き返していた。


「しめなわ? 神社にかけられている縄のことかい?」

「ええ、そうです。あれは境界線なんです」


「境界線……?」

「内と外、神域と外界、聖域とそうでない場所を区別する線引きです。たとえば人の魂は身体に宿っていて、守られている。そこから人の目に見えないものが出ていて、明るい光や暗い影が放出され続けている。これは、つまり──」


 だめだ、と思った。そんな妄想に取りつかれてしまったら、まともではいられない。


「身体から出た黒い感情が寄り集まって、暗く細い線になる。これってどういうことかと考えたんです」


「それはつまり……感情を作り出す心と、それを収める器である身体、互いをつなぎ止めている境界線だとでも言いたいのか」


 疑いつつも、要旨を口にする。

 同意を得たと思ったらしく、青年は満面の笑みを浮かべた。


「そうです。身体から湧いて出たんだ。なにか意味がある。だから絡まった紐を解いてみたくなったんです」

「そんなことができるはずがない」


「もしかしたらどこか未知の、向こう側へ行けるかもしれない。きっと、解放される」

「そんなわけがないだろう」

「当然、そう思いますよね」


 あれは、部屋の隅に集まると絡み合い、どんどんくっついて、り合わさって紐みたいになっていくんです、と語る。


「表面が、固い鱗みたいに見えるんです」


 手に取ったしぐさで、両手を凝視している。


「黒いんですけど内側から多色性の光を放っていて、流れる水面のように、きらきらと明滅しながら回転していくんです。表にある面は中へ中へと潜り込む。まるで何匹もの大きな蛇が締めつけ合い、密に絡み合うかのように。継ぎ目のない結び目のように、内側へと永遠に飲み込まれていくんです。すごくきれいだった」


 話しながらも、どこか焦点の合わない目で陶然とした表情になる。


「ながめていると……気分が落ち着いて、このまま消えてしまえるような……嫌なことはなにも考えずに、苦しまずにこの世からいなくなってしまえる気がして」


 続きは口にせずとも伝わる。

──そうであれば、どんなに幸せなことか。

 否定できずに、身の毛がよだつ。


 だから確かめてみたんです、と彼は言った。

「紐は、こう固まって──」


 赤ん坊の頭くらいの球を、両手のひらで受ける手つきをして、回転させて上下を裏返す。


「──外側が内部へと、とめどなく巻き込まれていくんです。ほどこうと指先を這わせたら、手がそのまま飲まれた」


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