注連(しめ)を解く
内田ユライ
1
職場には、学生のアルバイトが何人かいた。シフトの関係で、その一人と深夜や早朝に顔を合わせるようになった。
青年は、永田
先月に
それならば、と誘ってみれば、是非、と感じよく応じるものだから、飲みに行くことになった。
彼は、血色がよくなるていどで酔いが表に出ない。やがて緊張が緩んだのか、だいぶ打ち解けたように感じた。
大学も忙しいだろうに、よく深夜や早朝のバイトが続くものだと感心してみせたら、彼は親と顔を合わせたくないのだと漏らした。
「僕の両親は、幼いころに離婚したんです」
そうか、と応じると、彼はふだんどおりの笑顔を見せた。
「母に引き取られたんですが、しばらく祖母のもとで暮らしてました」
聞けば、祖母も離婚しており、姉妹を女手ひとりで育てた。離婚の理由は、祖母は相手からの暴力、彼の母親は相手の浮気だったそうだ。
「祖母はすこし変わったところがありました。人の感情を読めるようでした」
「感情……? つまり、空気を読む、みたいな?」
「いえ、文字通り、感情そのものなんです。気分がいいときの感情は、頭から明るく波状に広がる。反対に悪い考え、負の感情は、足もとから四方へ散る、そう言ってました」
へえ、と相づちを打ちながらも、奇妙な話だと考えていた。
「明るい感情は個人から広がって周囲を照らし、影響を与えつつすぐに消えてしまう。けれども
うさんくささに、困惑をおぼえた。
目の前の青年は微笑んで話し続ける。
「小三になってすぐに、祖母は亡くなりました。なので、また母と暮らすことになりました」
知ってますか、と真顔で問われた。
「意外にも、子持ちの離婚女性はもてるそうなんです」
「ああ、……それは知ってる」
良くない意味で。SNSでも話題になった。だがそれは、連れ子の性別が女児であった場合だった。
「母の恋人は、頻繁に家に出入りするようになりました。すごく嫌だった。そいつは合鍵を持っていたので、わざと母がいない時間に来るんです」
表情を見れば、察するに足る。作り笑顔を浮かべ、なのに目は笑っておらず、感情を抑えて淡々と語る。
ひどく残酷な環境で育つ者は存在する。妄想とか、作り話などではない。腹の底に泥が詰まったようで、酒の味がしなくなった。
「子どもながらに考えて、できるかぎり外で過ごすようにしました。でも探しに来るんです。人の目があるかぎりは手を出してこない。だけど誰もいない場所では、従わないと怒鳴られる。まるで人が変わったように」
「だれかに伝えた?」
無言で首を振るのを見て、愚問だと思い知った。弱い立場の者が、だれにでも話せる安心な世のなかであれば、被害者など生まれない。
「もう、それはいいんです。そいつ、死んだから」
「──え」
「酷いんですよ。そいつ、ほかにも手を出してたんです。別の子どもに
咎める口調に、気圧される。両目がこちらを向く。興奮のあまりに、瞳孔が開いている。
「家にいる連れ子が思うように触らせてくれなかったから、我慢できなかったって自白したんですって」
ふと下を向いたと思ったら、肩が震えている。感情が抑えきれなくなって泣き出したのかと思った。
なだめようとしたら、含み笑いが漏れ聞こえてきたので驚いた。
「馬鹿ですよねぇ、そんなことを大人が言うなんて、当時の子ども心にも信じられないですって」
ひとしきり声を立てて
「で、死んだんですよね、そいつ」
そこまで言って、口をつぐむ。嫌な気配に背筋が冷える。
「死んだって、どうして……?」
「電車に飛び込んだんですよ。自殺です。単に警察に捕まった自分が無様すぎて、許せなくなったんじゃないでしょうか。つくづく迷惑な奴ですよね」
でもね、と小さくため息をつく。
「死ねば終わりなんて、ずいぶんと安易だと思いませんか」
黙るしかなかった。不足な言葉を言い連ねても意味がない。
「いいんです。そんなことはどうでも。まだ先があるんですから」
「……なにがあったんだ」
「母が嘆くんです。あんな、どうしようもない奴なのに──」
言葉が詰まった。目を閉じて息を吸い、吐いて目を開く。
こう言われました、と語り出す。
「おまえが我慢すれば、こんなことにならなかったんじゃないかって」
「そんな! ありえないだろ」
反射で声が出た。偽らざる気持ちだった。
「誰がどう言おうが、きみには非はない。絶対にね」
青年は、ふっと表情を緩めた。目を見張るほどに
「ありがとうございます。嬉しいです。母もね、次の瞬間には我に返って、泣きながら謝ってくれたんです。何度も何度も。親でも人だから、魔が差すこともあるかもしれない。許そうと思ってました」
彼は、ゆっくりと頭を振った。
「いや、そんなことをしなくても許せると思ってた。結婚しようと思ってた相手が死んで、混乱してただけだって」
でも、と続ける。
「見てしまったんです」
「なにを……?」
「母の足もとから、良くないものが広がるのが」
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