注連(しめ)を解く

内田ユライ

 1


 職場には、学生のアルバイトが何人かいた。シフトの関係で、その一人と深夜や早朝に顔を合わせるようになった。


 青年は、永田響生ひびきと名乗った。大学二年生だという。

 先月に二十歳はたちになったばかりだと聞いた。本人の弁では友人が少なくて、いまだに居酒屋に行ったことがないらしい。


 それならば、と誘ってみれば、是非、と感じよく応じるものだから、飲みに行くことになった。

 彼は、血色がよくなるていどで酔いが表に出ない。やがて緊張が緩んだのか、だいぶ打ち解けたように感じた。


 大学も忙しいだろうに、よく深夜や早朝のバイトが続くものだと感心してみせたら、彼は親と顔を合わせたくないのだと漏らした。


「僕の両親は、幼いころに離婚したんです」

 そうか、と応じると、彼はふだんどおりの笑顔を見せた。


「母に引き取られたんですが、しばらく祖母のもとで暮らしてました」


 聞けば、祖母も離婚しており、姉妹を女手ひとりで育てた。離婚の理由は、祖母は相手からの暴力、彼の母親は相手の浮気だったそうだ。


「祖母はすこし変わったところがありました。人の感情を読めるようでした」


「感情……? つまり、空気を読む、みたいな?」

「いえ、文字通り、感情そのものなんです。気分がいいときの感情は、頭から明るく波状に広がる。反対に悪い考え、負の感情は、足もとから四方へ散る、そう言ってました」


 へえ、と相づちを打ちながらも、奇妙な話だと考えていた。


「明るい感情は個人から広がって周囲を照らし、影響を与えつつすぐに消えてしまう。けれどもあく感情はそうではないんです。祖母から言い含められてきました。あれは澱んで寄り集まるから、決して凝視してはいけない、と」


 うさんくささに、困惑をおぼえた。

 目の前の青年は微笑んで話し続ける。


「小三になってすぐに、祖母は亡くなりました。なので、また母と暮らすことになりました」


 知ってますか、と真顔で問われた。

「意外にも、子持ちの離婚女性はもてるそうなんです」


「ああ、……それは知ってる」

 良くない意味で。SNSでも話題になった。だがそれは、連れ子の性別が女児であった場合だった。


「母の恋人は、頻繁に家に出入りするようになりました。すごく嫌だった。そいつは合鍵を持っていたので、わざと母がいない時間に来るんです」


 表情を見れば、察するに足る。作り笑顔を浮かべ、なのに目は笑っておらず、感情を抑えて淡々と語る。


 ひどく残酷な環境で育つ者は存在する。妄想とか、作り話などではない。腹の底に泥が詰まったようで、酒の味がしなくなった。


「子どもながらに考えて、できるかぎり外で過ごすようにしました。でも探しに来るんです。人の目があるかぎりは手を出してこない。だけど誰もいない場所では、従わないと怒鳴られる。まるで人が変わったように」

「だれかに伝えた?」


 無言で首を振るのを見て、愚問だと思い知った。弱い立場の者が、だれにでも話せる安心な世のなかであれば、被害者など生まれない。


「もう、それはいいんです。そいつ、死んだから」

「──え」


「酷いんですよ。そいつ、ほかにも手を出してたんです。別の子どもに悪戯いたずらして、捕まったんですよ。悪戯っていうけど、まぎれもない性犯罪ですから。こともあろうに、あいつ警察の取り調べでなんて弁明したと思います?」


 咎める口調に、気圧される。両目がこちらを向く。興奮のあまりに、瞳孔が開いている。


「家にいる連れ子が思うように触らせてくれなかったから、我慢できなかったって自白したんですって」


 ふと下を向いたと思ったら、肩が震えている。感情が抑えきれなくなって泣き出したのかと思った。

 なだめようとしたら、含み笑いが漏れ聞こえてきたので驚いた。


「馬鹿ですよねぇ、そんなことを大人が言うなんて、当時の子ども心にも信じられないですって」


 ひとしきり声を立ててたのしげに笑い、目尻を拭くと大きく息を継いで吐いた。すうっと真顔になって、続ける。


「で、死んだんですよね、そいつ」


 そこまで言って、口をつぐむ。嫌な気配に背筋が冷える。


「死んだって、どうして……?」

「電車に飛び込んだんですよ。自殺です。単に警察に捕まった自分が無様すぎて、許せなくなったんじゃないでしょうか。つくづく迷惑な奴ですよね」


 でもね、と小さくため息をつく。


「死ねば終わりなんて、ずいぶんと安易だと思いませんか」


 黙るしかなかった。不足な言葉を言い連ねても意味がない。


「いいんです。そんなことはどうでも。まだ先があるんですから」

「……なにがあったんだ」



「母が嘆くんです。あんな、どうしようもない奴なのに──」


 言葉が詰まった。目を閉じて息を吸い、吐いて目を開く。


 こう言われました、と語り出す。

「おまえが我慢すれば、こんなことにならなかったんじゃないかって」


「そんな! ありえないだろ」

 反射で声が出た。偽らざる気持ちだった。

「誰がどう言おうが、きみには非はない。絶対にね」


 青年は、ふっと表情を緩めた。目を見張るほどにやわらいだ笑顔でこう答えた。


「ありがとうございます。嬉しいです。母もね、次の瞬間には我に返って、泣きながら謝ってくれたんです。何度も何度も。親でも人だから、魔が差すこともあるかもしれない。許そうと思ってました」


 彼は、ゆっくりと頭を振った。

「いや、そんなことをしなくても許せると思ってた。結婚しようと思ってた相手が死んで、混乱してただけだって」


 でも、と続ける。


「見てしまったんです」

「なにを……?」

「母の足もとから、良くないものが広がるのが」



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る