龍屠

三色

エピソード1

私は龍を殺した。





私が贄としてこの龍に差し出されたのは15の時だ。

初めて会った時、龍は精一杯屈んで私の事を見た。その眼球はツヤツヤと光り私の両腕を開いたよりも大きかった。体が浮くような大風が当たると思えばそれは龍の吐息であるらしかった。そうして、龍は、何の気なしに鼻先で私を押して、私は背後の崖から落ちた。




生きていた。


何とか首だけを傾けて沢の水を啜り、かろうじて動く左手を伸ばして掴んだ蔓を食べた。

そのまま意識を落として眠り、また、目覚めた。

足が動く。手は片方だけ動く。

沢の水は潤沢で、掴んだ蔓のその先には馬酔木が生っていた。

季節は秋であった。

秋は良い。山には何もかもが揃っている。

ふわふわした落ち葉の布団で眠り気ままに実りを食した。

足は動く。手も、それなりに動く。

そうして山に木枯らしが吹いたその日、私は龍の元へ戻った。

秋晴れの太陽と澄み切った夜空の月の満ち欠けを見ていたから村への帰り道はわかっていたけれど、私は贄だったので。

父はわからない。母ももういない。村に義理があるでもないが、そのために育てられた私はそうするべきだと思ったのだった。


龍は相変わらず大きかった。大き過ぎて全身は見えない。

でもその大きな体が納まる洞穴は深くて冬の寒さを寄せ付けはしなかった。

龍はじっとこちらを見ていた。

見られている事など気にも止めずに私はせっせと枯葉を運び、薪を集め、実りを吊るし、魚を干した。なんせもうすぐそこまで厳しい冬が来ている。

幸いな事に初めての時以来龍は鼻先で私を押すことは無かったので、崖から落ちずに冬を迎えることが出来た。

冬、龍は眠っていた。私も、多く眠った。雪は洞穴の奥まで入り込みはせず、時折ゴオゴオと寝息を洩らす龍以外は静かなものだった。

春、目覚めた龍は心做しか少し小さくなった。目玉がぎょろりと暗闇で動いたけれど、どうもそれは私の片手分くらいの大きさであるようだった。

春の山は美しい。そして豊かな恵みをもたらした。

龍がのそりと起き上がり洞穴から出ていく。私は初めてその全長を知った。なるだけ洞穴の壁にへばりついていたのだが胴体をくねらせて這い出ていくその鱗と岩壁に挟まれて全身がミシミシと音を立てた。頭を庇っていた腕は摩擦で皮がべろりと剥がれてしまっていた。

龍は崖から飛び立ちしばらく帰ってこなかった。

剥がれ落ちた皮を焼いて、たくさんのヨモギを貼れば何とか腕は機能したけれど、肌は爛れたように引き攣ったままになった。胸の下あたりが窪んで戻らなくなり背中が横に少し曲がったけれど、ひょこひょこと洞穴周辺を移動するくらいは問題がなかった。村まで帰るのはもう無理だろう。

龍が帰ってくると同時に降り出した雨はひと月止まなかったが、空が晴れると同時に暑い夏が来た。

雨の間洞穴に潜っていた龍は、しかし冬と違って眠っている気配はなかったので私は気まぐれに話をした。

といっても、龍の返事などない。ただ一方的に私が口を動かすだけだ。

大きく育った岩魚が蔓で編んだ籠罠に掛かったこと。乾燥させた山菜を煮溶かした汁のうまいこと。齧るとしょっぱい虎杖の食感。

ふと食べる事ばかりだなとおかしくなって、次は洞穴の話をした。

冬が暖かく過ごせたので助かったこと。きっと夏は涼しいのだろうという予想。少し狭いのでここを出ていく龍の身体に押し潰されてしまうのだと非難めいた事を言ったのが駄目だったと知るのは暫くしてから。

その話をして以来、龍は一度も外へ出ようとしなかった。

私の村からは夏によく空を泳ぐように翔ける龍が見えていたものだけれど、この年は一度も外には出ないのかと不思議に思っていた。

段々と沢の水量は減り、少し足を伸ばして湧水のある奥まで行かなければ水が手に入らなくなってきた。

雨が、降らないのだ。

日は燦々と降り注ぎ木立の隙間から濃い夏の気配を届けてくるけれど。

一滴も雨は降っていない。

そんなカンカン照りがふた月。み月目に、その子はやって来た。

龍と私が気配に振り返れば、洞穴の入口には7つばかりの幼子が震えて立っていた。

真っ赤な上等のべべを着て美しく髪を結い上げていたから、私は最初気付かなかった。

よくよく顔を見れば村外れで乞食をしていたあの子である。

子供は雨を乞うた。

龍の目がぎろりと動いて、のっそりと起き上がる気配がした。

私も驚きながら近付こうとした。

その子はもう一度、雨を乞うた。

がくがくと膝を震えさせ、よく見れば小便を漏らしているらしい。つんとした匂いがした。

龍の鼻息がぶおっと風を起こし、私が初めてここへ来た日と同じ、事が、起こる。

三度目の雨を乞う声は、崖下へと吸い込まれて行った。

私は慌てて崖下へ降りたのだけれど、その子の体はあちこちあらぬ方向へと曲がっていた。

私の背も曲がっている。

とうてい上まで運んでやる事は出来そうにない。

沢の石をできる限り集めて積んで、手を合わせた。

龍は崖上からそれを見ていたけれど、日が暮れて私が洞穴に戻ると同時に空へと飛び立ってぐるりと回った。

ぽつりぽつり。雨が降った。

さあ、今度は、雨は止まなくなった。

夏の始まりのしとしとと降る雨ではなかった。荒れ狂い雷を落とし、何日も何日も何日も雨が降った。

崖下の沢は轟々と渦を巻いて濁流がうねる。きっとあの子はどこまでも流れて行っただろう。きっと麓の村は水の底だろう。

でも、龍を止める気にはなれなかった。

雨を乞う言葉だけを与えられて、あの子はここへ来たのだから。

雨のせいで秋の実りは収穫が少なく冬はひもじい思いをしたが、雨が雪に変わる頃には龍は落ち着いて洞穴でまたうつらうつらと眠っていたし、その体はまたひと回り小さくなったようだった。これならもう龍の体と洞穴の壁に挟まれて私が押し潰される心配も無さそうだ。

龍はまた気ままに出入りするようになった。

春は凄かった。洪水が肥沃な土を運び、草花はいっせいに芽吹いてその生命を萌やした。

恩恵を受けて私も腹いっぱい食べた。

そうして、何年も。何十年も、経った。

龍は、ついに私と大きさが変わらないくらいに小さくなって、そしてゆっくりと私の髪を梳く。

「どうしてこんなに綺麗なんだ」

五指が絡めとる髪は、15の私が持っていた黒くて艶々したものでは無い。

真っ白になったその一本一本を丁寧に丁寧に梳くその手付きは中々気持ちの良いものだった。

「人間は歳を取るとそうなるのよ」

寝そべりながら私は言った。

「そうか、では僕もそうならねば」

「あら、あなたはもう、真っ白よ」

しわくちゃで体も曲がって、もうまともに手足が動かない私を見下ろす龍も、同じように白髪頭のしわくちゃで、同じ鼓動の速さをしている。

龍は、ぱちくりとこれだけはずっと変わらない目を瞬かせて、くしゃくしゃと笑った。

「同じなら、それがいい」

そうしてゆっくりと私の隣に寝そべって、目を閉じた。

シワシワの手が重なって、そうして、ゆっくりゆっくりと温度を下げていった。

「最後まで、不器用な人」

龍はもう龍ではなくなってしまったけれど。

私はそれがいいと思って、そうして同じように、目を閉じた。


END

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

龍屠 三色 @kyarico

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る