魚泥棒

酒呑み

魚泥棒

 決して裕福な家庭ではなかった。

 父は母を殴ったし、家にはろくに金を入れなかった。

 母は働きに出ねばならず、兄妹が学校から帰っても、食べる物は何もなかった。

「お兄ちゃん、お腹空いた」

 妹は縋るようにあきらを見上げる。小学生の兄は、小遣いを貰っていなかった。

 食べ物を買いに行くことはできない。

 煤けた畳の上の、空っぽのちゃぶ台を見つめる。

 同級生の母親は、おやつを用意しながら息子の帰りを待っていてくれるのだという。

「よし」

 明は頷くと、小さな妹の手を握り返して、大きな声で言った。

「兄ちゃんが、何とかしてやる」

 用意するものは、3つ。

 軍手と釣り糸、そして釣り針だ。

「お前はここで待ってろ」

 簡単な道具を、半ズボンのポケットにねじ込む。

 妹をあばら家に残し、明は走った。

 明の家は、静岡の山深くにあった。

 木々の間をくぐり抜け、蒸し暑く青臭い藪をくぐり抜け。

 背をかがめて、走る。

 走る。

 走る。

 目的の場所には、すぐに着いた。

 大丈夫だ。

 立ち止まって、深呼吸をひとつ。

 体中から草と汗の匂いがする。ランニングシャツが肌に貼り付いている。

 誰にも見られていない。

 緊張する必要は無い、この時間に誰もいないことはわかっているし、今までだって、何度もやってきている。

 軍手をはめて、腹ばいになった。

 こうすると、明の体は草の中に隠れてしまう。

 草に囲まれた、背の高いフェンス。

 下の方に、子どもがくぐり抜けられる程度の破れ目があった。

 四つん這いでくぐりながら、地面を探る。バッタかコオロギ、芋虫やミミズでも良い。掴んだ生き物を、道具の入っていない方のポケットに仕舞った。

 フェンスを完全に抜けて、立ち上がる。

 草がぼうぼうに生えた広場には、大きな円柱状の水槽がいくつもあった。

 魚の生簀いけすだ。

 山をもっと下った先に、キャンプ場がある。

 客に釣りを楽しんでもらう為に、キャンプ場の川には魚が放してあった。

 この生簀で飼われているのは、それ用の魚だ。

 目当ての獲物は、決まっている。

 明は迷いなく1つの生簀に近付くと、縁に手を掛けて、勢いを付けて飛び上がった。

 生簀の縁が濡れている。

 おっと、危ない。

 勢い余って滑りそうになるのを、どうにかこらえて縁に腰をかける。

 これは、ニジマスの生簀だ。

 澄んだ円柱状の池の中で、見慣れた魚達が優雅に泳ぎ回っている。時折、赤い腹にお日様の光が反射してきらりと光る。

 ニジマスは愚図な魚だ。

 それに、意地汚い。

 店で買っても、さほど高くはない。 

 その高くはないものさえ買えないのだから、明はここに来ているわけだが、とにかく盗んだことがわかっても余り叱られないような魚を選ぶことにしている。

 イワナは駄目。

 あいつらは素早い。

 キャンプ場の川でも、釣り上げるのは難しい。それに、盗んだと知れたら、明だけでなく母親までもが叱られるような気がする。

 釣り糸を結んた釣り針に、ポケットに入れていたコオロギを突き刺した。 

 軍手をはめた手で釣り糸を掴み、コオロギの刺さった釣り針を静かに生簀に沈める。

 ゆらり。

 赤い腹の魚影が、音も無く揺れた。

 ごくり。

 明の喉が鳴る。

 早く来い。

 早く、早く…。

 ぱしゃん。

 水面に輪ができた。

 赤い腹の魚が、針から逃れようと身をくねらせている。

 来た! 

 明は釣り糸をしっかり掴んで、少しずつ手繰り寄せた。

 ここで焦っては、全て水の泡だ。

 はやる気持ちを抑えながら、少しずつ。

 釣り糸がぐいと引っ張られる。

 引っ張り返すと、ニジマスの顔が水面から突き出た。

 ばしゃん、ばしゃん、ばしゃり。

 ニジマスが暴れる。

 尾が激しく水面を打つ。

 こいつは、大きいぞ。

 針が外れることを恐れながら、外れないことを祈りながら。

 ゆっくり、ゆっくりとニジマスの糸を手繰る。

 水面から完全に引き上げられたニジマスは、2、3度パタパタと尾を振って水滴を落とすと。

 観念したように、少年の手の中に収まった。

 うまく行った!

 ニジマスをしっかり抱えたまま、明は少しの間だけ高揚感に酔った。

 口からふぅ、と息が漏れる。

 大きなニジマスだ。

 でも。

 明は、名残惜しそうに生簀を見下ろす。

 2人で食べるのだ。

 できたら、もう1匹…。

 いや。

 首を振って、空腹から出た欲を追い払う。

 余計な欲はかかない。

 うまくいく秘訣は、そこにある。

 生簀の縁から飛び降りた。

 茂った草と柔らかい土のお陰で、音はほとんどしなかった。

 ぐねぐねと動くニジマスを右手で胸に押し付け、左手で草を掻き分けながら、四つん這いでフェンスをくぐる。

 ここまで来れば、もう大丈夫。

 しっかりと獲物を抱え、来た道を。

 走る。

 走る。

 走る。

 おんぼろの家で、妹が待っている。

「とってきたぞ!」

 畳にぺたんと座った幼い妹は、兄の土産を見るなり顔をほころばせた。

「すぐに食べさせてやるからな」

 包丁の扱いには慣れている。

 何度もやるうちに、慣れてしまった。

 まな板の上で、弱り果てて呼吸するニジマスの頭を切り落とす。

 明と妹にとって、最早これは生き物ではない。 

 食べ物だ。

 腹を割き、はらわたを取り出す。

 捌いたニジマスに塩をすり込み、ガスコンロ下の、引き出しのような魚焼き器に放り込む。

「お兄ちゃん、まだ?」

「まだだよ」

 焼き魚の香りが漂う。

 魚焼き器を引き出してみると、ニジマスの皮が焦げて、ジュウジュウと脂が滴っている。

 まな板の上で、明は焼き魚を2つに切った。

 大きいのは妹。

 小さいのは自分。

「いただきます」

 おぼつかない手つきで箸を持って、妹はニジマスの肉をふうふう吹きながら頬張った。

 やつれた頬に赤みが差す。

「美味しい」

 満面の笑みを見て、兄は少しの間、自分の罪を忘れた。

 盗みが悪いことだとは知っている。

 でも、腹が減るのだから仕方がないじゃないか。

 他にどうしようもないのだから、仕方がないじゃないか。


 明が12の時、母は父だった男を捨てた。

 それから大分たって、新しい父を紹介された。

 これからは、この人を本当の父だと思うことにしよう。

 前の父の荒んだ目とは比べ物にならないくらいに優しい瞳を見て、兄妹は母に知られぬように頷き合った。

 新しい、本当の父は不自由ないほどの金を稼いでくれたので、母は仕事をやめ、兄妹は腹一杯食べられるようになった。

 魚泥棒は、廃業した。

 今から、40年くらい昔の話である。

 

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魚泥棒 酒呑み @nihonbungaku

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