エピローグ

 違法薬物ドスロイテ。

 接種すると異常な興奮状態を引き起こす。また、この薬物を過剰に摂取すると、常識を超えた身体能力を引き出せるそうだ。

 もちろん、そんな薬物が人体に無害なはずがない。

 副作用として幻覚、記憶障害、成長障害、睡眠障害などが見られる。依存性も極めて高いため、摂取を中断すると強い禁断症状が現れる事もあるらしい。

 ボスが明かした薬物の情報はこれで終わりだ。

「正直に言って、君がこうして無事に帰ってくるとは思っていなかったよ」

 正直、無事とはとても言えない。左腕も折ったし、肋骨もやっぱり折れていた。その他にも全身至る所に傷が残っている。

 おかげで数ヶ月間入院する羽目はめになったし、傷が完治した訳でもない。

「それで、僕はもう辞められるんですよね」

「まぁ、そういう事になるね。でも君のような才能を手放すのはとても勿体もったいない──」

「それでは失礼します。今までお世話になりました」

 それだけ言って事務所を早々に立ち去る。

 ここに来る前に買っておいた消毒用アルコールを、ソファでたぬき寝入ねいりを決め込む毒蛇に投げつける。

 一応のお礼だ。

「さようなら」

 二度と会わない事を、心から願う。

「あぁ、そうだ。一応言っておきますけど、これは注意喚起ですからね」

 いつかのボスのように微笑む。ボスも先輩も、俯いたまま何も言わない。

「既に僕の個人情報は抹消しましたし、ボスが送ってきた刺客も全員消しました。これ以上僕に近づくなら、容赦なくこの会社、潰しますから」

 無論、会社を辞めるなんて事が可能なはずがない。任務を完遂させた後も、入院中も、幾度となくキルコーポレーションの社員が襲ってきた。口封じなのだから当然だろう。

 しかし、僕は生きている。生きて、こうして乗り込んできた。向こうからしてみれば恐怖しかないはずだ。

 口封じを封じさせてもらう。

「それでは本当に、さようなら」

 僕は事務所を出た。

 もう二度とここには来ない。

「……ボス、どうやら一皮むけるどころか大化けしちまったみてぇだぜ。あれじゃ子犬どころかケルベロスだ。飼い主の手を噛んでもまだ頭が残ってやがる」

「あぁ、あれは引き留めるのも無理そうだね」

「とりあえずボス、今日アイツに差し向けた殺し屋の死体、さっさと回収した方が良いんじゃねぇか?」



 事務所を出て、そのままの足で銀行に向かう。バイト用の口座を確認するとしっかり給料が振り込まれていた。

「なんだ、これ……」

 通帳に印刷されていた数字は、見た事が無いほどゼロがいくつも並んでいる。

「一、十、百、千、万……」

 その額、およそ一億円。

 バイトの内容も内容だが、僕がどれだけバイトに時間を費やしていたのかが分かる。少しむなしい。

「さて、それじゃあ行くか」

 残念ながら、まだやらねばならない事は残っている。僕は行かなくてはならない。

 具体的には児童養護施設へと。

「ここか……」

 電車に揺られ数十分。僕は小さな施設の前へとたどり着いた。

 備え付けられていたインターフォンを鳴らし、事前に連絡した偽名を伝えると、案外すんなり通してくれた。

「どうぞ、こちらです」

 女性の案内で入った施設では、数人の子供たちが遊んでいた。幼稚園児から高校生くらいまで、幅広い年代の子供たちが戯れている。

 僕が彼らの視界に入ると、全員がこちらを興味津々で見つめてきた。包帯まみれの知らない男が入ってきたら無理もない。

「ハルちゃん、こちらこの前話した……」

 そう呼ばれた制服姿の少女は、少し驚いたような、しかし何かを期待をしたような顔でこちらに近づいてきた。

「初めまして、四季しき はるです。高校二年生です」

 彼女こそ、フユヒコの言っていた『ハル』であり、彼の妹。

 礼儀正しくお辞儀をする彼女を見て、フユヒコの言っていた『小学生の妹』と、『記憶障害』という言葉が頭の中で入り交じる。

 彼女がまだ幼い頃、フユヒコが組織に薬漬けのバケモノにされ、彼女の元へ帰れなくなった頃、施設に引き取られたそうだ。

 それでも兄の事は朧気おぼろげながらも覚えているらしい。

「兄はいつも私のために働いていました。日に日に疲れていく兄は、それでも私の前では笑顔でした」

 どこか悲しみをたたえた笑顔を浮かべる。きっとフユヒコも同じ笑顔を浮かべたのだろう。

「今でも月に一回、どこかからお金が仕送りされて来るんです。恐らく兄だと思うんですけど、連絡も取れなくて……」

 ここまで彼女を支えておいて、本人の前には一切姿を現さないなんて本当に馬鹿な奴だ。

「私、バイトしてます。奨学金も借りてます。もう兄を頼らなくても生きていけるんです。だから帰ってきてほしいんです。もう、私のせいで辛い思いをしてほしくないんです……」

 きっと彼女は何度も、兄を思い、こうして涙を流したのだろう。

 つくづく損な役回りだと、そう感じる。

「でも、貴方あなたが来てくれた。こんな事は初めてなんです。兄が私に……」

 涙をき、彼女は僕をまっすぐ見つめる。期待の眼差まなざしだ。

 僕は今から、このか弱い期待を、淡い希望を、叩き潰さなければならない。嫌な役割だ。

「期待させて悪いんだが、僕は君を、アイツに会わせるために来た訳じゃない」

「え……?」

 目の前の少女は、僕が今まで出会ってきたどんな人間より小さく見えた。

「アイツ……フユヒコから最期の支援と、伝言だ」

 僕は今までのバイト代全てを施設に寄付した事を伝え、アイツの言葉も伝えた。

「『これで最期だ。どうか幸せに』だそうだ」

 彼女の顔は見れなかった。きっと酷い顔をしている。

 彼女も、僕も。

 絞り出すように彼女は尋ねた。

「兄は……どこにいるんですか……?」

 その質問には答える事が出来ない。それでも、僕は言わなければならない。

「僕がこんな事言える立場じゃないって事は分かってる。でも頼む、アイツを待っててくれないか?」

 僕は兄について、彼女に何も言えない。何も語れない。

 当然だ。僕は彼女の何者でもない。

「アイツは今、君に会うために努力している。アイツが自分自身を許す事が出来たら、きっと君に会いに来る」

 確証なんか無い。全てがデタラメで、全てが僕の妄想。

「だからそれまで、どうか馬鹿な兄貴を待っててくれないか」

 けれど、バイトを辞め、真の意味で自由になるためなら、こうしてか弱い少女に妄想を垂れ流してやる。こうして頭も下げてやる。

「そんなの……勝手だよ……っ!」

 そうだな、アイツに一番聞かせてやりたい台詞せりふだよ。

「ねーねーおじさん! おじさん誰なのー?」

 いつの間にか周囲に子供たちが集まっていた。

「ハルねーちゃん泣かせてるー」

「あやしい! あなた殺し屋さんでしょ!」

「こら! お兄さんに失礼でしょ!」

 流石に子供は鋭い。次のバイトは子供とは極力関わらない仕事がいいな。

「それじゃあ、僕はこれで」

「あの! 本当にありがとうございました!」

「別に、僕はただの友達の頼みを聞いただけだから」

 格好つけ過ぎな気もしたが、これくらい許してほしい。映画の中の殺し屋は、こうやって去るだろう?

「兄に、私の事は心配しないでとお伝えください!」

 背中から聞こえる健気けなげな願いに、僕は右手を挙げて答える。

 恐らくあの娘が兄と再会する事はないだろう。それでいい。アイツとは違う世界で、幸せに生きてほしい。

 これほど穏やかな気持ちになれただけでも、損な役回りを引き受けた甲斐かいがある……という事にしておこう。

「あーそうだ。これはフユヒコとは関係ない、先輩からのアドバイスなんだけど」

「はい?」

 彼女よりも数年早く生まれてきた先輩からのアドバイスだ。

「アルバイト、程々にな」

 やはり僕は殺し屋には向いていない。格好良く去るという事は存外難しいようだ。



 そして、四季 春華との面談から更に数ヶ月後、怪我けがが完治した僕はカフェでバイトをしていた。

 一日の拘束時間が少なく、血生臭くなく、以前のような法外なバイト代も出ない、しかもおしゃれで下宿からも近い、健全なバイト先。

 そこはまさに、僕が求めていた理想の職場だった。

 接客業にはあまり自信が無かったが、先輩方にも恵まれて、絶賛仕事覚え中だ。

 今日もカフェの入口のベルが鳴り、練習中の営業スマイルでお客様に向かう。

「いらっしゃいませー、一名様ですね。お好きな席にどうぞー」

 昼過ぎのカフェ。あまり人がいなかったのもあって、入店した女性は当店自慢のテラス席に座った。

 おしぼりと水を持って、そのテーブルに向かう。

「ご注文はお決まりでしょうか?」

「そうだね、最近ここに入った新人バイトくん……かな」

 聞き覚えのある声だった。

 目の前の女性は、おもむろに付けていたカツラとサングラスを外す。

 忘れもしない、銀色の梟がそこにはいた。

「先輩……」

「楽しそうだね、子犬くん」

 そんな馬鹿な。ありえない。先輩は海外で結婚生活を謳歌おうかしているはず。何でまだ日本に……

「不思議そうな顔だね。いいだろう。君の疑問を解消してあげようじゃないか」

 僕は仕事も忘れ、先輩の話に聞き入ってしまう。心なしか、血生臭い匂いがしてきた気さえする。

「まず『海外で結婚』というのは仕事の話だ。既にタカナシの旦那である資産家は土の中だろうよ。いや、海の中かもしれない。彼は散骨を希望していたからね」

「え、え?」

「そして私がここに来たのは君をスカウトするためだ。君が聞きたいのはこんな所かな?」

 マシンガンのように撃ち込まれる新事実に、僕は蜂の巣にされる。いろいろ衝撃的すぎて、とてもじゃないがただのバイトのカフェ店員には受け止めきれない。

 結婚は仕事? 僕をスカウト? ドッキリか何かか?

「この度キルコーポレーションから独立する事になってね。新しく会社を立ち上げるんだ。そこで君の才能が是非欲しい」

 落ち着け。先輩が現れたのは予定外だったが、似たような状況は予想していたはずだろう。

 混乱した頭でも、ここを切り抜ける策は用意できている。

「すみません先輩、僕はもう殺し屋は辞めたんです」

「君は──」

「ここまでご足労いただいて恐縮ですが、僕は先輩のお力にはなれません。本当に申し訳ありません」

 喋らせるな。まきし立ててこちらのペースに巻き込むんだ。

「その代わりと言っては何ですが、良い人材を紹介しますよ」

「なに?」

 先輩の目がギラリと光る。さながら猛禽類もうきんるいのように。

「実力は僕が保証します。金が必要らしく、金のためなら何でもやってくれますよ」

「へぇ……君がそこまで言うなんて、相当の手練てだれみたいだね」

「えぇ、もちろん!」

 すかさず練習した営業スマイルを発動する。

 このカードを切るのに罪悪感が無い訳ではないが、アイツのためにあそこまでしたんだ。僕のために生贄いけにえになるくらい許容してくれなきゃ困る。

 別にアイツにとっても悪い話じゃない。前職よりは幾分かマシだろう。

「今は病院通いしているんですけど、仕事くらいは出来ますよ」

「その子の名前と連絡先、教えてくれないかな?」

 スマホを取り出し、先輩に差し出す。

 暖かい春の風が僕をでた。

四季しき 冬彦フユヒコっていうんですけど」

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Bite!! / 遠吠 負ヶ犬 作 名古屋市立大学文藝部 @NCUbungei

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