片道切符、終着点まで

恣意

初夏。


夏はまだ始まったばかりだと言うのに、茹だるなんてもんじゃないくらいに酷く暑くて、呼吸をする度に息が詰まりそうだった。

生ぬるい空気が喉から肺へと通り抜けようとするのに、喉につっかえて苦しい。上手く飲み込めないなんて、気体のくせに生意気だ。


照りつける太陽と上がり続ける気温、それらと反比例して落ちていくあたしの歩く速度。吹き出す汗を腕で拭うあたしの横を、ランドセルを背負って走り抜けていく小学生。夏を嬉しそうに迎え入れて、無邪気にはしゃいでいる。

今となっては理解が出来ないその感覚も、確かにあたしは知っていたのに。そんなこと思ったこともないって顔をして、まるで大人にでもなったかのように、つま先立ちでそれらを見つめようとする。


こういう時、あたしはあたし自身のつまらなさを痛いほどに突きつけられてしまう。

でも、これら全てがこの季節を夏たらしめているのだとするならば、この息苦しさも全部、夏のせいだから。

そういうことにしてしまいたいのに。


「あっつ……」


口から勝手に声が漏れる。自分で思っているより、身体は夏という季節に敗北寸前のようであったらしい。

すれ違う人はみんな半袖で、後ろめたいことなんてなにもないみたい。立ち止まっているわけにもいかないから、錘がついたみたいに重たい足をどうにか持ち上げて、前へ前へと進めた。


長い坂を抜けて、ちょうど校門が見えてきたところだろうか。あたしの腕に負担をかけている鞄から、携帯の通知音がした。壁に寄りかかるようにして、携帯を取り出す。


『今日、サボらない?ふたりで。』


絵文字がついていない、たった一行のメッセージ。でも、たったそれだけで、退屈だったあたしの心は、すっかり期待で溢れてしまいそうだ。

サボり。本来悪とされる行為、その響きが酷く甘美に思えてしまって仕方がない。断ろうにも、あたしの指は返信を打ち始めちゃったし。


『どこ向かえばいい?』

『駅。先に着いた方が勝ちね。』


集合場所を確認して、携帯の電源を落とす。

さっきまであんなに暑くて、息苦しかったのに。気温なんて変わっていないはずなのに、遥かに足が軽かった。

学校に向かう人々の間を、あたしだけが逆方向に走り抜ける。ずっと、ずっとつまらなかったはずのすべてが色鮮やかに見えた。見慣れた道を走り抜けて、知らない場所にいるみたいで、万能感に満ち溢れていて。

やっと駅に辿り着いて、荒い息を整えながら登った階段の先に、彼女はいた。

あたしと同じ制服を着ているのに、あたしと違って汗ひとつかいちゃいない。

彼女は、いつだってそう。涼しい顔をして、なんでもないような顔をしているんだ。

「待った?」

あたしが声をかけると、彼女は携帯の画面から視線を上げてあたしを見た。

「さっき来たところ。私の勝ちだね。」

そう言って得意げに笑う彼女は、やけに透き通って見えた。


目を惹く人だなとは、思っていた。

初めて出会ったときから、それは一度だって変わったことがない。

薄い肌、さらさらしてる長い黒髪、すらっとした手足。

容姿から連想する印象より、ずっと奇怪な内面。

接せれば接するほど、惹き込まれていく。そういう魅力を、持っている。

それは、あたしとは似ても似つかない程の。

「ね、どこ行くの。」

「決めてないよ。でも、人いなさそうなとこ!」

目的地を聞いたのに、ふわふわとした回答しか返ってこない。

そのままさっさと改札を通り抜けてしまうから、彼女の少し後ろをついて歩いた。

「ねえ。」

「ん?」

あたしの呼びかけに、彼女が立ち止まって振り返る。

長い前髪がさらりと揺れて、左目にかかった。前髪の下から覗く黒曜石みたいな瞳があたしを映すから、息が詰まりそうになる。

「人いないとこって、どこ。」

「わかんない。何個か乗り継いで終点とか?」

「そんな遠くまで行くの?」

「いいじゃん、どうせ暇だし。」

通勤、通学のピークより、少し遅めの時間。

あたし達のいる下りのホームには、制服やらスーツやら着てる人々が何人かだけ居た。向かい側の上りのホームには、堅苦しい服を着た人がいっぱい。

その人々を横目に見ながら歩いて、一番端っこまで辿り着いてしまった。

「ここ、あんまり人いないね。」

「そうだね。」

そう答える彼女は、あたしの方に目線すら寄越さなかった。

何を考えているのか、いつも分からない。そもそも彼女のことを、なにも知らない。

クラスも違うし、入学式のときにちょっとだけ話しただけ。学校で関わることなんて、なんにもない。友達は誰とか、どこに住んでるのかさえも知らない。唯一交換したLINEの表示名が、本名なのかだって。

「あたしたち、怒られちゃうね。」

「サボっちゃったからね、一緒に怒られよーね。」

そう言って彼女は笑った。彼女の目にあたしは、どう映ってるのだろうか。

そんなこと、聞けるはずもないから、ただずっと、彼女の横顔を盗み見るだけだ。


『まもなく、2番線に電車が参ります。黄色い線の内側まで、下がってお待ちください……』


聞き慣れたアナウンスが流れてから程なくして、ホームに滑り込んでくる電車があった。

端の車両の、端の席。真ん中だって殆ど人はいないのに、こんなところにわざわざ座る人は居ないらしい。

「乗ろっか。」

彼女が言ったのを合図にして、ふたりで同じ車両のシートに腰を下ろした。電車の扉が閉まって、ゆっくりと走り出す。向かい側の窓から見えるホームはどんどん遠ざかっていった。

「学校サボって、こうして遠くまで行くの初めてだ。」

「私も。」

彼女は、窓の向こうを見つめている。少しだけ口角が上がっているようにも見えたし、浮き足立っているようにも見えた。

「なんでさ、学校サボろうと思ったの?」

彼女がこちらを振り向いて、しばらくじっと見つめたあと、目を伏せる。

「わかんない、なんとなく。」

そう言って、困ったように笑う。分からないって顔をしてるくせに、全部分かってるみたいな目をするから、あたしまで分からなくなりそうだ。

「そっちこそ、なんで来たの?」

「わかんないよ。なんか、勢いで来た。」

「なにそれ。」

彼女はまた笑った。窓に映ったあたしは、引き攣った顔をしてた。

春の入学式。友達なんていなくて、居心地が悪くて。でもそこであたし達は出会った。偶然は必然だとどこかで聞いたことがあるけれど、それが本当なら運命みたいだなんて思ったりもして。

でもきっと、あたしたちそんなんじゃないんだ。あたしたちは、お互いのことを多分なにも知らない。

だから、なんで一緒に居てくれるのなんて聞けない。あたしたちは、学校をサボって遠くまで来てしまったけれど、その先どうするとかなんにも決めちゃいない。

ただなんとなく、ここに居るだけだ。


「片道切符なら、よかったね。」


目を伏せたまま笑う彼女は、ちょっとだけ寂しそうに見えた。こんなのはただの日常の延長線で、いつかは忘れてしまう程の記憶。

それでもなんだか、彼女は初めて会ったその日からずっと、あたしの心に住んでいる。


「うん、そうだね。」

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