7 霧宮凪「窮鼠蛇を噛む」

 深い藍色の空に二度目の咆哮が響き渡った。


 普通の人間には聞こえないそれを感じた瞬間、なぎの全身に悪寒が走る。音波が校舎側から扇状に広がり、設置した結界に直撃していた。青白い霊気の火花が散り、半円を描くように爆ぜながら空に消えていく。それはまるで、夏の夜空に咲く打ち上げ花火のようだった。


 凪は思わず目を細めながら結界の状態を確認する。

 結界は大きくたわんではいたものの、どうにか形は保っていた。網目のように低密度になってしまったことが図らずも奏功し、声を適度に通して崩壊は免れたようだ。


 だが、そうして結界を抜けた音は、周囲の浮遊霊たちの元に届いていてしまっていた。


「呼んでもなかなか来ないから本腰をいれてきたな!」


 一回目は結界がほとんど防いだこともあり、現れたのは三体程度だった。けれど、今度は叫び声が抜けた方角から数十体以上の接近を感じた。


 この霊力は、とても裁巳たつみから聞いていた『弱小の霊』のものではない。


 今の咆哮で呪いも本格的に活性化したようで、周囲の空気も昼間とは一変している。学校の高い塀の奥からは強い霊力が感じられ、校内に霊感が強い人間がいたら当てられてしまいそうだった。【澱攫おりさらい】の基準で言えば、トップクラスの専門家が対処に当たるような事案だろう。


「裁巳さん、大丈夫かな……」


 降霊会に参加している裁巳は、今この咆哮のど真ん中にいる。凪も彼女ならば平気だとは分かってはいたが、それでも心配は心配だった。

 と、


「タツミならこのくらい何ともないんじゃない?」


「うわっ!」


 突然子どもの声に、凪の心臓は大きく跳ね上がる。

 それはジャケットの胸ポケットからだった。見れば、何と蛇の目が蠢く小さな傘の頭が覗いていた。


「じゃ、じゃのめぼうず! どうしてここに!」


 声を押し殺しつつも叫ぶ。

 もちろん、凪が自分で持ってきたわけではない。裁巳が無理やり押し付けてきた小さな青い傘だが、凪としては見たくもない代物だ。触れることもなく、車のダッシュボードの上に放置してきたはずだった。けれど、それがどういうわけだか今は凪の胸元にある。


「別におどろくことないでしょ。タツミが与えて、ナギお姉ちゃんがリョウショウした。だから、ボクがここにあるのが自然になったんだよ」


「い、意味分かんない……」


 言っていることもそうだが、声を掛けられるまで一切感知できなかったことも異常だった。気を抜いていたなんてことはない。凪はこの状況に対処するため、鋭く霊感を研ぎ澄まし続けていた。


「ほら、ボクってこれでも元カミサマだからさ。細かいことは気にしない方がいいよ」


「……」


 それを自分で言うか? と凪は思った。

 だが、確かにこの存在は底が知れない。その異常性は凪も身を以て知っていた。


「ま、さすがに自分でかさは開けないから安心しなよ。おもしろそうなことしてるから、見やすい場所で見たいだけ。それより、ザコどもをやっつけに行かないの? 早くしないと結界こわされちゃうよ?」


 凪は一瞬傘を放り捨てることも考えたが、止めておいた。恐らく捨てても戻って来る。呪いの人形だったらまだしも、この醜悪な傘は感知ができないのだから防ぎようもない。


 それに、時間がないのも確かだった。こうしている間にも、幽霊たちは学校に近づきつつある。


「ああ、もう! 絶対邪魔しないでよね!」


 吐き捨てるように言って、脇に停めていた愛車に飛び乗った。アクセルを踏み込み、乱暴にハンドルを切る。


 ――落ち着け。今は集まってくる幽霊たちから学校を守らなきゃ。


 頭から余計なものを追い出し、周辺の地図を思い浮かべた。

 夕高は大学や他の附属校とは敷地を共有しておらず、それ単体で周囲をぐるりと道路に囲われている。民家などとも隣接していないので、道のりも平坦で巡回がしやすかった。


 今回、叫び声に触発された霊が向かっているのは学校の南側のようだった。結界を設置したときに見た限りでは、ホールのような施設との間に裏道のような細い道路が走っていた。


 それから数分ほどでその現場に到着する。

 と、そこには既に霊の一団が張り付いていた。


「うわ、やっぱり多いな……」


 車を降りて近づいてみると、彼らの中から呻き声が聞こえてくる。「助けて」や「消えたくない」など、他にも誰かの名を呼ぶ者も多かった。念が入り乱れて分かりにくいが、集まっている者たちは霊力的に飢餓かそれに近い状態の者たちのようだ。

 彼らに押され、凪の結界は歪んで軋みを上げていた。


「霊力を餌に呼び寄せてるのかな。でも、あっちに行っても多分いいように利用されるだけだよ!」


 凪は人目がないとみるや否や、ジャケット内側から小さな包み紙をいくつか取り出し、集団の中へとばら撒いた。

 途端に小さな火花がいくつも散る。

 驚いた浮遊霊たちは叫び声を上げ、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。


「よし」


 他に集まってくる霊がいないことを確認し、ひとつ息を吐く。


 ――やっぱり集まってきてるのは普通の浮遊霊ばっかりだ。


 どくろ蝙蝠が強い力で霊を引き寄せようと、集まってくるのが普通の浮遊霊ならば対処のしようがある。調査が専門とはいえ、凪も伊達に祓い人をやっているわけではないのだ。


「へえ、清め塩か。でも、追い払っただけで一匹も殺せてないよ?」


 少しだけ胸を張っていると、水を差すようにじゃのめぼうずの声がした。凪はうんざりして眉間に指を当てる。


「あのねえ。君や裁巳さんはすぐにそういう物騒なこと言うけど、本当の『お祓い』ってこういうものだから」


 生きている人間と場に残る怨嗟を断ち、魂を自然な形に還す。本来魂の滅殺は、やむを得ない場合の最後の手段であるはずなのだ。


「つまんないな。ねえ、かさを開いてボクにもやらせてよ。どっちが多く『祓えるか』。きょうそうしよう」


「馬鹿言わないで! そんなの駄目に決まってるでしょ!」


 凪は即座に却下した。

 このミニチュアサイズの傘だと出てくるのは『指一本』らしいが、それでもどんなひどいことをしでかすか分からなかった。この元祟り神は、裁巳のような最低限の分別すら持ち合わせていないのだ。


「今日はあたしが全部追い払う。絶対に、君をこっちに出したりしないから」


「あーあ! ボクのまわりはけちなニンゲンばっかりだ」


 そしてぶつくさ文句を垂れ流し始めるじゃのめぼうず。

 これ以上、この邪悪な存在と話しても仕方がないだろう。そう考えた凪は、傘をポケットの奥に押し込もうと無言で手を伸ばした。


「なに? はなしもしたくないの? おこっちゃった?」


「……」


「それとも、やっぱりまだ気にしてるのかな? 前にナギお姉ちゃんを――喰い殺そうとしたこと」


 傘に触れたとき、辺りの空気が固まったような感じがした。

 それから、指先に何かがするりと巻き付いてくる。その瞬間ぞわりと背中に怖気が走り、凪の身体はぴくりとも動かなくなっていた。


「あのときかけた呪いのせいで、ナギおねえちゃんはボクの気分しだいで『いつでも喰い殺される』ようになっちゃったからねえ。しかもタツミにだって解けないトクベツセイ」


 感触は腕を巻き付きながら登ってきて、やがて嘲るような声が凪の耳元に響く。首も動かせないが、無機質な赤い蛇眼が自分の横顔をじっと見つめている。そんな気がした。


「何よりおもしろいのは、かけられた人以外だぁれもこの呪いに気づけないことだよね。呪いって話すだけでうつるものもあるから、相談もできないし。だから、タツミについて回るふりして、ひとりで呪いのジャクテンを探してるんでしょ?」


「…………」


「くく、でも成果ゼロだよね? ねえ、誰にも助けてもらえないってさびしい? いつ死ぬかわからないってこわい? もう諦めちゃいなよ? そうしたらきっと楽になるよ? ほら、このかさの中に指先を入れて、こっちにおいで?」


 毒が染み込むような囁き――

 それに対して凪は目を閉じ、静かに呼吸を整える。


 耳元で囁かれる言葉の一つ一つは確かに真実だった。

 一年ほど前に起きたある事故で受けた呪い。それは今も凪の命を握っている。誰も気づかないのも本当で、一度別の理由で呪いの専門家に診てもらったことがあるが、違和感すら持たれなかった。

 これは凪たちが知っている呪いとは何か根本的に違う。得体のしれない呪縛。


 だが――凪は蛇が言うほど状況に悲観しているわけではなかった。何故なら、今の彼の言葉にはひとつ間違いがあるからだ。


「間違いって言うより、嘘か」


「はぁ? うそ?」


「うん。いつでも喰い殺せるってところ。だって本当は『いつでも』は無理でしょ?」


 言いながら目を開ける。

 すると、そこには何もいなかった。大蛇の頭も、赤い蛇眼も、どこにもない。


 凪はさらに続けた。


「式神の契を結んでる君は、こっちの世界じゃ裁巳さんの意から大きく逸れることができないはずだからね。あの子は幽霊に対してはあれだけど、生きてる人を傷つけるようなことは許さない。だから、その傘の中にある幽世かくりよ――『雨牢うりょう』に来てほしいんだ」


「…………」


「呪いを掛けられたのがそっちに行ったときだったからね。あそこなら裁巳さんとの力関係がイーブンになるんでしょ? 少し考えれば分かるよ」


 指もすんなりと傘から引き剥がすことができる。何かに巻き付かれたような感触も、すべて恐怖心が生んだ幻覚だったらしい。

 それもこれも、この蛇が変に脅してきたせいだ。

 凪は仕返しをするように傘の目玉に指を突きつけた。


「混乱させて、自分の世界に迷い込ませる。まったく神隠しするにはやり方が古臭いんだよ。それに、あたしが裁巳さんに付いて回ってるのだって、あの子を正しい祓い人にするためであって、君の呪いなんかちっとも――」


「あんま調子にのるなよニンゲン。本当に今喰い殺せないのか、罰則覚悟で試しやってもいいんだぞ?」


「ひうっ……」


 少し血走った蛇の目から仄暗い声がして、凪は身を竦ませた。


「……ふん。まあいいよ。ボクは人よりも酒の方が。酒よりも楽しいことの方が好きだからね。外に出してくれないなら、せいぜい面白おかしくおどってみせてよ」


 そう言って、蛇の目はそっぽを向いて黙ってしまう。

 これを改めてポケットの奥に押し込む勇気は、今の凪には残されていなかった。


 ――うう、怖いし、意地悪だし。やっぱりこいつ苦手だ……。


 窮鼠として猫ならぬ蛇を噛んだ凪だったが、結局窮地を脱すれば小心者に戻ってしまうのだった。



📝――あとがきと次回更新について――📝

ここまで読んで頂きありがとうございます!

凪とじゃのめぼうずのペアをやっと書けて良かったです。すぐ凪をいじめちゃうじゃのめぼうずと、時々きりっと抵抗する凪のコントラストが好きなので!


年内の更新は多分ここまでです。次回の更新は年明け以降となるかと思います。

良いお年を。

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幽霊ってもう死んでるんだから何しても大丈夫ですよね? Tes🐾 @testes

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