第9話

 丸一日興行の機会を得た坊が、その日に限って出番の間近に現れた。



 師匠に怒鳴られ、頭を深々と下げ、顔を上げると仕事前の真剣な表情に戻っている。


 過保護過ぎたか。帰ろうと踵を返しかけた。



「坂垣」



 楽屋に人がいるので階段下の、人の気づかれない場所で坊に手招きされた。


 顔には出さぬように自分の三つ揃いを正す。


 いい思いをしたでしょうと言うと、頭を拳でごつっといかれた。


 何を言いたいのか判別つかぬことを幾つか呟く。全く聞き取れない。


 少し焦った。


 既成事実を作れるためにと小細工したわけではないのだが、それが原因で関係が切れるなら勝手が違ってくる。



「お車代を渡しておきましょう」

「要らないさ。自転車で帰る」

「初耳です」



 小さなやり取りで自分の心配が杞憂だとわかる。


 坊は自転車に乗れないのだ。つまり迎えが来る。坊はこめかみを揉んで、どこま把握してるんだと呟いた。


 布団を売ってもが家賃が足りず、幼友達の下宿隣の一室に転がり込んだこと。


 手も握らないほど健全な生活をしていること。


 物書きの原稿料が、もうじき坊の興行料を越えること。


 話しているうちに小さく笑ったのを見逃さない。



「なぜ最初にあんな家を選んだんだ。すぐ追い出されたじゃないか」

「栞の糊付けを手伝ったのは誰でした?」

「これもおまえかい」



 手帳に挟んだ紙を出す。ひっくり返して裏書きを見せられた。わざとらしく眉を潜める。



「美術館に飾れそうな字だ」

「露骨すぎて奥ゆかしさのカケラも無いと言われた。僕の仕業でないと言い訳すれば、女々しいと叱られる」

「それとなく言っておきます。あと家を出られてからの経費のことですが」



 羽織りを風に靡かせて、踵を返す背中に叫ぶ。


 坊は黒眼鏡を外して眉をきつく寄せた。



「すべて払って貰いますよ」

「家に居るのだろう」

「一ノ瀬にはおりません。失業です」



 鼻で笑うだろうかと考えたが、坊は頭を抱えてしゃがみ込んだ。


 今日は上も下も和装で、足を開くとあらぬ処が見える。膝を折って頬杖をついた。



「紹介状を書く」

「給金のいい場所ですから、金の心配は。実際私が一番高給取りだ」

「僕のようなやり方ではなしに?参ったね」

「年明けには此処も建て替える話がありますよ。跳ね上がった切符料金は改められるでしょう。もっとも」



 坊ならまだ別の仕事も見つかるでしょうが、と顔を覗いた。端正な顔が、俯き加減ににやりと笑う。


 暫くまったく見せなかった表情に、安堵の息を吐いた。



「いま、笑ったかい」

「きちんと生活するんですよ。私は面倒見きれませんので」

「おまえに云われたくはないなあ」



 片手で後頭部を掴まれて、額を合わせる。ご苦労様と聞こえたので、返事はせずに肩を撫でた。


 立ち上がり眼鏡をかけ直せば、それ以上には憎まれ口を叩かない。


 また帰らなければならないらしいよ、と溜め息まじりに零す。





 来てくれと云われた訳でもないのに、その時はまた、と返す自分がいた。






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大正浪漫記譚 @eika601601

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