第8話

 栞を頼りに尋ね歩いて。



 敷地の狭い土地に、路上の土も汚いままの狭くて小さな下宿があった。


 割とすぐに見つかりはしたものの、辺りは既に鼻の先も見えぬ程の暗闇に覆われている。


 僅かな明かりでも周囲の家から漏れていなければ、如何にこの建造物が荒れ果てているか、わからなかったに違いない。


 そこ一帯だけ、昼間でも幽霊の出そうな場所だった。


 まあ普通はこんなものだろう。僕の住んでいる大家は家の付近まで大事にしていたが。


 住んでいる人間の顔を見るまでもなく、威圧感で背中の毛が立つ。


 夜間に訪ねる口上を考え、僕は道の真ん中でぶつぶつと呟いていた。


 すると二階の一室にほんの小さな燭が燈り。見上げていると、窓がからからと開いて、誰かがこちらを覗いた。


 僕は身をすくませながらそっと会釈したが、思えばあの位置からでは庇で見えまい。身体をずらして、声をかけようかと迷う。


 そのうち行灯がひょろっと出て、洒落た鼻眼鏡の顔に、アッと声を上げかけた。


 おおい、と小さく喉を鳴らして、馬鹿な猫でもあるまいしと、赤面する。誰にも見えないのが幸いだった。



「――――一ノ瀬」



 掠れた声は届かなかったのか、行灯は窓際に置いたまま、一ノ瀬は部屋に戻ってしまう。


 無用心なことをするな、と眉をひそめた。穴の空いた障子に火がついたらどうする気だ、と口の際に両手を当てる。


 周囲に苦情を言われても構うものか、と大声を上げかけた。その時。


 窓枠が外れ、珍しく着流しなど着ている一ノ瀬の身体が一瞬見えるか見えないかのところで。


 大きな塊が窓から溢れ、一気に外に吐き出された。運悪く僕はすぐ下に居たので、逃げ場がない。


 下敷きになったが、意外にも軽かった。僕は喘いで、助けてくれと叫ぶ。くぐもった声を誰が聞いたものか、遠くの民家で、どうした!と声がした。


 土を弾くような音が傍らで響く。



「な、何もありませんよ。お騒がせしました」



 一ノ瀬の慌てた声がすぐ傍でした。のしかかった物を剥ごうと四苦八苦しながら、僕は焦る。



「すみません、下にいらっしゃるとは、とんと気づかなくて」

「出、せ!」

「はいはいはい、今」



 顔を合わせたらさぞかし肝を冷やすだろう、その瞬間を見てやろうと表に出たが、かけていた眼鏡がなく何も見えない。


 それでなくても暗いのだ。重い物を押しやると、それが布団だということは見てとれたが。眼鏡の在りかも一ノ瀬の居場所もよくわからなかった。



「藤堂さん……」

「眼鏡。眼鏡を置いて来てしまった」

「は。眼鏡無しでどうやってここまで?」

「馬鹿。布団の中にだ!大体どうして布団がここにあるんだ」



 え、その、質に出そうと思いつきましてと言ったので、勘で足を出して蹴った。



「ああっ、やめてください。布団が汚れたじゃ」

「煩い。説明は後にして、僕の眼鏡を捜せ!」



 一ノ瀬は直ぐさま路上で布団を裏返して、僕の目には見えない所に眼鏡を見つけて拾った。



「駄目です。ネジが飛んでいる」

「どうしてだ。ああもう、何も見えやしない。説明しろ」

「騒がないで。兎に角布団を担ぐのを手伝ってください」



 坂垣はと聞きかけて、自分で気づいた。あいつは一ノ瀬の付き人じゃないのだよな、屋敷に居るのだと。


 一応返せと手を差し出したが、一ノ瀬は修理に出して返すと言う。


 寝具まで質に入れるほど困窮しているのに?計画性に欠ける。稼いでも、金の使い方をよく知らないのだ。あればあるだけ使って、後で困り果てる。


 ここは何も聞かずに手伝ってやろうと、布団の端を持ってふらついた。よくみれば二、三枚ある。手際よく折り畳むと、一ノ瀬は一ツを片脇に挟んで、反対の端を持った。



「夜逃げみたいですね。流石に昼間は避けたのだけど。惜しいなあ。いらっしゃると知ってたら、二階から華麗に降り立つ瞬間を見てて貰えたのに」

「待て――――これ全部じゃないだろうな」



 一ノ瀬は予告無しに歩き始め、僕は戸惑いつつも布団を握ってついて行く。


 彼は一歩前で先を歩き、その表情は見えなかった。


 ときどき若旦那のひ弱さを隠せず、身体が左右に傾き、その度に代わろうと声をかけるのだが。何を意気地になっているのか、否の声だけが返ってくる。



「一ノ瀬君」



 切り出そうと思っていたことが、何も話せない。


 寒空に薄物一枚で寒そうな背筋が、凛として伸びているので余計にだ。


 小さな坊が何処にも居やしない。



「昨夜、可笑しい出来事があった」



 肩が震えたのは気のせいか。前がよく見えないせいで、目をきつく細める。


 暗闇の中、誰もいない路上で布団を運ぶ羽目になるなんて、考えてもみなかった。迷惑な男だ。


 つくづく世話が焼けるから、いろいろ考えて傍を離れたのだが。



「綺麗な男が遇々居たものだから、つい誘惑に負けて戯れを――――」

「僕の仕業ではありません」

「情けない」



 薄情するにしても、もっと他に言いようがあるだろうと思う。呻いて歩調を速めるので、ついて行くので精一杯だった。


 一ノ瀬はぼそぼそと呟いた。



「北京から仕入れたとか言う馬鹿げたモノが」

「いいからゆっくり歩け」

「羊羹に仕込んで……僕ではありません」

「あいつ一寸ばかし、坊に甘すぎやしないか」

「僕ではありませんでした」



 もう一度言ったら尻を蹴るぞ、と脅す。一ノ瀬が布団を取り落としたので、重たさに腰を屈めた。



「いきなり放すな、……っ」



 腕を引かれて布団に乗り出し、胸に頬を埋めた。


 想像したより熱い。じっとして何も言わないから、息が詰まりそうだ。


 肩に回した手の感触に怯えて、身体を退こうとする。



「――――離すな」






 返事は無かったが、腕の力が強くなったので安堵の溜め息を吐いた。




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