第7話

 起きたら妙にすっきりとしていて、体の上にかかっている布団に眉を潜めた。



 いつの間に寝たのだろう。上に掛けた半纏に首を捻る。窓の外を見ると、白みかけた空の群青色と冷え冷えとした風が、朝だと教えていた。


 文机に散らかした今朝の仕事を思い出し、慌てて起き上がる。


 何か善い思いをしたなと考え、ぞくりとした。羽織りを手に取り肩にかけて。


 部屋を見回すと益々腑に落ちない。片付ける途中だったはずの書物がすべて、棚に並んでいる。油紙は屑かごにあり、糊は乾いていた。おかしい。した覚えのないことを既に終えているのだ。


 まさか誰か来たのかと、周囲を見回すがわからなかった。


 一ノ瀬が立っている夢を見たのを考えた途端に、走馬灯のように蘇る記憶に全身を強張らせる。


 生々しい感覚があった。夢精でもしてるのではと、腰に手をやるが乾いている。こごった液体も入ってないのが変だ。


 朝の日課になりかけていた悦楽のひと時が、現実の恐怖となって僕を襲った。




 ――――一ノ瀬はひどく迷っていなかったか。




 妄想の中での彼は、上であろうと下であろうと、目茶苦茶をする僕に黙って付き合い、何時も微笑みを崩さないのに。


 昨夜だけは違った。熱を帯びて充血した眼差しで僕を見て、困りますと言いながら想像を超える優しさで触れてきたのだ。



 もどかしかった。



 有り得ない強さで抱きしめられ、尽きるまでが長く、それに比例する程の気持ちよさで弾けた時。


 一ノ瀬は余韻が残るうちは僕を離さなかったし、僕も彼を離さなかった。そんなことが起こり得るだろうか。


 一ノ瀬が情念に任せているところをまず想像できない。全くあの美しい男は人を翻弄する容姿はしていても、無頓着で浮いた話の一ツもなかった。


 頭を掠めたのはこの事実を誰に確認するかということで、一ノ瀬に直接聞くなど以っての外である。


 うんと考えて大家に、昨日誰ぞ部屋に来ませんでしたか――或いは変な声などと尋ねることを思って赤面した。


 話す宛てがあるとすれば、坂垣くらいしか思いつかないのだが。縺れた髪を梳き、框に手をやって外を見た。


 艶文のことを何と説明するかが問題である。硝子に白い息を掛けて件の言葉をなぞった。馬鹿なことを。




 例え幻想でも縋りついた。立場を弁える強さなど僕にはない。




 仕事の仕上げは午後一になり、着物を着替えることもせず二重回しを着て外に出る。版元に手ずから原稿を持ち寄らないと、明日には間に合わないのだ。


 遅れたことに頭を下げると、人手がないのでと校正を任された。茶封筒の中身には色を付けると言う。


 実家の弟に預けた金を思い、食うに困る生活が残っていたので夢中で働く。黄昏が辺りを支配する時刻には、もう一ノ瀬のことは頭から追い出していた。


 名の痴れた若い画師が来るまでは。


 一ノ瀬が伝を頼った倉橋達弥のお抱えだった。僕の寄稿した用紙をちらっと見下ろす。男は成りの派手な菫色の羽二重で煙を吹かし、紙に灰の落ちるのも無視して真っ直ぐこちらへ来た。


 いい仕事をしてくれた、明日から出社しないかという編者の誘いに、僕でなく画師が煙管片手に笑った。



「文士先生。耳朶の裏に紅い蝶の名残があるよ。いいご身分だ」

「――――あの」

「どの作に絵を付けたら良いのだろう。女遊びの好きな人には春画かな」



 紅い蝶?


 はたと耳を押さえて、すぐに暇を告げていた。


 黒鞄を抱えて逃げるように出る背中越しに、若いのだから揶かうのは悪趣味ですよと話す声が追う。


 階段を駆け降りて踏み板を壊した気がする。落ちないだけましなほど動転していた。


 落ちかける夕日に出口前の砂利を掃除している小僧を見つけた。駄賃を渡して耳を指す。



「紅いだろうか」

「首まで赤いや。兄ちゃん熱でも有るのかい」

「そうでなくて……!」

「蟲に刺されたなら塗り薬がそこの角で売っているよ」



 有り難うとまた逃げた。


 何処に鏡のあることやら、草履の脱げそうになるのすらもどかしく、脱いで抱えてまた走る。


 荷馬車が土埃を上げて遮ったのを摺り抜け、窓越しに閉まった骨董屋の鏡を見つけた。




 夢じゃないのか。


 妄想でも白昼夢でもないのか。




 指摘を受けた箇所は自分では見えない。着物の衿をそろりと下ろして、激しく喘いだ。


 道端に散乱する原稿や本には構わず、鞄を逆さにした。四つん這いで一枚だけ持って出た栞を掴む。


 後生だから逝かせてという願いを聞いて、絡んだ指に負けたのを思い出した。


 あいつは――――来たのか。






 その足で踵を返し、一目散に男のいる場所へ急いだ。




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