可禍愛隘いいいいイイイ【序話】

卯月 幾哉

プロローグ〜感染者〜

 ――ガタン、ゴトン、……


 高校二年生の新田遥香にったはるかはその日の放課後、いつものように電車で学習塾へ移動していた。

 遥香は乗降口の脇で、ロングシートの端の仕切りに寄り掛かってスマートフォンを操作していた。


「……行かなきゃ、早く行かなきゃ……」


 彼女の目の前には、何事かをブツブツとつぶやく二十代半ばほどの女性がいる。

 丸縁眼鏡を掛けた地味な女性だ。


(……なんだろう? この人、薄気味悪いな……)


 二人ほか多くの乗客を乗せた電車は、そのままいくつかの駅を通過する。


 ある駅を出発した直後のことだ。


 ――車両がガタン、と大きく揺れた瞬間があった。


 背もたれに寄り掛かっていた遥香は微動だにしなかったが、彼女の目の前にいたその女性は突然の揺れにバランスを崩し、たたらを踏んだ。

 彼女が自分の方に近付いてきたので、遥香は咄嗟とっさに、だらんと体の前で提げていたバッグを引き寄せる。


 丸眼鏡の女性は、なんとか転ばずに踏み留まった。

 中腰になった彼女はふと、すぐ横手にいた遥香の方へ顔を向ける。


 遥香はつい、彼女と目を合わせてしまう。

 眼鏡の奥の彼女の瞳が、ぎょろりと遥香を見ている。その目の下には、濃いくまあとが目立つ。


「あら、あなた……」

「……はい?」


 ふと丸眼鏡の女性に話し掛けられ、遥香は一拍遅れて返事をした。

 まさか、話し掛けられるとは予想していなかった。


「……あの、そのバッグのチャーム、可愛いですね……」

「え? ……あぁ。ありがとうございます」


(……わざわざ、話し掛けるほどのことかな?)


 遥香はそう思いつつも、彼女のめ言葉に対して取りつくろった感謝を伝えた。


 ――ここで二人のやりとりが終わっていれば、遥香にとって、この日はまだ「よくある一日」の範疇はんちゅうに収まっていたことだろう。


 丸眼鏡の女性は、そこから更に遥香の服の袖口に手を伸ばす。


「よく見たら、制服も可愛いわね……」

「え? な、なに?」


 上着の袖口を摘まれて、遥香は焦る。

 飾り気のないブレザーのこの制服を、遥香自身は一度も可愛いと思ったことがない。


(何、この人? なんか怖っ)


 車両内の座席は満席で、二人以外にもちらほらと立っている者がいる。


 丸眼鏡の女性にどことなく異常な雰囲気を感じた遥香は、その場を離れて別の場所に移動しようとする。

 しかし、ガシッと彼女に手首を掴まれてしまう。


「――いやっ! は、離してください!」


 遥香は腕を振って離れようとするが、丸眼鏡の女は力強く手首を掴んだまま、決して離そうとはしない。

 そのまま彼女は、もう一方の手を遥香の顔に伸ばす。


「お顔も可愛いわぁ……」


 丸眼鏡の女は口角を吊り上げてうっとりと笑った。

 その笑顔に、遥香はぞくりと肝が冷えるものを感じた。


 そんな二人のやりとりを遠巻きに見ていた他の乗客も、流石にその様子が普通ではないと気づいた。

 一人、また一人と遥香たちの周囲に集まって来る。


「君、大丈夫?」

「お姉さん。彼女嫌がってるから、やめてあげなよ」


 その中にいた、二十代から三十代前半と見られる二名の男性が、遥香から丸眼鏡の女を引きがす。彼らは左右から女を挟んで、それぞれが彼女の片腕を抱え込むようにして、立ったまま彼女を拘束する。

 そのおかげで、幸いにも遥香はすぐに丸眼鏡の女から解放され、一息つくことができた。


「――やだっ! どこ触ってるのよ!」


 ただし、その親切な乗客たちはたった一人の女性を取り押さえるのに、意外な苦労をすることになった。


「やばっ! ちょっと、そっちしっかり抑えて……!」

「お、おぉ……。この人、けっこう力あるね」


 成人男性二名に抑えつけられながら、丸眼鏡の女は尚も遥香に向かって手を伸ばし続けていた。


「……もっと、もっと見せてちょうだいよぉ! 本当に可愛いんだからさぁ!」

「ひっ……」


 遥香は思わず後退あとずさりしながらも、まるで蛇ににらまれた蛙のようにその場から動けなかった。


 車両内には、拘束された丸眼鏡の女性を中心に、興奮と緊張がぜになった異様な空気がただよっていた。

 彼女は恍惚こうこつとした表情で、狂ったように叫び続ける。


「あぁ、超可愛い‼ 食べちゃいたいぐらい! かわいいカワイイ可愛いいいいぃっっ‼」

「るっせぇな! ……なんなんだよ、コイツ」


 唾を飛ばしながら大声でわめく女に対し、彼女を拘束し続ける男性たちは辟易へきえきとした態度を見せた。

 丸眼鏡の女のテンションは最高潮に達していた。そして、――


「――もう死んでもいいわっ‼ はうっ……」


 そう叫んだ直後、彼女は突然、糸が切れた人形のようにカクンと項垂うなだれた。


「えっ……?」


 遥香の小さな呟きは周囲の喧騒けんそうまぎれ、誰にも聴かれることはなかった。


 丸眼鏡の女性を両側から捕らえていた二人の男性は、急に人一人の体重を支えることになって困惑した。


「うわ、重っ……!」

「まさか、気絶した? ……お姉さん、大丈夫ですかー?」


 二人は女性の肩を支えながら呼び掛けるが、彼女は全く反応しない。

 女性の首がぐわんと大きな弧を描き、眼鏡が外れかかった。


「……どうする、これ?」

「さあ……」


 二人の男性が顔を見合わせて首を傾げていると、別の一人の乗客が動きだす。

 近くで様子を伺っていた、ショートカットの女性だ。彼女は慌てた様子で三名に近づく。


「ちょっと、その人寝かせて! あと誰か、非常ボタン押して!」


 短髪の彼女は矢継ぎ早に指示を出すと、返事も待たずに上着を脱ぎ、車両の床に丸めて置く。それをクッションにして、丸眼鏡の女性を仰向けに寝かせるためだ。

 薄着になった彼女は男性二人と協力して丸眼鏡の女性を寝かせ、声を掛けながらぺちぺちと軽く頬を叩く。


「――駄目、息してない」


「マジかよ!」

「やべえ!」


 短髪の彼女が衝撃的な事実を告げると、車両内は先程とは別の意味で騒然となった。


 動けずその場に留まっていた他の乗客たちもばらばらと動き出し、その内の一人が押した非常通報ボタンのブザー音が車内に鳴り響く。


「AEDってないのか?」

「車内にはなさそう。乗務員に聞いてみたら?」


 そんな会話をする者同士もいた。


 すぐに乗務員に状況が伝わったのか、電車はガクンと速度を落とす。

 そのときにはもう、ショートカットの女性はシャツの袖を腕まくりし、心臓マッサージを開始していた。


「……こんな、はた迷惑な死に方、してんじゃないわよ!」


 短髪の彼女は眉間にしわを寄せ、怒りをぶつけるかのように丸眼鏡の女性の胸を繰り返し両手で押し込んでいた。


「……なんなの、これ……」


 遥香は車両のドアを背に、床にへたり込んでいた。

 次々と目の前で起こる現実感のない出来事に対し、脳が理解を拒んでいた。


 ――塾に連絡しなきゃ。


 ふと、そのことに思い至った遥香は、緩慢な動作でスマートフォンを持ち上げる。

 遥香はスマートフォンの画面に視線を落とすことで、やっと丸眼鏡の女性から目をらすことができた。


「…………」


 心臓マッサージを受け続ける丸眼鏡の女性は、意識を喪失してからもずっと、うっすらと張り付いたような笑顔を浮かべていた。


    †


「おはよう、遥香。昨日は大変だったねー」

ともちゃん! ほんとだよ、もう。聞いてよ〜」


 翌朝。

 登校後の高校の教室で、遥香はクラスメートの三池朋子ともこと話をする。


 あの後、頼原よりはらという名の丸眼鏡の女性は、ショートカットの女性――女医だと遥香は後に知った――の懸命な救護の甲斐もなく、そのまま息を引き取った。

 原因は心筋梗塞こうそくとされた。

 塾に行かずに帰宅した遥香は、ネットニュースでその事を知った。


「――ところでさ、朋ちゃん」

「うん?」


 話が一段落したところで、遥香は話題を変える。


「……今日、いつもよりカワイイね」

「え? 何、急にどうしたの?」


 朋子はその言葉を不思議に思った。

 遥香はいきなりそんなことを言うタイプではないし、朋子自身は昨日までの自分から特に変化はないと思っていたからだ。


「……わかんない。なんかふと、そう思って」

「変な遥香。……まあ、いいや。そろそろホームルームだね」

「うん。また後でね」

「はーい」


 二人は手を振り合って別れ、それぞれの席に着いた。


 間もなく教員が教室に現れ、朝のホームルームが始まる。


(……朋ちゃん、ホント可愛くなったなぁ。急に、どうしたんだろう?)


 遥香は言い知れぬ多幸感を感じながら、うっすらと笑みを浮かべていた。



〈プロローグ・終〉



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【あとがき】

最後までお読みいただきありがとうございました。

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