三つ星亭の子息と辺境伯のご令嬢は、国家転覆を阻止する濃いい話

藍沢 理

第1話

 レイン・ロウエル


 夕暮れ時の三つ星亭本店は、いつもの喧騒に包まれている。厨房からは食欲をそそる香りが漂い、店内には客の笑い声が響く。僕は慣れた手つきで注文を取り、料理を運び、笑顔で接客をこなす。


「いらっしゃいませ」


 声に出して挨拶しながら、僕は来店した客に目を向けた。その瞬間、僕の目に見覚えのある顔が飛び込んできた。王立学園の制服を着た二人の少女。一人は凛とした佇まいの金髪の少女、もう一人は彼女の護衛らしき短髪の少女だった。


(あれは……)


 僕の頭の中で記憶が巡る。王立学園で見かけたことがある。金髪の少女はいつも人々に囲まれて、んーと、たしか……東部辺境伯の娘、マリエル・ハートネット・スペンサー。そうだ、間違いない。


「お二人様でよろしいでしょうか」


 僕は平静を装いながら尋ねる。マリエルは僕を一瞥すると、軽く頷いた。


「個室をお願いします」


 その声には、どこか疲れたような影が感じられた。僕は二人を個室へと案内する。扉を閉める直前、マリエルの表情に僅かな翳りが見えた。


(何かあったのかな……)


 気になりつつも、僕は他の客の対応に戻る。しかし、その後しばらくして個室からマリエルの大きな声が漏れ聞こえてきた。


「もう嫌だわ! あんな人と婚約なんて……」


 思わず足を止めてしまう。マリエルの声には、怒りと共に悲しみが混じっていた。


(縁談か……)


 以前、学園で噂になっていたことを思い出す。マリエルには婚約者がいる。西部侯爵家の長男、確かアルバート・クレアモントとかいう名前だった。


 迷った末、僕は個室のドアをノックした。


「失礼します。お客様、何かございましたでしょうか」


 中から返事はない。僕は恐る恐るドアを開けた。


「大丈夫ですか」


 マリエルは僕を見つめ、ため息をついた。


「あなた、王立学園の生徒ですよね」


 その言葉に、僕は少し驚いた。まさか僕を知っているとは思わなかった。


「はい、そうです。レイン・ロウエルと申します」


 マリエルは僕を見つめ、何かを決意したような表情を浮かべた。


「あなたに相談があるの」


 その言葉に、僕は戸惑いを覚えた。なぜ僕に? しかし、マリエルの真剣な眼差しに、断ることはできそうにない。


「どういったご相談でしょうか」


 僕の言葉に護衛の女性――エルザが反応した。


「マリエル様、こやつは平民ですよ」

「構わないわ。私たちふたりでどうにかなる問題ではないでしょ?」


 マリエルは深呼吸をし、話し始めた。西部の国境を守る侯爵家。そこの長男とマリエルの婚約。東部の国境を守る辺境伯家はマリエルの実家だ。


 東西を守る大貴族。ふたつを結びつけるための政略結婚。


 そして、西のヴェルダニア公国の不穏な動き。


 話を聞きながら、僕の中で様々な思いが交錯する。政治的な駆け引き、国境防衛、戦争の危機。僕の中の「俺」がささやく。


(これは、まずいことになりそうだ……)


 マリエルの話が一段落すると、彼女は真剣な眼差しで僕を見つめた。


「レインくん、あなたはひとつ上の学年よね。成績も優秀だったはず。……お願い! 力を貸してほしいの。この婚約を何とか――破談に」


 驚きつつ、不穏なお誘いに困惑する。


 貴族の問題に平民が首を突っ込むのは危険だ。首が飛ぶ。簡単に飛ぶ。しかし、マリエルの切実な表情を見ていると、簡単に断ることもできない。


 ただ、問題がふたつある。

 東西大貴族の縁談が破談になれば、国内情勢が不安定になる。西のヴェルダニア公国に不穏な動きがあるのなら、なおさらだ。この国の混乱につけ込んでくるかもしれない。破談は戦争の危機というわけだ。


 もうひとつ。

 父の経営する店は、様々な食材が大量・・に必要だから、そんな理由で食材の価格高騰なんてやめてほしい。


「それは……難しい話ですね」


 僕は慎重に言葉を選ぶ。マリエルの表情が曇る。そのまま彼女は下を向いた。


「でも、できる限りのことはさせていただきます」


 その言葉に、がばっと顔を上げたマリエル。いい笑顔だ。いや、悪い笑顔だ。言質を取られてしまった。僕は内心で溜息をつく。これからどうなるんだろ。


 窓の外では、夕陽が沈みかけていた。僕たちの前に、予測不能な未来が広がっている。それはきっと、僕の人生を大きく変えることになる。そんな悪い予感がしていた。


 *



 翌日、夕暮れ時の王立学園図書室。窓から差し込む柔らかな光が、古い本の背表紙を優しく照らしている。僕はひとり、経済学の本を読みふけっていた。今日はお店のバイトはない。


 突然、隣の椅子を引く音がして、顔を上げた。そこにはマリエルが立っていた。


「ごめんなさい、邪魔したかしら?」


 マリエルは申し訳なさそうに微笑んでいる。


 僕は慌てて立ち上がり、「いえ、全然」と答えた。


「マリエルさん、こんな所でお会いするとは」


 不意打ちだ。心臓がバクバクいっている。マリエルが隣の席に腰掛けると、僕の読んでいた本に目をやった。


「経済学? 随分難しそうね」

「ええ、まあ……父の店の経営に役立てばと思って」


 マリエルは興味深そうに聞いてくる。彼女の真剣な眼差しに、僕は少し緊張した。


「そう、すごいわ。私なんて、経済のことはさっぱりなの」


 思わず笑みがこぼれる。


「そうですか? でも、マリエルさんは魔法の才能が素晴らしいと聞きました」


 マリエルの頬が少し赤くなるのを見て、僕の心臓がまた跳ねた。


「そんなことないわ。でも……教えてくれる? 経済のこと」


 驚きつつも、嬉しさで胸がいっぱいになる。


「もちろんです。喜んで。あ、かわりに魔法を教えて下さい。僕、魔法がてんでダメで……」


「あははっ、学園一の秀才と言われているのに、魔法が苦手なのね!」


 その日から、僕たちは放課後、図書室で顔を合わせるようになった。僕は経済を、マリエルは魔法を教え合う。そんな日々を重ねるうちに、僕の中で何か特別な感情が芽生え始めている事に気づいた。いやいや、いかん。彼女には婚約者がいるんだ。


 *


 昼下がりの学食。僕はひとり、味噌ラーメンをすすっていた。熱々のスープが喉を通り、体の芯から温まっていく。


 やっぱり、ラーメンは最高だ。


 ハンバーグ、カレー、ラーメン、これは僕の実家、三つ星亭が発祥と言われている。


 父に聞いたことがある。僕が三歳のころ、ハンバーグ、カレー、ラーメンを食べたいと言ったそうだ。父は「なにそれおいしそう」と興味を示し、僕から詳しくレシピを聞き出したそうだ。そして父は、三つのメニューの試作に取りかかった。


 僕が四歳のころ、試作品ができあがった。もともと小さな定食屋だった実家は、店の名前を「三つ星亭」にかえて、看板メニューを、ハンバーグ、カレー、ラーメンとした。


 いまではこの国のいたるところにチェーン店を展開する、巨大飲食店に成長した。


 しかし、その頃の記憶は僕に残ってない。物心ついたときに「うちって割と裕福なんだ」と考えていたのがぼんやり残っているくらいで。


 三種のレシピは秘伝とされているけど、ハンバーグとラーメンは模倣する店がたくさんできている。この学食でもそうだ。うまいラーメンを提供してくれて、とても満足。


 ふと、喧騒が耳に入った。視線を上げると、そこにはマリエルの姿。彼女を取り囲むように数人の男子生徒が立っている。中心にいるのは、侯爵家の長男、アルバート・クレアモント。マリエルの婚約者だ。


 アルバートの声が耳に届く。


「なぜ分からん。お前と俺の結婚は既に決まったことだ。つべこべ言うな」


 その口調に尊大さが滲む。マリエルは顔を歪めている。


 ――――――パン


 アルバートがマリエルの頬をひっぱたいた。マリエルの態度があまり気に入らなかったように見える。何が起きたのか知らないけれど、争い事に違いない。


(あいつか……)


 僕の中の「俺」がささやく。抑圧、理不尽、そしてそれを払いのける手。


 待て、落ち着け。僕は自分に言い聞かせる。あのふたりは大貴族の子息と子女。安易に動けば、取り返しのつかないことになる。


 マリエルの護衛、エルザが彼女の前に立つ。


「アルバート様、これ以上は護衛として対処します。マリエル様に暴力をふるうなど、ご自身の立場が悪くなりますよ?」


 エルザは剣に手をかけている。その声には凛とした威厳があった。アルバートは歯噛みし、取り巻きたちを引き連れ、その場を去っていった。


 僕は静かに立ち上がる。マリエルに近づこうとした瞬間、「俺」の声が聞こえた。


(やめろ。今は動くな)


 そうか。その通りだ。今は静観しよう。


 *


 昼休みが終わり、午後の授業が始まった。僕の頭の中では、さっきの出来事が反芻されていた。


 さて、ちゃんと引っかかってくれるかな……。なんて考えていると、突然、廊下が騒がしくなった。


「大変だ! 男子トイレが……」


 僕は立ち上がり、廊下に出る。そこには本来あり得ない光景が広がっていた。


 アルバートが糞尿まみれになって立っているのだ。彼の周りには悪臭が漂い、生徒たちは鼻を押さえている。


「くそっ! 誰だ、こんなことをしたのは!」


 アルバートの怒号が響く。しかし、誰も答える者はいない。


 僕は黙って眺めていた。トイレのドアと窓が開かなくなり、下水管から汚水が逆流する。そんな偶然はあり得ない。


(よくやった)


「俺」の声が聞こえる。僕は薄く笑みを浮かべた。


 アルバートは着替えのため早退した。その後、学園中がこの出来事で持ちきりになった。


「誰がやったんだろう」

「まさか、幽霊?」


 様々な憶測が飛び交う。わはは。


 僕は心の中で笑いつつ、黙って聞いていた。トイレの異変は僕が仕組んだものだ。ドアと窓を細工し、下水管を詰まらせた。完璧な計画だった。


(でも、これで終わりじゃない)


 これから先、僕は何をすべきなのか。マリエルを助けるべきなのか。それとも、この介入すべきではないのか。


 答えは出ない。ただ、確かなのは、僕の人生が大きく変わり始めたということだ。


 窓の外では、夕暮れの空が赤く染まっていた。まるで、これから起こる激動を予見しているかのように。


 **


 マリエル・ハートネット・スペンサー


 夜の帳が降りた王都。私は王都の別邸で、護衛兼親友のエルザと顔を見合わせていた。学園での出来事を思い出し、思わず吹き出してしまう。


「アルバートの顔ったら……」

「まさか、あんな姿になるなんてね。ウンコまみれって……」


 エルザも笑いを堪えきれない様子だ。


 私たちの笑い声が、静かな部屋に響く。普段は礼儀正しく振る舞わなければならない私たちだけど、ここではありのままの自分でいられる。エルザと友人でいられる。それが何よりも心地いい。


 ふと、エルザが真面目な顔つきになった。


「でもさ、マリエル。あれ、トイレの故障じゃないよね? 学園の調べだと、魔法の痕跡も無かったみたいだし、犯人は判らず仕舞いなんだって。だれがやったのかしら?」


 彼女の問いかけに、私は首を傾げる。確かに不思議な出来事だった。しかし、それ以上に気になることがある。


「エルザ、私は……」


 レインくんがやったのでは、と話そうとした瞬間、突然のノックに驚く。


「入れ」


 私の言葉に応じて、ドアが開く。そこに立っていたのは、私の次兄、エドワードだった。


「よお、マリエル。話があるんだが」


 エドワードは私たちの前に立ち、腕を組む。その表情には、いつもの横柄さが見える。


「お前さ、アルバートとの結婚、やめる気か?」

「ええ、そのつもりよ」


 私の答えに、エドワードはしかめっ面になる。


「やめとけって。東西の大貴族が親戚関係になれば、この国も安泰なんだぜ。お前の我儘で国を危うくする気か?」


 その言葉に、私は反論しようとする。しかし、エドワードは私の言葉を遮り、「黙って縁談を受けろ」そう言って部屋を出て行った。


「あーもう! ぜんぜん話を聞いてくれないし……」


 溜息をつく私に、エルザが慰めの言葉をかけてくれる。そんな中、再びノックの音。今度は三兄のヒューゴだ。


「マリエル、大丈夫?」


 優しい声で問いかけてくるヒューゴ。彼の存在が、少し心を落ち着かせてくれる。


「ボクは、エドワード兄さんの考えには反対だよ。マリエルの幸せが一番大事だと思う」


 ヒューゴの言葉に、私は安堵の息をつく。彼の態度には、いつも以上の優しさが感じられる。まるで、恋する乙女のように。


「ありがとう、ヒューゴ。実は私ね、ある人に相談したの」

「え? 誰に?」


 ヒューゴの目が大きく見開かれる。


「学園一の秀才、レイン・ロウエルっていう人よ」


 その名前を聞いた瞬間、ヒューゴの表情が曇る。


「ぐぬぬ……なぜボクじゃなくて? あいつ魔法つかえないじゃん?」


 その反応に、私は少し戸惑う。ヒューゴの態度が急に変わったのが不思議だ。


「だって、ヒューゴは兄でしょ? 辺境伯家の立場上、婚約解消に手を貸すなんて危険が過ぎるわ」


 私の言葉に、ヒューゴは渋々頷く。


「そう、か……。でも、マリエル。ボクにできることがあったら、なんでも言って。きっと力になるから」


 ヒューゴの真剣な眼差しに、私は温かいものを感じる。


「ありがとう、ヒューゴ」


 三兄が去った後、私はエルザと顔を見合わせる。


「エルザ、私、どうすればいいのかしら」


「マリエル様……いえ、マリエル。あなたの幸せが一番大切よ。私はあなたの決断を、どんなときも支持するわ」


 エルザの言葉に、私は深く頷く。そして、レインの顔が脳裏に浮かぶ。彼なら、きっと良いアイデアを出してくれるはず。そう信じている。


 窓の外では、月が優しく輝いていた。私の未来を照らすかのように……。



 **



 レイン・ロウエル


 夜も更けた頃、僕は三つ星亭本店の事務所で帳簿をチェックしていた。父から経営の基礎を学べと言われ、毎晩こうして数字と向き合う日々。ペンを走らせる音だけが静寂を破る。


「おや……?」


 西部での仕入れ価格に目を留める。ここ数日で急に上がっている。異常な上昇率だ。


(これは一体……)


 僕は椅子に深く腰掛け、腕を組んだ。西部一帯はクレアモント侯爵家の領地。アルバートの実家が統治している地域だ。そこで何かが起きている。そう考えるのが自然だろう。


 頭の中で、様々な可能性が駆け巡る。紛争か? 治安の悪化か? それとも密輸の増加か? 経済制裁や貿易障壁の可能性も捨てきれない。自然災害や疫病の発生だって考えられる。


(いや、違う……)


 冷静に考えてみる。経済制裁や貿易障壁。そんな大きな変化があれば耳に入っているはず。自然災害や疫病も同様だ。紛争となれば、もっと大きな騒ぎになっているはずだ。


 そう考えると残るは。


「治安の悪化か……」


 念のため、他の報告書にも目を通してみる。すると、案の定といった感じで、気になる記載が目に入った。


「ガラの悪い客が増えている……か」


 これで見えてきたぞ。治安の悪化。そして、その原因として最も可能性が高いのは……。


「密輸業者の流入……」


 ヴェルダニア公国からの密輸業者たちが、国境を越えて流れ込んでいる。そのために治安が悪化しているのだろう。それならばクレアモント侯爵家が対処しているはずだが、そうでもなさそうだ。


(なぜだ? 怠慢なのか?)


 そんなはずはない。クレアモント家は百年以上も国境を守ってきた由緒ある家柄。何かあれば、すぐさま対処するはずだ。


(気づいていて、対処できていない? いや、手が回らない?)


 そうであれば必ず国王が動くはずだ。王直轄の兵が鎮圧に向かう。しかし、そうはなっていない。


「まさか……」


 僕の頭に、ある可能性が浮かんだ。それは最悪の予感だった。


「侯爵が隠蔽している……?」


 しかし、なぜ隠蔽する必要がある? クレアモント家は常に勇猛に国境を守ってきたはず。それなのになぜ……。


 そして、僕の頭に最悪の予感がよぎる。


「まさか……謀反?」


 その言葉を口にした瞬間、背筋が凍るような恐怖を覚えた。もし本当なら、西部にあるうちのチェーン店が立ち行かなくなる。いやいやまてまて、国家の存亡に関わる重大事だ。


(明日、必ず調べなければ……)


 僕は深い溜息をつきながら、帳簿を閉じた。窓の外では、月明かりが薄く広がっている。その光は、僕の不安を映し出していた。シルバーウィング商会か。……明日は長い一日になりそうだ。


 *


 昼下がりの学食。僕は目の前の醤油ラーメンを半ば無意識にすすっていた。頭の中は、昨夜の出来事でいっぱい。マリエルの婚約問題、西部国境の緊張、そして三つ星亭の経営危機……。様々な問題が絡み合い、一筋縄ではいかない状況に頭を抱える。


 ふと顔を上げると、見知った顔がふたり目に入った。


「やあ、レインくん。一人で食事かい?」


 ヒューゴ・ハートネット・スペンサー。マリエルの三兄だ。僕と同い年だが、彼は貴族クラス。顔は知っていても話したことは無い。しかし彼は貴族らしからぬ柔和な物腰で、僕の前に立っていた。


 そのうえ、彼の隣に、リチャード・ソレンディア第一王子がキラキラした笑みを浮かべながら立っている。第一王子とも同い年。このふたりは貴族クラスだから、会う機会はほとんどないのだが。


 厄介だ。できるだけ穏便に済ませないと。


「はい、そうです」


 僕は立ち上がって、臣下の礼を取る。僕は平民。警戒心は解かない。貴族との付き合いにはなかなか慣れない。どう接すればいいのか、いまだに戸惑う。


「ボク、レインくんの力を借りたいんだ。マリエルの婚約破棄について」


 にっこりと笑いかけるヒューゴ。その態度は友好的だが、それでも警戒心は消えない。


「マリエルさんのことですか……。確かに話は聞きましたが、僕にそんな力はありません」


(……言質は取られてますけど)


 僕は慎重に言葉を選ぶ。貴族の問題は、予想外の結果をもたらす。万が一にも、父の経営する三つ星亭への影響が出ないようにしなければ。


 そう考えていると、ヒューゴの視線がふと学食の隅に向く。そこにはアルバート・クレアモントの姿。その周りには取り巻きの貴族の子弟たち。その中にマリエルの次兄――エドワード・ハートネット・スペンサーの姿も見えた。


 ヒューゴの表情が曇る。


「どうしたんですか?」


 僕は思わず尋ねてしまった。


「ああ、エドワード兄さんがアルバートと一緒にいるでしょ。あいつ、マリエルをぞんざいに扱うんだ。許せない」


 ヒューゴの鼻息の荒い声には、柔和さとは異なる鋭さがある。その様子に、僕は何か特別な感情を感じた。歪んだ何かを。


(まさか、ヒューゴは妹ラブ……)


 僕は少し引いてしまう。複雑な貴族の人間関係に、どう関わればいいのか分からない。


「用事があるので、僕はこれで」


 もうこれ以上、この話に巻き込まれたくない。そう考えながらその場を後にした。


 *


 放課後。僕は王都の雑踏の中を歩く。三つ星亭とは反対方向だ。


(やっぱり、あの件は調べないと……)


 昨夜の帳簿チェックで気になった点は見過ごせない。西部での仕入れ価格の異常な上昇。これは、単なる偶然ではないはずだ。


 ふと、背後に視線を感じる。振り返ると、マリエル、エルザ、ヒューゴの姿が。三人とも慌てて身を隠す。


(素人かな。目立ちすぎ)


 彼らの存在を無視し、僕は歩き続ける。やがて人通りの少ない路地に入り、角を曲がる。そして、そこで立ち止まる。


 案の定、慌てた足音と共に三人が現れた。


「はあ……。まったく、お前たちは」


 僕は溜息をつく。


「お前たち? その言い方は無作法すぎじゃないか! そもそもお前は平民だろう!」


 エルザが食って掛かる。その剣幕に、僕は唖然となる。


「まあまあ」


 マリエルとヒューゴが間に入る。


「で、どこへ行くの? お店に帰らないの?」


 マリエルが尋ねる。その真剣な眼差しに、僕は言うべきか迷う。だが……。


 ――ガシ

 ――――ガシガシ


「痛い痛いっ! 分かった、分かった。話しますよ!」


 エルザの脛蹴りに、僕は観念した。


 黙っていたら、この剣術の達人に何をされるか分からない。


「チェーン店の帳簿をチェックしてたら、西部での仕入れ価格が急上昇してたんです。これは、ただの偶然じゃない。何か裏があるはず。だから、それを調べに行きます」


 僕の言葉に、三人の表情が変わる。


「じゃあ、私たちも一緒に行くわ。帳簿とか意味分からないから詳細を話して?」


 マリエルが断固とした口調で言う。ああ、これはどう転んでも面倒なことになりそうだ。僕は深呼吸をして、三人の前で静かに口を開く。


「実は、クレアモント侯爵家が経営するシルバーウィング商会が、ヴェルダニア公国と結託して、ソレンディア王国へ畜産物や農産物を大量に密輸しているんです」


 マリエルとエルザの表情が驚きに染まる。僕は慎重に言葉を選びながら続ける。


「さらに、僕たちのソレンディア王国の農地に毒をまいて不作を引き起こし、家畜にのみ感染する疫病をばらまいているようです。西側の畜産農家が徐々に被害を受けているとの情報もあります」


 静寂が流れる。マリエルが口を開く。


「それは本当なの? 証拠があるの?」


「はい。うちの帳簿と報告書です。ただ、それだけじゃ弱いので、シルバーウィング商会の帳簿を確認しに行くつもりです。ただし、『帳簿を見せてください』『はい分かりました』とはなりませんよね……」


「つまり――」


 マリエルの瞳に光が宿る。


「――レインくんの話が本当なら、婚約解消の正当な理由になるわ」


 そっち? そっちなの? なんて考えていると、エルザが深く頷いている。一方、ヒューゴは突然、顔色を変えた。


「あ、そういえば用事を思い出した。ごめん、僕はここで。あ、忍びこむ件は誰にも話さないから安心して!」


 この時間だ。シルバーウィング商会に行っても、従業員はいない。ヒューゴは、その辺分かってるみたいだ。彼は慌ただしく立ち去る。その背中を見送りながら、僕は違和感を覚えた。わざとらしい。誰かに報告に行くんだろう。マリエルを見ると、ヒューゴの行動に関心を持っていない。うーん。これは兄の行動に不信感を持っていないとも言える。……安心しておこう。


「マリエルさん、エルザさん。お二人もお帰りください。これ以上貴族の方々を危険に巻き込むわけにはいきません」


 僕は丁寧に、しかし強い口調で言う。だが、マリエルは首を横に振った。


「いいえ、レインくん。私たちも一緒に行くわ。これは私の問題でもあるのよ」


 押し問答の末、僕は根負けした。


「分かりました。では、王都西側の倉庫街へ向かいましょう」


 夕暮れが迫る中、僕たちは歩き出した。



 マリエル・ハートネット・スペンサー


 夜の帳が完全に下りた頃、私たちはシルバーウィング商会の巨大倉庫に到着。高い壁に囲まれた敷地を前に、レインくんが眉をひそめた。


「飛び越えることも、よじ登ることもできませんね。準備不足でした。また改めて来ることにしましょう」


 すぐ立ち去ろうとするレインくんの肩を掴み、私は首を振る。


「私が浮遊魔法で壁を越えます」


 エルザが口を挟む。


「マリエル様、警備員に見つかりますよ。壁に穴を開けた方がいいでしょう」


 結局、エルザの案が採用となった。彼女が土魔法で壁に穴を開け、私たちは敷地内へと潜り込んでいった。


 真っ暗な穴の中を、私たちは四つん這いで進む。レインくんが先頭、私が中央、エルザが最後尾だ。私は「ルミナ・オーブ」という明かりの魔法を使い、暗闇を照らす。


(ぴゃっ、レインくんの……お尻が……)


 目の前に広がる光景に、私の頬が熱くなる。慌てて視線をそらす。けれど、後ろからエルザに突っつかれる。


「マリエル様、大丈夫ですか?」


 笑いをこらえるエルザの声に、私は顔を更に赤くする。彼女が気づいていることは明らかだ。


(もう、エルザったら……)


 私たちは静かに、しかし着実に進んでいく。この先に何が待っているのか、まだ誰にも分からない。ただ、真実を明らかにするという使命だけが、私たちを前へと駆り立てていた。


 トンネルを抜け出ると、私たちは倉庫群の間にある低い藪に身を潜めた。月明かりだけが広大な敷地を青白く照らす中、慎重に周囲を窺う。冷たい夜風が頬を撫で、緊張感が背筋を走る。


 レインくんの姿が月光に照らされ、その凛々しさに私は一瞬息を呑む。危険な状況にもかかわらず、彼の側にいられることに安堵感を覚えた。


(レインくんがいてくれて本当に心強い……)


「行きますよ」


 彼の小声の合図で、私たち三人は敷地内へ忍び込む。足音を立てないよう、草の生えた地面を慎重に進む。四輪駆動の警備ゴーレムが、無機質な目を光らせながら巡回している。その金属的な駆動音が近づくたび、私たちは息を潜めて物陰に隠れた。


 私は思わずレインくんのシャツをつかむ。彼は少し驚いたけれど、やさしい笑みを浮かべて前を向いた。


 彼の存在が、この緊張した状況で私に勇気を与えてくれる。彼の冷静さと勇気に、尊敬の念と共に、何か特別な感情が芽生えていると感じる。


 やがて、敷地の奥に建つ大きな倉庫が目に入った。他の倉庫とは違い、窓から微かな明かりが漏れている。


「あの倉庫に行きます」


 レインくんの言葉に私とエルザは頷く。警備ゴーレムの目を盗みつつ、その倉庫に近づく。高さ五メートルほどの鉄製の扉の脇に、小さな窓がある。そこから中を覗くと、広い倉庫内は薄暗く、人の気配はない。


「ここ入りますよ」


 レインくんの声で扉の隙間から滑り込むように倉庫内に潜入し、奥へ進む。倉庫内には木箱や金属製の容器が整然と並べられている。その間を縫うように進むと、微かな機械音が耳に届く。


「これは……魔道具の音?」


 レインくんが首を傾げる。私とエルザも耳を澄ませる。


「こんな夜に何の作業を? 行く?」


 私の言葉で、音の正体を確かめるべく、その方向へ向かう。倉庫内は迷路のようで、曲がりくねっていた。通路を進むにつれ、音は次第に大きくなっていく。


 物陰に隠れながら進むと、やがて一枚の大きな鉄製ドアにたどり着いた。「立入禁止」の文字が赤く書かれている。その向こうから、はっきりとした機械音が聞こえてくる。


「どうする?」


 レインくんが小声で尋ねる。私は不安を感じながらも、決意を固めた。


「行くに決まってるでしょ」


 私は強がってそう言ったけど正直怖かった。でも、彼の隣にいると、何だか勇気が湧いてくる。彼の存在が、私の不安を少し和らげてくれるのは確かだった。


(レインくん、私たちのためにこんなに危険なことをしてくれて……)


 私は胸がぎゅっと締め付けられる。彼の勇気と献身に、感謝と共に、こころが揺れ動く。


 エルザが眉をひそめた。


「見つかったらどうしますか」


 彼女の手は、無意識に腰の剣に触れている。


 レインくんは一瞬躊躇ためらう。しかし結局前に進むことにした。深呼吸をして、静かにドアを開ける。


 ドアの向こうに広がっていたのは、予想を遥かに超える光景だった。幅二十メートル、高さ五メートルはあろうかという巨大な魔導機械が、新鮮な野菜や肉、魚介類を次々とミンチにし、堆肥化している。機械の歯車が回る音、食材が砕かれる音、そして堆肥へと変わっていく有機物の匂いが、私たちの嗅覚を刺激する。


 人の姿はない。機械だけが黙々と作業を続けている。


 私たちは部屋の隅に積まれた木箱に近づき、そこに刻まれた文字を見て愕然とする。


「これは……全てソレンディア王国産のものだわ」


 箱には「ソレンディア王国西部産、高級牛肉」「ソレンディア王国西部産、新鮮トマト」などの文字が刻まれている。


(なぜこんなことを?)


 頭の中で思考が駆け巡る。ここはシルバーウィング商会。クレアモント侯爵家の経営する物流商会だ。なぜ国産の食べ物をわざわざ堆肥化しているのか。特に腐っている様子ではない。木箱の日付はまだ新しい。一昨日、昨日、今日の分まである。


 その時、廊下から複数の足音と話し声が聞こえてきた。


「まずい。隠れよう!」


 レインくんの声に、三人で慌てて身を隠す。大きな木箱の陰に身を潜めると、ドアが開く音がした。


 そこに現れたのは、アルバートとその取り巻きたち。月明かりに照らされた廊下から、六人の男たちが入ってくる。その中には私の次兄、エドワードの姿があった。


「くっ!」


 私は激高し、飛び出しそうになった。レインくんが咄嗟に私の口を押さえ、エルザが腰に抱きつく。二人で私を抑え込む。


 レインくんの腕の中で、私の体は震えていた。怒りと恐怖が入り混じる中、彼の温もりが少しだけ心を落ち着かせてくれる。


 アルバートの声が響く。彼は魔導機械を満足げに眺めながら言った。


「順調だな。これで西側の食糧生産は壊滅だ。あとは輸入に頼るしかない」


 次兄のエドワードが相槌を打つ。彼の声には打算的な響きがあった。


「ええ。ヴェルダニア公国からの輸入で儲けられますからね」


 私の頭の中で、全てのピースが繋がる。


(まさか、クレアモント家は……)


 真実を知った今、これからどう行動すべきか。私の頭の中で、様々な思考が交錯する。


(このままじゃ、国が……)


 そして同時に、レインくんへの感謝の気持ちが膨らんでいく。彼の勇気、彼の知恵、そして彼の優しさ。それらすべてが、私の心を動かしていた。


 夜の闇の中、巨大な倉庫で繰り広げられる陰謀。事態は思わぬ方向へと動き出していた。そして、私とレインくんの関係も、この夜を境に大きく変わろうとしていた。



 **



 レイン・ロウエル


 アルバートとエドワードの会話を聞いた後、僕たちは静かに倉庫から抜け出した。夜の闇に紛れて、何とか敷地を脱出する。息を切らしながら、僕たちは安全な場所まで走り続けた。


 やっと立ち止まったとき、マリエルが僕の方を向いた。月明かりに照らされた彼女の顔には、怒りと悲しみが混ざっている。そして、美しかった。


「レインくん……これからどうすればいいの?」


 彼女は、僕を頼っている。しかし、僕には、マリエルを守る資格なんてない。


 貴族と平民。その身分の差は、越えられない壁。僕がいくら努力しても、マリエルの世界には永遠に届かない。それなのに、彼女はこんな危険な真実を知ってしまった。


「まずは、証拠を集めましょう。うちの帳簿と『今のを見た』だけでは、侯爵家の罪を暴くなんてできません」


 僕は冷静を装って答える。でも、心の中では激しい葛藤が渦巻いていた。


(このままアルバートと結婚すればマリエルが危険だ。彼女をを守りたい。でも、……それは僕の役目じゃない)


 エルザが僕たちの間に割って入った。


「マリエル様、もう遅いです。お屋敷に戻りましょう」


 マリエルは渋々と頷く。僕たちは別れる場所まで歩き始める。沈黙が流れる中、僕の頭の中では様々な思いが交錯していた。


 僕がマリエルに近づけば近づくほど、彼女を危険に晒すことになる。


 婚約者に虫がたかっている。それにつけ込む政治的な陰謀。貴族社会の厳しい掟。そして、僕たち二人の立場の違い。これらすべてが、僕たちの関係を阻む大きな壁となっている。


 別れ際、マリエルが僕の手を握った。


「レインくん、ありがとう。あなたがいてくれて本当に心強かった」


 その言葉に、僕の心臓がどくんと跳ねる。同時に、冷たい現実が僕を打ちのめす。


「マリエルさん、僕は……」


 言葉が喉に詰まる。言いたいことはたくさんある。でも、何も言えない。


「また学園で会いましょう」


 そう言って、マリエルは去っていった。彼女の背中を見送りながら、拳を強く握りしめる。


(このままじゃいけない。でも、どうすればいい?)


 僕には答えが見つからない。ただ、マリエルのことを考えると胸が痛くなる。そして、この国の未来を左右するかもしれない真実を知ってしまった重圧が、僕の肩に重くのしかかる。


 夜空を見上げると、月が雲に隠れていく。僕の心の中の迷いを映し出しているのか。


(マリエル、僕にはあなたを守る力がない。それでも……)


 その夜、僕は長い間眠れなかった。マリエルのこと、国の危機のこと、父の店のこと、そして自分の無力さ。それらの思いが、僕の心の中でぐるぐると回り続けていた。




 **



 マリエル・ハートネット・スペンサー


 華やかな調度品に囲まれた王宮の一室。私の心臓が、着ている優雅なドレスの下で激しく鼓動を打っている。ビアトリス王女主催の茶会――。招待状が届いたときの喜びと不安が、今も胸の中で渦を巻いている。


「マリエル様、大丈夫ですか?」


 エルザの囁きが耳元で響く。彼女の声には、普段の凛とした調子の下に、温かな心配が滲んでいる。


「ええ……なんとか」


 微笑みを浮かべて答えるけれど、本当のところは、胃の中で蝶が舞っている。いつもなら冷静でいられるはずなのに、今日は違う。この場にいるのが辺境伯家の娘としての私なのか、それともひとりの人間としてのマリエルなのか、自分でも分からなくなっている。


 部屋に集う貴族の娘たち。彼女たちの優雅な仕草や華やかな衣装は、まるで別世界。私は自分が場違いな存在のように感じてしまう。でも、ここで弱音を吐くわけにはいかない。スペンサー家の誇りがかかっているのだから。


 そんな思いに囚われていたとき、ビアトリス王女が入室してきた。


 彼女の姿を見た瞬間、私の心が震えた。王女の周りには、柔らかな光のオーラが漂っている。魔法ではない。それは高貴さというより、純粋な優しさから生まれる輝き。思わず、目を逸らしたくなるほどの眩しさだ。


「皆様、本日はお集まりいただき、ありがとうございます」


 王女の声が、静かに、でも確かな存在感を持って響く。その瞬間、私の中の緊張が少しずつほぐれていく。


 お茶の香りが立ち込める中、王女との会話が始まった。


「最近、東部国境の様子はいかがですか? 父上が心配しておられるのです」


 東部国境の話題が出たとき、私の心臓が鐘を鳴らす。父や兄たちの顔が、次々と脳裏をよぎる。彼らの肩にかかる重圧、そして私にできることの少なさ。それらの思いが、胸の奥で重くのしかかる。


(レインくん……あなたならどう答える?)


 思わず、彼の名前を心の中でつぶやいた。レインくんの冷静な眼差し、機知に富んだ言葉遣い。彼なら、きっとこの場を上手く切り抜けられるはず。その想いが、不思議と私に勇気を与えてくれた。


「はい。確かに、いくつかの懸念事項はございます。ルナーリア帝国の動きが、少し活発になっているようです」


 私の言葉に、他の貴族の娘たちがざわめく。王女は静かに頷き、さらに質問を続けた。


「どのような対策を考えておられますか?」


「現在、父と兄たちが対応を協議しております。具体的な内容はまだ知らされておりませんが、平和的な解決を目指していると聞いております」


 答えながら、私は内心冷や汗をかいていた。これ以上の詳細は、ここで話すべきではない。幸い、王女はその程度の答えで満足してくれたようだ。


「なるほど。マリエルさんのお父様とお兄様方なら、きっと適切に対処してくださるでしょう。私たちも、できる限りの支援をさせていただきます」


 王女の言葉に、胸に込み上げるものを感じる。国を思う王女の真摯な態度に、私も応えなければ。


 しかし、その束の間の安らぎも長くは続かなかった。


 突如として乱暴に開かれた扉。そこに立っていたのは、アルバート。


 彼の姿を見た瞬間、私の体が凍りつく。心臓が止まりそうになる。アルバートの目に宿る欲望と支配欲。それらが、私の全身を覆い尽くそうとしている。


(誰か、助けて……レインくん)


 心の中で必死に叫ぶ。レインくんの名前を呼ぶことが、今の私にできる唯一の抵抗のように思えた。彼の存在が、どこか遠くにいながらも、私を守ってくれているような気がする。


 アルバートが近づいてくる。その一歩一歩が、私の心臓を締め付けていく。


(私は、ただの駒じゃない。スペンサー家の娘で、マリエルなの)


 震える心の中で、かすかな決意が芽生える。この場から逃げ出したい衝動と、立ち向かわなければならないという使命感。相反する感情が、私の中で激しくぶつかり合う。


 アルバートの手が、私の肩に触れようとする。その瞬間、鋭い金属音が響き渡った。


「これ以上、マリエル様に近づかないでいただきたい」


 振り返ると、エルザが剣先をアルバートに向けていた。彼女の目には、冷たい炎が宿っている。殺す気だ。


「エルザ!」


 私は思わず叫ぶ。彼女の行動に驚きつつも、どこか安堵感を覚える。


 部屋の空気が、一気に凍りつく。他の貴族の娘たちは息を呑み、ビアトリス王女さえもこの狼藉に言葉を失っていた。


「貴様、誰に向かって剣を向けている!」


 アルバートの怒号が響く。彼の顔は、怒りで真っ赤になっていた。しかし――――彼の目の奥から嘲笑う感情が漏れていた。アルバート、あなた私からエルザを奪いに――そう気づいたけど、遅かった。


 次の瞬間、扉が勢いよく開き、アルバートの護衛たちが駆け込んでくる。彼らは素早くエルザを取り押さえ、剣を取り上げた。


「アルバート! エルザを連れて行かないで!」


 私は必死に叫ぶ。もう遅い。エルザは抵抗する間もなく、護衛たちに羽交い締めにされて、部屋の外に連れ出されていった。


 茶会は完全に混乱状態に陥った。優雅な雰囲気は消え失せ、緊張感が部屋中に満ちている。


 そんな中、新たな足音が聞こえてくる。振り向くと、そこには私の次兄、エドワードの姿があった。


(エドワード兄様……なぜここに?)


 エドワードは部屋を見回し、状況を把握すると、冷たい目で私を見つめる。


「マリエル、お前の護衛がまた面倒を起こしたのか」


 その言葉に、私は言葉を失う。エドワードはこの事を知っていた。しらじらしい。彼は周囲に向かって頭を下げ、さらに続ける。


「さっさと結婚すれば、こんな嫌がらせもなくなるんだぞ」


 ああ、もう言葉を濁すこともしないのね。その冷たい言葉が、私の胸を刺す。


(なぜ……なぜ兄様は私の味方をしてくれないの?)


 涙が込み上げてくる。必死に堪える。でも、もう限界だ。


「失礼します」


 私は小さな声で告げると、部屋を飛び出した。廊下の先からエルザの声が聞こえる。ダメ。私には助けられない。振り返ることはできない。


 廊下を走り、階段を駆け下りる。どこに行くのかも分からないまま、ただがむしゃらに走る。


 気がつけば、王宮の庭に出ていた。そのまま門を抜け、街の方へと足を向ける。


(どうして……どうしてこんなことに)


 走りながら、涙が頬を伝う。でも、止まるわけにはいかない。


 そんな私の目に、見覚えのある姿が飛び込んできた。


「レインくん……?」


 公園のベンチに座り、新聞を読んでいる彼の姿。まるで、私を待っていたかのように見える。気のせい。気のせいじゃない。


 足を止める。レインくんが顔を上げ、私と目が合う。彼の表情が、驚きから心配へと変わっていく。


「マリエルさん、その顔……どうしたの?」


 優しい声に、堰を切ったように涙が溢れ出す。


「レインくん……私……」


 言葉にならない思いを、私は涙と共に吐き出した。



 **



 レイン・ロウエル


 風に揺れる木々の葉音だけが聞こえる学園の裏庭。僕は周囲を警戒しながら、待ち合わせの時間を待っている。ここなら、誰にも邪魔されずに話ができるはずだ。


「やあレインくん、待たせたかな?」


 振り返ると、ヒューゴとリチャード王子が姿を現す。二人とも、普段の明るい表情とは打って変わって真剣な面持ちだ。


「いいえ、今来たところです」


 僕は軽く会釈をする。リチャード王子のキラキラした姿に、一瞬たじろぎそうになる。だが、今はそんな場合ではない。


「誰もいないことは確認したか?」


 リチャード王子の低い声に、僕とヒューゴは無言で頷く。三人で再度周囲を確認し、人気のないことを確かめる。


(よし、ここなら大丈夫だろう)


 深呼吸をして、僕は話し始める。


「実は、アルバートの件で重大な情報があります」


 その言葉に、ヒューゴとリチャード王子の表情が引き締まる。


「マリエルさんへの嫌がらせや、先日の茶会での不適切な行動。それだけではありません」


 僕は慎重に言葉を選びながら、アルバートの悪事について詳細に説明していく。シルバーウィング商会の不正な取引、ヴェルダニア公国との密約、そして西部国境の防衛を意図的に弱体化させている疑惑。


 話を聞くにつれ、ヒューゴとリチャードの表情が徐々に曇っていく。その目に宿る怒りの炎が、僕にも伝わってくる。


「それだけじゃなく、ヒューゴさんの兄、エドワードもこの件に関わっている可能性が高いんです。ここ数日ずっと証拠を押さえるために奔走しましたが、無理でした。証拠になりそうなものは、うちの店の帳簿と報告書、それと僕とマリエルさんとエルザさんの目撃情報だけで……」


 その言葉を聞いた瞬間、ヒューゴの表情が一変する。


「なっ……エドワード兄さんが!?」


 ヒューゴの声が裏庭に響き渡る。僕は慌てて彼を制する。


「落ち着いて、ヒューゴさん。声が大きい」


 だが、ヒューゴの怒りは収まらない。


「許せない! マリエルをこんな目に遭わせるなんて! アルバートもエドワード兄さんも、絶対に許さないぞ!」


 ヒューゴの目に涙が浮かんでいる。その姿に、僕は胸が締め付けられる。


(ヒューゴの妹への愛情は、本物なんだな……)


 一方、リチャード王子は冷静さを保っている。彼はゆっくりと口を開いた。


「実は、ヒューゴから以前軽く話を聞いていたんだ。だが、ここまで深刻だとは……」


 リチャード王子の声に、重みがある。


「これは単なる個人間の問題ではない。国家の安定に関わる重大事だ」


 その言葉に、僕とヒューゴは息を呑む。


 突如として、ヒューゴが声を上げる。


「そういえば! ひと月後に王宮で晩餐会がある!」


 リチャード王子も頷く。


「ああ、あの晩餐会か。重要な貴族や大臣が集まる重要な場だ。そして――ヴェルダニア公国からの来賓もある」


 その瞬間、僕の頭に一つのアイデアが浮かぶ。


(……これは、チャンスかもしれない)


 ゆっくりと笑みが浮かんでいく。リチャード王子が僕の表情に気づき、眉をひそめた。


「レイン、何か考えがあるのか?」

「ええ、晩餐会で、全てを暴くチャンスかもしれません」


 僕の言葉に、ヒューゴとリチャード王子は驚いた表情を浮かべる。


「具体的にどうするつもりだ?」


 リチャード王子の問いに、僕は簡単に計画の概要を説明する。ヒューゴは全面的な協力を約束し、リチャード王子は慎重に行動するよう警告する。


「分かりました。慎重に、でも確実に進めます」


 僕たちは今後の行動について簡単に打ち合わせをし、密談を終えた。


 裏庭を後にしようとしたとき、突然頭の中に「俺」の声が響く。


(面白くなってきやがったな)


 その声に、僕は一瞬戸惑う。だが、すぐに気を取り直す。


(そうだ、これは僕にしかできないことなんだ)


 決意を新たに、僕は学園の建物へと足を向ける。これから待ち受けるひと月の準備期間。昼夜を問わず証拠集めに奔走することになるだろう。シルバーウィング商会の帳簿、ヴェルダニア公国との密談、エドワードとアルバートの悪事……全ての真実を暴くため、僕は走り続けなければならない。


 そして、マリエルのこと。エルザの投獄で深く傷ついた彼女は、今も登校を拒否している。僕は何度か彼女の安否を確認しようとしたが、会うことはできなかった。


(マリエルさん、必ず助けるから。だから、もう少し待っていてくれ)


 僕は心の中でそう誓いながら、これからの行動を思い描く。ヒューゴ、リチャード王子との密かな連絡。証拠の収集。そして、晩餐会での最終的な計画。


 全てが、今ここから始まるのだ。




 マリエル・ハートネット・スペンサー


 王宮の大広間に一歩踏み入れた瞬間、私の息は止まりそうになる。天井まで届くような巨大なシャンデリアが、その華やかな光で部屋全体を包み込んでいる。壁には国の歴史を描いた絢爛な絵画が飾られ、床には真紅の絨毯が敷き詰められている。その豪華さに目を奪われそうになる。同時に、部屋に漂う緊張感が肌に感じられた。


 国王陛下を筆頭に、王族や国の貴族たちが次々と入場してくる。その中にヴェルダニア公国のヴェルダニア公爵の姿を見つけた時、胸が締め付けられる思いがした。


(ついに、この日が来てしまったのね……)


 深呼吸をして、自分を落ち着かせようとする。しかし、心臓の鼓動は収まる気配がない。ソレンディア王国の大商会の会頭たちの姿も見える。そして、レインくんのお父様も。会場の隅で、静かに席に着いているその姿を確認して、かすかな安心感を覚える。


 ビアトリス王女と共に静かに席に着きながら、私は必死に会場を見渡す。レインくんの姿が見当たらない。ヒューゴ兄さんや第一王子リチャードの姿も見えない。不安が胸をよぎり、手の平に汗がにじむ。


(レインくん、どこなの……? 無事なの?)


 突然、アルバートが近づいてきた。彼の姿を見ただけで、背筋に冷たいものが走る。しかし、ビアトリス王女の護衛が巧みにそれを阻止してくれた。密かに安堵の息を漏らすが、その安堵もつかの間。


 エドワード兄さまが私に接近してくる。兄妹の立場を利用して強引に話しかけてくる彼の声が、耳に痛いほど響く。


「マリエル、もうゴネるのはやめろ。お前には選択肢なんてないんだ。さっさと結婚しろ」


 その言葉に、怒りが込み上げてくる。握りしめた拳が震えている。


「いいえ、絶対に嫌です! 私には自分で選ぶ権利があります」


 私は毅然とした態度でそれを拒否する。声が少し震えているのが自分でも分かる。エドワード兄さまとの激しい口論が始まり、周囲の貴族たちがその様子を興味深そうに見守っている。恥ずかしさと怒りが入り混じり、頬が熱くなる。


 そのとき、突如として静寂が訪れた。ヒューゴ兄さんが国王陛下の隣に現れ、高らかに告発文を読み上げ始めた。


「シルバーウィング商会の悪事を、ここに告発いたします!」


 ヒューゴの声が響き渡る。西方の農作物や畜産物を肥料化し、国益を損なっている証拠が次々と提示される。エドガー・クレアモント侯爵の名が挙がり、会場が騒然となる。


 私は驚きのあまり、言葉を失う。口が開いたまま、ただその場に立ち尽くす。クレアモント侯爵は激しく否定しているが、その表情には明らかな動揺が見てとれる。冷や汗が額から流れ落ちているのが、ここからでも分かる。


 場が収まらぬうちに、第一王子リチャードが登場する。さらに衝撃的な告発が始まった。


「エドガー・クレアモント侯爵の謀反の証拠を、ここに提示いたします」


 リチャード王子の声は、会場全体に響き渡る。隣国ヴェルダニア公爵との密談の記録、転覆計画の文書が次々と公開される。会場が静まり返る中、ヴェルダニア公爵の顔が見る見る間に青ざめていく。


(こんな大事だったの……? レインくん、あなたはこれを調べ上げたのね)


 ドキドキが治まらない。心臓が口から飛び出そう。全ての目が国王陛下に向けられる中、玉座の背後からレインくんが姿を現した。彼の姿を見た瞬間、私の心臓が跳ね上がる。


「陛下、さらなる重大な報告がございます」


 彼の声が、張り詰めた空気を切り裂く。


「ヴェルダニア公国軍が、我が国の西部国境に接近しています。イーサン・ハートネット・スペンサー様からの最新の偵察報告によると、クレアモント侯爵領は既に陥落の危機に瀕しています。現在はスペンサー辺境伯軍が対処中とのことです」


 長兄の名前を聞いて、私は息を呑む。レインくんが最新の偵察報告書と通信記録を提示する。会場全体が騒然となり、パニックの兆しが見え始める。耳鳴りがして、周囲の声が遠くなる。


 突如、事態は急変する。エドガー・クレアモント侯爵とヴェルダニア公爵が王城護衛に取り囲まれる中、エドワード兄さまが剣を抜いて国王陛下に斬りかかった。


「これは運命を変える剣だ!」


 エドワード兄さまの叫び声が響く。恐怖で体が硬直する。足が地面に釘付けになったかのよう。しかし、第一王子リチャードが瞬時に反応し、見事な剣さばきでエドワード兄さまを斬り伏せる。血しぶきが飛び、私は思わず目を背けた。


 混乱に乗じて、アルバートが私に剣を向ける。彼の目は血走り、狂気に満ちている。


「お前が全てを台無しにした!」


 怒りに満ちた表情で、アルバートが迫ってくる。恐怖で声も出ない。足が震え、逃げることもできない。


 その時、レインくんの声が響いた。


「マリエル、下がって!」


 次の瞬間、レインくんの姿が消えた。人間には不可能な速さで動いている。私の目ではまるで追えない。アルバートの背後に現れたレインくんは、軽く彼の頭を小突いた。


 アルバートが驚いて振り向く。しかし、そこにはもう誰もいない。


「なっ……!」


 アルバートが混乱する間も、レインくんの動きは止まらなかった。とてつもない速さで、アルバートを翻弄していく。そして彼はとてつもない勢いでアルバートの膝を横から蹴った。骨の砕ける音が響き、アルバートは悲鳴を上げて床に崩れ落ちる。


 レインくんは冷徹な表情で、倒れたアルバートの頭を踏み潰そうとする。人が変わったように見える。あなたは誰なの? 私は叫んだ。


「レイン! やめて!」


 その声で、レインくんの動きが止まる。彼の目に宿っていた殺意が、ゆっくりと消えていった。


 アルバートは苦痛に顔を歪めながら、護衛に取り押さえられている。私はその光景を目の当たりにし、やっと胸のつっかえが取れた気がした。


 レインくんはいつもの雰囲気に戻っていた。まるで悪霊が抜け落ちたようにも見える。その姿に恐れと安堵が入り混じる。彼の力は驚異的だった。でも、そのおかげで私は助かった。


 思わずレインくんに駆け寄り、強く抱きしめた。彼の体温を感じ、安堵の涙が溢れ出す。


「レインくん……ありがとう」


 涙ながらにそう言う。レインくんの胸の中で安堵の吐息をつく。彼の心臓の鼓動が、耳に響いてくる。


「罪人は全員、牢にぶち込めええっ!! 沙汰は追って下す!! それとな、聞いたとおり、西からヴェルダニア公国軍が攻め入っている。皆の者、戦の準備じゃああああああっ!!」


 国王陛下の厳しい声が響き渡り、反逆者たちの連行が命じられた。貴族たちの間で動揺と興奮が広がる。


 そんな中、リチャード第一王子が、エルザを連れて現れた。あまりの安堵で、膝の力が抜ける。


「おっと。まだ倒れちゃダメですよ。僕はまだ魔法が使えないんですから、ちゃんと教えて下さい」

「……」


 私はレインくんに抱きかかえられたまま、お互いに見つめ合う。彼の瞳には、優しさだけが浮かんでいた。


 彼は静かに微笑み、私の手を取る。私をしっかり立たせ、それでも彼は手を離さない。その手のぬくもりが、私に勇気を与えてくれた。


「これから一緒に頑張ろうね」

「え、もう魔法のレッスン始めるんですか? いやいや、少し休んだ方がいいです。ヘロヘロのヨレヨレじゃないですか」


 私の言葉に、彼は素っ頓狂な言葉を返す。空気読め。いまみんな注目してるじゃないの。ここはビシッと決めてよ。なんて思いながらふたりで微笑む。

 私たちの前に、新たな未来が広がっていく。それは困難に満ちた道かもしれない。でも、レインくんと共にいれば、どんな困難も乗り越えられる。私はそう確信していた。




 =fin=

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三つ星亭の子息と辺境伯のご令嬢は、国家転覆を阻止する濃いい話 藍沢 理 @AizawaRe

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