放伐の後の世、ある宦官の寝物語。

縦縞ヨリ

おやすみなさい

 あらあら、急に昔のあざなで呼ばれたものだからびっくりしてしまいました。ええ、今は名乗っていませんから、大きな声では言わないでくださいませね。

 いや、わざわざ風呂屋までおいでになるとは物好きでいらっしゃる。

 ……どうぞこちらへ。


 ええ、いかにも。先の天子様にお仕えしておりました。……そうですね、お仕えしていた時は御前首領太監でございました。薬坊の出でね。

 いえ、今や売春で生きている老宮でございますから、どうかごゆるりと。茉莉花ジャスミン茶はお好きですか?

 ……天子様もお好きでした。実はこの茶器は天子様から下賜されたものです。叩き出された時は殆ど身一つでしたが、何とかこれだけ抱えて出てきました。

 なに、野良犬の餌にならなかっただけ有難いことです。東門の前で何人も首を跳ねられました。いずれも天子様に良く仕えたものです。

 ……奴才わたしは今でも天子様とお呼びいたしますよ。

 ええ、天子様が討ち取られたのは免れなかったかも知れません。

 悪政をでっちあげ、天命を革めたと吹聴しているあの盗人のなんと忌まわしき事か……あれは人の皮を被ったけだものにございます。

 しかし奴才達がお守りできなかったのは痛恨の極み。簒奪者さんだつしゃに玉座を盗まれてしまった。

 ……天子様は世界の中心にして、天帝のご意志を受けて天を支えるお方でございます。支えを失った天は今に地に落ちて来ましょう。さもなくば、あの盗人は今に雷に打たれて灰となりましょう……それがことわりと言うものです。


 さて。

 貴殿は奴才に何をお求めですか?

 ふふ、所詮は寝物語ですから、何でもお答え致しますよ。

 何せ今や咎めるものもおりません。売春宿に身をやつした哀れな老宮の妄言として聞き流してくださるならですが……

 歳ですか?今年で多分三十二ですかね。幸いまだお客が付きますが、売り物にならなくなったらお寺に泣きつくか、それで無ければ東門の前で野垂れ死んで差し上げます。

 奴才の身の上ですか……

 なに、よくある話ですが、寒村の生まれでしてね。痩せ枯れた土地で……幼い頃からいっつもお腹を空かせてました。

 結局食い詰めて、人買いに渡されてね。銀子五枚だったかな。それでも良い方だと思いますよ。ほら、見目が良かったから刀子匠タオヅチャンに売られて……ああ、宝貝おたからを切り落とす所です。

 ……あらあら、今凄い顔になってますよ? 

 あのね、切り落とす時なんて目じゃないくらい、断水がきついんですよ。

 落とした後は穴が塞がらない様に栓をして、傷口が熱を持って魘される中で、三日くらいはお水が貰えないんです。痛いのも辛いけど、乾きと言うのは本当に惨い。でもね、飲むと小便の毒で死んじゃうんです。一緒に売られた子は耐えられなくてね、お水を抱えて亡くなりました……


 ああ、どうも暗い話になってしまう。

 いけませんね。折角のお客様ですから、楽しんでいただかないと。

 本当に聞きたい事はなんですか?

 ……あらあら、それは少し、言い辛いお話ですね……まあ、奴才の気が狂っていると思っていただけるならお話しましょう。


 天子さまの玉体に触れる事は禁忌にございます。

 あのお身体に触れて良いのは後宮の妃嬪、それもお通りのあった方だけです。

 夜になるとお呼びがありまして、奴才達は白絹の袋を持って、いずれかの宮殿にお迎えに上がります。

 袋に妃嬪を入れて輿を担ぎ、御寝所までお送りするのです。選ばれなかった妃嬪がやっかんで、後宮が荒れるのを防ぐ為です。

 ……貴方が知りたいのは、その袋の中に奴才が居たかと言うことでしょう?

 ええ、……たまに、ありましたね。

 妃嬪達は知らぬ、一部の太監たいかんの秘密でございました。……太監は宮中仕えの宦官の事ですが……その中の、ほんの数人だけが知っていました。

 ……天子様とですか……

 なんだったのかな、一言で言うなら、息抜きでしょうか。通いが無いと皇太后様に見咎められますからね。

 お酌をしてお眠りになるまでお話し相手になる事もありましたし、その、まあ、……奴才が禁忌を犯す事もありました。無論求められればですが……

 ……理由ですか、分かりませんが……妄言だと思ってくださいね。

 奴才には、天子様が少しほっとしている様に見えました。

 天子様は天を支え、まつりごとを執り行いますがそれだけではありません。お世継ぎも切望されますし、何より、民草をどんな事より気に掛けるのです。

 その重圧の中でほんの一時、気を許せる太監を傍に置いて、他愛無い話をして、……まあ、お話以外もして、お寛ぎになっていたのでは無いでしょうか。


 天子様は、兎に角民に対して大変誠実な方でございました……信じられませんか? あの盗人の言う事を真に受けてはなりませんよ。

 あまり知られていませんが、後宮には天子様が耕す畑がございます。

 そこで民と共に土を耕し、雨を乞い、天帝に祈るのです。……きっと今は荒れ果てておりまりしょうね。

 奴才達は知っております。良き天子様は天を支え、そして寒村の民にも心を寄せるのです。

 だから、奴才達はあの盗人には決して額ずか無かった。だから後宮を追われました。殺された者も沢山居ます。

 でも、それで良いのです。この身朽ちるその日まで、奴才は天帝の神子たる天子様に心を寄せて生きます。


 ……さて、そろそろお聞かせ願いたい。貴殿は誰ですか。

 ……やはりそうですか。ええ。天子様に良く似ていらっしゃると思っておりました。

 簒奪者を粛清するおつもりで?

 ……ええ、そうなさってください。

 天命あれば必ずや、玉座は貴方様のものとなりましょう。

 そうしたら、貴方も畑を耕すのでしょうか。そうであったら良いなと思います。

 ……………………ごめんなさいね、嬉しくて。

 いえ……やめてくださいな。お迎えは期待致しませんよ。……本当ですよ。

 ああ、もう夜も更けてしまった。

 いずれにしても、売春宿の寝物語にございます…………もうお休みくださいませね。




 ……それでは、どうか、ご武運を。



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