助手席にのせて
鍍金 紫陽花(めっき あじさい)
第1話
クラスの一軍が教室を出た後で、僕は呼吸を始めた。最後に教室の鍵を閉めて、彼らの人間関係を観察する。先頭に歩くのは、一軍男女が仲良くしていた。次に運動部のかたまり。帰宅部に続いて、あぶれ者が好きなアニメを共有している。
実はこの時間が僕は好きだ。彼らを通して考え事することで、教室の一員になれると確信している。扉の戸締まりや教員室に資料を届ける行為も、彼らとの絆を感じさせる。
「あ、何か落としたよ」
最初は、僕が呼ばれていることに気が付かなかった。背後の人間は僕をわざわざ立ち止まらせるために、再び名前を言う。それでやっと僕と名前が繋がった。
「これ」
洸平は、僕の落としたプリントを抱えていた。今日の授業で課題になっている項目だ。見せてくれる人がいないから、無くしたら内申に響くところだった。
「たすかる」
彼から受け取ろうとした。しかし、手をあげられ意地悪される。
「そのまえに、この名前の横に書いているの何?」
指さした項目は、僕が落書きしたところだ。近所に住み着いている野良猫だ。三毛猫で瞳に傷がある怖い顔をしていた。その孤独に耐えうる野性の姿が、脳に焼き付いている。
「ぼす」
「飼い猫?」
「近所の猫」
「みせてよ」
スマホを取り出してカメラをスクロールする。
「え、まってまって」
人が自身のタブレットに触れてきた。驚きの衝撃を隠せずに、体を硬直させる。パーソナルスペースが限りなく狭い男は、フォトを遡らせて、目的の写真を発見した。
「これどこ?」
「長野」
「実家?」
「父親が住んでいるところ」
「あ、なるほど……」
「いやいや、出張!」
「あ、出張!」
「あはははは」
恥ずかしさをごまかすような笑いに、人間味を感じて、釣られてしまった。
「あはははは」
洸平は、想像よりも親しみを感じる人間だ。友達がいないという見下せる要素を表に出してこない。
その日から彼と僕は友だちになった。
▲
移動教室、昼休みの食堂から帰る時間、放課後の靴箱で、彼とは次第に交流を深めていった。
土曜日の昼はいくら寝ても怒られないから好き。金曜日の夜は友だちとカラオケに行くのが楽しい。ピーマンは嫌い。
彼の細やかな情報が僕の記憶に刻まれていく。どうでもいいことばかり覚えるのは、刺激ある日々に感じているからだろう。洸平の価値観に揺さぶられていくなかで、自分の変化に戸惑っている。
今週から、昼休みは訪ねてくるようになった。机の前に歩いてきて、僕の経験したことを傾聴している。不思議な光景だと、出会う前からいた僕の心が客観視している。
「ミチルって誰とも遊ばないの?」
「友達がいないから機会がない」
「だったらクラスの生活は暇じゃない?」
「うーん」
自分のことを教えてもよいかと感じた。彼なら僕を頭ごなしに説教してこないだろう。そう思わせるほどの2ヶ月だった。
自分の目を通して受け取ったことを披露する。洸平は新しいことに挑戦したような様子だった。手の組みどころを探って、頬杖ついたり右手を上に重ねたりする。
「ミチルってそんなこと考えていたんだ」
「え、それどういう質問?」
「いや、ちがくて」
何か言い訳を考えているようで、僕はそのまま言わせることにした。自分の守る方法がどのように出してくるのか待っていると、彼は脱力する。
「もういいや」
「諦めるの」
「うん。それより、カラオケいかない?」
「か、カラオケ?」
「あ、金ない?」
「あるよ」
友達だから遊びに行く。当然な行為だから、僕はついていくことに決めた。
授業も終わり、クラスメイトが帰り支度をする。僕はカラオケに行くことに集中していて、午後の授業や観察は何も頭に入ってこなかった。
こうしてみると、僕という人間がわかってくる。他人のことを不可逆な存在と、勝手に安心することはできた。しかし、自分をその輪の中に入れるとなれば経験がないから戸惑う。
「行こうぜ」
声がけされて、顔を上げる。
洸平と、その友達が待っていた。彼らもついてくるらしく、後方の列に並んで進む。
彼と話す機会は恵まれなかった。彼の周りは、俺よりも長い年月に過ごした人物たちが雑談する。話題にしているのは、過去の思い出ばかりで、入ることができない。友達の友達も繋がっているため、僕だけが後ろ。
何故か今は冷静に観察することができなかった。この輪に自分も入っているから、彼らが仲良くしていくたびに、自分が誰とも話してこなかった怠惰を突きつけられている。自分は行動してこなかった。それだけが結果として残っている。
「ミチルってカラオケに行くの?」
「ないね」
気を遣って、ひとりが関わり持ってきた。洸平と会話していく流れで、初対面に対する抵抗は無くなっている。
「だったら、初めてじゃない?」
「うん。なに歌ったらいいんだろ」
「好きに歌えばいいじゃん。あるでしょ」
「ドライフラワーすきだよ」
「あはは」
「?」
「いや、ちがくて」
「うん」
「結構近いんだね」
「そうかな」
「だって、人と話したがらないと思ってた。いや、でもそっか。洸平言ってたもんね」
「何を?」
「あなたが、クラスのことを思っていることを知った」
僕が洸平に打ち明けた秘密が、友達を通して帰ってくる。言葉一つも間違わず、思いを捻じ曲げられずに。彼女なりに俺とコミュニケーションを図ろうとしている。繋がなければいけないのだろう。
「そうそう。聞いたんだ」
「あついね! なんか」
「それ、本心?」
「ちょっと変だなって思った」
友達じゃない仲で、最大の譲渡だった。キモイの手前にある適切な表現を持ってきていた。かくして、僕がキモイとクラスに知れ渡る。
カラオケについて、大きな部屋に通された。先頭の人間が奥に詰まっていくから、僕は扉の近くの席に半分だけ腰を下ろした。荷物を足の下に固めて、歌が入っていくのを眺めていく。
洸平が流行歌を進めていき、他人がウケ狙いで場を盛り上げる。誰かが注文した食事を店員が運んできた。
僕は扉を開けやすくするために、ドアノブを持った。人が部屋に出て閉める。
「ほら、なにか歌ってよ」
名前も知らない他クラスの男子。なぜか僕に対してイライラしていた。カラオケで曲を入れなければ協調性がないと怒られるらしい。なるべく人がわかる曲を歌おうとした。ドライフラワーを入力し、マイクを受け取る。
店員がまた尋ねてきて、ポッキーの付け合せを運んでくる。半透明の扉についた硝子から、歌詞がぼやけて表示されていた。店員が去った後で口を開ける。
先ほど話しかけてくれた人と、洸平がふざける。俺の歌で場の空気に貢献させようとしていた。ドライフラワーは高音で、自分の声域と合っていない。サビに入って苦しいことが分かって、歌うことが苦手だって知った。早く終わってほしいけど、中止ボタンは手の届かないところにある。早く終われと願いながら、喉を乾かした。
歌い終わってマイクを中央に置いた。隣の人は携帯をいじっている。一息ついて、自分の継いだコーラを飲む。
「え、ていうか洸平とミチルって謎つながりじゃない?」
「え、そうかな」
「どこで仲良くなったん?」
「ノリ」
「洸平イケイケだからね」
「そうそう。俺もうイケイケのドンドン」
「なにそれ馬鹿みたい」
「ミチルくんもそう思うでしょ?」
「はい」
「あはははは」
「ショックすぎ!」
「ホントこいつの相手疲れます」
「洸平いわれてるよ!」
「いや、これは友達だからの強がりだってわかってるから。ミチル!」
「いや、友達じゃないよ」
「うわー。だって、言われてるよ?」
「残念」
それから話を振られなかった。
僕はお金を数えて、手元に握りしめる。彼らが帰る時間は分からなかったが、体調を崩したと隣に金を渡して離れた。
カラオケ店を出て駅に向かう。飲みに向かうサラリーマンと、子どもを背に乗せた母親が過ぎていく。生暖かい風に吹かれながら、僕のなかに友情が冷えていくのを感じた。
その日から洸平と話さなくなり、学生生活を終える。
▲
卒業して五年たった。僕は母親が危篤状態という連絡を受けて、久方ぶりに実家へ帰ってくる。買い出しに行き、帰る途中だった。雨が降り出して、傘のない僕は閉店した飲食店の屋根で携帯をいじっている。
車のクラクションが鳴っていた。ふと顔を上げたら、ミニワンが僕のことを呼んでいた。運転席の窓が降りてきて、現れたのは懐かしい顔。
「ミチル。乗るか」
「……おう」
洸平は助手席に乗せてくれる。扉を開けたら、彼は隣に置いた幼児向けのぬいぐるみや、おむつの入ったビニール袋を後ろに投げている。
「どこまで?」
「◯◯病院」
「ああ、スシローの近くね」
車を走らせる彼は高校の頃と違った雰囲気をまとっている。話さなくなっても人生は続いていて、それは僕も同じ。
「ミチル、なんか痩せたな」
「仕事が外回りだからね」
「え、営業?」
「意外だろ」
「あははは」
彼は近くの店で、車の整備を仕事にしていた。今日のシフトは休みで、買い出しに出かけていたようだ。
「やっぱ営業だから家に訪問しまくるの」
「もう千本ノックだよ。電話と家に通う。顧客が定着している仕事なら良かったけど、前任者が抜けてから大変な役回りが来たって感じだな」
「やめたら?」
「だったら、やめれるの? 洸平は」
「いや、むりー」
「俺の車も壊れたら頼むわ」
「え、戻ってくんの」
「いや、一生ない」
「そっか」
車のラジオが音楽を流した。あの頃に流行ったものばかり出てくるから、感情的な思いを突き刺してくる。
「あの頃は子どもだったよな」
「悪かった」
「いやいや、もう昔のことでしょう。こんなことより辛いことたくさんあったでしょ」
「それでも、それでもね」
「それでも、か」
「うん」
「友達だったよな」
「ああ」
「ほらやっぱ、和明はまちがってた!」
「誰だよ」
「クラスメイトだよ。ミチルって名前は覚えないんだな」
「そういうところ、社会に出てから自覚したよ」
「あはははは」
指定のところまで乗せてくれた。
連絡先も交換せずに別れる。
雨の中で、まだ言い足りない気持ちを抱えながらも、服の濡れる不快に勝てなくて、屋内に入る。振り向いたら彼はいなかった。その時、俺は忘れていたことがあった。
小学生の頃、母親から『お前の笑い方や喋り方は気持ち悪い』とヒステリックなときに非難されたことがあった。
それを忘れることができていたんだ。
忘れていたんだ。
助手席にのせて 鍍金 紫陽花(めっき あじさい) @kirokuyou
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