冷たい夏に帰る

海月^2

冷たい夏に帰る

 塩素は臭い。例えば鼻に入ったプールの水、例えば夏の温い水道水。

 塩素の匂い、Bz反応(ベロウソフ・ジャボチンスキー反応)で発生した臭素の匂い。擦り潰された大蒜と、熱し続けられた竹の匂い。どれも臭い。実験室というものは、常に異臭が漂っていなければいけないという決まりがあるのかと思うほど臭い。そんな実験室に籠もって実験をした日の午後になぜプールに来なければいけないのか。やはり鼻をつく匂いは鋭くて、癒やすための休み時間は私の心を削っていく。

「ねえ、入らないの?」

 プールの中で浮き輪にお尻を嵌めた友人が不思議そうにこちらを見ている。先程まで沢山の異臭に囲まれていたというのに、休み時間すら異臭に体を沈めなければいけない理由が分からない。そんなことを言えば、友人は引きつった顔をした。友人曰く、それとこれとは関係がないらしい。

「外でアイス食べてる」

「せっかく一時間泳げる券を買ったのに?」

「気分が乗らない」

 そんなことを言えば、えーという不満そうな反応が返ってきた。けれどそれに引き止められることもなく、私は外のアイスの自動販売機の前に立っていた。

 普段ならチョコレート味のアイスを食べる。でも今はいちご味やぶどう味など、いつも食べていないアイスを食べたい気分だ。というよりも、好きな味が嫌な匂いとセットに記憶されるのが嫌だった。知り合いは蛙の世話をした後ゆで卵を食べたら、二度とゆで卵が食べられなくなったらしい。それはご愁傷さまだ。

 少しだけ悩んでいたら、後ろに小さな子ども、おそらく小学校低学年くらいの男の子が並んだ。そのため、何も考えずに一番左上の端にあったいちご味のアイスを選んだ。

 汗がこめかみから頬を伝って顎から落ちる。冷たいアイスは私の体の芯から冷やしてくれるような気がする。甘いいちごの味と鼻に強くつく塩素の匂い。それはどうしようもなく五感を刺激する夏だった。

 臭素の匂いを思い出す。それは塩素に似た刺激臭で、私の研究の副産物だった。本当は副産物と言うより必要のないゴミだったが、それは私に研究の実感を思い起こさせた。

 喉を通る零度以下のアイスは胃に落ちる頃には体温と変わらぬ温度になっているのだろう。それでも、体の中は冷えていた。日差しを浴びたはずの頭もどこかスッキリしている。どうやら塩素の匂いにいちご味のアイスは勝ったらしかった。

 研究室に戻ると友人にメッセージを送れば、私もやっぱりもう戻ると返信が来た。そうだ。私達は結局、研究の奴隷なのだ。何度も訪れる夏を謳歌するより、研究がしたい。私たちの夏は、暑い日差しと冷たいアイスなどではなく、あの冷房に支配された研究室に詰まっている。例え臭かろうが、とっ散らかってようが、あそこが私たちの居場所なのだ。

 だから私は、私達は毎日冷たい夏に帰っていく。

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