KO-BO

香久山 ゆみ

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「これでお願いします」

 職員から差し出された大筆を受取る。……これで……? いや、これ、筆じゃないし。

 十年勤めた会社をクビになった私は、東京こわい、けど実家に帰るのも色々面倒だから、家賃の安い隣県の僻地に転居した。会社勤めはこりごりだったので、学生時代に取った杵柄で書道教室の看板を掲げた。

 しかし絶妙に過疎っているせいか、ぜんぜん生徒は集まらない。まあ東京では立派な社畜をしていて給料を使う暇もなかったので、そこそこ蓄えはある。のんびりいこうと思っていたところ、役場から声が掛かった。

 役場の壁一面に書道作品を書いてほしいという依頼。

 日曜日のイベントの一環で、衆人環視の中で書くのだと。いわゆる「書道パフォーマンス」ってやつ。教室にとって集客のチャンスだ。私自身パフォーマンスの経験はないけど、テレビや動画サイトで見たことあるからイメージはできる。まあなんとかなるっしょ。

 ただ、そんな大きな作品を書くパフォーマンス用の筆を持っていない。

 そう言うと、職員は「筆は役場で用意するので任せてください」と胸を張った。

 当日、イベント一時間前に集合して、職員から渡されたのがこの大筆だ。

「いや、これ無理でしょ」

 一度は受取った筆を職員へ押し返す。

「いやいやいや。今更困りますよ。もうイベント直前ですよ」

 職員は頑なに返品拒否し、こちらへ押し返す。とはいえ、私も受取るわけにはいかぬ。

 ぐいぐいと、筆は私と職員の間を行ったり来たりする。その間、筆は一言も発しない。何を考えているのかてんでわからない。ますます気味が悪い。

「弘法筆を選らばず、っていいますでしょう。名人として、ぜひこの筆を使ってください」

「いいえ。弘法も筆の誤り、ともいいます! だいいちこのご時世にこんな筆を使ったら人権だのなんだのやかましいでしょ」

 私はぐいっと筆役を押しやる。

「いいえ! 大丈夫です。今まで一度も問題になったことありませんし。想像してみてください、問題になると思いますか?」

 想像してみる。

 確かに、子供や老人や若い女を筆として使用したら大問題になろう。けれど、目の前の長髪痩せ型の四十代男性を抱えて、その頭に墨汁をつけてえいやっと文字を書く。筆男の妙に真面目くさった顔も相俟ってお笑いにしか見えない。問題になるとしても、中年男性を振り回さねばならぬ若い女の方が気の毒だと同情されるだろう。そういう世の中だ。

「確かにいけそうですね」

 呟きを言質にとられ、ついに私は筆男を押し付けられた。

 町長が二年に渡る役場の改修工事終了と、関係者への謝辞を述べている。次が出番だ。

 ええい、なるようになれ!

 広場に飛び出す。私が忘れた墨汁のなみなみ入ったバケツを自ら持って、筆男があとからついてくる。緊張で仁王立ちして固まる私に代わり、筆男がぺこりと観衆に頭を下げる。

「よっ、名人!」

 野次を合図に、鼓笛隊の演奏が始まる。筆男が私を振り返る。ええい、ままよ!

 筆男の腕を取ると、くいと手を引かれた反動で重心が下がる。くるりと反転した筆男を腰で支える姿勢になる。そのまま置かれたバケツに筆男の長髪が浸かる。とん、と筆男が両手で地面を押し、筆を大きく振りかぶった形になる。私は手を離さないように倒れないように必死で全身に力を込める。

「おお!」と歓声が上がる。

 天に向かって振り上げた筆は、そのままぶんと白い壁面に着地する。墨跡は壁面を縦横無尽に動く。掠れたところでは慎重に。最後、ゆっくりと首を振って見事なハライを描く。それを見届けて、とうに限界を超えていた私の腕は筆を手放し、どさっと尻餅をつく。

 しんと会場全体が静寂に包まれる。一瞬のち割れんばかりの拍手喝采。

 お蔭様で書道教室にもそれなり生徒が入ってきた。しかし、生徒達は口を揃えて言う。

「あれ、先生の字ってそんなに……」

 先の書道パフォーマンスのせいでまだ手が震えるんです。そんな言い訳をするが、目下猛練習している。永字八法臨書臨書創作!

 なんのことはない、あの男こそ「筆の名人」だったのだ。世人に絶賛された壁面の書はまったく筆男の力によって書かされたものだった。なのに、絶賛される私の隣で奴はじっと黙って佇んでいた。

 悔しい。男はすでに別の地へ発ったらしい。

 次の機会こそあの筆を使いこなしてみせる。そうして数十年、あれきりどれだけ探しても見つからないし、筆男のことを知る者さえいない。今私は書道界で名人と呼ばれている。

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