英雄の幸福⑤

 そろそろ帰るというアキとユースを見送るため、ヴェルトルが二人と共に家の外に出ると、吐く息が暗い夜空に白く立ちのぼった。


「妙に懐いてくる金色のでかい犬に潰される夢を見た……」

「俺はなんかすごく幸せな夢を見た気がします」


 先ほどまでユースにのしかかられる形で眠っていたアキはひどく疲れた様子だが、ソファーに寝転がったアキに上からしがみついて眠っていたユースは、アキとは対照的にほくほくとしている。


 踊る魚料理にかけられた魔術をなんとか解いた後、エレーナはアキによりキッチンからの退去を命じられ、ヴェルトルはリビングで待機するエレーナの監視役となり、ユースは踊らなくなった魚料理の味を調えるアキの補佐役となった。


 ほどなくして料理は無事にできあがり、四人で舌鼓を打ちながら赤ワインのグラスを傾けた。一応はヴェルトルの誕生日であったはずだが、首謀者のアキとエレーナは大酒を飲む大義名分を得たとばかりにワインを鯨飲し、ようやく酒のうまさを知り始めたというユースも遠慮ない量を飲み、ヴェルトルの口にはあまり入らなかった。その後、アキとユースはソファーで、エレーナはワインの空き瓶を抱えたままテーブルに突っ伏して眠り始めた。その傍若無人な振る舞いにヴェルトルはふざけるなと少しだけ腹を立て、これだから酒飲みはと呆れ、こいつららしいかと諦めて少し笑った。


「じゃ、帰る。エレーナは任せた」

「おやすみなさい。また仕事で」


 ヴェルトルが「ああ」と軽く答えれば、二人はヴェルトルに背を向けて歩き出した。

 アキはまだ酔いが回っているのか、眠くてたまらないのか、その足取りは若干ふらふらとしていておぼつかない。だが心配はいらないだろう。絶対に離さないと言わんばかりに、ユースがその手を握っている。


「あ、忘れてた」


 ところが、アキはそこで足を止め、ユースをその場に残してヴェルトルに歩み寄ってきた。


「どうした? 忘れもんでもあったか?」

「忘れものっていうか、言い忘れた」

「ん?」


 アキはなぜかヴェルトルを睨みつけるようにじっと見る。


「ちゃんと覚えておけよ。お前がどれだけクズでも、お前の幸せを願う人間がいるってこと」


 頭に少しだけ残った酔いが、瞬時に覚めた気がした。


「だから幸せになれ。なんだっていいから、幸せだって思える瞬間を増やして、そんな姿をちゃんと俺に見せろ。お前なら大丈夫だから」


 偉そうな命令口調の中で、確かな信頼が光る。どこかで聞いた覚えがある気がして、記憶を辿って、すぐに誰の発言か思い出し、ヴェルトルの唇が苦笑を描く。


 ヴェルトルは一応お願いという形を取ったのに、遠慮なく命じてくるところがアキらしい。


 ひとりで生きるというのならそれでいい。でもその人生は決して、本当にひとりぼっちなわけじゃない。

 だからちゃんと自分で幸せを掴めとアキは言う。幸せになるお前が見える距離にいてやるから、と。


 アキは不意に顔を手で覆ってうつむいた。


「……お前、よくこんなこと素面で言えたな。酒が入ってても恥ずかしいんだけど」

「おい、まさかあんなに馬鹿みたいに酒を飲んでたのって、これを言うためか?」


 アキは返事をしなかった。だがこういう沈黙が肯定であると、ヴェルトルは理解している。大酒を入れないと素直になれない幼馴染の不器用さに呆れ、さすがに笑う気も起きなくて小さくため息を漏らす。


「まったく、こりゃユースが過保護になるのもわかる」

「うるさいな。誕生日プレゼントだからな。ありがたく受け取れ」

「アキ」

「ん?」

「俺はもう、とっくに幸せだよ」


 ただひたすらに幸福を願ってきた幼馴染が、ヴェルトルの幸福を願っている。ヴェルトルはこれ以上の幸せを知らないし、知りたいとも思わない。


 たとえ手を繋いで寄り添い歩く相手がいなくとも、ヴェルトルにとってそんなものは些細な問題だ。誰の手も取らず、軽やかに歩いていく。誰かと愛し合ったって、愛し合わなくたって、どうせ自分の人生は自分だけのもので、自分だけが背負う荷物がある。どんな人生にだって多少の寂しさはつきものだ。わずかに感じる孤独なんて、いっそのこと楽しんでしまえばいい。


 だから、とアキに心の中で語りかける。ちゃんと見せてやるから、ちゃんと見ていてくれ。幸せだと思いながら、俺の幸せを見ていてくれ。

 ただそれだけで、俺の生きる理由になるから。


「そうか」


 アキは満足げな笑顔を最後に残すと、暗がりの中で健気にアキを待つユースのもとへと歩いていく。酒のせいで少しふらついているものの、アキの足取りに迷いはない。アキが行くべきところへ惑わず進める今この瞬間を、ヴェルトルはとても嬉しく思う。


 ユースは待ってましたとばかりにアキを抱き締めた。髪の隙間から覗くアキの耳が真っ赤になっている。二人は顔を寄せて何か言葉を交わしたのち、唇を重ねた。心底嬉しそうな顔をするユースに対し、アキは渋々といった様子だが、実のところまんざらでもなさそうだ。


 あんな甘ったるい顔をする幼馴染など、あまりじろじろ見たいものではない。ヴェルトルは踵を返したが、そこで玄関のドアの隙間に人の顔を見て、足を止める。


「うわっ。びっくりした」


 顔を覗かせているのはエレーナだった。エレーナもエレーナでまだ酔っているらしく、なぜかワインの空瓶を抱えている。暗い玄関に佇みひっそりとアキとユースを凝視する姿は、深夜の森に潜むふくろうみたいだ。


「人がいない夜とはいえ、アキがあんなふうに往来でいちゃつく人間になるなんて思わなかった」

「俺もだ。息子が恋人といちゃいちゃしてるのを目撃した気分だよ」

「わかる。砂糖吐きそう」

「待て。それは別のものを吐きそうなんじゃないのか?」


 ヴェルトルが真剣な顔で尋ねれば、エレーナは「はは」と相好を崩した。基本的に表情を変えないエレーナだが、酒が入っているときは比較的よく笑う。


 肺に満ちる、冬の終わりの冷たい空気が心地よかった。もうすぐ去ってしまう冬を名残惜しむように、ヴェルトルは深く息を吸う。


 凛と引き締まった空気が徐々に和らいでいくと同時に、植物は芽吹き、春が来る。


 ユースがアキの弟子になって、もうすぐ一年が経つ。一年、また一年と過ぎていく時間の中で、きっと二人はその関係を変えていくだろう。


 見届けようと思った。同時に楽しみだとも思って、自然と口の端が上がった。


 ヴェルトルは背後を振り返った。寄り添い合っていた二人はもういない。最後に一度、小さくその場に笑みを残して、ヴェルトルは明かりがついた家の中へ、エレーナと共に足を踏み入れた。

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天才魔術師による不器用師匠を愛する方法 番外編 ミヤサトイツキ @itsukimiyasato

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