英雄の幸福④

 ベッドから出たヴェルトルが時計を見ると、針は既に午後を指していた。


 休日だからといってさすがに寝すぎた。そんなことを思いながら自室を出て、階下に向かうと、リビングのダイニングテーブルに置かれたメモが目に入った。


『外に遊びに行かないように。夕方には帰るから待ってて』


 やや癖の強いこの字はエレーナのものだ。指示内容に首を傾げたヴェルトルだが、どうせ外出の予定もなければ気力もない。大人しく従うことにして、洗面所へ足を向ける。

 ソファーに寝転がり、新聞に目を通す。二人掛けのソファーは長身のヴェルトルが横になるには狭すぎて、足がずいぶんとはみ出しているが、行儀の悪さを叱りつける者はいない。


 たいして興味もない記事を斜め読みして時間を潰していると、やがて玄関のドアが開く音がした。


「おう、エレーナ。おかえり」


 リビングのドアが開いたところでそう声をかけたヴェルトルだが、答えたのはエレーナではなかった。


「まただらけてんのかよ、お前」


 呆れ顔でそう言うのは、紙袋を抱えたアキだ。「お、ちゃんといるね」と言いながらアキの横から顔を出すエレーナもまた、アキ同様に大きめの紙袋を抱えている。


 目を丸くするヴェルトルを置いて、二人は紙袋をキッチンに運んでいく。仕事帰りに買い物をしてきたのだろうが、エレーナがヴェルトルに自宅待機を命じていた以上、単にアキがエレーナの買い物に付き合っただけとは思えなかった。


 ヴェルトルがキッチンを覗き込めば、アキとエレーナは紙袋から出した食材を調理台に並べていた。肉や魚、野菜やチーズに加え、赤ワインの瓶まである。


「今日はどうした? エレーナは家にいろなんて言うし、アキは来るし」

「どうしたって……誕生日だろ」

「は? 誰の」

「ヴェルトル。二十九歳」


 誕生日。二十九歳。その二つの言葉がヴェルトルの頭にぽんと浮かぶ。

 まばたきを数回繰り返したところで、ヴェルトルはようやく、この日が自身の誕生日であった事実を思い出した。


「……誕生日だからって、二人揃ってここに来たのか?」

「ああ、お祝いくらいしてやるかって、エレーナと話して」

「せっかく三人ともティリエスにいるしね。あ、あとからユースくんも来るよ」

「ユースだと? 俺と弟子くんがそんなに仲良しだったなんて初めて知ったな」


 あのアキの番犬めいた男のことだ。ヴェルトルを警戒しての行動に違いない。

 ならばそもそもアキがヴェルトルの誕生日など祝わなければいい話だ。ヴェルトルが非難をたっぷり乗せた目をアキに向けると、アキは淡々と言う。


「ユースだってそこまで子供じゃない。今の俺とヴェルトルの関係にはかなり気を遣ってるんだよ。あいつは、俺らの幼馴染としての縁を切りたいわけじゃないから」


 ユースが嫉妬深いのは否定しようがないが、自分本位な我儘男ではないこともまた事実だ。臆することなくアキへの愛を表明する一方で、アキが抱いたヴェルトルへの気持ちや、幼馴染として積み重ねてきた時間を踏み躙ることはしない。


 そんなことを容易くやってしまえる人間だったら、そもそも十六歳だったあの春、魔瘴に襲われたアキを救ったのは自分なのだと、真実をアキに告げられていただろう。


 納得しかけたヴェルトルだが、そこで先日の記憶を思い出し、首を捻った。


「……いや、待て。この前仕事中にちょっとした用でアキに近寄ったら、やつは殺気立った笑顔で物陰から俺を見つめてきたぞ」

「正直に言えば俺と会話するヴェルトルなんて見たくないけど、単なる幼馴染の俺らの関係を尊重したいのも本心なんだろ。こればっかりは俺がどうこうできることじゃないから、俺はお前と幼馴染としての関係は保ったまま、ユースを目一杯可愛がるしかない」

「どっしり構えられるようになるには、もう少し時間が必要なんだろうね」


 そういうことか、とヴェルトルはため息をついた。思うままにアキをその両腕で囲い込んでしまえばいいのに、まったく難儀な男だ。


 しかしそんなところが聡明なユースらしいと言えるのかもしれない。自分とアキを繋ぐ恋人という縁は、それがもたらす幸福は、アキの人生のすべてではないとよく理解している。


 キッチンの入り口に突っ立っていたら料理の邪魔だと追い出されたので、ヴェルトルは再びソファーに寝転がる。


 学生の頃は、三人のうちの誰かが誕生日を迎えるたび、こうして集まって誕生日を祝った。


 だがそれも、卒業するまでの話だ。卒業後は、王都に残ったエレーナとは距離が開いた。アキと二人きりの日々においては、見ないふりをしてきた関係性の歪さがより顕著に感じられるようになって、親しさの象徴みたいなその習慣を続けることに迷いが生まれ、いつしか廃れていた。互いの誕生日など忘れたふりをして、祝いの言葉すらかけなくなったのはヴェルトルが先だったか、アキが先だったか、もう覚えていない。


 忌々しかった。昔はぴったりと噛み合っていたアキとヴェルトルの歯車を、そんなふうに噛み合わなくさせた恋愛というものが。


 ヴェルトルは唐突に気づく。ヴェルトルはずっと怒っていたのだ。アキを捕らえた恋愛感情という存在に、その対象になってしまったヴェルトル自身に。どこにもぶつけようのない怒りの中で、軽薄に笑いながら、もがいていた。


「……お前、どんだけ寝るんだよ」


 控え目な声に瞼を上げれば、そこにはアキの呆れ顔があった。

 天井の魔石灯は光を放ち、リビングは明るく照らされていた。アキが閉めたのか、窓には分厚いカーテンが引かれている。窓の外は、おそらくもう夜の帳が下りているのだろう。どうやらいつの間にか寝入っていたらしい。


 ヴェルトルは欠伸交じりに上体を起こした。


「なんだ。料理はもういいのか?」

「ああ、だいたいできた。あとはエレーナがやるって」

「ちょっと待てよ、エレーナを一人でキッチンに残してきただと? アキは忘れちまったのか? 昔、エレーナが料理の味付けに魔術を使い、浮遊するスープやら独自の死生観を語り出す魚介の煮込み料理を作った事件を」

「いや、覚えてるけど……今回は魔術じゃなくて調味料を使うって言うから」


 アキは先日同様に、ソファーに投げ出されていたヴェルトルの足を叩いた。ヴェルトルが足を下ろすと、アキは開いたスペースに座る。


「なあ、アキ」

「ん?」

「俺はひとりで生きてくよ」


 アキとユースのように、誰かと愛し合って生きる道は選ばない。


 たくさんのひとの手を手放した。多数との繋がりの中で、刹那的な熱さと甘さに酔いしれた頃のヴェルトルはもういない。たったひとりの誰かを探すこともしない。ただひとりで、歩いていく。

 たいそうな理由はない。自分の人生として、それがいちばんしっくりくるだけの話だ。


「そうか」


 アキは短くそう言った。その横顔に驚きはなかった。


「でも、それは本当にひとりなわけじゃないだろ」


 深い黒を湛えた瞳がヴェルトルを見る。


「それが本当にひとりなんだったら、ここに俺もエレーナも来てないよ」


 冷たい印象を持たれがちなアキの目元が、ふっとわずかに緩んだ。無表情とたいして変わらないくらいの、笑みとは呼べないほどの些細な表情の変化を目撃した瞬間、ぽっかり空いた胸の穴になにかがすとんと落ちた。


 この家で二人暮らしをしていた頃、アキがヴェルトルの前でこれほど穏やかな顔をすることはなかったように思う。


 懐かしさが胸をかすめる。子供の頃に戻ったみたいだった。恋も欲も知らなくて、ただ愛と呼ぶしかないものだけで繋がっていられた、透明な日々に。


 アキがこんな表情を向ける相手は、自分でなくて構わなかった。ただ、他の誰かに向けられた柔らかな表情を、その横顔を、視界の中に収めていられるだけでよかった。それだけで、ヴェルトルが生きる理由になるから。


 そんなふうに思っていたから、戸惑いのほうが大きかった。思いがけず差し出された真摯なものを真正面から受け取るには、互いの甘さとずるさを知りながら目をそらして、噛み合っていないくせに離れられなかった時間が長すぎた。


 きっと複雑な心境なのはアキも同じなのだろう。アキはふいとヴェルトルから目をそらした。目を合わせているのは気まずく、同時にこそばゆくて耐えられない。そんな胸の内が手に取るようにわかる。でも、ヴェルトルも同じ気持ちであると、どうせアキにだって伝わっているのだ。


 噛み合うことも離れることもできなかった過去は消えない。すべてを綺麗に清算はできず、未だに引きずる部分がある。それでも、性懲りもなく今でも共にいる。俺たちらしいかと、ヴェルトルはひとり笑う。


「ふっ……はは。どうした、弟子くんに溺愛されて丸くなったか? ちょっと前までさんざんクズだのなんだの言ってたくせに」


 真剣な空気は息苦しくて、結局ヴェルトルはこうやって茶化してしまう。いつもふざけた冗談と軽薄な笑みばかりだと、アキは怒るだろうか。でも、これはもうヴェルトルの性分だから大目に見てほしい。


「……よく考えたら、確かにお前はただのクズだったな」


 ところが風向きが不穏な方向へ変わり始め、ヴェルトルは「え?」と返す。


「隙あらば仕事を押し付けてくるし、自分が作り出した修羅場の尻拭いを俺にさせるし、そんなお前がクズじゃなくてなんだっていうんだ」

「待て。よーく聞けよ。仕事は決して俺が押し付けたわけじゃない。あくまでアキちゃんが俺のお願いを聞いてくれただけだ。修羅場の尻拭いは……まあ、確かに、させたな」

「結局は俺に甘えてただけだろ。俺が大事だなんてよく言えたもんだな、このクズが」

「甘えてたことは否定しないが、それはそのままアキちゃんにも刺さる言葉だぜ」

「……俺はなんでこんなクズに惚れてたんだろうな」

「それは俺も知りたい。俺の顔が良すぎて他のやつが霞んじまったのか? 人間は顔じゃないぞ?」

「殴りたくなってきた」


 危機を察知したヴェルトルがアキから距離を取るより早く、アキは怖いほどの無表情でヴェルトルの胸倉を掴んだ。ヴェルトルは顔の前で両手を掲げる。


「おいおい、落ち着け。やめておけよ。殴り合いになったら勝つのは絶対に俺だ」

「それはそうだろうけど、そもそもお前は俺を殴れないだろ。俺はお前のことなんていくらでも殴れるけどな」


 図星のヴェルトルはぐうの音も出ず押し黙る。

 たとえアキがどれほど敵意を剥きだしにしていようとも、ヴェルトルの中にはアキを殴る選択肢などはなから存在していない。大事すぎて恋愛関係には絶対になれなかった相手を殴れるわけもないのだ。ここまで見抜かれてしまうのだから、付き合いが長い幼馴染というものは厄介である。


 このままでは過去の所業を理由に幼馴染の拳が飛んでくる。最高の誕生日だと皮肉が口をついて出そうになったところで、ドアが開く音がした。


「……何してるんですか?」


 部屋の入り口には冷ややかな笑顔を浮かべたユースがいた。


 ユースはヴェルトルには目もくれず、「あ、おかえり」と呑気に恋人を迎えたアキに飛びついた。衝撃でソファーから転がり落ちそうになったアキの身体を抱えて、アキの顔を覗き込む。


「先生! 大丈夫ですか? 何もされてませんか?」

「弟子くんよ、どう見てもお前の師匠に危害を加えられそうだったのは俺のほうだよな?」

「やっぱり俺も最初から一緒に来るべきだった……残業なんて放り出せばよかった……」

「俺の話、少しは聞いてもらっていいか? アキちゃん、なんとか言ってくれよ」

「ユース、お前なあ……でかい図体で飛びついてくんなって何回言えばわかるんだよ……」

「そうじゃない。その惚気は後にしてくれ」


 まったく意思疎通が図れないこの不毛なやり取りは、キッチンから響いてきた「アキ! アキー!」というエレーナの緊迫した声によって中断された。どうやら魔術で料理に手を加えたがやはり失敗したらしく、キッチンに向かった三人を迎えたのは、鍋の中で陽気に踊る魚と、悄然としたエレーナだった。


「ちょっと……こう、いけるかなって思ったんだ」

「いけるわけがあるか! どうするんだよ、これ!」

「先生、なんですかこれ……邪悪な実験とかですか?」


 エレーナは憂い顔で自白し、アキは踊りながら鍋から脱出しようとする魚を蓋で押さえつけ、ユースはおそるおそるといった体で鍋を覗き込む。そんな三人の姿をキッチンの入り口から眺めていたら、なぜだか自然と口元が緩んだ。


「……はは、なんなんだよ、お前ら。人んちにいきなり押し掛けてきて、好き勝手に騒ぎやがって」


 キッチンの惨状を考えればどう考えても笑っている場合ではないのに、おかしくてたまらなかった。アキの「笑ってないでお前もなんとかしろ!」という命令が飛んでくる。口の端に笑みを残したまま、ヴェルトルは肩をすくめた。


「まったく、最高の誕生日だ」

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