英雄の幸福③

「おい、ヴェルトル。起きろ」


 ずいぶんと優しくない目覚ましだなと思ったところで、目深にかぶっていたフードを剥ぎ取られた。


 手で日光を遮りながら目を開けると、ベンチに寝転がったヴェルトルを見下ろすアキと目が合った。ヴェルトルと同じ黒のローブを羽織ったその顔は大人のもので、加えて非常に冷ややかで、子供らしい愛らしさの類は一切ない。


 アキの背後に見えるのは、見慣れた辺境魔術師団本部の建物と、その前に広がる小さな休憩スペースだ。いくつかのベンチと丸テーブルが置かれたこの場には、昼休憩をのんびりと過ごす団員たちの姿がある。


 今しがたまで見ていた懐かしい夢の残滓を振り払うように、ヴェルトルは欠伸を漏らす。


「なんだよ、アキちゃん。午前中はあくせく働いたんだ。昼休みくらいは休ませてくれよ」

「お前があくせく働いてるところ、俺は一度も見たことないんだけどな」


 すげなく言い返したアキはヴェルトルの足を軽く叩く。無言の要求を感じ取ったヴェルトルが身を起こしてベンチに腰かけると、アキはその隣に座った。


「昨日の昼、エレーナから相談された」


 一瞬遅れて、ヴェルトルは面倒だなと内心でため息をついた。エレーナの相談内容も、それを受けてアキがヴェルトル本人に詳細を尋ねに来たことも、容易く予想できたからだ。

 だが、ここで本心を態度に出すのは得策ではない。


「昼? ああ、本部の食堂か。二人でいたならまた周りに誤解されたんじゃないか? 学生時代はずっと付き合ってるだのなんだの噂されてただろ。当人同士はまったくその気がないってのに、煩わしいもんだよな。ま、弟子くんにはあらぬ疑いを抱かれないように気をつけろよ」

「ユースがそんなアホな噂を信じるわけないだろうが」

「信じてもらってるって? いいねえ、相思相愛で。ということで、俺と二人で仲良くお喋りするのはやめて可愛い弟子くんでも構いに行けよ」


 ヴェルトルは再びフードで目元まで覆い隠すと、ベンチの背もたれに頭を預けた。


 会話終了の意思表示であることは誰の目にも明らかだろう。団内でも屈指の実力者であることに加え自由奔放、言い換えれば決して上に従順とはいえないヴェルトルに畏怖の念を抱き、機嫌を損ねさせないように気を遣ってくる団員が相手であれば、十分に効果を発揮したに違いない。  


 しかし、今この場にいるのはヴェルトルの機嫌など一切気にしないアキである。アキは容赦なくヴェルトルのフードを剥ぎ取った。


「はぐらかすな。エレーナの相談内容に勘づいてて、俺に詳しく聞かれたくないから長々と余計なこと喋って誤魔化そうとしてんだろ」

「そこまでわかってるならはぐらかされてくれよ」

「そんなに優しくないしそんな義理もないな」

「だろうな。結局は俺の毛布を奪うやつだ」

「は?」

「こっちの話」


 ヴェルトルは長々と息を吐き出すと、降参だと肩をすくめた。


「エレーナから聞いた。毎日ちゃんと家に帰ってくるうえ、誰とも会ってないみたいだし、ぼけーっと腑抜けになってて口数も少ないって。なんかあったのか?」

「わかってないふりをするのはずるいんじゃないか? 本当は勘づいてるくせによ」


 あえて意地の悪い口調で問えば、アキはぐっと唇を硬く引き結んだ。視線を前に逃がすアキの横顔には、迷いが浮かんでいる。


「……お前が変わったのは、俺が理由」

「はは、さすがアキちゃんだ。俺のことをよくわかってるよ。見抜いてほしくもねえところまで見抜かれちまう」


 幼少期から互いを知る間柄だ。付き合いの長さがもたらす深い相互理解が心地よくて離れられなかった部分があるくせに、時にそれが苦しくなる。

 わかってほしい。わかってほしくない。その二つの望みが共存する自分は我儘で贅沢だと思うし、きっとそれはアキも同じだろう。


 ヴェルトルは空を仰いだ。翼を広げた何かの鳥が、澄んだ空を悠々と駆けている。


「変わった、なんてたいそうなことじゃない。手塩にかけて育てた大事な一人息子が無事に巣立って、気力がなくなっちまっただけさ」

「誰が息子だ、誰が」

「大事な、の部分は事実だよ」


 視線を落とせば、アキはまるで虚を突かれたみたいな顔をしていた。ヴェルトルがこうも素直に心情を吐露するとは思わなかったのだろう。


 ヴェルトルは再び空を見上げる。鳥は相変わらず、たった一羽で空を駆けている。あの鳥の胸にあるものは、自由を謳歌する喜びか、孤独の痛みか。


「大事なんだ。ずっと、アキだけが大事だった」


 ヴェルトルにとって、アキはずっと優先順位のいちばん上に君臨していた。


 人付き合いはそつなくこなせるタイプだった。しかし友人も恋人も、すべて広く浅くの付き合いにとどまっていた。心から親友と呼べる関係なんてそうそう築けるものではないし、互いをいちばんに愛するという約束が守れなくなれば恋人関係はあっさり解消され、一度別れてしまえば多くの場合、友人どころか知人とさえ呼べない赤の他人になる。


 だが、アキだけは違った。アキだけは、魂と言っても過言ではないくらいの深いところで繋がっている感覚があった。


 押し潰されそうな寂しさを瞬く間に溶かしてくれたあの夜みたいな瞬間が、無数にあった。だからアキが寂しいときはそばにいてやりたかったし、アキが救われたいと願うときは救ってやりたかった。ヴェルトルのすべてを懸けたって構わないと思えるほどに。


 アキへのそれは、紛れもなく愛だった。親愛であり、友愛であり、敬愛の意味もあり、慈愛でもあり、家族愛にも近かった。


 ただ、恋愛感情だけは当てはまらなかった。少なからず利己的な気持ちを含んでいた恋愛感情と、ただひたすらにアキの幸福を祈るこの感情は、ヴェルトルの中で明確な違いがあったのだ。そもそもヴェルトルにとってアキは大事すぎて、気持ちが切れると同時に関係が終わる恋愛関係になんて絶対になれなかった。


 それなのに、ヴェルトルはあるとき、ヴェルトルを見るアキの目に、色のついた熱が宿っていると気づいてしまった。


 愕然とした。


 アキとヴェルトルは確実に、愛と呼ぶにふさわしいものを介して繋がっている。それでもふたりの愛の色や形は決定的に異なっていて、その凹凸はうまく組み合うものではなく、強引にはめ込めばやがて壊れるとわかっていた。


 だからヴェルトルは、やんわりとアキを拒絶し続けた。アキの目が他の誰かを見るように、アキを単なる幼馴染として扱い続けた。


 ヴェルトルがアキの恋心に気づいたように、アキだってヴェルトルの意図を察するはずだ。その確信は正しかったが、普段はしっかり者の真面目な長兄であるアキは、恋愛においてはポンコツと言わざるを得なかった。いや、逆に巧妙だったと言うべきかもしれない。ヴェルトルがアキを単なる幼馴染として扱うことで拒絶の意を示したように、アキもまたヴェルトルの単なる幼馴染の顔をすることで変わらずそばにい続けたのだから。


 このままでは埒が明かない。そう思ったヴェルトルがアキと距離を置くべく、断腸の思いで辺境魔術師団を卒業実習先に選べば、あろうことかアキも同じ実習先を選んだ。あのときばかりは、馬鹿かお前はと叫んで殴りたくなった。


 さっさと見切りをつけて、さっさと他のやつを見つけて、さっさと幸せを掴めばいいのに、どうしてそれをしないのか。

 口に出せない問いを抱え続けて、ようやくアキがユースの手を取ってヴェルトルから離れたとき、ヴェルトルは心底安堵した。


 やるべきことを失った今、気力はすっかり枯渇していた。胸にぽっかりと大穴が開いたみたいだ。

 それでも悪い気はしていない。胸に開いた穴を風が吹き抜ける感覚は、確かにすがすがしかったからだ。


「大事なアキが、ちゃんとアキを大事にしてくれるやつとくっついた。それで安心した。達成感もあった。やり遂げたから、気が抜けたんだ。別に変な話じゃないだろ?」


 かつては宿代わりにしていた知人たちの家からは、いつの間にか足が遠のいていた。複数の人間と関係を持っていたのは、自分の欲求以上にアキに見せつけるためという意味合いが大きかったのだと、そのときに気づいた。


 かすかな風が頬をかすめた。澄んだ風はまだ冬の匂いがするが、陽射しは柔らかい。もうすぐ、冬の終わりが見えてくる。


 空を駆ける鳥はもう姿を消していた。


「……やっぱり変わったよ。昔のヴェルトルは、俺にここまで本心をさらけ出さなかった。ふざけた冗談で隠すばかりで」

「恥ずかしかったのさ。繊細な若者だったからな」


 そう茶化して、ヴェルトルは立ち上がる。


「俺のことは何も気にするな。エレーナにもそう言っておいてくれ」

「寂しいんじゃないのか」


 歩き出したところで問いかけられ、ヴェルトルは足を止めた。何を返すべきか迷ったのち、肩越しに振り返って笑う。


「人生に寂しさはつきものだ。うまく飼いならしてこその大人だろ?」


 アキは無表情でヴェルトルを見つめていた。深い黒の瞳は冷ややかにも見えるが、本当は絶対に冷徹な人間などではないと知っている。

 知っているから、幸福を願わずにはいられないのだ。


「寂しさに耐えられなくて眠れない、そんな弱っちい子供はもういないんだ」


 ヴェルトルは再び歩き出した。背中にはアキの視線が刺さっている。


 そんなアキに向けて、ヴェルトルは心の中だけで告げる。


 だからお前ももう、ベッドに潜り込んできた挙げ句に毛布を奪う、そんなお節介なやつじゃなくていい。

 ずっと俺にくれていたそのあったかいもんは、全部ユースにくれてやれ。

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