英雄の幸福②

 子供の頃、ヴェルトルは夜が苦手だった。


 正確には、いったん寝付いたのにふと目を覚ましてしまった夜中が嫌いだった。カーテンの隙間からはまだ光が差し込んでおらず、朝の気配はまだ遠い。そんな時間帯に目を覚ますと、朝に向かう大きな船からたったひとりだけ落ちて、夜という海に取り残されてしまった気がして、胸のあたりがずんと重くなるのだ。


(父さんと母さん、帰ってきてんのかな)


 目が覚めてしまった夜は、天井を見上げたままたびたびこんなことを考えた。両親が帰宅するより先にベッドに入る日も多かったからだ。


 いくら仕事で帰宅が遅い両親といえども、さすがにもう寝室で眠っているだろう。そう頭では考えられるのに、しんと静まり返った家の中にいるのはヴェルトル一人な気がして、胸のあたりに感じる不快な重さが増していく。


 その重さが寂しさだということは、なんとなく気づいていた。


 多忙な両親に対して不満はない。仕事に励むのはヴェルトルの生活のため、言い換えればヴェルトルへの愛情があるからだと理解していた。衣服や学校の勉強で使うものはもちろん、周囲の子供ならば大半が持っている流行りのおもちゃや好きな本だって買ってもらえた。ハウスキーパーを雇ってくれているから、食事だって困ったことはない。


 愛されている。それはちゃんとわかっている。

 だが、寂しさは澱のように少しずつヴェルトルの胸にたまっていく。


 昼間は学校があるから問題ない。幼馴染の家の夕飯に混ぜてもらうことも多いから、夕食時も平気だ。でもひとりぼっちになる夜中は、見ないふりができていた寂しさが闇を味方につけ、何倍にも膨れ上がる。そうして眠りから覚めたばかりで無防備なヴェルトルに襲い掛かってくるのだ。


 ヴェルトルは寝返りをうち、襲い来るものから身を守るように、毛布を頭からかぶった。暗がりで身を縮め、再び眠ろうと目を閉じる。さっさと眠ってしまって、朝を迎えたい。しかしそんな願いもむなしく、眠気は息が詰まりそうな孤独に押しやられてしまう。


 ヴェルトルは飛び起きると、ベッドの横にある窓を開けた。


 真正面には、隣家の二階にある部屋の窓がある。その部屋は、隣家の長兄である幼馴染の自室だ。今は一人で使っているが、生まれたばかりの弟が成長したら一緒に使う予定だと、以前話していた。


 しっかり者の兄でいようとしている幼馴染も今はぐっすり寝入っているらしく、カーテンの隙間から明かりは漏れていない。深夜なのだから当たり前だ。ひょっとしたら夜更かししているのではないかと、ありえない期待を抱いた自分が馬鹿らしく思えて、ヴェルトルは窓を閉めようと手をかける。


 そのとき、向かいの部屋のカーテンが揺れ動いた。


「……なにしてんの」


 窓を開けたアキは、カーテンの隙間から顔を出し、実に眠そうな声でヴェルトルに尋ねた。目は半開きだし、髪にはひどい寝ぐせがついている。


「なにって……なんか、寝れなかったから。なんとなくだよ」

「ああ、そう……」


 ヴェルトルが窓を開けたわずかな音で起こしてしまったのだろうか。そう思えば、かすかな喜びよりも申し訳なさが勝った。


「悪いな。もう寝るから、アキも寝な」

「……うん。ちょっと、どいて」


 ヴェルトルが「ん?」と聞き返すと、アキはあろうことか窓から身を乗り出した。さっと血の気が引いたヴェルトルは反射的にアキに手を伸ばしたが、アキは半分眠ったような顔をしながらも飛行魔術を使っていたようで、窓と窓の間の空間をふわふわと浮いてこちらに向かってくると、ヴェルトルを押しのけて部屋に入ってきた。


「は? なんで……どうした?」

「寝る……」


 アキはヴェルトルの問いには答えず、ヴェルトルのベッドに潜り込むと、呆気にとられているヴェルトルの手を引いた。


「寝るんだろ。寝ろ」

「……もしかして、俺を寝かしつけようとしてんのか?」


 今度もまた、アキはヴェルトルの問いには答えなかった。返ってきたものは、規則正しい寝息のみだ。早くもアキの瞼は完全に下りている。


「……俺はお前の妹でも弟でもねえって」


 アキの寝顔を見つめながら、ヴェルトルはぽつりとこぼした。直後、自然と小さな笑みもこぼれた。


 ヴェルトルは窓とカーテンを閉めると、アキと並んでベッドに寝転がり、毛布を肩までかけて目を閉じた。胸を押し潰す重みは、いつの間にか溶けてなくなっていた。


 翌朝、ヴェルトルは寒さで目を覚ました。隣ではアキがまるでみのむしのように毛布をその身に巻き付け、ヴェルトルを追い出していた。ふざけるなと少しだけ腹が立ったが、ぐっすりと眠れたからか、身体も心も軽かった。

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